作・リュッツォ
イマは昔。しかし語りべは現代の寂れた消滅危機都市の端の丘、草むらに埋もれそうなおんぼろ屋で窓辺に肘をついた一人の男。
この物語は、すみずみまで眺めても、男しか出てこない。
イマはムカシ。ショパンのバラード第一番ト短調作品二十三が聴こえそうな夜だった。京にあそばすやんごとなき帝は、障子の向こうの夜に思いを馳せた。静かな夜だったが、帝は憂いを持てあまし、まつ毛をゆらりと瞬きさせた。黒いまつ毛の先から水滴がしたたりそうな、瞬きだった。
そろそろ寝なければならない。既に世を手に入れていた帝でも、まだ夢を見たかった。一度でいいから誰も自分のことを崇めたりしない、なのに麗しき、柔らかい光と色彩に満ちた野に立ち、草花を摘んでは花束にしたい。
誰からも見られないただの草はらで、小さな鳥や草花たちと共に過ごし、太陽光線が黄色くなって胸が苦しくなるまで、ただうっとりとしていたい。甘やかな憂鬱で空を見上げ、晴れが続いた夕暮れにはあり得ないけれど、それでも虹を探したい。
帝は、憂いた空想を仕方がなく打ち切り、人々を呼び、寝る支度をさせるように言った。
けれでも急に気が変わった。呼んだ人を人払いし、今夜は一人、物思いに耽りながらゆっくりと眠りにつくのも興があると気変わりした。たまには自分で寝支度をし、誰にも見守らせずに気ままに夢を見よう。そう思って人払いをした。
そうだったのだ、その後で帝は思い出した。
悩ましや、悩ましや。
そういえば近頃、夢にうなされる。悪夢にうなされるのはいやだ。床に就く前にそれを突然思い出した帝。そうだ、あの懐剣があった。帝は象牙の象嵌を施した、樺色の懐剣を取り出して手のひらに乗せた。この懐剣を抱いて寝よう。ならば悪夢から守られるはずだ。しかし悪夢が思い出せない。どんな夢だったろう。何に襲われるのだったか思い出せないが、この頃夢の中で何者かに襲われる。
帝はどんな夢だったか思い出そうとして、ふと小首を傾げた。外の夜に思いを馳せる。遠い夜に思いを馳せる。民たちは夜に何をして過ごしているのだろう。私のように悪夢を見るのだろうか。民たちはきっと、穏やかな夢の揺りかごに揺すられて眠りにつくのだ。私の民、けれど手の届かない民。
そんなことを思いながら、召使に摘ませておいた安眠の香草の香りをかいで、帝は床に入り、枕に頭を乗せた。樺色の、象嵌が施されたキラキラと輝く懐剣をそっといだき、眠りについた。
それは狐だった。夜に帝を訪れて苦しめるのは、キツネだった。
静まり返った夜、情け容赦ないほど光のない夜の静けさの中で、キツネは帝の夢枕に立った。帝はキツネを夢に見ると、そうだった、この獣だった、私に毎夜会いに来るのは、と怯えながらも懐かしい気持ちにさえなる。キツネは、あの獣独特の、白目のない黒目だけの目で帝の顔を見つめた。帝はもう抗えなくなってしまい、ただ見られるがまま、金縛りにあってしまった。
キツネは帝の床を三周ほどキツネ歩きで歩き、そして今度は足元で立ち止まって、すっくと。
止まる。
キツネの立ち姿が、止まる。
帝は怯える。
キツネの立った姿は人物に見え、キツネの体毛がわさわさと逆立ち始める。キツネは雄々しく猛々しい肉体に膨れ上がり、腰に差した脇差に手をかけた。
帝は思い出した。私は今夜は懐剣を手にしている。今日は斬らせまい。
キツネが脇差を抜いて斬りつけた時、帝はとっさに懐剣を抜いて刃を向けた。
軋むような金属音と火花。
帝の懐剣は折れてしまったのだった。
「ふん、人間の頂点であるミカドの刀はその程度か。」キツネはニヤリ。「三条の刀鍛冶、宗近に剣を打たせよ。今日のところはわたしは退く。」
帝が目を覚ますとまっ暗闇の天井で、キツネは消えていた。
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