ダブルブラインド

 蝶々は手足でにおいを感じる、と聞いたことがある。聞いたのはたった一度きりで、それもずいぶん前だというのに、最近しばしば思い出すことがある。男の汗ばんだ素肌に指を伸ばすときに思い出す。それならば蝶々は香り立つ沈黙を計ることが出来るだろうか。息苦しくなる。
 沈黙。
 男の肉体に溺れてゆく焦燥感。そんなとき、泣きたくなってしまう。
 泣き顔だと、言われたことがある。泣き顔の男はセックスにだらしがないと言われたことが。そうやって蔑まれるとき、虚無感のサナギから赤黒い蝶々が羽を広げる。その悦楽を覚えたのは最近のことだ。忘れてしまうことが出来るだろうか。




第一章




 また、キシンだ。部屋の天井のカドが、確かにキシム音をたてた。暖房を止めて消灯し、ベッドに入って目を閉じるちょうどその頃、それは起こる。空の放射冷却が箱のようなオレの部屋から温もりを奪い、天井や壁から温度が下がる。空に近いところから、温度が下がる。すると、冷たさに怖れをなした壁が縮み上がる。ピシッ。目を閉じ、眠りに落ちようとするころにそれは鳴る。ピシッ。天井と壁が接するあたりの角に、ミミズクが住み着いているのだと思った。ミミズクの鎖骨が、冷気に縮む壁の窮屈さに悲鳴をあげているのかと思った。その、へし折れるような音は、オレを驚かせる。けれどもう慣れていて、目を開けたりはしない。体がヒツギの中に閉じ込められてゆくような感覚に沈む。
 ミミズクだと思ったのは、暗がりの中で光る二つの目を持った鳥が、部屋の隅で翼を広げているような印象を持ったからだ。壁と一体化して潜む夜の鳥。きしむ音は、鳥が鋭利な爪を握り締める音かもしれない。そんな気がした。
 暗闇のきしみを、ひとりで聞いたことがある。
 暗闇のきしみを、誰かと聞いたことがある。誰だったのか、一人ずつは思い出せない。確かなのは、隣りで眠りに落ちてゆく正和と今、聞いたこと。夜、最後に聞く音、朝が来る頃には忘れてしまう音を、正和は意識しただろうか。彼は何も言わなかった。
 きしみが聞こえなくなってしまった。温度が下がるところまで下がり、建材の縮みが落ち着いたのか。何の音もなくなってしまった。
 ふと、そんな気がして目を開けると、天井から壁に沿ってミミズクが床に落下した。ベッドの端の、オレたちの足の方に落ちていった。掠れた音がした。影のような鳥が床にひれ伏したのか。怖くなった。反射的に上半身を起こしてそちらを見た。正和のナイトガウンが床に崩れていたのだった。正和のにおいを感じていたくて、借りたままになっている正和のナイトガウン。借りてから嬉しくて毎夜羽織っている。今夜は正和がオレの部屋に来ているので、それを知られたくなくて壁のフックに掛けていた。
 オレたちは互いの部屋を行き来していて、正和の部屋に泊まったとき、彼がナイトガウンを羽織った姿がなんだか艶かしかったので、それ、ちょっと貸してくれないかな、なんて言ったら、寒いのか、と問うた彼。そうじゃなくてさ、正和のものをオレの部屋に置きたいんだ。へんなヤツだな。そう言いながらも車で送ってくれた時に渡してくれた。
 そのガウンが壁のフックから落ちて上半身を起こしたオレに正和は気が付いた。
「どうした?」小声で尋ねる彼。まだ眠っていなかった。
「ううん、何でもない。ちょっと、トイレ」オレはそう言ってベッドから抜け出し、冷たい床に立ち尽くしてナイトガウンを見下ろした。今にも動き出しそうなのにうずくまったままでいる影が、少し怖かった。本当に動き出しそうで。怖かったけれど、床からナイトガウンを拾い上げた。彼のナイトガウンをさっと羽織る。影が宙に舞う。背中に重み、彼の、におい、ほんの少しだけ鼻先をくすぐる。オレはガウンを羽織ってトイレにいった。
 トイレの灯りを点して扉を閉める。蛍光灯が眩しい。便器の真中をめがけて小便をする。水の溜まっている辺り。小便をしながら、何だか腑に落ちない気がする。長い小便が終わる。腰を揺すって滴を振り払う。爪先立ちになって、滴を振り払う。あれは見間違いだったのか。
 パジャマのズボンを引き上げ、ガウンの前をかき合わせながら部屋に戻る。彼の匂い、やわらかい生地に織り込まれた、彼の匂い。
 もっと、ガウンをかき合わせた。彼に抱かれているようで、もっと抱き寄せた。
 深呼吸。自然と目が閉じる。何かが、体に降りてきたような気がした。
 目を開けると、暗がりの中に崩れる正和の寝姿。
 たまらなくなって、彼に忍び寄った。後ろで、ミミズクが落下する音が聞こえたような気がした。
 それから後は、高ぶりを抑えるだけで精一杯だった。何をどうネダリたいのか自分でもわからず、正和の上に乗って戸惑った。彼は予測していたのか。何も言わず、穏やかな目でオレを見上げていた。暗がりでもわかる彼の眼差し。眼鏡を掛けていないときの、少し冷淡な印象すら与えるきれいな一重瞼。
 呼吸が弾み始める、この男に見据えられると。
 彼はオレの首に腕を回して引き寄せた。目と目、唇と唇、触れ合いそうになる。肺の下のあたりが熱くなる。堪えきれなくなって緩めた唇を押付けた。この弾力、濡れてしまう。彼の髪を指で擦りつけ、露わになったおでこに接吻を浴びせる。形のいいヒタイに頬を押付けると、もう何と何が触れ合っているのかすらわからなくなる。急にいとおしい気持ちがこみ上げてくる。あふれ返るように、正和の体に抱きついた。
 そのとき、正和の心の鎖骨のきしみが聞こえたような気がした。聞こえたような、気がした。
 いとおしいから抱き縋るのか、抱きつくからいとおしくなるのか。
「どうした、また泣きそうな顔をして」彼は両手でオレの頬を包み、優しさに満ちた声で尋ねた。
「別に。急にやりたくなった」
 淋しいんだ、正和のそばにいると、なんだか自分がデキソコナイな気がして。口には出来ず、彼にキスを求めた。彼は体を入れ替えてオレにそっと寄り添う。体の繊細な突起が触れ合い、感じてしまう。指の先から、体の先から濡れてゆく。
 突然、正和が激しく抱きしめた。こんなにきつく抱きしめたら、誰を抱いているかわからなくなるだろうに。抱きしめられたときの胸苦しさ。抱かれる資格を得た者へ与えられた、罰なのか。いとおしいのに、汚らわしくて。
 外の薄明かりがカーテンを照らしていた。フローリングの床が光を反射していた。夜遅く帰ってきたマンションの住人の靴音が、建物を包み込むように響いた。トイレの貯水槽に水がたまる音。オレは息を吐きながら体を弛緩させた。
 目を閉じたオレの上を転がる正和。今いちばん近いところにいる男。外からは見えない場所に忍び込む男。体がますますゆるみ、気持ちも解けて、けれども頭が妙に冴える。彼が唇の隙間に湿った舌を差し込んできた。そっと、滑らかに。冴えていた頭の中の意識が溶け出してゆくのが自分でもわかる。舌が、彼の方へと自然にのびてゆく。軽く、ほんの軽く舌の突起同士が触れ合う。
 それから、モデラートよりも緩やかな速度で転げ合ったふたつの舌。
 高鳴りが、速くなっていった。部屋の中に潜む影たちが暗い暗い模様を生き生きと描く。夜にも色がある。透明な色。今まで生きていてくれたんだ。出逢ったときの感想がありありと蘇る。最初にキスしたとき、そんなふうに思った。自分の知らないところで自分の知らない人が生まれ育ってそして今日やっとめぐり逢ったのだと。抱き合うたびにつくづくそう思った。
 彼が口を強く押付けてきた。かすかな呻き声と乾いたベッドの悲鳴。ユリカゴに乗せられているような。それから生まれたままの姿になって、別々に生まれてきたふたりでセックスをする。時々、正和が相手だと忘れる。それでも、自分ではない男とセックスをしているのだと、意識している。別々の孤独なのだと、意識している。己の悦びのためならば、世界中の人間が死んでもいいと、思っている。






 正和は舐めるのが好きじゃない。そんな気がする。けれども丁寧に舐める。特に首筋を。まるでオレに印を付けたがっているのかのように、吸う。舌と同じ色の目印。そんなものは闇の中では導いてくれないのに。正和が舐めるのが好きじゃないと思ったのは、直感だ。尋ねたわけではない。もし尋ねたら、彼は認めるだろうか。認めて欲しくないから、問わないのだろうか、オレは。
 舐めるのをやめる言い訳のように、彼は裸の体を押付けてオレを抱きしめた。
 床に崩れたナイトガウンの上に、下着が落ちて崩れている。もつれあって崩れている。ほとばしったオレを受け止めた正和は、眠りを妨げられたことに苦情を申し立てるわけでもなく、その気になってやり始めたのだった。乾いた木綿と木綿が擦れ合い、落下、そして乾いた肌が湿り気をおびて汗ばんでしまったのだった。
 彼が舐めるのをやめると、なぜだか不安な気持ちになった。この人、もう舐めてくれないんだ。そう思うと、もっと欲しくなる。けれども口にして要求は出来ず、抱きしめてきた彼の背中に腕を回して強く引き寄せた。彼の髪のにおい。目が閉じる。肺胞のひとつひとつがミルフィオリの文様を描き、色彩が溶け出しては再び集まる。意識が魚の浮き袋のように空虚に膨らみ破裂寸前で止まってしまう。子供の頃、釣りをしたとき、針を飲み込んだ魚から無理矢理引っこ抜くと、内臓と一緒にふかふかの浮き袋を吐き出したものだった。
 男の素晴らしい腰の弾力が、足と足の間に割り込んできた。背中の下のシーツにゾクゾクとしてしまう。
 やっと、その時がやってきた。男の性器がオレのハラワタの中に入ってきた。自分の卑しい身分に心底嫌気が差してしまう。頼んだわけでもないのにこの肉体を与えられたことに、喜びを覚える。卑しいくせに、オレはよろこんでしまう。
 男がオレを性器で貫く。性器で貫いている。もう、それ以上のことは考えられなくなってしまう。ひとつひとつの感覚を追って分析できなくなってしまう。
 例えばそれはいきなり入ってきたときの痛みから始まる。そして自分でもわかる広がりと底のなさ、大きく膨らんでは擦れて収縮、ヒダ、張りの強さ、押し入ってくるリズム。いつの間にか呼吸を合わせ自分で締めたり緩めたり吐き出したり叫んでいる。コントロール不可能なのは、あふれだしてしまうときだ。せがんでせがんで、声がかれてしまう。オレを貫いている正和のアレの根元をぎゅっと掴んでしまいたい衝動に駆られる。手を伸ばして握り締め、オレの手相をこの男の紫色の粘膜に刻み付けてやりたいと思う。そしたら少しは彼を手にした気になれるだろうか。そしたら少しは、弾力が返ってくるだろうか。彼の性器がオレの手のひらの中でぐしゃりとつぶれる感触を想像する。眩暈。揺れている。手におえない速度。彼は腰を振っている。想像する。彼の性器を握りつぶす。黄色い睾丸が手のひらから転げ落ち、握り締めた男根の熱さ、尿道から真赤な血液がドクドクと溢れ出す。オレは頭が狂うほどその感触に焦がれている。
 呻き声。むせび泣き。たえ切れない。瞼の裏側の闇の色。震えてかち合う歯。直腸の妙なむず痒さ。小刻みにちぎれてしまいそう。すぐそこまで迫っている。呻き声。消えてしまえ。尿道から精液がほとばしる。
 西日、イカダ、オレンジ色の水平線。洞窟、影法師、秋のカマキリ。みんな、消えてしまえ。
 あとは、あっけないのだとわかっている。セックスのことはほとんど記憶に残らず、じんわりと心に滲む感覚だけがしばらく継続するのだと。頭が空になっている。あとはあっけなく、時が進んでゆく。射精の余韻が薄れるに連れて明確になってしまう二つの呼吸音のわずかなズレ。
 あとは、夜が死に絶えてしまうだけだ。セックスが終わった後、二人は並んで横たわっていた。何もかもが、死んでしまいそうなほど穏やかだった。夢を見ていたのか。急に、正和に何か尋ねたい衝動に駆られた。けれども体は動かず気持ちだけが焦った。もどかしさに拳を握ると、手のひらの中で、爪が少し伸びているのがわかった。






 ある寒い夜、バスタブに浸っていた。急に考え込んでしまった。一年前の自分はどんなだっただろう。頭上で換気口の音が響いた。少し離れた街道を突っ走るトラックの音が近くに聞こえた。静かだった。一年前の自分はどんなだったか。大して変わってない気もすれば、故郷の海鳴りと同じくらいに遠いような気もした。
 ヴァイオレットに染めた湯を手のひらにすくって顔を洗う。水面に浮かんだ軽石がバスタブに触れて、カタ、カタと音を立て揺れる。一年前の自分なんていなくたっていい。子供の頃、母にカカトをよく擦るように言われたのを思い出す。浮かんでいた軽石を手のひらで掴んで湯の底に沈め、踵を念入りに擦った。透明なバスタブが欲しいな。きっとこのヴァイオレットが綺麗だろうな。
 角質化した皮膚を軽石で削った後のカカトに指を触れる、滑らかで、それでいてキュッとする感覚に身が竦む。正和の大きな手を思い出す。自分の他は、体を許す相手にしかさわられることのない踵。少し勃起してしまう。少し膨張した性器が太腿に触れる窮屈感。頭に血が上る。
 音を立てて、オレは立ち上がった。水の重さを体に感じ、一瞬にして重さから逃れた体、嬉しくなってバスタブの中の湯を足で蹴っ飛ばした。
 湯から上がった。洗ったばかりのバスタオルを頬に当てる幸福感。白いバスローブを羽織る。生地が水分を吸収して体に密着する。透明なグラスに冷たい水を注いで一気に飲み干す。細胞たちが活発に働き始める。
 冷たい水。
 水が冷たい。
 冷たくなってゆく水がおいしいと感じたのは、正和とめぐり逢ってからだ。
 秋に知り合って、冬へ、冬へと、水が冷たくなった。冷たい水がノドをくだるときの勢い。水は思い出をめぐらせる。あの時の水。あの感覚が透き通る。
 あれは十月だっただろうか。もう自信がない。空気と水のことはこんなにはっきりと覚えているのに。
 陽射しはまだ色褪せていなかった。空は少しかすんでいた。会社の昼休み、ビルの谷間の公園の噴水のそばの水道で、水を飲んでいたオレ。蛇口を上に向けて勢いよく水を出し、唇を近づけて啜るように飲んでいた。口元ではねる飛沫。ふと顔を離してみると、目の前で、噴き上げる水が重力に引っ張られて落下しているのがよくわかった。弧を描く透明な液体の頂点に、太陽や、うつろう緑や昼休憩の人々が様々な色を織り成していた。
 そこに溶け込んでいた姿が、正和だった。
 空を鳥が一直線に過ぎったかもしれない。
 そちらに目を投げると、男と目が合った。ときめいた。後からそう思い込んだだけかもしれないけれど。無言のまま、二人はそこに立ち尽くしてしまった。水道の水が噴き上げたままになっていた。
「あ、どうも」理由もなく会釈してしまったオレ。ぎこちない時間が流れる。ぎこちなさに、いつまで経っても慣れないオレ。
 同じように会釈を返した正和。昼休み、上着を脱いだ彼の白いワイシャツの眩さに目をそらした。水の音、耳の中で膨らむ。きっかけを作ってしまったのは自分なのに、どうすればこの場をやり過ごせるかわからなくなって曖昧な笑顔を浮かべた。
「二十三階の方ですよね」彼が口を開いた。思いがけない問いだった。
「え?」思いがけない問いに、オレは返事すら出来ない。
「エレベーターで何度か。俺、二十八階です。その間は通過するエレベーターで何度か一緒になった気がしますけど。記憶違いだったらすいません」
「いえ」
 そうか。同じビルに勤めていたんだ。言われてみればそうかもしれない。小首を傾げてしまうような不思議な感覚におちてしまった。
「じゃ」立去ろうとする男。
「あ、そうです。オレ、二十三階です」我に返って言った。
 立ち止まって踵を返す男。逆光に切り取られたモーション。一秒一秒が克明に聞こえる。
 男はちらりとこちらに眼差しを投げ、そして立去ってしまった。名前も残さず、影も残さず。やはり小首を傾げてしまうような感覚だけを残して。その感覚に浸っていた。浸り続けたいと願っていた。






