ゲイ小説「エスプレッソ」

 エスプレッソマシーンからドリッピングされる褐色のシズク。カップを満たしてゆく、あいつの肌の色を思い起こさせる液体の表面にひろがる波紋。丸みを帯びたデミタスカップの輪郭線。晴天の窓辺でエスプレッソを沸かしながら、僕は村上が姿を消したことにようやく気が付いた。まだ確信にはいたらない、ぼんやりとした疑問。それが凝結して核を結ぼうとしている。村上は、行方をくらましたのだろうか。

 怪訝に思ったのは、あいつの電話が不通になったときだった。

「・・・現在、使われておりません・・・」

 乾いた交換手の声が、初めて僕を不安にしたのだった。その不安もまだ、像を結ばない漠然とした真綿のようで、不意に小首をカシゲルような、ピンと来ない感覚だった。

 何度電話しても村上が受話器を取らなかったときも、さほど気にとめたりはしなかった。野放図なあいつのことだから、どうせまた男にうつつを抜かしているのだろうと決め込んでいた。それは僕も同じだったし。冒険してみたり、誘われる振りをして誘ってみたりもしたし。ちょっとだけ恋人気分を味わってみたりもしたし。

 けれども、あいつの電話が不通になったとき、僕はあいつがこの世の中から消えてしまったのではないかと、本当に遅ればせながら気が付いたのだった。あいつと出掛けた旅行から帰って来てから、あいつとは一度も連絡がつかないでいる僕。何の音沙汰もないままでいる村上。今では何のつながりもなくなってしまった二人。旅行中は、やり場のない体を結び合い、何かに急かされるように抱き合っていたというのに。

 夏を待ちきれなくてあいつと出掛けた南の島。その旅行の直後、何一つ理由も告げずに蒸発してしまった村上。あいつが僕のノド元に残した激しい接吻の痕跡も、今では跡形もなく消えてしまっている。僕が苦情を申し立てたキスマーク、気付かぬうちに、消えてしまった。彼の唇の跡さえも。

 旅行のあいだ、村上にそんな素振りは全然なかった。突然、音信普通になってしまうだなんて。旅行中は、いつも通りのあいつだった。何キロも続く砂浜とエメラルド色の海。裸の太陽と、その下の水平線のきらめき。空と海が抱き合う、少しだけ歪曲した途方もない長さの水平線。丸い地球の表面張力。それらのゆきずりの景色と戯れる他は何もかも忘れ、すべてを放棄してしまった無敵の僕たち。夜の中でセックスをするとき以外、お互いの存在すら忘れ、エメラルドの原色に染まっていた身勝手な一週間。

 妙と言えば妙だ、今振り返ってみると。あいつの方から旅行を提案したりするだなんて。ただのセックスフレンドだと割り切っていたあいつ、僕の体との対話以外、僕に興味がなかったはずのあいつが、二人でどこかへ出かけようと誘うだなんて。そして妙と言えば、その提案を無防備に承諾した僕も妙だった。今更考えても仕方がないけれど。あいつはどうして僕を常夏の島に誘ったりしたのか。そして、どうして僕は疑問も持たずにそれを受けたのか。気分屋な二人らしいと言えば、そうかもしれない。有給休暇は余っていたし、お金の方はそうでもなかったけれど、どうせろくな使い道を思い付かない僕。旅行に出かけたのは、気まぐれだった。

 そして気まぐれな僕たちは、行きも帰りも飛行機は別便だったし、バンガローで寝るときをのぞけば身勝手に過ごしていた。一人旅と言ってもまちがいではなかったくらいに。 

 今となっては過去になってしまったあの楽園。夜になると、同じベッドで戯れ、戯れているうちに抑制が効かなくなり、急かされるように体を貪りあった夜、二人の夜、静けさに響く波の音。

 村上とは半年ほど肉体関係を続けていた。お互いに体だけだと割り切って束縛せず、好き放題していた僕たち。

 目を閉じると、あの楽園のシーンがよみがえる。あれは早朝だった。夜が明けるかどうか、とても微妙な時間帯だった。赤道直下の、俊敏な昼夜の入れ替わりの、ちょうどその最中だった。不意に目を覚ました僕は、隣りで眠りこけている村上を残し、白み始めた部屋を静かに渡り、足音を殺して静かに渡り、浴室の鏡の前に立ったのだった。あの時の、足音を殺しながら静寂をよぎる、目覚めの緊張感が今でも体に染み付いているような気がする。あれは旅行中の、何夜目だったろうか、もう思い出せない。 

 前の晩の激しい情事の痕跡を、ノドボトケの少し下の、やわらかい皮膚の上に見つけた。昨夜、村上に抱かれた僕の裸体の輪郭線が、朝の光の伴奏と共に、鏡の中で明確にカタチを作り始めた。昨日は村上の腕の中でだらしなく溶けていたダラシナイ体、今は鏡の中で。昨晩のセックスを思い出して自堕落になる僕、朝の光、頭を覚醒させ、すがすがしさの中、唐突に竦むような感覚。

「キスマーク、ついてるぞ」

 僕は声に出して言った。呟きのようだったけれど、まだベッドの上で眠っている彼の耳に届くだろうとなぜだか確信できた。浴室に響く声。朝の光。

「ん?」男の呻き声が夜明けに反響し、僕の体の下のほうで響いた気がした。唐突に竦む感覚が再び訪れる。それからまた静けさだけが残った。眩暈すらしそうなほどの静けさ、早朝の空気。 

 床の上を歩く素足の足音が響く。そしてそれから、突然、裸のままの村上の体躯が鏡の中に飛び込んできた。思わずはっとさせられた。予感していたのだけれど、はっとさせられた。

「キスマークなんて、ルール違反だぞ」

「東京に帰るまでには消えるさ」

「消えるかな」

「さあ」眠そうに言った彼はしばらく間をあけ、それから続けた。「消えないで欲しい気もするな」

 鏡越しに彼の顔を見つめる僕。まだ明けきらない夜の色に包まれ、陰影のせいで表情がはっきりせず、彼の真意はわからなかった。彼を見続ける僕。見られ続けていることを見透かす彼。村上は、突然、背後から僕を抱きすくめた。鏡の中の自分の裸体に別の裸体の腕が巻きつくそのムーヴメント。鏡の中で崩れる自分自身のスガタカタチにうっとりとすらしてしまう僕。その不可思議な像はビブラートを伴い、震えつづけた。軽い眩暈。 

「よせよ」逆らってみせる僕。

「ん?」答えようとはせず、首筋に唇を這わせながら、鏡を通して僕の反応をうかがう村上。この男はもうわかっている、僕がその気になっているのを。悔しいような気がしたけれど、その悔しさに恍惚としてしまう。

「好きだな、お前も」それでも逆らってみせる僕。

「いつでもやりてえよ」

「今は他の男を探せないからな」

「お前となら、あと三百回やっても飽きない」

「バカ・・・」

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エスプレッソ