調香師(20周年記念キャンペーン全文掲載)

Badi 2000年2月号掲載作品

Badi小説大賞候補作品

 褐色の遮光瓶が林立するラボラトリー。何百種類もの香りが融和した研究室のにおい。ガラス張りの壁の向こうでは、白衣を身に付けた調香師が、こちらに背を向けて調合作業を続けている。彼の名前は川村秀明。調香師とは、香りを創作する仕事だ。そして僕は三ヶ月程前にこの会社に雇われた派遣社員だ。調香師から依頼されたサンプルを取り寄せてはラボに届けるのが専らの仕事。要するに雑用係だ。僕は鉄の扉を静かに開き、彼の側へいって『われもの注意』のステッカーが貼られたダンボール箱を床に置いた。
「御依頼のサンプルが届きました」
「ああ」川村は下を向いたまま、二本の試験管を器用に操っていた。
 この男は何だかいけすかない。いつも無愛想で、人を見下したようなところがあって。まあ、僕はしがない雑用係。身分違いだから仕方がないが。そんなことを考えながら彼の側に立ち尽くしていると、川村は怪訝そうに顔を上げて僕を見た。それからしばらく僕の顔を見上げていた。急に表情を和らげ、照れくさそうに言った。
「いつも、ありがとう」
「あ、いえ、その、お邪魔しました」僕は動揺し、それだけ言い残すと、そそくさとその場を立ち去った。心を見透かされたようで。
「ちょっと、キミ」川村は試験管を持ったまま立ち上がり、後ろから僕を呼び止めた。
「はい」僕はギクリとして立ち止まった。
「このにおいを嗅いでくれないか。二十代後半の独身男性を対象にした製品の試作なんだ。キミの意見が聞きたい」
 彼は試験管を差し出し、僕は鼻を近付けた。さわやかな柑橘系の香りがした。僕は首を傾げてみせた。
「ボク、香水とか付けない方なんで…」
「実際に肌に付けてみるとまた違うんだ。ちょっと試してみてくれないか」
 彼は熱心なまなざしで僕に言うと、まるで医者のような、慣れた手付きで僕の腕を取り、手首の内側に微量の香料を擦り付けた。僕は緊張していた。動脈の浮き出した手首から拡散するほのかな香りを呼吸してみた。やはり僕は緊張していた。
「少し無難な感じがします。もっと冒険心があってもいいかな、なんて」
「冒険心?」
「ご、ごめんなさい、シロウトが生意気なこと言って…。ボク、やっぱりこういうのはわかりません。失礼します」
 僕は逃げ出そうとした。その腕を、調香師が掴んで止めた。
「いや、参考になったよ。過ぎてしまうとその年齢の生活を忘れてしまってね。冒険心か…。とても参考になった」
 そう言った調香師を、僕は振り返って見つめた。何かはっとさせられるものが、彼の声の響きの中にあったのだ。調香師は遠慮がちに目を伏せた。
「いつも、ありがとう。調合中は神経質になっていて、いままでろくに礼も言わなかったけど、悪気があったわけじゃないんだ」
 川村はしどろもどろに言った。僕がじっと見つめると、彼はますますオドオドした。僕のその無遠慮な目を、川村は後に、人を困惑させるまなざしだと言った。そして人を吸い寄せるまなざしだと。彼は続けた。
「あの、もし良かったら今度食事でもご馳走するよ。いつもお世話になってるから」
 一瞬目を伏せ、僕は考える素振りを示した。適当にあしらっておこうかとも思ったが、何となく目を合わせ、じゃあ都合のいい時に誘ってくださいと言った。合わせますから、と言い添えた。言い終えると研究室を退出した。
 白い廊下をまっすぐにいく。香りが漂う中、足音が響いた。
 研究棟を出ると、透き通った日差しが降り注いでいた。