 次に彼に会ったのはエレベーターの中だった。今度も昼休みだった。少し遅れて昼食に出て、下りのエレベーターに乗り込んだ。別段、取り付かれるほどの考えもなく、呆然と乗り込んだ。中途半端な時間だったのに、エレベーターは混んでいた。昼食を終えて外に出掛ける会社員たちの表情。
 やがて、エレベーターが地上に着いた。どやどやと降りる人に、流された。
 肩を叩かれて、振り向いた。岩城正和だった。
「やあ」二度目の彼はなぜだか親しげで、けれども馴れ馴れしくはなかった。「この前はどうも」
 胸がトクンと鳴る。緻密な繊維質の感情が胸を過ぎる。ビルの床をコツコツと打つ会社員たちの靴音が響く。ガラス越しに見える交差点。季節外れの日傘が交差点をゆっくりと過ぎっている。
「あ、いえ」この度もろくな返答が出来ず周囲の景色に吸い込まれていたオレ。二人はビルの外へと自然に出た。
「やっぱり二十三階だよな」
「あ、はい」それから焦って付け加えた。「ごめんなさい。気がつきませんでした」
 いや、別に、と少し照れ笑いを浮かべた彼。陽射しの高さと、首から肩にかけて流れる線。ありきたりだけれど、新鮮だった。そのフォルムを身にまとい、印象的な眉の下から眼差しを繰り出した彼。そのときはじめて思いついたかのように、彼はオレを昼食に誘った。よかったら一緒に飯でも食いに行かないか、と。思わず目をそらすオレ。はい、と答えながら彼の視線を避けた。二人は並んで歩き出した。
「背、高いんですね」目を伏せたままオレは呟いた。
「そうかな?」少し開いた二人の距離。歩行。ビルの上に抜ける空。彼の眼差しの角度。言葉が続かない。
 それから二人は、コーヒーの香りが立ち込める喫茶店に入ってランチを注文した。無言の隙間をぎこちない表情で縫い合わせ、差し向かいで昼食を平らげた。食後のコーヒーを啜る頃になってやっと、緊張が解けた。
「転勤でこちらに来たばかりなんだ、最近」正和は言った。それから彼は笑い、まだ名前も名乗ってなかったよな、と。彼は岩城正和と名乗った。
「そうですか、転勤ですか」それからオレも名前を告げた。名前を告げるときはいつもなぜだかぎこちない笑顔になる。
「河合さんは東京に長いの?」と彼が尋ねた。
「もう十年、かな」
「長いな」
「うん。長い。家族も一緒に越してきたんですか、岩城さん」
「いや。身軽だよ。車だけは連れてきた」
「車かあ、いいなあ」
「自分をどこかへ連れて行ってくれるやつを、連れてきた、なんて」
「海を見に行きたいな」とりとめもなく言ってしまった。「誰もいなくなってしまった海。まだ誰もいない海じゃなくて」
「なんだか淋しいこと言うんだな」
「淋しいかな」
「あ、一緒に行けば淋しくないか」付け加えた彼の言葉が店に響く。時計が十三時を打つ。昼休みが過ぎてしまう。
 ふたりは何となく目を伏せてしまった。そうだね、と呟いたオレ。それから慌てて言った。そろそろ行かなくちゃ、怒られちゃう。
「よかったら、今度ドライブでも行かないか」落ち着いていて、穏やかな彼の声。響く。その微かな振動が心の底を乱そうとしている。それが怖くて、慌てた振りをしたのかもしれない。え、いつ? 今週? 土曜日? 日曜日? ぶっきらぼうに質問した。視点をどこにも置けず、それから彼を見て、それからまたテーブルに目を伏せる。
「今週の土曜日にしようか」
 指定されると、視線が落ち着く。オレは小さく頷いた。もう子供じゃあるまいに、それでも何度か頷いた。
 客がまたひとり去った。扉が開き、また閉じて鐘の音がなる。気が付くと、店内には俺たちだけが残されていた。もう行かなくちゃ、怒られちゃう。わざと腕時計を見る。彼は無言だった。不安になってようやく彼を見る。彼と目が合う。それからまた俯く。
 少し遅れてオフィスに戻った。特に注意は受けなかった。席につこうとしたが何か落ち着かなくて、遅くなりました、と課長に謝った。






 仕事を終え、部屋に帰り着いて一番に腕時計を外す。翌朝また時計を腕にはめるまで、自分はいないも同然なのだと、漠然と思う。そんな日々。続く日々。カレンダーに青いペンで丸をつけた土曜日。漫然と流れてゆく日々に付けた青い印。
 車は誰もいなくなってしまった海に向っていた。カレンダーの数字を青いまるで囲んだ日の秋の高い空から燦々と降り注ぐ太陽光線が風をくぐり抜けて走る車の車体に反射していた。助手席から見える、バックミラーの中でうつろう色と影たち、車はまた別の車を一台追い抜いた。海へと近付いていた。
「いまどき海だなんて」
「きみが行きたいって言ったんじゃないか」岩城正和は笑った。
「一応、言っとかないとね」ちらりと彼を見、それからオレは膝を抱えて助手席の上、丸くなった。転がるように上を向く。だって、カレンダーに印を付けることなんてなかったもの。言いたいけれど言わないでおいた。
「岩城さんは、海は好き?」
 心地よい滑走音と光に埋もれる。振動。胸が高鳴る。約束の日が、やって来たのだった。
「好きだよ…、誰もいない海」
 はっとして彼を見る。真正面を向いたままの彼。筋の通った鼻と唇の線、薄く開いている唇も線を描いている。その向こうには流れる風景。ハンドルとギアを操る彼。休日の服装。車の影が次第に減ってなくなってしまう。アクセルを踏む充実した太腿が、車の振動の中で、不思議な緊張感を帯びて見える。張り詰めた筋肉の盛り上がり、その緊張がこちらまで伝わる。海へと向うまっすぐな道。膝を抱えたまま、オレは体を揺らしてみた。頬を車窓につけてみる。冷たい。
「でも、まだ誰もいない海のほうが好きかな。誰もいなくなってしまった海よりは」岩城正和はいまだ正面に目を凝らしたまま言った。彼の呟きが唐突に響きさえした。ミラーの反射光。溶け込んでしまいたい輝き。
「来年まで待たなくちゃ」少しだけ頭を起こして彼の方を向く。
「待てませんかね」
 子供に問うように言った彼の表情。男が香り立つ喉元の印象に目を奪われる。あふれそうになったオレ。
「止めて」
 急ブレーキ。タイヤの摩擦音。トクン、と胸が鳴る。あくまで冷静な彼の横顔が、スローモーションでこちらに向く。彼は理由すら問わない。停止した景色、停止した時間。まっすぐに続く道の上に止まった車の流線型。いつまでもそこにとどまってはいられない、今にも走り出してしまいそうなフォルム。こちらに向いた彼の顔。くちびるが、色付いている。オレは彼の唇に、いきなり唇を重ねた。呼吸が止まる。鼓動。岩城正和は唇を押し返してきた。
 顔の前に酸っぱくて眩しい白い球体が現れ無限に広がりオレを包んでは痺れさせる。オレはすきとおっている。その不可思議な球体が放つ白い光が肺を満たし肺胞のひとつひとつが様々な音色を奏でる。ため息を漏らしてみたり囁き声をあげてみたりその白い幻惑に名前を付けてみようとかなどと呟き始める肺胞たち。
 体があたたかくて、喉が渇いていた。
 オレはそのまま、彼の肩に手を掛けた。自分の指先が震えていることに、いまさら気が付いた。彼の肩の微かな震えも。もう、あれが硬くなり始めていた。抑えきれなくなって脈打つあれに心臓が血を送る。内腿の付け根あたりの震え。
 ふと薄く目をあけて彼の顔を見た。琥珀色の薄日を背景にした彼の頬骨の輪郭線。瞼の陰。揺れた髪の毛の輝き。彼が欲しくて、体中が脈打っていた。頭の芯まで、血流が昇っていた。
 再び目を閉じて、彼の影に埋もれた。体の温もりが伝わってくる深みに飛び込んだ。彼はさらにこちらにやって来た。狭苦しい車内で、二人は抱き合った。それから急かされるように服を脱いだ。呼吸が乱れ、その呼吸に何もかもが追い抜かれてしまいそうで怖くなり、二人は焦って服を脱いだ。まっすぐに続く道に止めた車の中、すっかり裸になってしまった二人は互いの裸体を眺め合った。そして、神に与えられた組織や器官が織り成す裸体の起伏、出っ張り、くぼみ、先端、それらを撫で尽くし、口にくわえ、味わい尽くした。降り注ぐ陽光が体の表面を削り、二人の裸体は擦れてしまう。皮膚の上に薄っすらと浮かぶ汗と匂い。舐め、嗅いだ。二人はそのままセックスをした。光の中、なんでこれがこんなことに役立つのかと呆れるくらい、体のあらゆる場所を使ってセックスをした。
 セックスをした後、海までたどり着くと午後のいい時間だった。
 今でもあの午後のことはよく覚えている。車を降りて歩いた浜辺の空の高さ。思いのほか静かだった潮騒。近くの道路を徐行する車のタイヤが砂利を踏みしめるきしみ。海へと向う陸風。人目を忍んでそっと触れた指先。
「誰もいなくなってしまった海か…」正和は呟いた。
「うん。だけど海は同じ」オレは水平線の彼方に目を投げ、誰にともなく言った。
 そのときオレは知らなかった。何となく耳にした、例の、タイヤが砂利を踏みしめる音が、あとでオレの人生に関わってくるなどとは。記憶はあやふやなのに、あの音の印象だけは今でも耳に残っている。






 それからというもの何もかもが透明で、うつろう気持ちすらもが透明だった。オレは透き通るものたちに囲まれて暮らすようになった、いつだって囲まれていたかった。調度品も小物入れもフォトフレームも、透明なものをえらんだ。例えば洗濯物を干すハンガー、例えばサプリメントのタブレットを入れるケース。揺すると、カラカラと硬質な音が響く。このまま自分の体もすきとおってしまえばいいのに。そう思っていた。あなたと口づけたあの晴天の午後から。
 ある風のいい昼下がり、玄関の扉を開け放ち、窓という窓を開け放ち、ベランダの扉も開け放ち、洗濯機を回していた。オレの部屋には背丈と同じくらいのガラス窓がある。ちょうど腰から上くらいが開くようになっていて、その下は床までガラス張りになっている。
 玄関から吹き込む風が部屋の空気をベランダへと押し出す。部屋の中に優しいけれどすばやい気流が生まれる。ゆきずりに出会ったオレの部屋の床をさっと撫で、ベランダから遠い空を目指して旅立ってゆく。オレは、風の流れを感じながら、狭い廊下に立ち尽くした。洗濯機の音がなぜか遠くに聞こえる午後。そういえば近頃、洗濯機のネットに掛かる糸クズが青に変わった。ペイルブルーのシーツが増えたから。給水の合間に網から取り出してほぐしてみると、白と青色の糸屑が絡み合っているのがわかった。そう言えば近頃、白い下着が増えた。
 濡れた糸屑が手のひらの上で崩れているのを我を忘れて見つめていた。衣類からはぐれてネットにすくわれた糸。帰り際に玄関で抱きしめてくれる彼を思い出す。でも今は、この午後の幸福感に浸っていたいと思うようにした。
 急に、グラスで水を飲みたくなる。
 そうかと思うと突然に思い立って長年の友人Hに携帯電話からメールを送ってみる。彼は少し頭がいかれている。見た目はいい男だけれど。
「いい天気。今、洗濯中。もしもオレが預金残高と住宅金融公庫の利率ばかり気にするようになったとしたら、それでも友達でいてくれる? 君を差し置いてマンションなんて買っちゃったら、嫉妬する? これからは週に三回はシーツを洗濯します。毎朝カーテンを開けて風を通すし、パンツもプレスします。シュウより」
 送信した後、洗濯機の中でくるくると回る魚のようなシーツを見つめていた。返事がすぐに返ってきた。
「だっさいポエムかいてるヒマがあったらさっさとマンション買いな~。あんたなんて老後はモチひとりだかんね。それからお布団は週に一回、布団乾燥機でダニもイチコロよ~。今日はデート。勝負パンツ選ぶので大変だわ~」
 玄関から差し込む光。ベランダへ抜ける風。給水。外の静寂が聞こえる。メールを返信する。
「もしもオレの全財産がさっき君に贈った詩だけだとしたら? それでも同じ? 春に草原を夢見て冬には凍原に佇む幻想だけを抱いて、それ以外に何もなくなってしまったら? 今年から年賀状も書きます。香典もするってば。勝負パンツってことは、まだくわえてないんだね」
 開け放った玄関から穏やかな休日の風景を見下ろす。マンションの廊下の陽だまり。目を上げる。壁のような青い空。その下に、東へとなだらかな斜面を描く丘。建ち並ぶ家屋。遠くには高層ビル。黄色い太陽の色が地上に染み渡っている。雲。高らかな声をあげたくなる。頭のいかれたHからしつこく返事が来る。
「彼ったらこの前あたしのバキュームフェラで失神してしまったの。今日はヘリコプターフェラよ! もうパンツ選びの邪魔しないで。じゃ…」
 日影になった路上から、キャッチボールの音がこだまする。グローブがボールを掴むときの破裂音のような響き。建物の谷間に反響して空へと吸い込まれる。携帯電話のディスプレイに表示されたHのメールを眺めながら、思わず顔がほころぶ。声に出しては笑わない。あれから、何度も正和に抱かれた。あの午後の彼とのくちづけ。あの日、もしも一人だけで誰もいない海と向き合っていたら、オレは海と何を話しただろう。あのくちづけがなかったとしたら。心がはやる。高らかに声をあげたくなる。あいた手をどこかに置くことが出来ず、腰に当ててみたり、襟足に触れてみたり。耳たぶ、そして頬を通過して自然と唇に。また落ち着かなくなり、携帯電話で頭のおかしいHにメールを打つ。
「もしも僕が、くちづけたときに見えた白い光を信じてそのまま駆け出してしまったら…」
 手のひらの中が電気的に震え、ドキリする。メールを書きかけたところで、ちょうど携帯電話が震えたのだった。正和からだった。書きかけていた言葉が風に流れて消えてゆく。言葉少なに彼と会話を交わし、その日の午後の約束だけをした。
 電話を切ると、すでに洗濯機が止まっていた。
 無音。静寂という名の音。無音と名付けられた歌。風に呼ばれて窓辺へ行くオレ。大きな窓の下のガラス張りの部分が、向かいのビルの色を映して琥珀色に光っている。乱反射。オレは窓から身を乗り出し、そしてそのままその場に崩れて枠に半身をゆだねてしまった。オレは窓辺で彼が迎えに来るのを待った。体をすっかり窓枠にあずけ、両手を遠く遠くへと伸ばしてみた。そして筒を作るように手のひらを軽く握り、その空洞に風を通してみた。頬を肩に乗せて、眠るように、それでも薄く目を開いて見るともなしに眺めていた。何を? 琥珀色の乱反射、その中のぬくもりに埋もれる嬉しさを。
 彼を待つときは、いつも窓辺にへばりついていた。お気に入りのジャズナンバーをかけることもあった。気だるさにためらいを覚える自分を不思議に思うこともあった。ああ、不思議だ。この、琥珀色の液体の中で呼吸をする、かすかな胸苦しさ。言い表せない。
 時々、向かいのビルの壁にスプレーで落書きされた文字を読もうとすることもあった。
 何度も読んだのに、文句を覚えることは出来なかった。
 冬が近付き寒くなっても、彼を待つときは同じだった。くまなく掃除した部屋の窓を開け放ち、風を感じていた。命を投げ打って色彩に息を吹き込む陽光に、瞳を開いていた。
 それからというもの、何もかもが透明で、腕時計すらも透き通って消えてしまった気がしていた。暗闇の中でも秒針がカチカチと音を立てて進んでいるとは、思わなかった。




