Fear – 恐怖

  その男は空恐ろしいほどの恐怖と安堵の中で、密かに射精していた。他の男に抱きとめられた腕の中で、射精したのだった。不意な射精で、抵抗のしようがなかった。恐怖のなか起こった激しい射精への吸引が身体中を竦ませ、まるでその男の体に一本の熱い芯が通るように精液がこみ上げ噴き出した。それは空手着の下での、秘密裏の射精だった。まだ二十世紀のことだった。
 その男が高校生の時の出来事だ。空手部の寸止めの練習の時だった。先輩が拳を寸止めしきれず、あやまってその男の鼻にぶち当ててしまったのだった。殴られた男の鼻は折れ、男は仰向けに倒れて鼻血を流した。その時だった。相手の空手部の先輩が空手着で男を抱き寄せ、だいじょうぶか、と男の顔を覗き込んだ。
 鼻への衝撃と、拳が顔面に飛び込んできた恐怖、そしていつもは厳しい先輩がそのあと自分のあやまちを詫びて男を抱き寄せた時の温かさ、それらがいちどきに押し寄せ、その温もりに包まれた高校生だった男の中で性的な興奮がこみ上げ、射精したのだった。どうにも抗えないくらいペニスが勃起し、精液が噴上げてしまったのだった。
 幸いなことに、それは空手着の下で秘密裏に行われ、先輩には気付かれずにすんだ。
 不幸だったこと、それはその男が鼻への恐怖の味をしめてしまったこと。
 それ以来、男は鼻に恐怖を抱くと性的な興奮を覚えるようになった。
 男には、相手が男の先輩だったのに興奮して射精したという同性愛的な認識はなかった。ただ男への嫌悪もなかったから、ある種放り投げたように捉えていた。男相手に射精してしまったことについては何も感想を持っていなかった。ただ、鼻への恐怖に官能するのだと認識していた。
 男は、鼻をものすごい速度で攻撃されることで、性的興奮を覚えるようになってしまった。しかし一体、そんな性癖に対して普段から供給があるはずもなく、それは男のファンタズムの中で執り行われるある種の聖なる宴となってしまった。男は誰かが自分の鼻を殴るというファンタズムに溺れながら、自慰行為に耽るようになった。
 あの速度で顔の真ん中を殴られたら、死んでしまうのだろうか…。若き日の男ですら、そんな死の考えに取り憑かれることがあり、それは時に死への憧憬ともなった。殴られて死ぬという光景に恍惚となる高校生だった男。その恐怖が射精をまねく。
 それはその時起こるのだ。握り締められた拳がこちらに凄まじい勢いで迫って来る。全身にゾッとする恐怖の感覚が走り、それでも避けようとは思わなくなってしまう。拳が目の前に迫っても、目を閉じることすら禁止された人形になってしまう。目を見開き、まつ毛を逆立て、瞳は拳を射抜くように見つめる。
 ファンタズムの中では、拳が当たる時の衝撃で射精がこみ上げる。
 顔面が粉々に破壊される恐怖の中、破壊されたパズルピースが飛び散る凄惨さの中、体の下の方のあの辺り、さっきまでくにゃくにゃの泌尿器だったペニスに血がこみ上げて海綿体が爆発寸前の性器になり、白濁の液体が噴き上げる。
 男はそんなファンタズムに溺れるようになった。はたから見れば空手部の高校生、つい先日先輩が寸止めに失敗し、拳が当たってしまったかわいそうな高校生。それなのに、男はその日以来変わってしまった。