 それから三日後の十九時四十分、僕は川村と新宿の高層ビルにあるイタリアンレストランの窓辺の席にいた。あの後、川村が誘ってくれ、そして僕はそれを受け入れたのだった。眼下には東京の夜景が広がっていた。これからしばらく穏やかな気候が続きそうな気配だった。今年は猛暑だったから、きっと冬が来るのが早いだろうと言う人々もいた。この冬は暖冬だろうと言う人々もいた。人々の意見は大抵どちらかに分かれた。
 照明はやさしい。聞き覚えのあるピアノのメロディー。
「ほんとに誘ってくれるとは思いませんでしたよ」僕はよそ行きの顔だったが、どこか打ち解けた口をきいていた。
 川村は答えず、黄色い照明の下、やさしい微笑みを浮かべた。一瞬の沈黙。僕は、何か喋らなければと口を開きかけた。その時、彼が煙草に火をつけた。僕は言いかけた言葉をのみ込み、つられるようにして煙草に火を付けた。
「パフューマーって、煙草は吸っちゃダメだって聞きましたけど」
「基本的には、ね」
 そのとき男は調香師であることをやめていた。謎めいた感じがした。パフューマーというベールの向こうに何があるのか。ああ、僕はこの人に恋してしまうんだろうな。そんな予感がした。
 赤ワインが運ばれてきた。二人は軽く乾杯した。程無く、料理も運ばれてきた。二人は無言で酒を飲み、食事をした。辺りのテーブルから低く会話が漏れ聞こえる。いくぶん高い、食器のきしむ音。無言の食事は速やかに終わった。僕は再び煙草をくわえた。川村は吸わなかった。
「お子さんはいらっしゃるんですか」なんでこんなバカなこと聞いているのか。
「ああ、一人」
 僕は次の質問をすることが出来ず川村の目を見つめた。しばらく二人の目が合っていた。川村は、酔ったのかい、と尋ねた。僕は首を軽く横に振った。確かずっと昔にも同じようなシーンがあったかな。思い出せない。
「そうだ」川村は突然張りある声を出した。
「キミに言われて調合し直したんだ。また試してくれるかな」
 彼は鞄の中から小瓶を取り出した。それから、中の液体を人差し指にすくい取って僕を待った。操られるように、僕は腕を差し出した。川村は僕の手首に指を擦り付けた。刃物で切り裂くようにして。
「どうだい」
 手首を鼻に近付けたり、遠ざけたり、鼻先で揺らしてみたり、もしかすると、故意に焦らしていたのかもしれない。単に酔っていただけなのかもしれない。
「わからないや」
 どうでもいいというふうに言った僕は、それからけらけらと声を上げて笑った。彼もつられて笑った。
「だけど、この前のと全然違うね」
「ああ」
 二人はまた声を上げて笑った。やわらかな照明の中、笑い声は少しずつ小さくなってやがて消えた。低い音楽。自然と、二人の目が合った。そしてその瞬間、僕は何もかも見抜いてしまった。僕がまた、懲りもせず、痛い思いをするであろうことを。
「そろそろ出ようか」
「うん」に僕は呟くようにうなずいたあと、煙草の火をもみ消した。
 店を出てからエレベーターまでの短い距離、僕は川村の少し後ろを、うつむき加減に歩いていた。少し猫背なスーツ姿。子供の頃、よく母親に背筋を伸ばすよう注意されたっけな。エレベーターに乗ると、川村はため息をつきながら壁にもたれた。他に人はいなかった。僕は彼の隣に並んで彼の顔を見上げた。
「川村さんって、意外と背が高いんだね。いつも、研究室で座ってるから、わからなかったよ」僕は少し酔った振りをした。
 彼は僕の顔から目を逸らし、しばらく戸惑った様子を見せていたが、やがて僕の腰に腕を回した。僕は目を閉じ、少しだけ彼のほうに寄り掛かった。彼は黙っていた。僕も黙っていた。二人は黙っていた。
 エレベーターの扉が開くと、二人は何もなかったかのように、少し距離を置いて歩き出した。外は微かな夜風が吹いていた。