第二章




 冬を越え、日々気温が上がり、春らしい気候になった。くすんでいた街も色めき始めた。夜のキシミは、聞こえなくなった。ミミズクも、壁から離れてどこかへいってしまったにちがいない。また冬になると、戻ってくるのだろうか。
 あるよく晴れた日、正和に誘われて寝装具の展示会に出掛けた。とあるブランドの新作展示会で、港町の外れの古い美術館を貸し切りにして開かれていた。その美術館は、元々はオランダ人の邸宅だった西洋風の二階建ての館を改装したものだった。この度の展示会では、シーツ、その他の寝装具が斬新な手法で飾られているという話しだった。
 正和とオレは、車を飛ばして丘の上の美術館まで出掛けたのだった。
 空は霞みもなく晴れ渡っていた。平日に休みを取ってきたので、来客は少なかった。美術館の敷地へ踏み込んだ瞬間、そこに繰広げられる光景に目が釘付けになった。
 その美術館には、港の見渡せる広い芝生の庭園があった。庭には特殊なクレーンが設置され、無数のピアノ線を張り巡らせて、シーツやベッドスカート、ピローケースなど多数、吊るしていたのだった。丘の上の庭園を風がさっと撫でると、青空の下、様々な色合いの布地が風に舞う。原色やパステルカラーのやわらかい色が、同じ方向へとひるがえっては踊り流れる。しばらくその光景に見とれた。ふたりで見とれていた。こいのぼりみたいだとオレが言うと、正和は笑った。洗濯物だって言わなかったから、まあ、いいとしとこうか、なんて冗談を言った彼。
「それともほんとに洗濯して干したのかな」などと言い返し、彼の肩に肩をぶっつけたり。二人で風にそよぐ寝装具の下をくぐりながらしばらく歩き、時々立ち止まっては合間に見える海に目を投げた。たまに距離を置き、たまに擦れ違い、二人でしばらく庭園を歩き回った。男女の恋人同士や家族連れも同じように歩いている。人々の顔を眺めながら、オレはきっと、誰よりも得意げな顔をしているにちがいないと思う。自然と顎が上がり、太陽に目を細める。髪の毛の先で風を感じるのが、ひさしぶりな気すらする。
 真新しい季節に溶け込んで立ち尽くしていると、正和が肩を叩いた。
「中に入ろう」
「とてもいい天気。晴れてて良かった」
「もう少しここにいたいか?」
「ううん。また後で。ほら、あっちがオープン・カフェになってるよ。だから後で」
「ああ」それから彼は顎で建物の入り口の方を示した。「入ろうぜ」
 そのときの彼の全体像から繰り出されたあまりに美しい動き。そして彼の仕草の残像。ねえ、正和、もしもオレがこの光の中で消えてしまったら、あなたはオレと知り合う前のあなたに戻れる? ねえ、もしもオレが糸にほどけてしまってシーツに織られたならば、あなたはその上で他の男を抱く? 最近、ほんとに詩人だ。あなたに恋してる。
 オレのことなど気にもとめないで入り口へと向う正和のうしろ姿を見つめる。庭に立ち尽くして見つめる。そのとき、幻覚を見た。ピアノ線につるされた寝装具がすべて、青い空の上空に巻き上げられて竜巻になり、くるくると旋回しながら空の色に融和し、そして透明になって消えてしまった。
 爽やかな風がさっと吹き付ける。
 オレは駆け出して正和の背中を追いかけた。
 肩を並べ、入り口に入る。屋内の方が更に客が少なかった。人影が多いのは新作即売コーナーだけで、展示室の客は少なかった。館内は、邸宅だった名残で小部屋に分かれていた。美術品を展示するように、随所に寝装具が飾られていた。真っ白でシンプルだがさらりとした織りのピローケースがフレームケースに飾られていたり、シンプルな木製のキングサイズベッドにはシーツやブランケット、ピローなどの一式がセッティングされ、ベッドスプレッドの上に、光沢のあるパジャマがしどけなく波を描いて飾られている。さり気なく側に置かれたチェアには、無造作にガウンが掛けられている。
 館内は静かで、時々来客が行き来する足音が聞こえる。客の大半は女性で、靴音はほとんどハイヒールばかりだった。正和は展示品に近付き、ひとつひとつを手に取っては材質の感触を確かめていた。小さな部屋がいくつもあり、それらはすべて寝室に見立てられていた。各部屋には黒服の警備員が背筋を伸ばして立っている。寝装具を見張る警備員の凛々しい立ち姿が、なまめかしくさえ映る。壁の側に据えられたソファにはひざ掛けとクッション。まるでついさっきまで貴婦人がそこに寝そべっていたかのように、封を開けた手紙が飾られていた。正和は、熱心に寝装具を調べていた。時にはスタッフに材質や織りの手法、染め方を質問していた。寝装具にご執心の彼を少し呆れて眺めるオレ。あまりに彼がオレに注意を払わないので、傍まで行って質問した。
「ねえ、正和はどうしてそんなに関心があるんだい?」
 その質問が意外に思えたのか、すぐには答えられず、サテンのシーツに指先を触れたまま、屈み腰の姿勢からオレを見上げて黙り込んでしまった彼。
「なんでだろうな?」と、少し考えてから呟いた。
「正和はあんまり自分のことを話してくれない」オレはわざと唇を尖らせる。もうそんな仕草が似合う年じゃないのだけれど。
「よせよ、こんなところで」彼はサテンのシーツに目を戻した。
 肩をすくめ、少し彼から距離を置いて、それでも彼を眺めていたオレ。
 やがて彼を眺めるのに飽きてしまい、部屋のあちこちを見回した。屋内にいると、煙草が吸いたくなった。どこか吸える場所はあるだろうか。喫煙所を探そうと部屋を出ようとしたちょうどそのとき、部屋の前を二人の男が通り過ぎた。なぜだか、その二人連れの男に目を奪われた。なぜだろう? 部屋から出て、男たちが歩いていった方向を見た。同じような背格好の男が二人、微妙な距離で並んで廊下を渡ってゆく。その肉感的な歩行。膝が折れ、ふくらはぎが上がり、爪先が前にスッと伸び、踵が床をコツリと叩くまでの滑らかなモーション。連続して繰り出される男たちの歩行のかおり。ふたりの後ろ姿に目を凝らし、小首を傾げるオレ。腕組みをし、肩を壁にもたれてそっと後ろから見守った。何か、引っ掛かった。なんだろう。わからない。オレはゆっくりと歩き出し、二人が向かっていったほうに歩き出した。喫煙の欲求も忘れ、寝装具にご執心の正和のことも、頭から離れてしまっていた。廊下をまっすぐにゆくと、吹き抜けの広間にたどり着いた。二人がいない。左右を見回した。あの二人がいない。はっとして上を見上げると、ちょうどあの二人の男たちが、階段をのぼり終えて二階の展示室に入る姿が目に入った。呼ばれるように、階段に近付き、一段目に足をかけたオレ。なぜだろう。手摺を手のひらでそっと撫でながら、ぬすっとでもあるまいに忍び足になって急な階段をのぼっていった。階段をのぼるうちに軌道が逸れ、手摺から離れ、今度は壁伝いにそうっと、のぼっていった。背を壁に向けて階段をのぼり切り、そっと入り口から室内をうかがった。そうっと、動きを殺してうかがった。
 そして、そこに広がる光景に息を飲んだ。






 海棲生物の群れの戯れのような光景だった。
 二階の展示室に足を踏み入れたときの驚き。目を奪われ、しばらく立ち尽くしてしまった。淡い色に染められた無数のシーツが、広い展示室の天井からつるされていたのだった。シーツは広げて吊るされていた。視界はすべてシーツで埋め尽くされ、森林のようだった。おそらくそれらのシーツは洗いざらしで、皺の風合いを残したまま、広がった裾が床に届きそうなほどの低さに吊られていた。上を見上げると、やはりピアノ線による細工だった。空調が起こす微風に数知れない魚のヒレが揺れては触れ合っているようだった。他に人影はなく、先ほどの男二人の姿も見えなかった。ぶらさがっているシーツに隠れているのか。
 あの二人はどこへ行ったのだろう。展示室の全体像に目を凝らしていると、向こうの方でシーツが大きく揺れているのがわかった。そちらから、ひとりぶんの足音だけがかすかに響いた。あの辺りを歩いているにちがいない。
 足音を忍ばせて、そちらに近付いた。シーツの隙間をすり抜けてそちらを目指した。あちらで確かに布の裾が揺れている。けれども人影は見えない。自然に足早になり、オレはシーツをかき分けてそちらに向う。空色、生成り色、東雲色、スカイグレー、ライラック、オフホワイト、様々な色の魚のヒレをかいくぐってゆく。意外に重量感のある布を手で払いのけるうちに背中に汗が浮く。呼吸が荒くなり、ザッと音を立てて両手でかき分けてしまうほど気が急く。またひとつ、またひとつ。そして突然の行き止まり。白塗りの壁が見えた。
 振り返ると、自分の手でかき分けたシーツがゆらゆらと揺れている。オレが通ってきた跡が、なんとなく道を描いていた。
 そして、その隙間を、二人の男が横切るのがはっきりと見えた。肩で呼吸をするオレ。どうしてオレはあの二人の男に心を奪われるのか。二人とも、同じように日に焼けていて、ひとりはリムレスの眼鏡を掛けているのが一瞬で見て取れた。
 不思議なのは、足音がひとりぶんしか聞こえなかったこと。そのひとりぶんの足音も、非常に抑制の効いたものだった。オレはいちばん近くにあるシーツに手のひらを当て、しばらく立ち尽くして足音に耳を凝らしていた。どちらへ向っているのか。
 そして再び、足音を殺して彼らを探し始めた。オフホワイト、またオフホワイト、ペイルブルー、イエロー、生地の風合いの違うイエロー、魚の浮き袋のように膨らんだ白。まるで迷路だ。足音が館内にこだまし、彼らが今どの位置にいるのか見当もつかなくなる。オレは方向を失い、染められたシーツの迷路で行きあぐねる。肩で呼吸。鼓動が早くなっている。背中のシャツが濡れている。知らぬ間に額に汗をかいている。額の汗は滴になって眉毛を濡らす。わからなくなって、あちこちを見回す。眉の汗が瞼に伝わり、睫毛を濡らし、目に入った。目を閉じて俯き、手の甲で汗を拭う。目を擦りながら、くるりと振り返る。
 心臓が止まるかと思った。リムレスの眼鏡を掛けた方の男が、そこに佇んでいたのだった。
 目を見開き、息を飲み込んでかたまってしまったオレ。そして短く息を吐き出した。その呼吸がやけに大きく聞こえたが響きはしなかった。
「驚かせたかな。悪かった」
「いいえ、こちらこそ」何とか答えたオレ。男から、目が離せなかった。
「目を擦っていたからどうしたのかと思って」男は目を伏せている。
「何でもないです。汗が目に入ってしまって」
「最近、急に暖かくなったからな」
 そう言うと、男は急に目を上げてオレを見た。目が合った。眼鏡の奥の眼差しは冷たくて、澄んでいた。怖くなって目を逸らし、彼の唇に目をやった。それからその下の頑丈な顎に視線を落とし、シャツからのぞく喉仏、逞しい体を思わず眺めた。更に下へと目を這わせ、アノ辺りの膨らんだ感じを盗み見、そのついでのようにスウェードのデザートブーツを履いた足元まで目を落とした。オレはハッとした。
「足音が…、全然聞こえませんでした」
「猫と長年暮らしていると、そんなふうになるものさ」
 男は穏やかな声で言い、無感情な微笑を浮かべた。その笑みの中の眼差しに戸惑いを覚える。どうしていいものやら困っていると、足音が近付いてきた。もう一人の男がやってきたのだった。
「どうした?」
「いや、猫の話さ」
「また猫の話か。コイツは猫の自慢話が好きでな」もう一人の男が、オレに言った。今まさに割り込んできたとは思えないくらい、自然に。二人はほとんど同じ背格好だったが、眼鏡の男のほうが少しだけ背が高かく、少しだけ年下のように見えた。オレはどうしていいかわからず、いちばん近くにあったシーツに救いを求めた。洗いざらしの肌触りのいい木綿に手をかけ、目を伏せていた。今は足音を潜めてしまった男の視線を首筋に感じる。それだけじゃない、さっきオレが眼鏡の男を眺めていたように、男はオレを舐めるように見回した。ちらりとだけそちらに目を向けると、やはり目が合った。眼鏡の男と似ている目だった。だが何か違う。獣のような、そして憂いのある目だった。
 二人の男の視線にさらされたオレ。同種だが温度のちがう視線に囲まれてぞっとしたが逃げ出そうとは思わなかった。
「シュウ」
 そのとき、正和が入り口からオレを呼ぶ声が聞こえた。オレは二人を交互に眺め、それから慌てて返事をした。
「すぐ行く」
 そう言ったのだけれど、なかなか二人から目が離せなくなり、時間にするとほんの二、三秒だったかもしれない、彼ら二人を見比べていた。
「それじゃ、連れが待っているので」俯いて言い残し、オレはまっすぐ正和の声の方へと向っていった。ケモノ道を抜けるように。背後にまだ視線を感じながら。
 正和は入り口のところでオレを待っていた。シーツの湖を抜け、一度だけ振り返えると、彼らの姿はもう見えなかった。
 あやしまれるほど正和と肩を並べて、階段をおりた。もう振り向かなかった。それから、庭の見渡せる部屋へ行った。バルコニーに近付くと、急に雨が降り始めた。日は差しているというのに、雨が降り始めた。庭に展示された寝装具は濡れて重くなり、ムクロのようにぶらさがってしまった。その光景を呆然と眺めながらも、どことなく例の二人の男が引っ掛かっていたオレ。記憶の中に何かが浮かび始めたが、つかみとって開くことは、出来なかった。






