あの夜

この書きものが筋だった物語になりうるとは思っていない。起承転結の整った物語を書くことを、今の私はできなくなってしまった。あの夜の、一分一秒の色彩を描く事ができればそれで心は満ち足りるのだろうか。ガーゼのようなシルクのような甘ったるくかすれた感触。あの夜というのは限定された一夜を指すわけではない。私が体感した夜のなだらかさと不謹慎なほどわくわくするようなときめき、そして夜にしか咲かない華のハナビラの湿り気と密度、そういった単純な事である。年を重ねるごとにそういった感覚、至福の時の感覚を自ら呼び出すことができるようになる。若い頃にはなかなか出来なかった。もっと年を取るとまた出来なくなるのかもしれない。


例えばわたしは四月末の夜が好きである。ちょうど連休に入ったばかりの。


例えば私は、そんな夜にコムデギャルソンの上着とビンテージのジーンズを身につけて出かける。コムデチャルソンは長い間私に付き添ってくれている。私はコムデギャルソンを愛している。形作ってから破壊された高価なボロキレ。


もう十二年くらい前のことかもしれない。


私はその頃既に小説を書いていた。他の書きものをしたいと思ったことはなかった。評論やエッセイ、戯曲、そういった小説以外のものにはまるで興味がなかった。人の噂話やその類のことに対しても皆無。今でも私の興味対象は小説である。それがたとえ変形した形態を取っていたとしても、私は小説が好きなのである。
例えば、あの街の角の二階に小洒落たバーがある。中央のテーブルにはいつも華美な生け花が生けられていた。木の枝が天井まで届くくらい高く生けられていた。花器はいつも同じ大きな壺だった。


音楽はグルーヴのある曲からハウスまで。その当時でももうディスコは掛かっていなかった。


ところでこの書きものから欠落しているものがある。それは主人公である。読者は読み進めども読み進めどもいつまでたっても主人公に出会うことがない。この物語からは主人公が抹消されている。ここには親から虐待を受けて育った男や、大人になりきれずにいる男、子供の頃に洗濯石鹸の箱でお城を作っていた男の子は登場しないのである。ここではすべてが打ち消されている。コムデギャルソンの布地のスムースさとくしゃくしゃの皺の感触が描かれているだけである。それ以外には何もないのである。なんにも。


今でもコムデギャルソンを来て外出できる夜は嬉しい。友人の新しい生活のハナムケにヴーヴクリコを抜く瞬間も嬉しい。何よりも友人がいること、同じ十字架を背負ってきた人がいること、そういった人たちとめぐり逢えたことが。


あの夜の私はそういった未来を見ようとはしていなかった。その日その日の生活が精一杯で、そして今も何も状況は変わっていない。怖しいことに、何一つ変わっていないのである。


あの街の角のバーにはあの街には似つかわしくない大きな窓があった。週末になると、お客の嬌声が街路まで聞こえたものだった。


当時あの辺りでは、窓のある店はあまりなかった。大半が窓のない店だった。あそこら変の事情は、窓を許さなかった。第三者から見られることを、許さなかった。


いつも楽しい事ばかりではなかった。けれどいつも悲惨な事ばかりではなかった。外れた場所とはいえ、一軒店を構えるというのは誇らしい事なのだと思う。


あの街には目抜き通りがあった。その通りを、無愛想に歩いてゆく私。無愛想が罪だと知ったのは本当に後になってからだった。無愛想は粛清される運命にある。


音楽の下、低く薄暗い証明の下、私はいつだって滑らかに踊った。
私はいつだって一人で踊った。
あの街の角の二階のバーで、ススムと出逢った。
あの夜、ススムとキスをした。
あの夜はあまりに甘かったので、あの夜さえあれば人生においてそれ以上多くのものは必要ないと言っても言い過ぎではない。無人島に持っていくとしたら「嵐が丘」とあの夜の思い出を選ぶと思う。


私は滑らかなフォルムを描いて踊っていた。ススムは美男だった。目鼻立ちがはっきりしていて、髪の艶が美しかった。
ススムは紺色のスウェットを着ていた。


あの頃はよくカシスソーダを飲んだ。あの頃はそれが主流だった。若い子はカシスソーダを飲むものだった。甘い味と赤褐色の色が私のお気に召していた。


ススムは日焼けしていた。素晴らしい小麦色の肌だったが唇は濡れて光っていた。彼は筋肉質な体だった。小ぶりだが筋肉質で果実のようだった。私はススムとキスをした。抱き合って撫で合った。興奮して息を掛け合った。それ以上のことはしていない。


ジョニーはススムのことをたいそう気に入っていた。横から割って入ったわたしがススムをさらうのを見て地団太踏み、ついでに私の足を踏みつけた。


マーガレットはいつも私の保護者だった。「ジョニー、暴れないでちょうだい! あたしは今いい気分なのよ」。彼女のことはいつか別の形で小説にしたいと思っている。例えば夜にサングラスを掛けて歩く。そんなことを教えてくれたマーガレット。いつか小説にしたいと思っている。


マーガレットはススムとキスをしているわたしを見て言った。何てことなの! オー・ノー! あなたは一体いつのまに、あたしの力を借りずに男を調達できるようになったの。この夜を境に、彼女の私に対する保護者のような気持ちはあっさりとさめてしまった。


ススムに迫ったのは私のほうである。執拗に迫った。落ちるまで迫って落した。気押されたススムは私に唇を許したのだった。
そのキスの甘い味、甘いかおり。
彼の唇の粘膜と唾液の感触。


ソルティ・ドッグもまた、私のお気に入りのカクテルだった。潮とウォッカは非常に相性がいいと思う。最近はこういう飲み物は主流でなくなって来たが。


私の人生が酒とダンスと男だけだとは、ああどうか、思わないでいただきたい。


わたしがずっとやり続けてきたことは書くことなのだ。


ススムとキスをしたときは頭が破裂して死ぬんじゃないかと思った。もっと大きな性的興奮を後になって知ったが、ススムとのキスは最高だった。湿っていて気持ちが良かった。痺れるようだった。何度もキスをした。車の中でも何度も何度も。けれども、今振り返ってみて、より深く印象に残っているのはとろけそうな夜の音楽のグルーヴである。
唇の端からたれたススムの唾液よりも。
ススムと何度もキスをした。終わりがないくらい重ねてキスをした。乾いたガーゼを湿らせてゆくようにじっくりとキスをした。唇をなめ、何度も重ね合わせた。ガーゼのように。
唇を放すと、唐突に終わりが来た。
サヨナラを告げたあと、それ以上のことは何も起こらなかった。キスをしている間に隙間なく探りあい話し合い、サヨナラした。
あの夜は唐突に終わった。あの夜は私の記憶の中に小さな水溜りを作った。その泉を、私はいつでも汲み上げる事が出来る。けれども、もう汲み上げる必要もないところまで来てしまった。あなたに会えたのだから。

(終)