 その晩、僕は川村秀明と情事を持った。食事のあと街をゆっくりと歩き、川村の方から休もうと言い出してホテルに入った。僕は黙って後に付いていった。ホテルに入ってからも、しばらくはお互い触れ合おうともせず、スーツを着たままベッドに腰掛けていた。照明を消した暗い部屋で、何を話すわけでもなく、じっとしていた。やがて川村は、高級なスーツの上着を脱いで床に落とした。崩れた上着の影を呆然と眺めながら、この人はきっとお金持ちなんだろうな、と僕はぼんやり思った。彼はそっと僕を抱き締めた。僕はなされるがまま、意思薄弱に、彼の肩に顔を埋めた。彼は僕を白いシーツの上に押し倒し、両腕をとってはがいじめにした。そして左の手首に鼻を近付けて目を閉じた。
「この香りはキミを想って作り直したんだ。処方箋にはキミのイニシャルとあの日の日付けをいれておいた。キミとこうなると、思っていた。キミと目が合った瞬間にそう思った。キミは俺の言いなりになるだろうって。キミなら大丈夫だろうと直感的にわかった」
 ネクタイが解かれ、シャツのボタンが一つずつていねいに外された。こうなるだなんて考えてもみなかったと、僕は嘘をついた。こうなってしまったのは、あなたのせいだと。あなたはずるい人だ、と。
「ああ、俺は卑怯者だ。他人にも、自分にも嘘をついて生きている」
 僕は彼に唇を押し付け、背中を強く抱き締めた。まるで可哀相な自分自身を抱き締めるように。わけもなく悲しかった。相手の悲しみなんてどうでもよかった。ただ、重ね合わせた肌から、川村の震えが伝わってきた。抱いてくれと、僕はせがんだ。二人には未来がないのだから、せめて今は抱いて欲しいと。さっき言ったことはぜんぶ嘘なのだと。本当は初めから僕にもわかっていた、あの日からずっとあなたが欲しかった。僕の声は次第にかすれていった。
 キミの体は素晴らしいと、河村は言った。体を鍛えるのはごく当たり前のことだと僕は答えた。僕はこの世界にどっぷり浸かっているんですよ、あなたと違って。彼は何も言わず、僕の体を撫で回した。二人は裸になり、もうそれ以上脱ぐものがなくなってしまった。彼が僕のために作ったといった香りだけがほのかに漂っていた。僕はたぶん、この瞬間をずっと後まで忘れられないんだろうな。川村の肩を抱き締め、暗いホテルの天井をぼんやりと眺めながら、僕はそう思った。彼は首筋にくちづけ、僕は両足を開いて彼の腰を導いた。ごく自然に、二人は体を揺らした。何なんだろうな、この感覚。頭の中が妙に冴え渡っていて、それでいて何かがあふれ出しそうだ。迸りそうだ。
「ねえ…」
「何だい?」
 僕は押し黙った。
 川村は動きを止めた。
「何だ?」
 僕は目を閉じて首を横に振った。「抱いて」
 彼は激しく全身を押し付けてきた。僕は背中に腕を回し、ギュッと抱き締めるのが精一杯だった。二人の吐息が呼応した。そのとき初めて、音楽がないことに気が付いた。自然と目から涙があふれた。涙は頬をつたってシーツに落ちた。川村は親指の腹で涙の跡を拭い、どうしたのかと尋ねた。セックスの最中にはよくあることなのだと僕は答えた。自分には経験がないと、川村は言った。






 ほんとにいい体をしているんだなと、川村は再び褒めた。バランスが取れていて、きれいな体型だと。情事の後、二人はベッドの上に横たわっていた。川村は結局、果てなかった。僕一人が彼に貫かれたまま射精した。僕が彼のペニスを口に含もうとすると、もういいよ、とても良かったと、僕の肩をそっと押してシーツの上に横たえさせたのだった。僕もそれ以上はしなかった。きっと、彼に射精するつもりはないんだ。
「こんなにいい体をしているとは思わなかった。もっと痩せていると思っていたよ。彫刻みたいな体だ」
 川村は僕の肩をやさしく撫でた。僕は枕に頭を預け、彼の顔をしげしげと見つめた。見知らぬ男のように思えた。彼はおずおずと目を上げた。
「だけど、その目なんだ。俺の心を奪ったのは」
 彼は僕の瞳を、何度も瞬きしながら、じっと覗き込んだ。そして両方の親指の腹で眉の線をなぞった。涙を拭き取った親指。
「キミのことなんて気にも留めていなかった。最近、新しい派遣社員がサンプルを届けるようになったな、ぐらいにしか思っていなかった。以前は化粧が濃くて香水のきつい女の派遣社員だったんだ。あの女が来るだけで仕事の邪魔だった。だからキミの印象は薄かったね。あの女よりはましだ、としか。その目を見るまでは」
 言葉が途切れた。彼はしばらく沈黙していた。一瞬、眠ってしまったのではないかと疑った。彼は僕の横顔を凝視していた。
「子供の頃、そんな目で見るなって、父親によく叩かれたよ」
「叩かれた?」
「たぶん、頭がおかしかったんだ、お父さん」僕は笑った。暗いホテルの部屋に微かにに響いた。
「だから、家の中では父親と目を合わせないようにしていた」
「俺は殴ったりしないよ、キミがどんなに見つめても」
「殴らない父親なんていないんだと思ってた、子供の頃は」
 川村は僕をそっと抱き寄せた。僕は目を閉じ、彼の耳に口を近付けて言った。
「もう帰らなくちゃ」
「ああ」
 いつもなら、相手が引き止める。そんな時、必ず僕は言い訳する。猫に餌をやらなくちゃならないから。川村は引き止めなかった。猫を飼っていることを、言いそびれた。