 晴天の空から降りそそいできた輝く雨粒が、次第に曖昧になってきらめきを失った。雨雲がやってきて、空が暗くなったのだった。オープン・カフェは止めにして、美術館をあとにした。急に降り始めた雨にあわてる街。雨足は次第に激しくなり、それから一定の強さを保って街を打ち続けた。港の方へ車を走らせ、早い時間からやっている酒場へ行った。駐車場がない店だったので、少し離れた場所に車を停め、雨の中ふたりで店まで走っていった。ブルーグレイの空の下、ジャケットで頭の上を覆ってふたりでかけっこをした。時々、互いを見ては笑い声を立てて走った。気温は急に下がった。
 店に入って、まだ夕刻だというのに酒を注文した。正和は運転があるので酒は遠慮した。店はにわか雨に足止めをくらった人々で既に混雑していた。早い時間から、アルコールが出始めていた。客たちは、驟雨に小言を言うわけでもなく、中には、雨は長引くだろうとのんきな予測をする者もいた。オレたちは、壁際のカウンター席に隣り合って座り、湿った空気の気だるさに浸っていた。濡れたジャケットを椅子の背に掛け、ビールとレモネードを飲んでいた。
 湿度のせいか、酒を飲むと頭が重くなった。体だけ熱くなり、濡れたつま先は冷たいまま。オレはビールをあおった。店の音楽は、うるさいほどではないが低くはなかった。隣りの客が、旅行の計画を話し合っているのがようやく聞こえた。
「旅行にいくとしたら、正和はどこがいい?」オレは質問のあと、グラスを口に運んだ。
「そうだな。南の島のビーチでのんびりするか、それともNYとか。いつか二人で旅行に出かけれたらいいな。シュウはどこに行きたい?」
「オレは一度でいいから、高い高い山の頂上に行きたい。空気がきれいで、冷たくて、空に近いのに足が地に着いていて。雪があって、太陽があって」
「お前、時々おもしろいこと言うな」正和は、穏やかな目で笑った。
「欲張りかな」オレは笑った。顔が引きつったような気がした。
「そうじゃなくってさ」正和もつられて笑った。「突拍子もないこと言うよ、時々」
 彼の言う意味がよくわからず、けれどもどうでもいいような気がした。オレはビールを飲んだ。体がかっと熱くなり、肺がしぼむほどの吐息が出る。正和は何も言わなかった。あれもこれも欲しいんだ。手に入らないものほど欲しくなる。グラスに残ったビールを飲み干し、ため息、頭が回り始める。
「ねえ、正和は猫を飼ったことがある?」脈絡もなく、尋ねた。
「なんだ、急に。ないな。うちは動物を飼わせてくれなかった」
 彼はあまり興味を示さなかった。店の中を見回す。何だか照明がやけに黄色い。酒をもう一杯注文しようかと思ったが、誰に言えばいいのかわからなくて黙ったままでいた。何か喋らなくちゃ、と感じて正和のほうを向いた。
「オレのうちは犬を飼っていた。犬はいつもはしゃぎ回って、オレも一緒になって走り回っていたっけ、あの頃。犬が年老いて急に衰弱して、それからはあまり走り回らなくなった。穏やかに死んだらしいよ、犬。就職してから二年目くらいに、母から電話があった」
 正和はこちらを見ていたが何も言わなかった。聞いていなかったのかもしれない。オレは続けた。
「父の墓の脇に埋めてあるんだ。父は、オレが二十歳のときに死んだ。正和の両親は?」
「ん? 元気だよ」
「兄弟はいるんだっけ?」
「妹がいる」
「全然知らなかったな」
「そうか?」
「なんだか、人の家族って、想像がつかないんだ。自分ちとは違うんだろうな、くらいにしか」
 正和はもうオレの話しに興味を示さなかった。彼の端正な横顔を見つめる。口を噤んでしまった彼。肩に触れようかと思ったが、指先が跳ねただけで手は動かず、曖昧に自分の太腿の上で握ってしまった。ねえ、正和、あなたはオレと知り合う前、どんなだったの…。
 呟こうとした瞬間、言葉を遮るように扉が開く音がした。新しい客がやって来たのだった。いまやクラクラし始めた頭でそちらに目をやる。
 あの、二人の男だった、丘の上の展覧会で出会った。
 二人ともやはり雨に濡れていて、黄色い照明の下、肌の褐色がぬめるほど生々しく映った。脱皮したばかりの両生類を思い起こさせる。二人の男たちがカウンターに近付いたので、オレは顔を背けて隠した。彼らはオレたちの後ろを過ぎって店の奥のテーブル席に座った。カウンターより一段低い椅子。オレはふたりの方を盗み見た。
「ねえ、正和、猫を飼ったことはある?」
 同じことを二度聞いていると、わかっていた。正和がそれを指摘するだろうことも。
「いや、ないな」
 指摘しなった正和の顔を疑うように凝視する。それから酒を求めてグラスに手を伸ばすが中が空だとわかって手が震え、グラスを倒してしまう。
「どうした? 顔色が悪いぞ」怪訝そうにオレを見る正和。
「なんだ、急に黙って」と、正和がも一度問う。
「ねえ、あのふたり…」オレはカウンターの下で正和の手を取り、目でそちらを示した。「どこかで見かけたことないか?」
 寒気がして背筋がぞっとした。正和の手が冷たかったのだった。例のふたりの男は似たような背格好で、髪の毛をきれいに刈り込み、同じ肌の色をし、無精髭を生やしていた。よくよく観察すると顔立ちは違うのに、表情から似通ったにおいを滲み出していた。だけど何かがちがう。
 しばらく考えたあと、正和は言った。
「ああ、確か展覧会の駐車場で見かけたな。ちょうど俺たちが帰るとき、彼らも車に乗り込もうとしていたんじゃなかったっけ」
「そうじゃなくって」オレは正和の手を強く握って訴えた。揺れる頭を振りながら、こめかみに指先を当てた。「どこか別の場所で、もっと前に」
「知らないな。かんちがいじゃないのか」
 苛立つオレ。目を閉じて軽く首を横に振った。いつだったろう…。思い出せない。それからオレは再び二人の男に目を戻した。そしてそのときやっと気付いた。二人がこちらを見ていることに。オレが二人に気付いていることも、見透かしているのだと言いたげな表情だった。
「出よう」気持ちのざわめきが抑制を越えた。オレは正和の手を握ったまま席を立った。そして彼には何も説明せず、土砂降りの中、店を出た。
 ろくすっぽ説明もしなかったのに、理由を問わなかった正和。オレに手を引かれるまま、冷たい雨が降り注ぐ暗い夜道に付き合ってくれた。彼が何も尋ねないことに安堵しながらも、不安が過ぎり、肩で呼吸をする。彼のほうを振り返ることが出来なかった。本当は理由を尋ねられたかったのかもしれない。二人は車を停めた場所を探して無言で歩いた。降りしきる雨の音。冷たい雨の中で彼の手が温かく感じられる。頬を伝う雨が唇の隙間に侵入する。彼の手を強く握る。
 突然、オレは立ち止まった。膝が震えるほどに。
 それから、彼の顔をまともに見ることが出来ないのにくるりと踵を返し、冷たい彼の体にしがみついた。それでも理由を問わない正和。オレは彼の体を抱きしめたままひと気のない細い路地に追いやった。もつれる体は、それでもまだ冷たく、降り注ぐ雨も冷たかった。オレは無言で彼の唇をふさいだ。彼の背中がコンクリートの壁にぶっつかり、歯がかち合う。貪るようなキスを浴びせたオレ。顔を流れる雨が唇の隙間に侵入し、唾液と混ざり合ってぬるくなる。水と溶け合った唾液が口の端からすっと糸を引いて顎まで落ちる。
 彼は、オレの背中に腕を回した。そして体を入れ替え、今度は彼がオレを壁際に追いやった。彼の顔が目の前にある。しばらく見つめ合った。目に雨が入り、それでも見つめ合った。今度は彼が、そっとオレに唇を重ねて来た。独り言を呟くようなキスだった。ため息が漏れる。二人はもう言葉を捨て、より暗い暗がりを求めて壁を転がった。下着までずぶ濡れになっている。体が反応して熱くなる。酒のせいなのか口づけのせいなのか脳細胞が溶解している。勃起したふたつの性器を濡れた布越しにすり合わせる。その刺激がニューロンを伝って役立たずの脳細胞まで走る。彼がオレを求めている。その気になっている。
 求められると、混乱する。自分が相手を求める情熱はもれなくわかるのに、相手が自分を求める理由が謎になる。
 腰と腰を強く合わせた。それだけで、弾けそうになる。
 正和はオレの濡れたシャツをたくしあげ、その中に潜り込んで胸を吸った。壁に体重を預けてしまい、足を開いて彼の体を挟む。シャツの上から彼の頭を抱きしめ強く引き寄せる。彼はオレの股間を掴み、それからジッパーを下ろしてペニスの先端の粘膜を濡れた手で掴んだ。そのときのあたたかさ。性器が脈動し、先走りが尿道からあふれるのが自分でもわかる。のけぞると、後頭部を壁にぶっつけた。シャツの中で体をなめられるのがもどかしい。ボタンをひとつひとつ外すなんて、やっていられない。だるま落としなんて一度に叩き落してしまえばいい。もどかしくて、自分で頭を壁にぶっつけた。何度も何度もぶっつけた。
 どこかで落雷があった。一瞬の閃光が辺りを照らし、オレは驚いて目を見開いた。そのとき、道のずっと向こう側に二人の男の影を見た気がした。すぐに暗くなってしまい、ふたつの影はまた闇にのまれた。落雷は遠かった。時間を置いて聞こえる雷鳴の低い轟き。その低音とシンクロするように性器の先端を包む唇と舌の感触。オレは反射的に彼の髪を掴んだ。それから暗い空を仰ぎ、顔面を雨に打たれながら、恥ずかしげもなく声を漏らした。ふたつの影など、もう気にしていなかった。ただ、やられたいだけだった。
 それからあと、車の中でやった。高速道路の脇に車を停めてもう一度やった。激しくファックした。雨は相変わらず激しく、フロントガラスを叩いていた。雨粒がワイパーにかき集められては水になって流れてゆく。正和のマンションについて、またやった。シャワーも浴びず、それでも濡れた体を押し付け合い、素っ裸になってやった。ぶちこまれるときの痛みが足りず、もっと欲しいとせがんだオレ。お前がいとおしいと言った彼。キスをするような独り言を、オレは聞きもせずにただただねだった。
 やれるだけやったあと、彼がオレを車で部屋まで送ってくれた。もう明け方で、雨は上がっていた。裸の上に、彼のナイトガウンを羽織ってオレは車を降りた。春が来て一度は返したのにまた借りることになった彼のナイトガウン。オレは湿った服を脇に抱え、彼の車のテールランプが紺色の空気のなか遠ざかって見えなくなるまで、道に立って見送った。
 翌日から、春らしい気候が続いた。朝ひえこむことがしばしばあったが、例年並の春らしい気候だった。昼休みには正和と食事をし、会社帰りに一緒に出かけることもあった。けれども電話をすることはなかった。彼と会わない夜は、彼が貸してくれたナイトガウンをまとい、まだ冷たい床に伏せて目を閉じていた。彼のにおいを、感じていたかった。床に耳を押し当てて、静けさに耳を澄ませることもあった。






 舐めるのが好きじゃなかった正和が、自分から口を開けて舐めるようになった。そう感じたのは、あの雨の晩かもしれない。キスも、深くなった。唾液を交換するほどに。性器の、あのくびれのところに唇をあて、その周辺のくぼみ、かさの下の、皮膚組織と粘膜の境界線を唇で強く包む。そしてオレの方からは見えないオレのアノ部分、尿道から睾丸、肛門の方へと繋がる線、人間の中心に描かれた線の、赤紫に色付いたヒダのような筋を舌で往復させる。そして今度はその筋を唇で挟むように、顔を横向きにして首を振り、甘い蜜を啜るように音を立てる。どこもかしこも、舐め回すようになった。尻の穴の周辺も、もっと奥のやわらかいところも。すっと舌の先を差し込み、くるりと円を描いて抜く。それを繰り返す。オレはやらせるがままにして彼に汚いものを舐めさせ、その代償として好きなだけ体をくれてやる。
 彼に会えないある日、確か真夜中近い時刻だったと思う。急に思い立って写真を捨てた。過去の男たちが写っている写真や、自分の写真も捨ててしまった。ぜんぶ捨ててしまった。誰の顔からも解放され、自分の過去の顔すらも忘れられた気になった。その喪失感と同じ音階で思った。別れた男たちが本当の意味で自分の記憶の一部になったのだと。
 過去の男たちの写真を捨てたからといって、正和だけにすべてを捧げるつもりだったかというと、そういうわけではなかった。彼に会えないとき、大抵は夜、寝る前か、もしくは休日の朝に覚めたとき、他の男のことを思うことがある。もう別れてしまって行方知れずの男の場合もあれば、単に思い焦がれていた男のこともある。時には、憎んでいた男を想像することもある。毛布を頭からかぶって横に伏し、自分で自分の体を撫でる。時に激しく引っかくこともある。急に動きを止め、眠りに落ちそうになるほどじっとしていることもある。男のあらゆる部位を口に含むことを空想し、舌の先を上顎の裏や前歯の裏に這わせる。自分の口の作りがどんなになっているかを確かめる。憎んでいた男に口をふさがれる様子を想像する。それから、ペニスの先をもみしだき、膨れ上がった亀頭を手のひらで包む。正和なんかいなくても、ひとりでじゅうぶんに濡れるのだとわかって自惚れる。彼に会えないとき、オレは自分で自分を抱く。






