凍てつく背中から

 凍てつく風が吹きつける、寒い寒い一月下旬の、大寒に入ったばかりの朝だった。朝の日課の犬の散歩をしていると、背の高い男が足早にわたしを追い越した。
 その凛々しい後ろ姿に、はっと息を飲んだ。
 長い脚から繰り出す歩行、タイトに決めたノースフェイスの黒いダウンジャケット、そして短く刈り上げられた髪の襟足。
 なんてかっこいい後ろ姿だろうと思った。息をのむような背中だった。凍てつく背中だった。
 けれども男は足早で先の方に進んで行った。目で行方を見守った。これから仕事に出かけるのだろう、駅の方角へ進んで行った。
 凛々しくすっとした、凍てつく空気に染み渡るようなシルエットの男だった。細いけれど鍛えているとわかる背中と男性的な足の繰り出し方が、グレースケールの冬の朝の中に溶け込んでいった。
 わたしなんかよりずっと若いだろう。
 そして、まずは間違いなくノンケだろう。
 そう思いながら、犬の散歩を終えて、切り立った崖の斜面に建つ家に帰った。
 男の後ろ姿はいつも透明な気持ちをくれる。
 わたしは長年苦しんだ病気からだいぶ快方し、家で仕事をしていた。前に勤めていた会社がホームオフィスでパートを探していたので、かつての上司に世話になって家で仕事をしているのだった。
 家の事などをする必要があったし、母も年老いていたし、犬の世話や自分の体調を考えると都合の良い仕事が舞い込んで来た。母は元気とはいえ歩くのが困難になったし、近所の商店は次々に閉店して、遠方まで買い出しにいかなければならなかった。東京にいた頃とは打って変わった不便な生活をしていた。それでもこの丘に十二年も住んでいると、色々な思い出ができた。あの凛々しい後ろ姿も、きっとこの地での思い出になるのだろう。
 あの凛々しい後ろ姿の印象が瞼に残り、朝のうちは仕事に集中できなかった。
 心の中で「お兄さん」と名付け、どんな人だろうか、妻帯者だろうか、仕事は何をしているのか、どんな暮らしぶりをしているのだろうかと、空想とも妄想とも言えないものを頭の中で膨らませていた。
 けれども一瞬見ただけの凛々しい姿勢はいつの間にか記憶から遠ざかり、数日も経つと、わたしは日々、日常へと戻っていった。犬と母を中心にし、このひなびた港町では娯楽もないし、家で音楽を聴いたりネットサーフィンをしたり、ネットショッピングをしたりしていた。
 変わったことと言えば、アナログレコードプレーヤーを購入して、またレコードを集め始めたくらいのことだった。




 それから三ヶ月が経った四月下旬だった。もう四月下旬だと言うのに肌寒く、寒がりのわたしはダウンベストを着ていつもの時間に犬の散歩をしてひとめぐりし、帰途につくところだった。
 わたしが住んでいる切り立った崖の隣の丘から、例の「お兄さん」が降りてきたのだった。
 相変わらず息を呑むようなまっすぐな姿勢で、狭い坂道を降りてきた。
「おはようございます」
 男の方からわたしに挨拶をしてきたのだった。
 わたしはドキドキした。
「おはようございます」なんとか挨拶を返した。
 男の顔を見るのは初めてだったが、その佇まいから一月下旬にノースフェイスのダウンジャケットを着ていたあの後ろ姿の男だとわかった。その朝はノースフェイスの黒いマウンテンパーカを着ていた。
 肝心の男の顔は、一月下旬に後ろから見た短髪にふさわしい、少し面長の精悍な顔で、細くて黒いフレームのメガネをかけていたのが、少し驚きだった。けれどもメガネはよく似合っていた。
 男は挨拶をしただけで坂道を降りてわたしとすれ違い、駅の方角へと向かって足早に歩いて行った。
 わたしは自分の家がある隣の丘へと向かって道をたどったが、彼のことで頭がいっぱいで落ち着かなかった。あの、短髪の引き締まった顔と、背の高い姿勢のよい細身の身体がわたしの不出来な年老いた体とすれちがったのだ。それだけでもうたまらなくなった。
 その日は土曜日で、仕事がなかったので部屋にこもって、彼に抱かれることを考えて妄想ばかり膨らませていた。彼はどんなにして相手の体を抱きすくめるのだろうか、どんな接吻をするのだろうか、あの、初めて見かけた肌寒い空気のなか抱きしめられたら、それだけでもう絶頂だろうなどと、そんな愚かなことばかり考えて頭がいっぱいになってしまった。
 もう五十が近いというのに、男のことで頭がいっぱいになってしまったわたし。
 彼が隣の丘に住んでいるとわかっただけで、もうたまらなくなった。今までに見かけたことがなかったのはなぜだろう。
 この度すれちがった時は丈のあるマウンテンパーカを着ていた男。冬に見かけたときは、短いダウンジャケットから筋肉質のお尻が出ていた。その筋肉の締まった形が瞼に浮かんで、わたしはため息を漏らした。




