波光イマージュ

   瞳から二十センチ先にあるギラつく波光。子供だったわたしは、船べりから強い太陽光の反射を見つめていて、吐き気をもよおした。
   子供の頃は、大人になったら自分の記憶がどんなふうに思い出されるだろうなんて考えてもみなかった。あまりに遠い将来だったから。少年期になった頃には、大人になったら、子供の頃の記憶は色褪せた思い出としてよみがえるのだろうと信じるようになった。テレビの演出の影響だ。テレビでは古い記憶はセピア色で思い出されると演出されていた時代。今となっては、まったくもってそうではないと言える。この歳になっても、子供の頃の記憶は色褪せることなく、瞼にありありと描いて思い出せる。
   そして必ず、それは映像だ。
   子供の頃のわたしは、思い出というものは、きっと写真のように切り取られて焼き付けられた状態で保存されるのだと思っていた。こちらについても、今ではまったく違うと言い切れる。
   どんなに断片的な記憶でも、記憶は必ず映像として流れる。それは、流れる。一時停止も巻き戻しもされず、体験した時とまったく同じように、流れて思い出される。当たり前のことのように思えて、この歳になってそれがようやく体感的に理解できるようになった時に、わたしは多少、動揺した。昔のことがまるで昨日の、つい先ほど、例えば三分前に思えたり、もっと言うなら、いま現実に起こっていることのように思い出されるからだ。
   子供の頃の思い出の中で、とりわけ鮮明で強烈に思い出されて流れる記憶は、船釣りに行って嘔吐した時の思い出だ。あの、二つの瞳の先二十センチのところに海が迫り、真昼の太陽がギラギラと光っていたあの瞬間、わたしは吐き気をもよおした。小さな小舟の船べりで、わたしは吐き気をこらえていた。
 父は町で小さな鉄工所を経営していて、時々ゼネコンのお偉いさんを船釣りで接待していた。ゼネコンのお偉いさんたちが喜ぶ接待は、うちの町ような田舎の漁師町での船釣りだ。大人が六人くらい乗るともう一杯になってしまう木造の小舟で、指先にかけた釣り糸を海に垂らして、海底の魚を釣る船釣りだ。わたしくらいの歳の小さな男の子が一緒についてくるのは、接待の図柄としてはますます好もしい。田舎の鉄工所の社長の息子の五歳児が一緒に小舟に乗り、指先から器用に糸を垂らして次々に魚を釣る。都会のお偉いさん達はそういう接待を好んでいた。町の者しか知らない穴場に小舟を渡し、そこで風変わりな釣りをする。投げ釣りではなく、糸を垂らす船釣り。そして目の前にはあの厳島が横たわっている。絶景の中で船釣りをするお偉いさん達の顔を、わたしはまるで覚えていない。一緒に釣りをした記憶はありありとある。しかしわたしの瞼に描ける彼らの映像からは彼らの顔は消去されていて、何歳くらいのどんな男たちだったかも、もう思い出せない。男だったのは覚えている。女ではなかったから。
 いま付け足して説明するなら、お偉いさんたちは船釣り用の服装をしていて、月並みな男たちと大差がなかったから、わたしの記憶に残っていないのだろう。まだ子供だったわたしには、出で立ちから人の社会的階層を推察するほどの知恵は備わっていなかった。
 あの地方では釣りの餌は必ずと言っていいほどゴカイを使う。今のわたしには信じられないが、ゴカイに針を通して釣りの餌にする。わたしは器用にゴカイに針を通す子供だった。
 父はわたしをよく接待に連れてゆく。子供がいるのは好ましいからだ。都会から工場視察にやってきたお偉いさんたちに混ざって子供が釣りをする。そう、人々が見たいのはそういう光景だ。田舎町で子供が海釣りをする好ましい光景。そしてそれは厳島の錦絵の中で執り行われる。
 わたしは生まれた時から厳島の錦絵に親しんでいたので、父親に連れて行かれた船釣りの船の上、巨大な厳島が目前に横たわっているのは、とてもごく普通のこととしてとらえていた。厳島はいつだってわたしの味方をしてくれて、いつだっておごそかで親しみ深かった。
 瞳の先の波光が揺れて瞳の先十センチまで迫った。
 わたしは吐き気を堪えきれなくなって、船べりから海に嘔吐したのだった。そしてここからがわたしの脳裏で流れるイマージュのメインストリームだ。大人たちがどんな反応を示したのか、わたしは覚えていない。船べりから五歳の男の子が嘔吐したのだから、良い気分ではなかっただろう。ただ、その事故は平坦に受け流された。船頭が気を払ったくらいのことで、こんなことは接待では起こるべきではなかった。
 わたしがこのことを今でも克明に覚えているのは、海の魚たちの残像が銀色に輝いていたからだ。
 嘔吐物に、小魚たちが寄ってきたのだった。