 ナイトガウンの裾を踏んで、バランスを崩した。立ち上がろうとしたときにガウンの裾を足で踏んづけてしまい、よろめいて転びそうになった。縫糸が切れる鋭い音が部屋に響き、鼓膜を逆撫でした。その瞬間に脳裏に蘇った幻影。その音で、思い出したのだった。
 目を覚ましたのは明け方だった。悪夢を見て目を覚ました。夢の中で、オレは古びたアパートの一階の部屋に引っ越したばかりだった。ダンボールを積み上げたままの部屋の窓を開けると、強風でカーテンが窓の外へと膨らんではひるがえった。大家は太った年増女で、その未亡人の娘ふたりが楽しげに歌いながら、オレの部屋の窓辺までやってきた。それからオレの許可も求めず生成り色のカーテンを、お下げ髪をほどくようにしてほぐし始めた。娘たちはけらけらと笑いながらカーテンをほぐす。色褪せた布地から乾いたホコリが舞い散り、カーテンの裾の部分から極彩色の紐が出てきた。それを見ているだけで吐き気をもよおしオレは夢の中の部屋のベッドに横たわった。あの、黄色や赤や緑の原色の組み合わせに気分が悪くなった。たわむベッドに横たわり、体をこごめていると、なにやら大きな、男の体躯のような人形が部屋に突然あらわれ、オレの体の上にのっかかって来た。人形は腕を回して絡みつき、オレを羽交い絞めにしてキュウキュウと締め付けた。人形の素材は高密度のウレタンで、オレがもがけばもがくほどますます体に密着する。オレの表面の穴がふさがり、皮膚呼吸が出来なくなる。ぴったりとくっつき、形を変えてはどんなクボミにも入り込んでこようとする。逃れたかった。オレは人形の肩口に噛み付き、高密度のウレタン素材を吸い込んだ。すると、口の中に弾力のあるウレタンの塊が侵入して来るのだった。ますます呼吸が出来なくなる。それでもオレは吸い続けた。飲めば飲むほど人形が小さくしぼんでゆく。飲めば飲むほど、オレの中が膨らみ窒息しそうになる。
 そこで、目を覚ましたのだった。目を覚ますと、息が荒かった。歯をくいしばっていたのか、歯が痛い。
 頭を振り、ベッドから起き上がった。何とか起き上がれた。キッチンへいってグラスで冷たい水を飲んだ。一気に飲み干した。もう一杯、飲み干した。しばらく呆然としてしまった。明かりもつけず、右手にグラスを持って呆然としていた。それから再び部屋に戻った。背丈ほどある大きな窓が、夜明けの色に染まり始めていた。少し肌寒かったので、ナイトガウンを羽織った。あの日の明け方、正和が貸してくれたままの絹。羽織るときのシュッという音。呼吸が楽になる。肌寒さが心地よくなる。足の裏の冷たさがいとおしくなる。そのまま冷たい床に座り込んでしまったオレ。尻と太腿、足の裏の面積で冷たさを味わった。
 朝まであと少し時間がある。中途半端で曖昧な時刻だ。鞄の中にしまったままの携帯電話。ボタンに触れるときの感触を思い出す。電気信号化された彼の声を思いだす。思い出しながら、伏して床に頬を押し当てた。床から見上げる明け方の部屋。カーテンレールに掛けた透明なハンガーが、ガラス細工のように見える。さっきの悪夢が遠ざかる。夜明けの色に包まれて。まだ暗いけれど、暗闇は空へと向かってろ過されてゆく。空腹を感じた。冷蔵庫にハムがあるのを思い出した。けれどもすぐには立ち上がれなかった。何日間か冷蔵庫の中で忘れられていたハムの冷たさを想像した。水が欲しくなる。ようやく立ち上がる気になった。腰をあげて最初の一歩を踏み出そうとしたとき、ナイトガウンの裾を踏み付けて転びそうになった。
 裾がピンと張りつめ、縫糸が切れた。その音。
 はっとした。
 暗闇の中、ミミズクがオレの方に飛び込んでくる幻想を見た。
 そして、続いて視界に広がった真っ青な空。
 すべてがフラッシュバックする。正和と最初に口づけた晴天の日、誰もいなくなってしまった海までドライブに出かけたあの午後。ふたりで波打ち際を歩いているときに聞いたきしむ音、車のタイヤが砂利を踏みしめる音。
 それで、オレはすべてを思い出した。海岸のすぐ側に停めた車から男がふたり降りた。気付いてはいたけれど、意識はしていなかった、その時は。二人の男はオレたちから少し離れた海岸線を歩き、波打ち際をゆっくりと歩いていた。時に立ち止まり、水平線の彼方を眺めていた。二人の男は互いに目を向けず、他人のように波打ち際を歩いていたかと思うと、同じ方向を眺めたり、時にはわざと同じ方向を見ないでいた。二人にはどことなく似通ったところがあった。気付いてはいたのだと思う、正和に夢中で、意識していなかっただけで。
 そのときの二人が、寝装具の展覧会で出くわした男たちだと、今わかった。縫糸が切れるときの音で、すべてを思い出したのだった。
 オレは呼吸も忘れ、中途半端な姿勢で部屋の中央に立っていた。目を閉じ、そのときの光景を思い出そうとした。首を振る。きっと、オレの思いちがいだ。呼吸が短くなり、息が上唇と下唇の間をすり抜けるふっという摩擦音が響く。オレは正和に借りたガウンの襟をかき合わせ、その姿勢で立ち尽くしてしまった。
 まさか。
 いや、あっても不思議じゃない。あの時は正和しか目に入らなかっただけで、あそこにいたのはあの二人かもしれない。だったら、何なんだ? その程度の偶然、あり得なくはない。
 考えは膨らむばかりだった。何もかもが謎に思えてしまう。時計を見る。時間は経っていない。部屋がほんの少し明るくなっている。わからなくなる。本当に、偶然なのか。何かが仕掛けられているような気がした。自分の手の届かないところで、何かが操られている気がした。
気になったのは、誰もいなくなってしまった季節外れの海岸に、なぜかあの二人がいたかということ。気になったのは、オレ自身、二人が本当にいたのか確信を持てなかったこと。
 気がつくと、朝がやってきていた。まだ時間はある。少し眠ろう。そう思ってベッドに伏してみた。眠れなかった。また立ち上がってキッチンへいき、グラスに水をついでは飲み干していた。何杯飲んでも、喉の渇きがおさまらなかった。ウレタン素材が喉になだれ込んでくる感触が、喉に付きまとっていた。
 裸になってシャワーを浴びる。いつもより体を強くこする。気が狂ったように肌を擦る。頭を思い切り振って水分を壁に撒き散らす。
 シャワーを終えて、体を拭く。部屋に戻って、ゆっくりと服を着る。ベッドに腰掛けてワイシャツに袖を通し、ボタンをひとつひとつ丁寧にとめる。そしてネクタイをきゅっと締めて立ち上がる。ふとベッドを振り返ると、浴室へ行くときに無造作に脱いだガウンが崩れている。どうしていいものやらわからなくなり、くしゃくしゃにまるめてクローゼットに放り込んだ。
 スーツを着てこまごまとした身支度を整える。出勤時刻ぎりぎりまで時間をかけて支度をする。部屋から外へ出ると、やけに眩しかった。その眩しさの中の白い霞。そこをすり抜けて、いつもと同じはずなのに、何か違和感のある道を、何か釈然としないまま通って駅までたどり着き、電車で出勤した。
 白い霞みの感覚は、デスクに座ってからも続いた。PCを立ち上げるときの駆動音に吸い込まれそうになる。あの二人のことを強く考えていたわけではない。眠気が続いていた。ぼんやりとした感覚の中、しばしば鋭い覚醒が訪れる。何かがわかり掛ける。けれども何にもひらめかず、一定のトーンの眠気から抜けられなかった。
 その日も、正和と一緒に昼食をとった。いつもより喋った気がした。一瞬、言葉が途絶えると、漠然とした不安が胸を過ぎった。隙間を埋めようとしていつもより喋った。心のヒダに引っ掛かった気持ちを言葉に出来ず、それでも喋り続けた。最後まで、正和には何ひとつ打ち明けられなかった。悪夢のことも、糸の切れる音も、そしてあの二人の男と海辺の風景。 
「古い書類の整理していたら、入社して間もない頃にやりとりした英文メールのコピーが出てきた」
 昼休み、いつもの場所で正和と昼食をとっていた。木調の薄暗い店内にコーヒーの香りが立ち込めていた。掛け時計の音が聞こえた。なぜかこの店はいつもそれほど混雑せず、来客たちも物静かだった。ここのところ晴天が続いていた。薄暗い店内にいながら、時折、外の光の眩しさに思いを馳せて身が竦む。昼休みの会社員達が、上着を肩に担いでゆっくりと歩いている光景が思い浮かぶ。寝不足のせいだろうか、集中力散漫だ。オレは話を続けた。
「ジェーン・ニコルソンという女性がやりとりの相手だった。とても几帳面で厳しい人だったな。文章もきちっとしていた。彼女から来たメールは全部プリントアウトしてファイルしておいて、終業後に彼女のメールをそっくりそのまま写して英語の練習をしていたものだ」
「転写していたのか、そのままそっくり?」正和はいつも通り、フォークとナイフを上手に使って食事をしていた。正和はいつも、いつもの彼だ。彼の手元に目を伏せたまま黙ってしまっていたオレ。あわてて続きを話した。
「そう、彼女の英文をそのまま盗むのがオレの勉強だった。不思議なことに、彼女が使っていた表現はいまでもよく使うんだ」
「へえ」
 興味を示しているのか、この人は。それでもオレは話を続けた。
「メールのやり取りをしているうちに、彼女はよく彼女の身辺にふれるようになった。ロスの郊外の海岸沿いの家に住んでいて、夜の静けさの中、床に仰向けになって背筋を伸ばしていると、波の音が聞こえて来る。耳を澄ましていると、波にさらわれてしまいそうな気がした、なんて言ってたかな。波のざわめきがオレの耳にまで届きそうだった、あまりに文章がきれいで。オレもよく自分について話したな。色んなことを書いた。大抵はごくありきたりな天候の話しや、映画の話しだったけれど。ある日、彼女の上司が来日したときに言ったんだ。彼女は気性が激しくていつも苛々していて、特に出勤時に交通渋滞に巻き込まれたときなんか出社するやいなやわめき散らしているのだけれど、パソコンを立ち上げて君のメールを読むと、穏やかになるんだよ、って。君は猛獣使いみたいだ、って。オレは彼女のことを詩人だと思っていた。周囲からはブルドーザーみたいなキャリアウーマンだと思われていたらしいけれど」
 正和は楽しそうに笑った。オレも付き合って少し笑い、それから言った。
「最近は、あんなふうに自分のことを書いたりしなくなったな。ジェーンも辞めてしまったし」
 正和は話しに口を挟まなかったけれど、食べる手を途中で止めてじっと聞いていてくれた。オレが話し終えると、しばらく会話が途切れたきりになってしまった。掛け時計の音が近くに聞こえる。
「正和は図面をひいていて楽しい?」オレは尋ねた。
「ああ、楽しいよ。そりゃあ、気が乗らない仕事だってあるけれど、二次元の中で立体を描いて、それがいつか、PCから抜け出して目の前で形になるのは本当に楽しい」
 そう言った彼を見ていると自分の顔が綻ぶのがわかる。それから急に、なぜだか淋しくなる。
「オレはどうして今の仕事を選んだんだろう。いや、選びはしなかったな。今の職場に配属になって、何となくそのまま続いている。二十歳のときに父が死んで、大人の男としてアドバイスを求める相手がいなくなった。母には、逆らわなかったな」
「二十歳の時にお父さんがなくなったって言ってたよな」彼がオレの顔を見ているのがわかった。
「覚えてる?」
「ああ、お父さんのお墓の脇にわんちゃんの骨も埋めたって」
 オレは力なく笑った。
「死ね死ねと思っていたら、本当に死んじゃった、お父さん」
 それでまた、会話は途切れてしまった。眠気。コーヒーの香り。オレは俯き、正和の目を盗んでシャツのボタンがちゃんととまっているか触れてみた。最近、ボタンが気になって仕様がない。家を出るときに丁寧にボタンをとめる。それから、会社に着いてからも四六時中、気にしている。特に誰かと差し向かいのときは。ネクタイの下に手を忍ばせてボタンを確かめる。袖も同様に。気にし始めると、気になって仕方がなくなる。オレは言った。
「もしも、あの噴水のところであの日出会わなかったとしたら、オレたちはお互いを知らないまま同じビルで働いていたのかな。お互いがどんな仕事をしているかも知らずに」
「どうした? 最近、疲れているのか?」彼が俯いたオレを眺める。見られているのがわかると落ち着かない。彼は続けた。
「今週あたり、ドライブにでも出かけるか? それとも泊まりで旅行でもいいぞ」
 オレは自分でもわかるくらい笑顔になる。自然に浮かんだ笑顔を、自分で膨らませた。オレは言った。
「山がいいな。日光でも箱根でもいいから山。頂上までいかなくても山がいい。少しでも空に近づければ」
「日光だったら紅葉の季節がいいんじゃないか?」
 正和が、他意なく言ったのだと、わかっていた。
 けれども急に、気が滅入った。口を半開きにして呼吸を失い、目をそらした。それから肺に残っていた息を吐くと、背中が萎んでしまった気になった。
「枯れ木なんて見たら、死にたくなってしまう」
 再び会話が途切れる。どうして途切れてしまうのか。そう思っただけで苛々する。正和が聞こえない振りをしていることすらも気に喰わない。
「死にたくなるよ、枯れ木なんて見たら」オレはもう一度繰り返した。訴えるように。
「死にたいなんて言っているうちは、人は死なないもんさ」
 優しい彼。だけど、ちぐはぐだ。笑っちゃうくらいちぐはぐな彼。本当に死にたい気持ちになる。この人は、どれだけ時間をかけてもオレを理解することはないのだと。
「少し距離を置きたい」呟いた。
 長い沈黙があった。頭の中、晴天ののどかな昼休みの光景が過ぎる。
「どうした? そんなに深刻に思いつめていたのか」
 首を横に振る。バカだな、オレ。距離を置きたい、だなんて。自分までちぐはぐで笑いそうになる。縮まらない距離を嘆いていたのに。
「何でも言ってくれ」
「ごめん。なんでもない。ちょっと睡眠不足が続いていて、疲れていただけ。今まで通りだから、さ。今週末にゆっくり眠ったら、たぶんまた元気になれると思う」
 こっちこそ気付かなくてごめんよ、と言った彼。オレも何とか微笑を浮かべることが出来た。彼も微笑んだ。ちぐはぐな二人は、微笑だけを頼りにしていた。
 それからもオレたちの関係は、同じように続いた。それから、日々、気温が上昇した。散ってしまった桜のことなど、誰もが忘れ去ってしまっていた。人々は既に、夏を語り始めた。そうかと思えば、急に気候が不安定になることもあった。日曜日だったか。しとしとと小雨が降った。買い出しに出かける途中の道端、アジサイの葉にのった雨粒が、ようやくバランスを保って落ちずにいるのを眺めていた。じっと眺めていると、やがて大きな水滴になって葉から落ちてしまった。