 日々気温は上がり始め、桜のことを誰もが忘れ、もうダウンベストを着ることもなくなった。わたしは夏野菜の苗を植えたり、葉物野菜の種を蒔いた。また犬を中心とした暮らしに戻り、お兄さんのことは忘れていた。
 朝は採れたてのサラダを食べる日々。
 初夏に向かい庭は麗らかになり、わたしは穏やかな日々に戻りたかった。
 けれどもまたお兄さんを見かけてしまったのだ。
 それは六月のある日、雨で犬の散歩をぐずっていた日だった。雨が上がったのでお散歩に出かけた。そしてぐるりと散歩コースをめぐった時、遠目にお兄さんの後ろ姿が見えたのだった。
 梅雨の雨上がりのバックビュー。
 最初に見かけた時は黒いダウンジャケットだったお兄さんは、時が経っていつしか細身の黒い半袖のシャツを着ていた。相変わらずの凛々しい姿勢で歩いていた。遠目に見ても彼だとわかった。
 お兄さんは少しだけ日に焼けて、黒い半袖シャツからのぞく上腕二頭筋が赤らんでいた。
 いつものように早足で歩く男。けれどもクセのない、しなやかな歩き方だ。あの腕に抱かれたい、ハグだけでいい、と心の中で叫んだ。けれどもお兄さんの男らしいところが好きだから、やっぱりノンケであって欲しい、とも思い直した。
 しかし今回は遠目に見ただけだったというのもあり、彼への思いもすぐに薄れて消えてしまった。
 ところでうちの犬はわたしの病気が一番ひどかった時にうちに来て、ずっと引きこもりがちだったわたしが世話していたし、それからも在宅の仕事ができたので、わたしに懐きすぎてしまって、わたしがちょっと出掛けると吠え始めてしまう。
 そんな状態だったのでゲイ活動も出来なかったし、男とは縁遠い生活を続けていた。
 近所に良い男がいるというだけで興奮はしていたが、まるで現実味がないのでやはりそのうち忘れてしまった。
 温帯スイレンは咲き誇り、熱帯スイレンも蕾が上がり始め、薔薇はポツポツとまだ咲いていて、採れたての夏野菜を満喫して、牧歌的な生活を送っていたわたし。