 高校生だった男は流れ流れて男になり、いつの間にか結婚して家庭を持っていた。男は鼻を殴られる恐怖に性的な興奮を覚えることについては、誰にも黙ったままでいた。誰にも言えないでいたのだった。同性との性的な関わりにも興味を持てなかった。
 そんな男がある時わたしと巡り合った。わたしはといえば、海辺の故郷を去って流れ流れて生きていたのだった。流れ流れた同士であることでは、男と相違なかった。あなたなら俺の欲望を満たしてくれるかもしれないと、男がわたしを見つめた。男は、鼻を殴るふりをして欲しい、と言った。本当に殴っちゃダメですよ。寸止めでないとダメなんです。俺は女が好きだけれど、女にこれをやってもらおうって気にはならないんです。あなたが頭を丸めた顔の綺麗な男性だからお願いするんです。きっと、あなたみたいな人でないとダメなんです。どこか凛々しいけれど優しそうな慈愛をたたえた顔の男でないと。きっとね、だけど、あの、先輩に殴られて射精してしまった日以来、試したことがないからどうだかわからないんですよ、自分でも。あなたと出会えてよかった、幸運だった。本当に殴ってはダメです、寸止めでないと。してくれませんか。男はわたしに懇願した。男はブライトリングの高価な腕時計をしていた。この時計はね、会社で営業をやって稼いだ金で買ったんですよ。あなたも落ちる以前はこの時計を持っていたとおっしゃってましたね。確かに高価な時計です。あなただからこんなことをお願いするんです。あなたが出家僧みたいに身ぎれいな男性だから。汗の匂いもしなさそうな、どこか気品のある男性だから。女になんか頼めやしません。あなたのお顔立ちがおきれいだから、お願いするんです。




 その密儀は、都会の雑居ビルの谷間で執り行われた。わたしは男の肩にそっと力を入れてビルの壁に背をつけさせ、それから男の潤んだ瞳に一瞥を投げた。そして拳を握りしめて鼻を殴るふりをした。過敏に怯える男。男はもうその悦楽のポイントへと入りつつあった。男は高校生の時に起きたあの事件へと迷い込んでいた。男は首をすくめて怯え、すでに股間は勃起していた。わたしはもう一度、拳を握りしめて男の顔に振りかざした。男はため息を漏らしてわなわなと震え、もう一度、と要求する。スーツのトラウザーズの前が張り詰めてビクビクと震えている。わたしは恍惚のテンションへと踏み入り、きっと鏡に映したなら、わたし自身とてつもなく高貴な顔をしていただろう、澄んだ瞳で男を見据える。男はわたしを見つめ返す。もうわたしたち二人の間に禁句はなく、誰にも打ち明けれなかった秘密は腐乱した都市の隙間で共有されている。わたしにはこの男を悦ばせることができる。その自信がわたしを勇敢にした。わたしは男のペニスを握りしめて刺激しながら、男の鼻に拳を打ち据えるように振りかざし、それでも決して触れることはない。男は身をよじらせる。男の日に焼けた精悍な顔は、夜の都会の蛍光灯に青ざめ、恐怖の滲んだ臆病な顔がわたしを恍惚とさせる。男の体はたくましく、顔は整っていて精悍だった。わたしはこの獲物はなかなか得難い獲物だと、舌舐めずりするように男の顔を眺めた。鍛えた首筋も太く、胸板も厚い。それなのに男はすっかりとわたしに怯え、それはきっと高校時代の先輩の顔をわたしの顔の中に見出していたのだろう、時間軸を越えて男は怯え、そして今初めて告白するかのように吐息をついた。もう一度、もう一度、と男は何度も要求し、わたしは男のペニスを手に握り、トラウザーズから勃起した陰茎だけを出した状態で掴んで引っ張り出し、その格好でビルの谷間を渡って別の場所へと移動した。そしてまた密儀の続きをする。青ざめた男の顔を公園のベンチに押し付け、握った拳をさらに振りかざして鼻を殴打するふりをする。男は少年時代のあの日の恐怖に転落し、恍惚へと落ち込んだのだった。男には死の概念があっただろうか。殴られることで、死ぬことさえあると、思っただろうか。尋ねなかった。男は怯え、恐怖に崩落した。

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