 それからも悪夢は続いた。いつも同じ光景だった。
 古めかしいアパートの一階なのに、光には満ちていた。越してきたばかりのダンボールは積み上げられたままで、箱の膨張感からして、中にはいっぱい荷物が詰まっているように思えた。あまり重そうには見えなかった。窓を開けると、必ず大家の娘の二人姉妹が楽しそうにやってくる。二人は双子なのかもしれない、面立ちがそっくりで、二人とも長い髪を三つ編みにしている。二人はいつもけらけらと笑いながら朽ちかけたカーテンをぼぐす。湿り気を帯びていそうなカーテンが風にさらわれて乾き、布目に詰まっていたホコリが風で飛ばされ部屋の中までチリが入って来る。窓からさす光に塵が舞う。その光景を美しいとすら思うオレ。姉妹がカーテンをほぐすと、裾から極彩色の紐がまた出てくる。ほぐせばほぐすほどカーテンは短くなり、紐のほうが長くなる。日に日に、夢を見る毎にカーテンが上までほぐされるようになる。その紐が出てくると、気分が悪くなる。何度見ても吐き気がするような色彩だったが、慣れてしまうと、あまり嫌悪は感じなくなった。それでも反射的に吐きそうになる。が、その船酔いのような感覚に慣れてしまった。酒を飲んだときに、吐きそうだけれどたぶん吐かないだろうと自分でわかるのに似ていた。けれどもまったく平気というわけではなく、軽い眩暈がして、やはりオレは夢の中でくたりとしたベッドの上に横になる。すると部屋の奥のほうから高密度ウレタン素材の人形(理由はないけれど、男の人形だと思っていた。)がゆっくりと歩いてくる。その人形は肌色で、動きは柔軟だ。
 ああ、また苦しくなる、とわかっているのだけれど、人形がオレの上に乗ってきてもオレは逆らわない。密着感を味わいさえ、してしまう。人形に首や胴を締められてはじめて、オレはもがいて抵抗する。呼吸が苦しくなってようやく、いつもの悪夢なのだとわかる。悪夢だとわかるとそれなりにあしらえばいいのに、オレは必死になってもがき苦しむ。もがかなければならない、ここで負けてはだめだと自分に言い聞かせる。その高密度ウレタン素材の人形は、日に日に男の人体に近くなっていった。けれども顔もなく、性器もなかった。男だとわかったのは、オレの体に染み付いて覚えてしまった感触だ。
 窒息しそうになったとき、やっと目が覚める。目が覚めても、またあの夢だと思い、しばらくは横たわったままでいる。いつも、明け方だった。オレは水を何杯か飲んで再びベッドに入る。だが、もう眠ろうとはせず、目を薄く開き、部屋の色が変わってゆくのを眺めている。出勤時刻ぎりぎりまでたっぷりと時間を掛けて身支度をする。
 そんな日々が続いた。完璧に身繕いした、こざっぱりとした男としてドアを出る日々。
 継続的な寝不足になった。そのせいか、何となく気が滅入った。
 ある夜、予告もなく正和の部屋を訪ねた。仕事から帰って暗い部屋の扉を開けて照明のスイッチに手を伸ばしたとき、急にいたたまれなくなった。呼吸が荒くなり、再び扉を閉じて駆け出し、タクシーを拾って正和の部屋までいったのだった。自分の部屋の暗がりでまた夜を迎えるのが怖かったのかもしれない。
 いつもきれいに掃除してある静かな彼の部屋。彼は何ひとつ文句を言うわけでもなくオレを部屋に入れてくれた。オレも、わけについて何も話さなかった。話そうにも、話せなかった。オレは曖昧で、ワタアメみたいだった。
 俯いたまま黙っているオレを、正和はそっと抱いてくれた。そうだ、ガウンを返すのを忘れていた。クローゼットにくしゃくしゃにまるめて突っ込んで忘れていた。そう言い訳したのだけれど、正和は穏やかに笑っただけで何も言わなかった。
 二人は当然のことのように抱き合ってベッドに入る。当然のことなのか、抱擁は?
 シーツの上に崩れた意志薄弱なオレの裸体を、正和は眺め回した。彼はベッドの上に膝をつき、少し距離を置いてオレの体を眺めた。背中に触れるシーツ。耳の空洞から虚ろさが体に響く。目を閉じる。彼が重なってくる。鬱陶しいとも思った。今すぐこの男が消えてしまい、ひとりだけで快楽を貪りたいとも。そう思うのだけれど喉から声が漏れる。淫らな自分の素性を呪いたくなる。そして、堕落しきれない出来損ないの素性を。気持ちが覚めている。彼がオレの膝の間に割り込んでくる。そっと、やさしげなテンポで。オレの首に腕を回し、そして尻の穴に性器をあてがう。気持ちは覚めている。
 何度やっても、いつも思う。今日はうまい具合に出来るだろうかと。
 まだ閉ざしている肛門にアレをあてがわれるときに、いつも思う。穴なんてあいてないんじゃないかと。皮膚に触れる性器の先端。自分のどこにこれを受け入れるだけの穴があるのか、と。自分の尻は一枚のつるつるとした壁紙なんじゃないかと。
 けれども、男の先端が少し割り込んで来た瞬間、わかる。今、肛門が目を覚ましたのだと。どんな形にもでも変化して、何でもくわえこんでしまう。肛門の中に別の生命体の硬い殻が押し入ってくるのがわかる。毛細血管たちがざわざわと騒ぎ始める。
 踏みつけられた絨毯が起毛するように。
 正和の先端が、すっぽり入ってきた。一度、そこで破裂しそうになる。先端の膨れを飲み込んだところで。気持ちまでもが破裂しそうになる。
 オレは思わず彼の肩を抑えて彼の動きを制した。
「夢を見たんだ」
「なんだ、急に」彼は動きを止めた。そっと目を開けるが暗がりの中で彼の顔が判然としない。
「毎晩、見るんだ。オレがベッドに横たわっていると、正和がオレの上に乗りかかってくるんだ。そしてオレを押しつぶして、締め付けて苦しませるんだ」
 オレは嘘をついた。正和は嘘だと見抜いただろうか。オレは嘘を続けた。
「もがいて、正和から逃げようとするのだけれど、逃がしてくれなくて、正和はオレをぎゅうぎゅうと締め付けるんだ」
「どうした。何も心配しなくていい」彼は穏やかに言いながらオレの額に口付けた。
「だから」オレは遮り、正和の首に両手を添えた。
「オレは正和の首を締め返すんだ。夢中になって首を締めて、正和を殺してしまうんだ」
 正和は沈黙した。
「夢の中で殺して何が悪い?」オレは正和の首を強く締めた。「早くぶちこんでくれ」
 首を掴み、こちらに引き寄せた。正和の男根が深く押し入ってくる。ぜんぶ飲み込み、貫かれた。殺したいくらい好きなんだ。苦痛の中、オレは夢中になって言った。言いながら、正和の背に爪を立てて引っかいた。
「心配するな、俺がそばにいるから」正和が言う。「俺でよければ夢の中で殺したっていい」
 彼のどこにそんな激情があったのか。一瞬、救われた気になった。自分は神よりも気高く、欲しいものは何もかも手に入れてしまったのだと思った。けれどもまだ欲望は尽きなかった。もっと欲しかった。まだまだ足りなかった。彼が少しでも手ぬるい動きをすると、こちらから腰を振って深くまでくわえこんだ。彼の尻を掴んで強要した。
 そうかと思うと、急に意識が消えそうになった。あそこの穴の壁の摩擦の痛みから解放され、呼吸すら忘れてしまう。頭の中が光で満ち、あのカーテンの緩やかなひるがえりと極彩色の紐が目に浮かんだ。そしてあの高密度ウレタン素材の人形を思い出す。人形の顔が表情を帯びる。
 はっとした。
 あの二人の男の顔だった。だが、どちらかわからないまま幻覚は消えた。
「絞め殺したんだ、夢の中で」オレは言った。
 もっと、と声をあげて正和の首に縋った。彼の首を締めながら、肛門に意識を集中させてきつく締める。オレをここに括りつけてくれ、お前の体の下に。そう祈った。そう、オレは祈っていた。
 射精の瞬間の血流。ほとばしる。亀頭の痺れに太腿までもが震える。わなわなと震える。あの先端に向ってすべての血が集まる。何度か脈打ちながら、白い精液が飛び散る。空白。瞼の裏の色が見える空白。そしてその後の虚無感。オレは、正和の下にいたのだろうか。今でもいるのだろうか。確かめるように彼の熱い体に腕を回す。ほっとするのと同時に、胸の中がきつくなる。消えてしまいたい。いつまで生きなければならないのか。
 誰かに縋りたい衝動に駆られた。こんなに好きなのに、それすらもまっとうできない自分が呪わしい。こんなに好きなのに、隙間だらけだ。こんなに好きなのに。
 正和の体の下から天井を見上げる。次第に鼓動が緩やかになる。気持ちが澄みわたる。耳の中まで響いていた脈動が深く遠ざかり、体が沈んだ。天井に目を凝らす。何もかもが色を失い止まっている。そのとき、何かが像を結びかけた気がした。呆然とした意識をそちらに向けたが、わからなかった。
 その晩は、正和の部屋に泊まらずに帰った。
 それから程ないある晩、気がつくと、オレは港町の酒場の前の街路に立っていた。あの二人の男を見かけた酒場だった。その反対側の建物の隙間に体を潜め、ドアの方をじっと眺めていた。






 気がつくとそこに立っていただなんて、言い訳だ。道程もすべて記憶にある。仕事が終わって帰途につく途中、電車を乗り換えるべき駅を、乗り過ごしたのだった。意図的だったかと尋ねられたら、否定は出来ない。それから別の駅で電車を降り、あの港町に向かう電車に乗り換えた。港町に着いてから、タクシーでその酒場の近くまでいった。歩いて酒場の前までたどり着いた。だから、気がつくと、なんて言うのは嘘だ。オレは自分の足でここまで来た。
 酒場にたどり着いた頃には夜も更けていた。
 今夜も夜が来た。やるせないほど繰り返される夜。
 きりなく繰り返される夜の循環の中のひとつの夜、今夜。
 いきなり店に近付きはしなかった。通りを挟んだ店の反対側で、立ち止まった。斜向かいの建物の脇あたりに。
 夜の街を足早に歩く人々。靴音をかき消す車の騒音は、少し離れたところから聞こえる。
 喉元がきつかったがネクタイは緩めなかった。人目を気にしながら、煙草を吸った。待ち合わせでもしているような顔を努めた。時に、その場を行ったり来たり歩いてみた。ほんのわずかな距離の往復。
 不意に、例の酒場の扉が開いた。店内から音楽が漏れ出る。男女二人連れの客が勘定をすませて店を出るところだった。オレは咄嗟に物陰に隠れた。少しだけ顔を出し、開いた扉の隙間から中をうかがう。扉がすぐに閉まったので、店の様子はわからなかった。
 また煙草を何本か吸った。あと何本吸うことになるのか。あの二人は今夜ここに来るのか。今夜。繰り返される夜のひとつの夜。彼らが来るか来ないか、二つに一つだ。煙草を吸ううち、苛立ちは徐々に薄れた。斜字体のアルファベットで店の名前を綴った原色のネオンサインが朧な都会の夜の下に滲んでいる模様を煙草を吸いながら立ち尽くして眺めているオレ自身が当たり前に思えた。オレは都会の夜に溶け込んでいる。そう感じると、街のきらめきがただの風景ではない気がする、オレ自身の心模様だと。夜に浮かぶ光の泉。その、いちばん外側のやわらかさを想像するだけでうっとりとしてしまう。
 再び、店の扉が大きく開いた。今度は大柄な白人男性が帰るところだった。白人男性は、連れが出てくるのを待っているのだろうか、扉に背をもたれるようにして、ドアを開けたままにしていた。そのとき、はっきりと見えた。あの二人の男が店のカウンターに隣り合って座っている後ろ姿が。けれどもオレは隠れようとはしなかった。うっとりとしたままだった。そちらに目を向け、呆然としていた。それどころか、こちらの姿に気付いて欲しいとすら願っていたかもしれない。あの二人の位置から、オレはどんなふうに映るだろうか。街のネオンの光に溶け込んでしまっているだろうか。指の間に挟んだ煙草のことすら忘れてしまい、うっとりとした感覚に頬をすり寄せるオレ。
 足が、動き出した。そちらに吸い寄せられるように。店の扉に近付いていった。そのまま入り口まで行き、扉に背をもたれてドアを解放している白人男性の前、胸と肩がかするほどぎりぎり前を、無礼も詫びずすり抜け、店に入った。そこで立ち止まった。友人だろうか、白人男性の連れの男性が遅れてやってくると、屈強な男が扉から離れ、彼らは店を去ってしまった。背後で、扉が閉じた。
 店に進み入り、カウンター席に座った。例の二人の男たちから、三席ほど離れただけの、すぐ側に座った。懐に飛び込んだが、男たちの方は見なかった。仕事帰りにいっぱいやりにきたサラリーマンを装っていたわけでは、当然ない。
「ビール」
 注文したときの声が、不覚にも震えていた。それで、急に自分が途方もないことをしでかしているように思えた。酒を待つ間、震える指が行き場に困る。不甲斐ない指をネクタイの結び目に掛け、ネクタイを直す振りをする。結び目を指先でつまんで微調整をする。少し緩めてみたり、引き締めてみたり。その度ごとにキュッと縮んだり広がったりを繰り返す結び目の生地の、紺と水色のレジメンタル模様。
 酒が運ばれてきた。冷えたグラスを持ち上げ、最初のひとくちを口元まで運ぶとき、オレはちらりと彼らのほうを見た。男たちはオレに目もくれなかった。二人の男は互いを見ずに正面の壁に目を投げていた。口に含んだ最初の一口を飲み下す。発泡性のアルコールが喉を流れてゆく。さっき盗み見たときの、男たちの喉元の雄々しさを思い返して身震いする。
 二人の方に耳を澄ましたが、ふたりはずっと口を噤んだままだった。無言のまま、壁の方に目をあずけていた。無口さが、二人には似つかわしいと、オレには思えた。二人は喋らなかった。
 店の音楽は賑やかだった。平日のせいか、さほど混雑はしていなかった。あの凛々しい喉元を思いながら、ビールを一気に飲み干した。
「もう一杯」と、グラスを置きながら、控え目な声で追加を注文した。
 ビールはすぐにカウンターに差し出された。グラスを受け取るやいなや、半分くらい飲み干した。
 空腹だったせいで酔いが回った。酔いが回ると警戒心がゆるみ、オレは店内をざっと見回した。この店は、夜になると船員達のたまり場になるらしかった。異国人の姿も見受けられる。まだ、あの二人の男の方へは目を向けられなかった。けれども、そもそも、何でオレが気にする必要があるのか。同じバーで同じ客と偶然顔を合わせるなんて、よくある話だ。オレが気を使う必要があるものか。オレは誰から見ても自然に映るだろう。誰も不審者を見るような目でオレを見ていやしないじゃないか。酔いが回りつつある頭で、呆然とそんなふうに考えた。また酒を少し飲む。
 それから、今度ははっきりと顔を右に向けて男たちを見る。男たちはオレが見ていることに気付かない。見られることなしに、オレは見続けていた。彼らはオレを見返さない。彼らは注目しない。あの横顔。誰にも目もくれないような。あの瞬き。二人揃って。
 二人をしばらく眺め、今度は彼らが見つめている壁の方に目を投げた。オレを覚えていないのか。酒をまた呷り、急に、一人で笑い出しそうになる。オレは空回りしているんじゃないのか。考えてみたらここ最近、滑稽だ。悪夢が続いたせいで疲れているのか。笑い出しそうになる。
 酒がさらに回り、大胆な気分になってきた。なぜか機嫌が良くなる。彼らに挨拶でもしてみようか。そうすれば思い出すだろう。カウンターに肘を突いて少し身を乗り出し、二人の方に顔を向けた。彼らに向って口を開きかけた。
 ちょうどそのとき、それまで無言だった男が口を開いた。
「なあ、たまには旅なんてどうだ?」リムレスの眼鏡を掛けた男の声。「旅行に出るとしたら、どこがいい?」
 酔った頭の天辺を、こつりと叩かれるような感覚。デジャヴを見ているような。
「まさか、今更、旅行だなんてよ」もう一人の男が答える。色の浅黒い、優しそうだがウレイのある目をした男。
 二人の男は、話しをし始めたのにお互いの顔を見ようともしなかった。肩と肩は近付いたようだ。さっきまで上機嫌で二人に話し掛けようとしていたのに、彼らに気付かれないよう背を丸めて顔を背けた。オレは一体、何をしているんだ。
「ああ、そう言えば、俺たち一緒に旅行にも出たことがなかったな」と、リムレスの男。
「俺はいつも旅をしているみたいなもんさ」
「ああ。だけど、もっと前から旅行なんてしなかった。二人で旅行に出るなんて、考えたこともなかった」
「なんで今になって考えるんだ」
「今まで考えなかったからさ」リムレスの男は茶化したように言って笑い、ヴォッカの水割りをひとくち口に含んだあと続けた。「らしくないよな。俺たちが旅行だなんてな」
「ああ」男は笑った。
 それから急に二人は顔を見合わせ、笑った後の余韻に浸っていた。それから再び顔を壁の方に戻してしまった。何があるというわけでもないのに、壁をぼんやりと眺めていた。男は、憂いのあるゆったりとした動きで煙草を一本取り出し、それから口にくわえた。火を点す。そしてゆったりと肺に煙をためこみ、吐き出した。拡散する煙。
「でも、いいかもな」男は言う。
「まさか」今度はリムレスの眼鏡の男が否定する。けれども表情は穏やかで、薄い笑みを浮かべている。「だけど、お前が雲隠れしていた頃、俺はまるで知らない土地を孤独に旅しているみたいだった」
「何、言ってんだ」
「ウラミゴトさ」
 リムレスの男は冗談めかして言った。少しだけ彼氏の方に体を傾けた。
男の言葉に、オレははっとして息を飲んだ。ウラミゴト…その言葉から、様々な孤独の音が聞こえた。ひとりきりの部屋に帰ってドアの鍵の回すときの金属音、水道から漏れる水がキッチンシンクを叩くポタポタという音、家を出るときに水道をしっかり締めるのを忘れていたのだと気付いて舌打ちをする音、誰もが経験する孤独の音たちが、暗い耳の空洞で響いた気がした。二人がともに過ごした時間、わかちあうことが出来ない孤独。それらが聞こえた気がした。
 この二人に心を奪われるのは、なぜだろう。これほど執着するのは、なぜだろう。
「なんだ、お前らしくないな。甘えやがって」男が言った。
「たまには他人にノロケを聞かせたいさ」リムレスの男が言った。
 彼が一瞬こちらに目を投げた気がしてオレはドキリとした。やつらはオレに気が付いている。鼓動が早まる。気持ちを抑えようと、グラスの残りを飲み干した。そしてしばらく動きを止めてじっとしていた。目の前のグラスが空になっていることすら不安で、もう一杯、と小声で注文した。
 それからあと、二人の男は黙っていた。ひとしきり黙ったあと、リムレスの男がまた蒸し返した。
「お前はいつも海にいるから、旅に出るなら海のないところがいいんじゃないか」
「関係ないさ。海だろうと陸だろうと」言いながら、男は眼鏡の男のほうを見やった。
「そうか」
「さあな」男は今度ははぐらかした。
 店の音楽が流行のロックからジャズのスタンダードナンバーにかわった。
 二人の男をすぐ側に感じる。褐色の体が抱き合う光景を想像してしまう。似て見えるが決して同じではない別々の男体。短い髪。二人とも硬そうな髪質だが、リムレスの男のほうが艶がある。そして何よりも二人の目。誰にも注意を払わない目。
 オレは酔ってしまったようだ。注文したビールが来なかった。店員に催促しようかとも思ったが、来なければ来ないでその方がありがたい気もする。頭が回っている。ビールはまだ来ない。二人の男は、もう黙ってしまった。オレは胃に不快感を覚えた。椅子を引き摺ってそっと立ち上がり、化粧室の方へ歩いていった。ふらつく足で化粧室に入り、鏡の前に立った。顔色が青褪めている。オレは冷たい水で何度か顔を洗い、深い息を吐いた。瞼に浮かぶ。リムレスの男の伸びた背筋と、もう一人の男のやや猫背気味な背中。オレを打ちひしがれさせる均整。もう一度顔を洗う。鏡を見ると、血の気が退いて青褪めている。目、口、鼻の穴、顔中が穴だらけに思えて怖くなる。鏡の中の、穴だらけの顔が揺れている。濡れた顔を両手で包む。足元があやうい。足元が危ういのに、思い出したように尿意を覚える。太腿の間に挟まれたアレに管が通っている感覚。
 奥へ行き、便器に向かって小便をする。陶製の便器がはねる音を立て、その音がやがて力尽きて途絶える。最後の滴を搾り出す。だが残尿感が消えず、オレは何度か泌尿器を揺さぶった。もう、出そうとしても小便は出なかった。
 化粧室を出て店内に戻った。そしてオレはそこに立ち尽くしてしまった。あの二人の男の姿が跡形もなく消えていた。まるで、始めからいはしなかったかのように。
 オレの席に目をやると、並々と注がれたビールのグラスが、今頃になって届けられていた。
「あの、先ほどの二人の男性は?」ウエイターに尋ねてみた。
「お知り合いですか?」
「いえ」
 慌てて支払いを済ませ、店を出た。左右を見渡したが二人の姿はない。その界隈をもつれる足でしばらく徘徊した。けれども見付からず、暗い方へと入って行った。何かに憑依されたように徘徊した。けれど、二人の影すら見当たらない。
 あの二人は今頃、暗がりの中で黒い影になって溶け合っているにちがいない。そう考えると、街中のあらゆる影がうごめきだす幻覚、さわさわと音を立ててオレの首筋を撫でる。
 結局、部屋に帰り着いたのは十二時過ぎだった。結局、見付からなくてあきらめ、車を拾ったのだった。
 オレは忘れていた。足音を消して歩くことが出来る男がいるのだということを。