 それからも晴天の日々が続いた。台風が接近したことがあったが、日本海側に逸れて熱帯低気圧になった。東京にはほとんど影響がなかった。台風の後は気温が上昇し、汗ばむほどの気候がしばらく続いた。そののちは、例年並みの気温に戻り、秋らしい乾いた透明な空気が広がっていった。まるで、壁のような青空。
 それからも川村との関係が続いた。仕事のあと一緒に食事をし、同じホテルの部屋を取ってセックスをする。そんなことを繰り返していた。会うのは決まって夜のホテルだ。それ以外の場所であった事は一度もない。会おうとねだってみたこともない。明かりを消したホテルの一室。しばしばルームサービスでワインを取った。彼はほとんど口を付けなかった。グラスを摘んで窓辺に立ち、夜景を見下ろす僕を、彼は後ろからそっと抱き締めた。彼は寡黙だった。あまり僕とは喋らなかった。この人は、好きな時に抱ける男がいればそれでいいんだ。きっと、そうなんだ。僕も同じくらい寡黙になった。日に日に寡黙になっていった。愛しているのかも。だけど、誰かを愛するなんて非現実的だ。死ねと言われて死ぬのと同じくらい、非現実的だ。僕には実感がなかった。彼に抱かれているという事実以外には。
 彼は一度も射精したことがなかった。僕を満足させ、疲れ果て、そして淋しげな表情を浮かべることがあった。そしてその後僕を抱き寄せ、必ず僕の瞼を親指で撫でた。
「なんで何も言わないんだ」
「そっちが何も言わないから」
「キミの瞳を見ていると、時々、不安になるよ」
 僕は瞼を閉じた。彼は僕をギュッと抱き締めた。
「お父さんが殴ったのも、わかるような気がするな。キミの瞳には、何かが棲みついている」
「目の話はよして…」
「嫌いか?」
「ううん、自分の中で目が一番好き。だけど、大嫌い」
「よくわからないな」
「あの日、研究室で目が合わなかったら、こうはならなかったのかな?」
「そうかもしれないな」彼は淋しそうに言った。
 その時、僕は泣きじゃくって子供のように彼にすがりつきたい衝動に駆られた。しかしその衝動を抑制する何かが働いた。ずっとずっと昔から、いつもそうだった。父親が死んでしまった十歳の秋、僕はすでに老成してしまっていた。あとは年齢を重ねていくだけだ。それを悲しいことだと思ったことは一度もない。ただ、悲しみには常に親しんでいた。
 僕は川村に別れを告げ、ホテルを先に出て行った。彼はこれから家族が待つ明るい部屋に帰りつくんだ。そう考えると、悔しい気もした。
 その晩、部屋に帰ると、猫が僕を待ちわびていた。陶製の食器にキャットフードを盛ってやると、猫は食らい付いた。疲れがどっと体にのしかかってきた。鏡を見る気になれなかった。たぶんみっともない顔しているんだろうな。けれども愛すべき、打ちひしがれた顔。猫は一心不乱だ。僕は、猫が餌を食べる様子を床に座ってじっと眺めていた。