 海の底から雑魚が上がってきて、わたしの嘔吐物を食べ始めたのだった。
 釣り船は、六人くらいで満員になるような木造の小さな船で、船べりは海面すれすれに低い。わたしの瞳の先二十センチには海面があった。そして、海に向かって嘔吐した時、海面は瞳の先十センチに迫っていた。その間近で見る暗緑色の海。あの辺りの海はきれいだが、海の底までは見通せない。わたしが吐いた吐瀉物は海面にはそれほど広がらず、ただゆっくりと沈んでゆく。
 その滋養物が沈むと魚たちが集まってきて、それをついばんではまた潜っていく。魚たちはにおいでわかるのか、わたしが嘔吐してそう間もなく集まってきた。吐瀉物が海に沈むよりも早くに魚が集まった。海の底から魚が浮かび上がってきて、吐瀉物を食べると銀色の腹を見せてまた底へと沈んでゆく。魚たちはゴカイよりも吐瀉物を好むのだ。
 魚は多数で、魚が浮かんできては銀色の腹を光らせて戻ってゆく光景は異様でもあり、わたしの脳裏に焼きつくほど特殊なイマージュだった。わたしはその時、魚たちと対話をしていたかの気分になった。魚は、決してこちらの世界になんか来るんじゃないと言いた気だった。波のない大野瀬戸の海はまるで暗緑色の鏡のようで、わたしは船べりから覗き込んで翻る魚を眺めていた。その、波が揺れて魚が翻ってゆく映像。
 その映像は流れてゆく。わたしの脳裏に焼き付いて離れない映像。小舟から巨大な厳島を見上げている。この場合、確かに見上げると言った方がいい。見渡すと言うと離れて聞こえるから、見上げると言っていいほど近い厳島の映像が流れる。厳島は巨大な森で、視界はほとんど厳島の緑と海の暗緑色で、島が視界を占めているせいで空は狭かった。
 あの子、五歳だったわたしが船べりで嘔吐し、吐瀉物に集まってきた魚の銀色の腹のきらめきに恍惚となり、そしてふと目を上げると巨大な厳島が眼前にある。浄、不浄がすべて厳島と大野瀬戸の緑に清められ、いっそう血生臭くもあり、わたしは生命としてスタートを切ったばかりの五歳児だった。
 それから四十五年が経った五十歳のわたしが厳島に臨む時、あの映像は今でも流れるのだった。映像に取り憑かれて離れられないわけではない。あの映像はわたしが望んだ時に巻き戻される映像だ。厳島はいつも厳島で、海は海だった。わたしは五十年間世間に下げて使い古された顔を厳島に向け、今、大野瀬戸を渡ろうとしている。脈々と続いてきた厳島への信仰。人々はこの島を崇めてきた。歴史に名を馳せた人々も。わたしは厳島に臨んでいる。
 海釣りをしていて、五歳の男の子が、どんな魚だったか思い出せないが雑魚を釣り上げる。魚が釣り針を胃の奥深くに飲み込んでいて、針を抜こうとしてもなかなか抜けない。無理にひっこ抜くと、魚は内臓をゲボッと吐き出してしまう。それでも死なずにぴくぴくと動いている。わたしは小学校くらいになるともう船の上で魚をさばくことができた。今はもうできない。大人になって魚が怖くなった。魚に触ると鱗やヒレで指を傷めるように思えて、魚に触るのが怖くなった。
 接待に連れて行ったお偉いさん達から見たら、田舎の子は器用に見えただろう。六人で合計六百匹の魚を釣り上げるゴージャスな船釣り。彼らは今生きているだろうか。
 その小さな釣り船の上で、父親は接待らしい接待をしない。お世辞らしいお世辞を言わない。お偉いさんたちも、この男からはそんなことは期待していない。今は魚が釣れればいい。男の子は父親を見ようともしない。父は天才で、そして破綻者だった。頭の狂った父親だった。才能はあったが人格が破綻していた。お偉いさんたちはそれをよく知っていた。この男からは図面と技術を吸い上げればそれで十分、使う価値はあるとわかっていた。それ以上の人格など必要ないのだ、孫請けの鉄工所の社長になんか。わたしは父が船のどの位置にいたのかも思い出せない。わたしの側にいなかったのは確かだ。わたしの側にいたのは船頭さんだったから。
 五歳児だったわたしが嘔吐した時、大人たちは誰もが見ないふりをした。接待の船釣りで子供が嘔吐する。そんなシナリオがあってはならないのだ、大人たちにとって。
 わたしは今でも嘔吐した瞬間をよく思い出せる。目の前にはギラギラの波光が光っていて、海は暗緑色、波は穏やかだが無ではなく、網紋様を描くように海面は波打っていた。あのギラつく眩い波光のイマージュ。




 そしてそれは眠れぬわたしの四十九歳でのとある晩。わたしは旅先で睡眠薬をコインロッカーに預けてしまって出せなくなり、その晩を睡眠薬なしで過ごした。

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