第三章




 夕刻になると、風が少し強くなった。テーブルのかたわらの白いパラソルが揺れている。各テーブルの脇には、日よけのパラソルが立てられている。オープンテラスに二列に並んだ白い木製のテーブルと、二列に並んだ白いパラソル、湾岸の風がさっと撫でる。
 土曜日の夕暮れ前、正和とオレはベイサイドのとあるレストランにいた。正和がドライブに誘ってくれた。しばらく車で流したあと、六時過ぎにそのレストランに入ったのだった。
「ずいぶん日が長くなったな」正和が言った。
 ビルの五階のレストランの、テラスのテーブル席に、オレたちは着いていた。テラスの端の席から見渡す湾岸の眺め。東の方から黄昏れ始めていた。風景はまだ色彩を失ってはいなかった。
「そういえばそうだ。もう六時を過ぎているのに」
「東京に赴任してきたとき、こっちはずいぶん日が暮れるのが早いと思ったよ」正和は、正面の方、太陽が沈んでゆく西の方角に目をあずけていた。
「え? 日が暮れるのが早い?」
「ああ。瀬戸内とは一時間ぐらい差がある。夏なんて、八時前まで明るいんだ。俺、仕事であっちにいただろ?」正和は相変わらず、オレの肩越しに西の彼方を眺め、夕陽に目を細めていた。
「日照時間がちがうの? 西日本と東日本では」
「バカなやつだなあ」彼は笑ってオレを見た。「日照時間は同じさ。西へ行けば行くほど太陽が沈むのが遅い。あたりまえのことじゃないか」
「あ、そうか」オレはきょとんとし、白いパラソルの向こうの、水色に染まった空を見つめた。「太陽は東から昇って西に沈むんだよね…」
 正和はオレを見つめてけらけらと笑った。「おりこうだな」
「ん? えっと、だから東の方が先に太陽が昇って、そのあと西へ向っていって、西の方でも太陽が昇って…。その時間差っての?」
「そうそう。よくできました」正和はますます笑った。
「その時間差が一時間ってこと?」まだ釈然としないオレ。「知らなかった、そんなこと」
「だろうな。オレもあっちに行ったときにふと感じて、それからすっかり忘れていた。東京へ赴任してきて、また思い出したよ」
「そうか…、一時間掛かるんだ、太陽があっちまでいくのに」
 それから二人は向かい合ってしばらく黙り、反対の方角を眺めながらワイングラスを口に運んだ。風が優しくテラスを吹き抜け、正和の少し伸びた髪の毛を靡かせる。彼の顔が、夕陽に照らされて薔薇色に染まる。久しぶりの、のどかな時間。本当に、ひさしぶりに感じられた。
 たぶん、正和はオレを気づかってドライブに誘ってくれたのだ。
 軽い食事が運ばれる。正和が小皿に取り分けてくれるのを呆然と眺める。オレは何もしない。ワイングラスをつまんだり、ガラスの表面の水滴を集めたりして遊びながら、彼が器用に取り分けてくれるのを眺めている。空は、また少し水色になったようだ。テーブルに差す赤い光線の角度がかわる。あ、ここうまそうだな、修にやるよ、これは俺のぶん、なんて彼が独り言を言いながら料理を取り分ける。オレはグラスから手を離して両手をテーブルの下の膝の上に置き、俯いた正和の瞼に差す影を眺めている。あ、この人、誰かに似ていると思ったら、高校の時の生物の先生に似ている。年なんて大して違いがないのに、とても大人に思えるのはそのせいかな。兄とは全然ちがう。彼の無心な表情を見ていると、なんだか泣きそうになる。なんだろう、この感覚。前にも経験したっけな。
「じゃあ、オレがひとつ教えてあげようか」オレは両手を膝の上に乗せたまま、少し首を傾けて言った。
「ん? 何だ」正和は俯いたままで、その角度から眺める彼の顔がいちばん先生に似ていて、しかも、いちばん素敵だ。そう、いちばんいい男に見えるとか、いちばんカッコよく見えるとかじゃなくて、いちばん素敵だ。
「コブラに襲われたときに助かる方法。コブラってね、動くものに反応して襲い掛かるんだけど、相手が自分より大きいとわかると、引き下がるんだって。だから、もしもキングコブラが襲い掛かってきたら、呼吸を止めて、絶対に動いちゃだめなんだって。相手の体の大きさを知るのに数秒掛かるから。動いたら、反応して噛み付くんだけど、じっとしてこちらの方が大きいよってわからせてやれば、しゅるしゅるって引き下がるんだって」
「へえ」
「高校の時に生物の授業で習ったんだ」
「で、役に立つことがあるのかな?」正和は目を上げてにやりと笑う。
 オレは唇を噛み、それから舌を出した。あるよ、なんて負け惜しみを言いながら、そんな些細な時間が幸福に感じられてならない。
 正和は、小皿をこちらの手元に渡してくれた。丁寧に盛りあわされたイタリアンの色合い。
 膝の上の手をあげてフォークを取る。
「なあ、あの夢、まだ見るのか」
「え?」手が止まり、フォークを持ったまま曖昧に浮いてしまった。
「俺を絞め殺すって夢」正和はオレの目を覗き込んだ。
 オレは目をそらした。答えらずに押し黙った。
「調べたんだ。いや、ちょっと本屋に寄ったついでなんだけど…。その、なんて言うか、身近な存在を夢で殺すのは、愛情の裏返しだって、書いてあった」
「そう…」
 嘘をついたのだとは、言い出せなかった。まさか毎晩、顔のないウレタン素材の人形に襲われていると、告白する気にはなれなかった。フォークで陶器の皿の縁をそっと撫で、何度か往復させる。かすかなきしみが風に消される。オレは急に顔を上げて笑顔を作った。
「もう、最近は見なくなった」
 それからフォークを置いてワインを飲み干した。こんなオレのために、調べてくれたのか。
「そうか。それはそれでよかった。残念な気がしないでもないけどな」
「仕事のこととかで漠然と不安を感じていて、別にうまくいってないわけじゃなかったのに、漫然と流されるのが怖くて…。自分の知らないところで自分が管理されているような気がしていたんだ。少し考えすぎていたんだと思う。でももう、大丈夫」
 本当のことを告白しているような、嘘を押し通しているような矛盾で複雑になるオレ。いや、オレは嘘つきだ。
「修は抱え込みすぎるよ」正和は言いながら、空になったグラスをつまんだオレの人差し指を、そっと指先で撫で、オレの顔を見つめた。
そのときの彼の眼差しと顔立ちの全体像、指先のぬくもりが、紺色に染まりつつある空の下でオレの心にじわりと染み込む。
 オレは後方をさっと振り返る。沈んでしまいそうな太陽の名残のオレンジ。どうせなら、きらきら光る嘘をあげたかった。
「ねえ、正和。太陽の通り道を君にあげる。お日様の通る黄色い綱を」
「何言ってんだか。修は詩人だなあ」正和は笑った。
「そっちこそ、愛情の裏返しだなんて、いい気になってたんじゃないのか」
 二人で声を立てて笑った。黄道。それが最初で最後の正和への捧げものになるとも知らないで。
 白い制服を着たウェイターが、テラスのテーブルに、順番にキャンドルを点して回った。オレのグラスが空になっていることに、正和はまだ気付いていなかった。
 ちょっと、トイレに行ってくると言って席を立った。振り返ると、太陽はもう沈んでいた。トイレで顔を洗い、身繕いをしてテラスに戻った。店内からテラスへ出る開放された扉をくぐるときに見た光景に、目が釘付けになった。あの二人の男が、オレたちのテーブルの隣りに座っていたのだった。
 すでに、日は暮れていた。オープンテラスを浮かばせるライト。テーブルの上のキャンドル。その明かりのせいで、かえって空の微妙な色の変化は見えなくなってしまった。トイレに行っている間に、照明が点されたのだった。木製のテーブルの配列やパラソル、ウェイターの制服、客たち。まるで、深海で執り行われるコンサートのオーケストラがスポットライトを浴びているような光景。
 正和のいるテーブルの上には食器や食べかけの料理、二つのグラスが散乱している。その隣りの、あの二人の男が座っているテーブルにはキャンドルしか置かれていない。二人の男の顔を下から、やわらかい黄色で照らしている。褐色の肌。二人はメニューを広げている。それが、譜面を眺めているようにすら映る。正和は、二人には気付いていないようだった。
 テラスへの扉をくぐったところで立ち尽くしてしまったオレ。
 そのまま踵を返して引き返そうかと思った。
 そのとき、正和がオレの姿に気付いた。そして二人の男たちも。三人の視線にさらされる。立ち尽くしたままでいると、正和は怪訝そうな目でオレを見た。もう、逃げられない。最初の一歩を繰り出す。男たちは気付かなかったかのように再びメニューに顔を戻した。オレの手のうちようのないところで何かが推し進められている。あの、ナイトガウンを踏み付けた明け方から感じ続けている不安が胸に湧き上がってきた。けれども深い考えは持たずに歩いていった。考えなど役に立たないと、もうわかっていたのかもしれない。今は、切り込んでゆくしかない。あの二人の目的は何なのか。
 テーブルまでたどり着いて正和の向かいの席に座った。何もなかったかのように取り繕った。
 今はじめて気付いたかのように、二人の男が顔を上げてオレを見た。思い描いたとおりだった。あらかじめ綴られたシナリオがあるかのように。オレの役回りも、その脚本の中に既にあるのだと、予感した。
 その予感はたった今感じたものなのか。
「やあ、君は確か…」リムレスの男が台詞を読み上げた。
 知りたかったのは、いつオレが物語りに組み込まれたのかということ。そして、仕掛けているのが誰なのか、ということ。
「あ、そういえば、寝装具の展示会で」そう、それがオレの台詞なのだと思った。
「そうだ、そうだ、思い出したよ」とリムレスの眼鏡を掛けた男。「二階の展示室で驚かせてしまって。覚えているだろ、修介」
「ああ…、猫の話をしていたとか言ってたよな」
 正和はきょとんとしている。オレは寝装具の展示会での出来事を手短に説明した。
「そういえば、バーでもお見かけしたと思いますが」正和は打ち解けてはいない様子だったが、それでも愛想よく言った。
「先週でしたっけ」とリムレスの男。オレはドキリとする。正和の顔を見る。正和は眼鏡の男の方を向いて首を傾げる。
「ちがうよ、秀明。展示会のあとだ。確かあの晩は急に雨が降り出した」もう一人の男が言った。「あの店にはずいぶん長くいっているのでね、混同してるんですよ、こいつ」
 もう一人の男は無愛想に言った。それからリムレスの男が、桜井秀明と名乗り、もう片方の男の名前が川本修介だと言った。正和が自己紹介し、それから、まるで保護者でもあるかのようにオレの名前を二人に知らせた。
「あの日、君はやけに汗をかいていたな」唐突に、眼鏡の男、桜井秀明が言った。「展示会の日。だけど、あのバーで顔を合わせたのは記憶にないな」
 一同は、一瞬、沈黙した。それぞれに、事情があったのか。
「たぶん、擦れ違っただけですよ」正和が場を取りまとめるように言い、それからもうその話題には誰も触れなかった。
「あれは興味深い展示会でしたね」正和は話題をかえた。
「俺たちは知人に招待券をもらったから行っただけなんですよ。いや、でも楽しませてもらいましたよ、もちろん」桜井秀明が答えた。
 既に注文していた食前酒が、川本に運ばれてきた。桜井は車の運転があるのかソフトドリンクだった。桜井がウエイターを待たせ、メニューを読み上げた。何品目かをさらりと読み上げた。彼らはメニューを選ぶのに時間を掛けなかった。
 ウエイターが立ち去ると、桜井秀明は川本のグラスにワインを注いでやった。条件反射的に、正和がオレのぶんを注いだ。それでオレのボトルは空になった。四人で乾杯した。オレはすぐにグラスを空けてしまった。
「しかしエロティックだったな」桜井が唐突に言う。
「何がですか」聞き返す役目は正和が請け負った。正和はあまり疑問に感じない性質だ。
「展示会ですよ、寝装具の」
「そうでしたかね」
「何と言うか、寝るときの装いですから」
「そう言われれば、そんな気もしないでもないですが」
「野卑な解釈でしょうか」と桜井。
 いつの間にか、奇妙に思えるほど、二人の男はオレたちに馴染んでいた。二人は警戒心も壁も示さず、こちらに溶け込んできた。終始無言の川本修介も、穏やかな寡黙さで馴染んでいた。
そんな会話をしているうちに、二人の男のテーブルに料理も運ばれてきた。ウエイターが来たついでに、正和がワインをもう一本注文してくれた。注文したワインはすぐに運ばれてきた。
「確かに、そうかもしれません。言われるまでそんなふうに思いませんでしたが」正和が曖昧な微笑でまとめ、それ以上その話題は深く進まなかった。
 キャンドルに照らされた正和の曖昧な笑顔が、知らない男のように見える。それはそれで、ぞくっとするくらい魅力的だった。そして、間近に見る川本と桜井の顔。眉の凛々しさ。
 オレは、運ばれてきたばかりのワインのボトルを取り、グラスを赤い液体で満たした。それからそれをすぐに口に運んだ。酒で口を満たしながら三人の男たちを見比べるオレ。
 それまでほとんど口を噤んでいた川本修介が、ちらりとオレのほうを見た。本当に一瞬だったが、真正面から見てしばらくオレを見つめていた。オレも、逃げはしなかった。
「そうだ、そういえばね」
 結び合った視線に手をかざすように、桜井が口を開いた。
「俺たち、ちょうど旅行の計画を立てていたところなんですよ。だけど、いい案が浮かばなくてね」
 どきっとした。川本と合わせていた視線をほどき、オレは桜井を見た。桜井も、オレを見ていた。テラスを浮かばせるやわらかい光。夜の風。上空で、今夜も、夜が深まり始めていた。