 ここまで来ると運命なのだろうか? 
 それともただ近所なだけ?
 再びお兄さんと再会することになった!
 それはもう梅雨も明けた七月末の夕刻で、この夕べは生涯わたしの記憶に刻まれるだろう。
 今度は夕刻の犬の散歩の時だった。夏場は犬が暑がるので薄暗くなってから散歩に出掛ける。散歩コースをぐるりと一周して帰ってきたところに、ちょうど仕事から帰って来たお兄さんと対面する形になった。
 闇は地上に影を落とし、空はまだ薄明るかった。夏なのだ。夏が来たのだ。川のせせらぎが遠くに聞こえる、静かな夕暮れだった。
 わたしと犬に気が付いたお兄さんは今まで見たのとは違う、ゆっくりとした足取りで歩いていた。少しうつむき加減だった。ふいに顔を上げ、わたしに気が付いた。
「こんにちは」お兄さんは穏やかに言った。
「こんにちは」わたしも答えた。
「ワンちゃん、可愛がっとってですね、時々見かけます」お兄さんが言った。
 わたしは緊張マックスだった。
「まあ、散歩くらいはしてやらないと…」
「ご近所ですか?」
「あっちの丘の上です」
「じゃあ、近いんじゃあ」お兄さんは思っていたより気さくな人だった。朝は通勤で急いでいるのだろう。
「オレはこの上の家です」お兄さんは、その丘の切り立った崖の上の家を指した。
「え? そこですか。わしはあっちの丘の崖の上です! うちからよく見えますよ、お宅」わたしはびっくりしたのと嬉しいので早口に言った。
「うちからもよく見えますよ!」お兄さんも驚いた。そして続けた。「じゃあ、谷を挟んで家が向かい合っとったんじゃあ!」
「そう、みたいですね…」にわかには信じられなかった。
「武田って言います、オレ」お兄さんは言った。
「こちらは河合です」
「オレ、朝早ようて夜はこの時間じゃけん、休日にしか河合さんち見んのじゃけど、お母さんですかね? 庭で草むしりしよるの?」
 辺りは少しずつ薄暗くなる。かつてわたしが愛した夜が世界を支配し始める。
「母にばっかり草むしりさせてしもうて、わしはせんのじゃけど」わたしは苦笑いしながらもときめいていた。「母と犬だけの家族じゃのに」わたしは続けた。
「ほうなん? 独身なん?」
「そうですよ」
「オレもです! 良かったあ、近所に独身の人見つかったあ」
「武田さんも独身なん? まあ、まだ若いけんね」
「未婚っすよ。全然、モテんけん」武田さんは嘆くように言った。
「武田さん、背も高いしええ男じゃけん、モテそうじゃけどね」わたしは言いながら、やはりノンケのノリだなと思い、正直鬱陶しいとすら感じてしまった。
「河合さんこそええ男じゃないですかー。バツイチですか? それとも遊んどるん?」
「わしも未婚よー。遊んどるとかじゃないけど」
「じゃあメルアドと電話番号交換して今度遊ぼうやあ。友達も同僚も既婚じゃし、ええ人おったら紹介して欲しいし」
 武田さんは、あのはっとさせられる姿勢は崩さなかったが、甘えるように言った。これがあるからノンケは面倒なんだとわたしは思った。
「武田さんモテそうじゃけどね」わたしは話しを変えてごまかそうとした。
「オレ、女の扱いがヘタじゃけん、ダメじゃね」
「まあ、まだ若いんじゃろうけ。わしなんかもう孫がおっても不思議じゃない年じゃし。紹介できるような女性もおらんし」
「そんな年上でしたか、失礼しました」武田さんは一段と背筋を伸ばした。するとますますわたしを見下ろす形になるのだった。
「ええよ、ええよ、ご近所さんじゃし」
「ほんじゃ、独身同士で遊びに行こうや。あした土曜日じゃし、ドライブなんかどうすか?」
「ええん? あ、でも犬がおるし、どうしよう…」
「ワンちゃんも車に乗せてええよ」
「ほんまに? じゃ、今日は母がもう晩御飯作っとるけ、アドレス交換だけ」わたしは話したい募る想いを抑え、切り上げることにした。
 武田さんとわたしはお互いのメールアドレスと電話番号を交換した。
 その夕べはそれで終わった。興奮が覚めなかった。なんせあの憧れのお兄さんと話しが出来ただけじゃなく、連絡先まで交換したのだから。
 けれども、落胆してもいたのだった。もう完全にノンケだとわかってしまったし、わたしの妄想は終了だ。しかしこの年になると上手い具合に感情をコントロール出来るもので、都合の良い上澄みだけをすくいとってなめることが出来る。武田さんとの接触を思い出しながら、夏の短い夜を過ごし、明日の散歩に備えて早くに寝た。

続きは電子書籍で🙂