溺れる白鳥

 わたしは溺れる白鳥だった。年老いた、白鳥だった。あの瞬間、わたしは確かに溺れる白鳥だった。
 白鳥だったわたしは、水底に沈みきる直前の湖の底の方に静かに漂い、湖面を見上げていた。湖面は青ざめていて、けれどもわたしを取り囲む水はまっくら闇だった。
   波すらないほど静かな湖だった。
 年老いた白鳥は、水底へと向かってゆっくりと沈んでゆくところだった。水底は暗く穏やかで、わたしは安置された死体のような心持ちだった。ようやく、終われるのだと感じていた。


 そこに現れたのは、青い神性だった。
 あの顔に初めてご尊顔かなって、わたしは目覚めたのだった。


「上見て!」かの人は言った。
 わたしは上を見た。その時だけ意識が戻り、かの人に従った。


 二年前の年末に、わたしは薬物の副作用で気絶して錯乱してしまい、救急車で運ばれた。救急隊から見ても、医師から見ても、看護師たちから見ても、わたしは目を見開いて錯乱し、震えている状態だった。しかし、わたしの頭の中では闇のイメージ映像が流れていた。
 それは不可思議な体験だった。まっくらな闇の中で、死へのイメージ映像だけが流れてゆく。わたしはそのイマージュの中で、これから死んでしまうのだろうと、確かに意識していた。だから意識不明ではなかったはずだ。錯乱はしていたけれど、わたしの中では確固とした死へのイメージがあった。わたしは黒い一点へと回帰してゆく最中で、おそらくそれがわたしの最終の地点なのだろうと思いを巡らせていた。
 その深くて暗い湖の中、ただじっと、次の輪廻転生を待ちわびる気分で最後を待っていた。


 そこに、光が当てられたの。
 かの医師が、見開かれたわたしの瞳にライトを当てたのだった。
「上見て!」
 わたしはと言えば、まだ水底にたどり着く手前の湖の底の方から、かの医師を見上げていた。湖の中にひたっている印象だけにひたり、瞳の水晶体の周囲円がまるで湖面のフチに見えた。
 わたしから見たら、湖の上から青い服を着た男が溺れる白鳥を覗き込んでいるように見えた。
 瞳にライトを当てられたわたしは、彼の言葉に従って上を見た。
 そしてまた錯乱状態に陥った。




 あの時の青い服を着た医師は、溺れてゆく年老いたわたしを掬い上げた王子さまだった。湖の水面を挟んで向かい合った若い男の医師と、年老いた溺れる白鳥のわたし。わたしたちは二人だけの世界に沈んでいた。
  「上見て!」わたしの瞳にかの医師がライトを当てた。彼の蒼ざめた姿だけが暗闇に浮かんだ。おそらく彼は、現世でストレッチャーに乗せられたわたしのすぐ上、間近からライトを当てたのだ。なのにわたしには、ずいぶんと上の方の、湖の水面の遠い上から、かの青い神様がわたしを救おうとしているように映ったのだった。
   男だ!   わたしは強く意識した。神様は男だった。
   死に目を見ても、男だと意識した。
   彼は若い男で、わたしを救おうとしている。錯乱状態に陥っていたが、一秒にも満たないその刹那、わたしは安堵の気持ちを覚えた。この人が湖から掬い上げてくれるのだとどこかでわかっていた。




   そして、年老いた瀕死の白鳥だったわたしは、青い王子さまに手を差し伸べられ、湖の底からすくい上げられて救出されたのだった。
   わたしはかの医師に深夜の神性を見た。
 その医師は夜勤が多いのか、まったく日に焼けていない色白の若い男で、凛々しくもあり、どこか神々しい、みだりに触れてはならない威厳を滲ませ、それでも患者に救いの手を差し伸べる献身の魂を持った父性をたたえていた。
   わたしが恋に落ちないわけがなかった。
 意識が戻った瞬間に、かの医師に一目惚れをしてしまったわたし。
   朦朧とする意識の中、家族に連れられて、その医師とは交わす言葉すらなく、病院を後にした。
   その翌日から、わたしの恋わずらいが始まった。それは、真っ赤に憤った恋だった、絶望的な片想いだった。二度と会えるはずのない男に恋をするなんて。
   病院では意識が朦朧としていて、かの医師に救命されたことすら理解しきれていなかったわたしの瞼に、かの医師の顔の記憶が少しずつ鮮明に蘇り始めた。
   丸顔ではないが、細面とも言えない、ちょうどよいくらいの面立ち。知的な眼差し、色の抜けた頬と青い帽子、青い服。
   そしてその青い服の下の男の身体。
   二度と会えないあの身体。触れることのできない、あの身体。
   死に目を見ても男に恋をしてしまうサガのわたし。
   あの、さわり心地の良さそうな、ちょうどよい肉付きの身体、痩せ気味だがあの年頃ならあれくらいの方が健康的だろう。おそらく三十くらいだろうか。息子でもおかしくない年頃だ。
   あの顔に会いたい、あの身体に触れたい。指先に触れるだけでもいいから。
   わたしは焦がれた。焦がれて焦がれて灼けてしまいそうだった。どうにも手に入らない人だから。
 焦がれたまま、かの人とは絶望的にへだてられた町をさまよった。
   そして気がついた、あの顔、あの若者たちの顔だ、これからの将来を背負っていくのは、と。あの人たち、医師や看護師、そして他の働き手のような若者たち。彼らがこの世界の未来を担ってゆく。あくまでわたしは、わたしの「溺れ」のなかで沈んでゆく年老いた白鳥であればよかった。
   もしも三島の「志賀寺上人の恋」のような気高い恋をしていつかご尊顔叶ったとして、それがかの医師に何を与えうるだろう。彼のためにはまるでならない。そう思った時、わたしの片想いは叶ったも同じだった。たとえもう会えなくとも、わたしはかの医師の幸せを願えた。わたしでない人と結ばれるのが、彼の幸せだ。あれは幸せになってほしい顔だった。あの顔だったのだ、これまでの歴史上続いて来た顔は。なぜなら昔から若者はああいう顔立ちをしていて、わたしだって昔から老人だったわけではない。死に人たちもかつては若く、世界はこうやって世代交代しながら続いて来たのだ。その考えはわたしを穏やかにした。
   かの医師の顔に、未来の神性を見た。
   世界は続く。その二文節に祈りを込める。
   その時にわたしの恋は成就した。
   恋する人の幸せを願えるならば、それは恋愛成就と言っていい。
   今でもありありと思い出せる。深夜の湖にゆっくりと沈んで溺れてゆくわたしは年老いた白鳥だった。そしてかの医師の顔が沈みゆくわたしを見下ろしていた。青褪めた湖のイメージが、今でもありありと瞼に描ける。あの医師の神性が。
「上見て」かの人はわたしを呼んだ。
   わたしは無言で従った。心の中で青ざめた賛美歌を歌っていた。




(終)