「僕達、もう会わない方がいいんじゃないかな」
 彼は黙っていた。やるせない恋に疲れてふと口にした言葉が、それほど深刻に受け止められるとは思わなかった。だけど遅かれ早かれいつかはこの日が来るのだ。それを言い出したのも、例のホテルの一室、情事の後だった。彼は何も答えず、押し黙ったままでいた。彼の様子を見て、やはり二人は最初から終わりに向かっていたのだとあらためて思い知らされた。
「キミが羨ましいよ…」彼は急に呟いた。
「え…?」
「俺が持っていないものを持っている」
「何を言い出すんだ?」
「俺だって何も考えてなかったわけじゃないんだ。キミとこうなってから、いろんな仮想を立ててみた。空想の中では誰より勇敢になれたよ。もしキミと別の形で知り合っていたら、連れ去っただろうとか」
「もし、だなんて…」僕は首を横に振った。
「そんな仮定、これまで過ごした僕達の時間を否定しているようなもんだよ」
 彼はまた黙ってしまった。この人は、ほんとに真面目な人なんだ。部屋は静かで、窓の向こうから、夜の都会の音が聞こえた。もうこの部屋とも、お別れなのかな。
「この間、大野部長に呼ばれて、正社員になるつもりはないかって尋ねられたんだ。もっと責任のある仕事をまかせてやるって。せっかくのチャンスだし、受けようかと思ってる。僕も来年で三十だし、いつまでも派遣やってるわけにもいかないから」
「そうか…」
 川村は淡々と答え、それ以上何も言わなかった。僕は言い訳を始めた。
「僕は現在の事、将来の事を考えるのが好きなんだ。だって、これからの事なら、いくらだって変えようがあるじゃない? 過去の事はもう訂正できないよね」
 彼は何も言わない。部屋は暗く、彼の存在が急に膨張して僕を圧迫した。苦しかった。何かに急かされているようで。僕は言った。
「そう、過去にはある意味で絶対的な力があるんだ」
「力?」
「ああ。過去は誰にも邪魔できない領域にある。記憶の中に君臨している。僕達にもう未来はないけれど、否定しようのない時間があったのも確かだ」
「そうかもしれないな」彼は呟き、暗がりの中、僕の目を見つめた。
「俺はきっと、この部屋でキミを抱いていたことを、死ぬまで忘れないんだろうな。そして、その目を」
 今度は僕が黙る番だった。彼は僕の側にやってきて、冷たい指先で僕の手を握った。
「キミを愛している」
 僕ははっとして顔を背けた。心が揺れた。何かが弾けてしまいそうだった。今ならまだ取り返しがつくのかもしれない。一筋の光にすがり掛けた。彼は続けた。
「今まで愛した誰よりも、キミを愛した。これ程人を愛することが出来るとは思わなかった。怖くて言えなかったよ」
 いや、やはり未来はないのだ。もう終わろうとしているんだ。
「幸せになれよ」
 川村は僕を強く抱き締めた。二人の最後の抱擁だ。僕は彼の耳の後ろに鼻を擦り付けた。その時初めて生身の彼の匂いを嗅いだ気がした。僕は息を深く深く吸った。しばらくはこの男の幻影に悩まされるんだろうな。ふとした時に震えに襲われるんだろうな。彼は僕の髪に指を通して撫でていた。
 窓の外から、絶え間なく夜の都会の音が聞こえた。






 それから数週間経ち、僕は正式に社員として採用された。その直後、東京に寒気団がやってきて急に寒くなった。高校の理科の授業でこんな話しを聞いた。寒気団がやってくると、どこかの湖で、表面の水が急激に冷やされてドスンと湖底に沈んでしまうのだと。湖底にはものすごい負荷が掛かるのだと。
 川村は退職した。同業界の別会社へ転職したのだった。あれ以来彼とは一度も顔を合わさなかった。正社員採用後、僕は別の職務へと移り、サンプル等は新たに来た派遣の女の子が届けていたのだった。
 すっかり冬が来た頃、川村から一通の封書が届いた。封を開けてみると、一枚の紙が入っていた。数十種類もの香料名が並べられた処方箋で、右肩に僕のイニシャルと、二人の目が初めて出会った日の日付けが入っていた。処方箋には、例の作品が染み付いていた。僕は鼻を押し当ててにおいを嗅いだ。涙があふれそうになったが、僕は堪えた。涙はこぼれはしなかった。
 さらに日が経ち、僕がある要件で研究室に足を運ぶと、ガラスの向こうに白衣を着た背中があった。川村の替わりに雇われた新しい調香師だった。僕がじっと後ろから見つめていると、気配に気付いたのか、いきなり調香師が振り返った。一瞬目が合った。軽く会釈をし、僕はすぐにその場を立ち去った。鉄の扉を押し開けて廊下に出た。廊下の辺りまで、研究室のにおいがした。




(終)

リュッツォ

掲載時筆名 タテイシユウスケ

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