作・リュッツォ
(掲載時筆名・白井俊介)
Da una lacrima sul viso
ho capito molte cose….
勇作は、イライラしながら腕時計をのぞきこんだ。約束の時間はとっくに過ぎている。期待なんかした自分が馬鹿だった。もうこんなことはやめよう。暮れなずむ街を見下ろしながら自己嫌悪に陥る勇作の耳に、聞き覚えのある優しいメロディーが、甘ったるいワインのように流れ込んできた。
….dopo tanti tanti mesi
ora so cosa sono per te….
イタリアのカンツォーネ歌手、ボビー・ソロが歌う『ほほにかかる涙』だった。六年前の幸せだった頃が、勇作の瞼の裏側に巻き戻される。それは美化され過ぎた映像だったかもしれない。けれど、あのとき覚えた甘美な香りを思い出すと、顔も知らない男と待ち合わせをしている今の自分が惨めでならなくなった。曲が進むにつれ、勇作の瞼の裏のスクリーンには宝物のような思い出達が、古い映画のように映し出された。まだ見ぬ男と待ち合わせた喫茶店の窓辺のテーブルには、冷め切ったコーヒーカップがそっと置かれている。
その頃の勇作は本当に充実していた。仕事もうまくいっていたし、会社での人間関係においても信頼を集めていた。週に一回ジムに通うおかげで、体はかたい果実のように張りが出てきたし、ゴールデン・ウイークにメキシコで灼いたせいで表情が精悍に見えた。
それまでの勇作といえば、知的で怜悧な、いかにも繊細といった感じの青年で、決してこの世界でウケるタイプではなかった。少年時代から音楽と文学を好み、根が純粋だったがゆえに、いつも人に傷付けられていた。そんな自分に嫌気がさして、二十代も終わる頃、長年人生を共にした自分自身に訣別することを決心した。
体が逞しくなるにつれて、勇作は自分でもびっくりするほどもて始めた。初めのうちはそんな自分に酔い知れた勇作だったが、数々の夜を、様々な男達と過ごしても、かつて自分が夢中になった小説の中にみられる壮大なロマンスは、どこにも見付けることができなかった。男達が求めているのは自分の体だけだという事実にまたしても傷付けられた勇作だったが、最近では鈍感になったのか、あるいは諦めがついたのか、それ程気にもならなくなった。
だから、正雪と知り合ったときも、砂漠の中で拾い上げた、一粒の砂ほどの出会いとしか思わなかったのだった。
梅雨に入ったばかりのある夜、勇作がいつものように新宿二丁目の行きつけのバーのドアを開けると、カウンターで頬杖をついている正雪の姿が目に入った。勇作がカウンターに座り正雪の顔にジッと見入っていると、それに気付いたのか、正雪も時々勇作の方をちらちらと窺がっていた。長雨で湿った空気のせいか、正雪の長い睫毛や、シャツから覗いた喉元を見ているだけで、勇作は、肌に残る日灼けの痛みの上に、肉体の渇望を感じた。
「ケンちゃん、あの端の子に何か奢ってやってくれないか」
カウンターにいたケンジが、正雪のところへ行って何か囁いた。正雪は親指の爪を噛みながら勇作の目を直視し、二、三度ゆっくりと瞬きしてみせた。その甘ったるい仕種を見ているだけで、勇作は欲情し、喉の渇きを覚えたのだった。
「じゃあ、テキーラ・サンライズをちょうだい。それから、せっかくだから、隣に行きたいって、あの人に伝えて」
正雪は、わざと勇作に聞こえるように言った。勇作は隣の椅子を少し引いて、正雪を促す。
「そっちが勝手に奢ったんだから、お礼なんて言うつもりはないけど、名前くらいは教えてあげる。僕は正雪。『ただしい』に『ゆき』。あんたは?」
「オレは勇作。勇気の『ゆう』に『つくる』。君、いくつ?」
「退屈な質問だね。まあ、いいけど…。二十四才です」
そう言いながら、もう一度だけパチリと大きく瞬きをした。正雪のつややかな睫が揺れる度、勇作の体内で欲望がむくむくと沸き上がる。
コイツなら、恋人にしてもいいかな…。一瞬そう思った勇作だったが、この街には似合わない純情な考えを、せせら笑いながら打ち消した。
「どうして僕のこと誘ったかなんて、そんなヤボなコト聞くつもりはないけど、どうせそういうコトなんでしょ? これ飲み終わったら、ココを出ない? いい店知ってるんだけど…。もっとオジサンとオハナシしたいし…」
「おい、オジサンって、オレはまだ三十一だぜ」
勇作が不平を言っている間に、正雪はテキーラ・サンライズを一気に飲み干し、振り向きもしないで店を出て行った。勇作はあわてて正雪に追い付く。雨の中を並んで歩く間中、正雪は終始好奇心一杯な目で世の中を見ていた。そういえば、オレにもこういう時代があったっけ…。勇作は、正雪の背中に優しく腕をまわして守ってやりたい衝動に駆られたが、深呼吸をしてその手を押さえた。どうせ一晩限りの関係だ、情けが何の役に立つだろう。
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