 夜が深まるオープンテラスの喧騒、艶かしい明かり。白くて清潔な制服のボタンを上までとめたウェイター達の物静かな立ち居振舞い。入れ替わる客。パステルに彩られたカクテルグラスが、テーブルに舞い降りた蝶々のように見える。陶製の食器が立てる音。その配色の中、桜井秀明の、感情を読ませない眼光。男はオレを見据えていた。
「旅行にね…」
 一度だけ、彼は瞬きした。長い睫毛が羽ばたくときの緩慢なモーション。
 再び目を開いた彼はもう一度オレに視線を投げ、それから正和のほうに顔を向けた。
「旅行に行こうか、なんて話していたんですけど、こいつがまた出不精な男でね。まあ、知り合ってから十八年も経つというのに、今更ふたりきりで旅行ってのも、どうかとは思うんですが」
「ずいぶんと長くお知り合いなんですね」と正和。
「ええ。長かったな」
「一度も旅行に出かけたことがないなんて」
「いつの間にか、時が過ぎてしまってね。いや、長かったですけどね。今までそんな考えを持たなかった。だから」
 桜井は続けた。「もしも旅行に出るとしたら、どこがいいかな、なんて」
「そういえば、俺たちもそんな話をしていたんですよ」
 正和が答えた。オレは三人から視線をそらしてグラスを持ち上げた。
「なあ、修」
「そうだっけ…」と口を濁しながらワインを口に含む。
「修一くんは」桜井は、前からの知り合いだったかのようにオレの名前を呼んだ。「旅行に出かけるとしたらどこがいい?」
 真意を読み取ろうとして、桜井の目をじっと見つめた。彼もオレをじっと見つめ返した。何も読み取れなかった。しばらく考え、桜井の目を見つめたまま、こちらも打ち解けた口調で言った。
「海」それから目を伏せた。「海がいいな。出来れば深海の底がいい。深い深い海の底を、一度でいいから旅してみたい」
「無茶なことを言うんだな」桜井が笑った。オレを子供扱いしている。
「深海の、真っ暗で何にも見えない深いところ。音もなく、光もないのに尋常じゃないくらいの重量とうねりがあるところ。海水が地球をひとめぐりするのに二千年掛かるんだって。大西洋で冷えて重くなった海水が沈んで、沈んだまま喜望峰を回って北上して、そして北太平洋で再び浮上する。そのうねりを漂ってみたい。とても静かなうねりを」
 伏せていたオレの目は自然に閉じ、その瞬間、オレはひとりになっていた。このライトに照らされたテラスは深海を漂う難破船のデッキ。深く沈んでゆく。途方もないことだとは、思わなかった。
「こいつ、時々、面白いことを言い出すんですよ。気にしないでください」正和が口を挟んだ。「それも高校のときに習ったのか、修? この前は確か、山の頂上に行きたいと言っていたよな」
 正和の声が、遠くに聞こえるほどだった。
「海がいい」
「海なら、いつかきっと修介が連れて行ってくれるさ。こいつは船乗りなんだ」桜井が穏やかな声で言う。「だからね、出来れば海じゃないところへ出掛けたくってさ。山かあ、それもいいかもしれないなあ」
「船乗りなんですか、川本さんは」正和が聞き返した。
「貨物船の乗組員なんですよ」
「へえ。失礼ですが、桜井さんも同じようなお仕事を?」
「いえ、俺は外科医です。だから、休みがなかなか合わなくてね。修介がひとたび航海に出てしまうと、長いものですから」
 桜井と正和がそんな話をしている間も、オレは深海のうねりを空想していた。終始寡黙な川本修介がどこを見ているか、気にも留めていなかった。
「それで、長い間、お付き合い…、いえ、お知り合いなのに旅行にも」
「気を使っていただかなくても、わかってますから」桜井は笑顔を浮かべる。
 正和は苦笑いをした。桜井は続けた。
「学生の頃からの付き合いなんですがね、何と言うか、旅行に出かけるなんていう発想がなくて。出逢った頃は若くて、お互いに夢中でね」
「そんなもんなのかな」正和が呟いた。
「俺たちの場合はね」
 周囲のテーブルから、男女の会話が聞こえる。
 ふと気がつくと、しばし、会話が途切れていたようだった。はっとして我に返ったオレは三人の男たちを眺めた。やわらかいキャンドルライト。手持ち無沙汰になり、再びワイングラスを口に運んだ。正和は、オレのグラスが空になったことに気付かなかった。桜井がボトルを取り、オレのグラスに注いだ。
「もし、よかったら、一緒に旅行なんてどうですか?」桜井が提案した。
 酒が注がれたグラスを持ったまま、オレは身動きを失った。桜井の顔を凝視した。桜井は、オレに目もくれず正和に微笑みかけている。どうやって手に入れたのか、その、誰をも不審に思わせない笑顔。オレはゆっくりとグラスを口に運び酒を飲んだ。
「あ、唐突なお誘いだったら気にしないでください。だけど、なんていうか、めぐり合わせ、とでも言えばいいのかな。せっかく知り合ったことですし、いい機会かもしれない、だなんていま急に思ってね。今言っておかないと、もう二度とそんな機会はないだろうなんて勝手にね。俺たちも今更ふたりきりでいたい、だなんて思いませんから。どうせなら旅仲間が欲しい。十八年ですからね」
 これがシナリオだったのかと、オレは思った。また酒を飲む。
「やけに今夜は飲むんだな」正和が小声でたしなめる。それから桜井に言う。「あ、でもそれもいいですね」
「ほんとですか? いやあ、不躾に思われるかと内心、気にしていたんですが。じゃあ、山なんてどうです? それなら修一くんも乗り気になってくれるでしょう。あ、だけど、そちらが二人きりで行きたいなら別ですが」
 酒で頭が回っている。飲みすぎたようだ。桜井に向って口を開きかけたが、曖昧なまま口を噤んでしまったオレ。
「どうだ、修?」正和はオレの顔を覗き込んだ。
 オレは俯き、黙っていた。グラスを口先まで運ぶが、もういらないと感じて手を止める。
「ん? 山じゃいやか? たまには息抜きに行かないか?」
 グラスをテーブルに戻す。桜井が酒を注ごうとするのを、オレは緩慢なシグサで制した。オレが沈黙を押し通していると、桜井が言った。
「あ、深刻にならなくても、軽く考えてくれればいいんだよ。気が向いたら、でいいから。いやだったら、あとから断ってくれてもいい」
 桜井はジャケットの胸を開いて内ポケットから高価そうな名刺入れを出した。ジャケットを開いたときにのぞいた、胸の厚み。ポロシャツのボタンを開けた胸元からこぼれる褐色の肌。なだらかに張った胸の筋肉の谷間。鎖骨。男は名刺入れから一枚名刺を抜き取り、テーブルの上に置いた。
「名刺を渡しておきます。修介は仕事柄、持ち歩かないんで、こいつの電話番号を裏に書いておきますね」そう言いながら桜井は万年筆を取り出し、名刺の裏の空白に川本修介の住所と電話番号を記した。オレに見えるように、ゆっくりと書いた。達筆だった。そしてその名刺を、正和に手渡した。正和は何の疑問も持たずそれを胸のポケットにしまい、ああ、今日は休日なんで名刺を持っていなくって、設計士なのであまり外で名刺を交換する習慣がないんですよ、などと言い訳をしながら、携帯電話の番号を桜井に知らせた。






 予想外に執り行われた晩餐会のあと、川本修介と桜井秀明とはレストランで別れた。四人で駐車場まで歩き、そこで別れた。駐車場へ行くまでの間、オレはろくに口もきかず、少し遅れがちに歩いた。三人の背中をつくづく眺める。正和と桜井が旅行の詰めをしながら歩く後ろ姿。すっと姿勢の伸びた背中に似通ったところがないわけではなかった。しかし、川本修介と桜井秀明の摩訶不思議な調和。
 猫のように繰り出される桜井の歩行。
 川本の歩行も、ある種、野生動物を思わせるものがあった。
 三人ともゆったりとした歩調でオレの前を歩いていた。焦っているのに、取り残されてしまうオレ。正和は、時々オレの方を振り返って様子を窺った。
 理想の男に憧れるうち、その姿に近付いてしまったという話をよく聞く。似たような男同士が付き合っているのも、よく見かける。けれどもこの二人は違う、十把一絡げの連中とは、何かが。顔だって、よく見ると似ているとは言えない。
 駐車場で二人と別れたあと、正和の車に乗った。
 今日はずいぶん酔ってるようだな、家まで送るよ、と正和は申し出て車をまっすぐオレの部屋の方角へと走らせた。ヘッドライトとテールライトが交錯する街道を走りながら、オレは呆然と車窓から見える風景に目を預けていた。しばらくして、繁華街に入る。
 横断歩道を過ぎる、夜装束の人々。きっと、泣きたい気持ちのやつらもいるにちがいない。夜行性の人々がドアを出る。ドアの鍵を掛けたままのやつらもいる。
 今宵、どれだけの人々が夜をゆくのか。その数、その倍の数の足の裏を思うとつらくなる。重さのない感情が都会にのしかかる。鍵を掛けた部屋の中で紡がれる睦言、鍵をポケットに隠して強がるやつらの笑い袋のような悲鳴。
 街の彩りはやがて消え、車はオレの部屋の前に付いた。
「じゃ、おやすみ」
 ルームライトも点さない車の中、正和は、そう言ってオレの肩に腕を回し、顔を近づけてきた。ゆっくりと、近づけてきた。夜灯。青褪めた彼の顔。唇が重なりそうになる。ぎりぎりのところで、オレは顔をそらした。
「あのレストランを選んだのは、正和だよね」
「なんだ、急に」
「あの二人…」
「偶然さ」
 オレの両肩を支え、安心させるような笑顔を浮かべるいつもの優しい彼。正和はオレの頬に手を添える。オレは目をそらす。
「どうしてあの二人、旅行の話しなんて持ち出したんだろう。あの雨の日、あのバーでオレたちは旅の話しをしていた。あの二人がいた、あの晩」
「旅行がいやなら、断ってもいいんだぞ。向こうだって本気かどうか、わかりゃしない」
「そうじゃなくって」正和の手を押し返し、距離を取る。
「確かに偶然が重なったとは思うぜ。だけど、やっぱり偶然さ。たまには誰かと旅行だって、考えてみれば悪い話しじゃない」
「正和は、オレに何がしたいの…」
「バカだなあ」正和は笑う。「お前にも、友達がいたほうがいいだろ?」
「いるよ」オレは訴えた。「それに、もしいなくても、作る必要なんてない」
「最近、会っている友達がいるか? そんな話し、聞いたことがないぞ。たまに俺と一緒に会える友達がいればいいと思ったんだ。お前、背負い込みすぎだから。前に距離を置きたい、なんて言い出したことがあったよな。ほんとは辛かった。だから、一緒にいても距離を置ける、そんな方法はないものかと思ってた。あの二人、お前から見たら少し年が離れているかもしれないけれど、落ち着いていていいじゃないか」
「年とかじゃなくて…」
「じゃあ、なんだ?」
「オレといるだけじゃ、いやなの?」
 何を言っても、子供扱いされるだけだ。過去のことがすべて、オレにとって不利になっている気がした。いや、オレに不利なんじゃなくて、あの二人に有利に働いている、何もかも。
「深く考えるなよ。お前がいやなら、深入りしたりなんてしない」
 正和、深入りしそうなのは、オレのほうなんだよ。けれど、言えなかった。まさか、正和が仕組んでるんじゃ、ないよね…。言葉を押し殺す。
「お前次第だ」正和が言う。
「オレの言うことを聞いてくれる?」
「ああ」
「ここで、して」
「ん?」
「抱いて」
 正和は笑顔を示し、オレの頭をくしゃくしゃと撫でながら首を横に振った。
「今夜はゆっくり寝ろ。何も考えるな」
 呼吸が乱れているオレ。
「なんだよ、泣きそうな顔して」
 そっと、抱きしめてくれた正和。それから、顔と顔が次第に近付く。頬と頬、鼻先と鼻先。眉の流れ。そして唇が軽く触れ合った。オレは顔を背けた。そして車の扉を開いて外に出た。
何も言わず、正和に背を向けて、マンションの入り口をくぐる。部屋に戻って、電気は点けずにそのまま毛布に包まった。もう、酔いなんて覚めていた。逆に目が冴えてしまい、なかなか眠れなかった。
 目を閉じ、深海を思い浮かべる。暗い海の底の音を聞こうと努力する。けれども中途半端な酔いのせいで頭が回り、海面のすぐ下に漂っているオレ。海の中で思うように身動きできず、口から漏れる気泡を眺めている。海面の静かな揺れを見上げる。月明かりが海面で屈折している。うっとりとして目を開くと、天井が見えた。気分が悪い。オレは頭から毛布をかぶり、体を丸めてじっとした。






 深い森の中にオレはいた。いつだったか、午前二時を過ぎていただろうか。その空間性に日付や時刻など意味がない。深夜、不意に目を覚ました。雨音に気がついた。雨音に包まれていた。仰向けのまま耳を澄ましていると、雨がベランダや窓枠を打つ音が聞こえた。雨だれがマンションの下の通りのアスファルトを打つ音が、微細な金属音にすら聞こえる。オレの体中に森の空間が広がった。森は広大無辺な区域に降り注ぐ雨に打たれていた。木々の葉が囁き、森の奥深い部分は静かだった。真っ暗だった。森の木々の葉に集約された雨粒が水になり、森の深いところに泉がうまれる。雨が降り注ぐに連れ、水分、空から帰ってきた水の粒が、土に吸収されて泥になった。泉は真っ暗闇の中で清らかだった。泉に水が集まってきた。オレの体内から泉があふれ返った。その水の中にオレは沈んでしまった。口から気泡を吐きながら、深いところへと沈んでゆく幻想。何も聞こえなかった。光も見えなかった。眠っているのか覚醒しているのかわからなくなった。オレは溺れていった。






 鎖。
 たるんでいた鎖の両端が引っ張られ、一直線に張りつめて金属音を立てるまでに掛かった時間。緊張。
 チェーンを掛けたまま開かれた扉の隙間からのぞく二つの眼球。睨むようにこちらに向けられた。オレはひるまなかった。男の目も、驚きは示さずこちらに向けられたままだった。男は無言だった。無言のまま目が伏せられ、その伏せられてゆく眼差しと同じ速度で扉が閉まった。
 ゆっくりと閉じるドアの速度に呼応して濃くなる男の顔の陰影、廊下の電灯に照らされていた顔が翳ってゆく模様を、オレは見逃さなかった。
 チェーンを外す金属音が向こう側から聞こえる。
 それから再び、扉が開いた。
「どうしたんだ?」川本修介は、あらかじめ予測していたかのように言った。
 入り口に立ち尽くしたままのオレ。
 川本修介の部屋を前触れもなく訪ねた。会社帰りのスーツのままだった。その日は急に寒さがぶり返した曇天だったが、既に日は暮れていた。彼を訪ねた理由を尋ねられると、上手に答えられそうにもない。けれども、訪ねるべきなのだと思った。桜井秀明があのレストランで、自分の名刺の裏に川本の住所を記すとき、オレにわかるように書いたのは、そういうことなのだ。それならば、こちらから罠に掛かってやろうと思った。二人が鍵を握っている気がした。たとえそれが、開けるべきではない扉の鍵だったとしても。
「入れよ」川本は言い、左手でドアを支え、道を開けるように壁際に寄った。

続きは電子書籍で😊

Apple Books ↓

http://books.apple.com/us/book/id1466177946