シューベルト即興曲に捧げる8つの小品集

滅びぬる都市 – D.899 1番 ハ短調に

 小春日和の陽射しのなか歩いている男は思った。もう、涙も出やしない、この歳になると十二月でも暑くて、出るものといえば、汗だけだ。
 気づけば、ただ過ぎ去ってゆく光景を眺めているだけで人生が終盤に差し掛かっていた。陽射しは柔らかく、けれども弱った肌をまんべんなく照らしていた。
 このままでは野に還ってしまうという勢いで、都市は衰退してきた。退廃と甘美さは色褪せず、むしろ鮮やかに色づいていた。
 あの顔、あの顔、あの人、あの人、様々な顔を見てきた。
 羊は一度見た顔を一生忘れないと言われている。
 男は誰一人として顔を忘れていなかったが、けれども思い出そうとすると漠然としか思い出せないことに恐怖を覚え始めた。あの人、あの、福音だとすら思ったあの人の名前、名前を呼べばいつでも来てくれていた人の顔が、思い出せない。それは絶望とは明確に違う、恐怖だった。
 男は、その思い出せない顔のことを思い出そうとする時、ただ焦りを感じた。滑ってゆく、滑ってゆく、私の頭脳が滑って皺がなくなってゆく、このままだと最愛の人の顔が思い出せなくなる、男は道を急いで寂れゆく丘を登った。

老いたる舞姫の瓦解 – D.899 2番 変ホ長調に

 ちょっと、昔を思い出しただけだった。女は年老いていたが体の線は綺麗に保ち、ほっそり凛としていた。あの、バレリーナだった若き日々。あの日々を思い出して、つま先で立ってみた。鏡の中の老女は風の凪いだススキのようで、汚らわしいほどの高貴さがあった。
 唐突に、後ろから抱きすくめられる気配がする。彼だとすぐにわかった。あの、愛しきダンサー。女にいとまを告げて消え去った若き男。男は女を踊らせる。女はかつての在りし日の舞姫になって踊る。
 しかし女は老女だ。つま先から崩れ始め、揺れて揺れて目眩がしたように揺れて、崩れて瓦解してしまった。
 受け止めたのは、ダンサーだった。男はもう女に踊ることを強要せず、彼女を支えて床に倒れた。二人は揺れに揺れて小刻みに揺れて崩れ、月の光の影の形になって止まった。止まってしまったら、もうその影は動かなくなって床の染みになってしまった。

ある、栄光に浴した男の肖像 – D.899 3番 変ト長調に

 奇人、変人が「虐げられた」と主張してのさばるから、我々のような善良な者がかつてない試練を受けているのだ。その男はそう考えて、イルパピロ社の紙から目をあげた。神経質そうな人差し指と親指の間には、琥珀色のペンが挟まれていた。男は韻を踏みながら詩を書こうとしているところだった。
 定型こそが、美の極みであると、男は信じて疑わなかった。
 窓からは閑静な住宅街の軒が並んでいるのが見え、その目抜き通りを外国車が行き来する。私は成功者だ。彼はもう一度信じ、余生を送るために選んだ詩作に取り掛かろうとした。
 ふと風、木の葉を運び、窓を叩く。
 男は祖父母の家を訪ねた時のことを思い出した。こんな不便な田舎で貧しい暮らしをしている貧乏な祖父母を、両親も子供時代の男も憐れみを持った軽蔑心で眺めていた。
 しかし、あの平野から見える山脈の尾根。
 快晴の時は雄々しく、春の朧には女の肩の優しいなだらかさのような。
 男は不意に思い出しながら、琥珀色のペン先に青いインクをつけた。その手が止まって、男はインク瓶の中のインクの青さに見とれていた。

寂れた丘の曲がった背中 – D.899 4番 変イ長調に

 白い部屋の壁に背をもたれた男がひとり。瞬きする瞼からこぼれそうな黒ダイヤの瞳。狂人とみなされてきた澄んだ瞳はくるくると回る。連続しているが同じ音はしない鍵盤楽器のように、男の日々は煤けてゆく。太陽ですら衰えている。
 衰えゆく太陽が、季節を巡らせ、また春がやって来た。男は朝遅く、日が昇ってからベッドを出る。男は言い訳する。西に生まれたのだから、起きるのが遅いのは仕方がない。お日様は東から昇り、東の人たちは朝早く起きるのだから、と。単調な日々になんと慣れてしまったことか、と男は感嘆する。
 また一日が始まる。
 寂れた丘の庭に出て、ジョウロで植木鉢に水をやる。クリスマスローズの蕾が高く上がって来た。おばあちゃんは、クリスマスローズみたいな人だった。男は祖母を思い浮かべる。いつも俯いているのに、ふと顔を上げると高貴な顔立ちだった祖母。祖母の面影が男の顔に現れはじめ、業深い顔、罪作りな顔と言われたのもわずか、背筋が曲がるのも祖母の遺伝だった。
 男は青ざめた顔でふと空を見上げ、雲から刺す春の日差しに目を細めた。
 犬が縁側から駆け寄り、塀の上から顔を出して丘を見下ろした。

お寺の雑巾がけをしていた女 – D.935 1番 ヘ短調に

 女には、今日も新聞をめくる以外にすることがなかった。数年前までは野良猫にエサをやるのが日課だった。もう八十を過ぎ、野良猫の相手をするのも億劫になった頃、自宅のポストに匿名の投函があった。「野良猫にエサをやらないでください。」。大きな動物の相手が大変になっていたし、より小さなものが可愛く見えるようになったのでメダカを飼い始めた。
 日々はメダカの餌やりと観察、そしてウトウトしながら新聞をめくることに費やされた。途方もない年月に思えた。
 ある日、もう最後だろうから戦時中に集団疎開で暮らしていたお寺に行ってみようと、同級生に誘われた。介護ヘルパーの手を借り、タクシーに乗って山寺に同級生と行った。寺は、もう、昔の面影もないほど改修されて近代的になっていた。
 女は、集団疎開の日々、毎朝、寺の廊下の雑巾がけをしていたことを不意に思い出した。昔の寺の廊下の材木は古くなっていて、時に指や手のひらにスイバリが立つことがあった。スイバリとは、西日本で使われる、傷んだ木材から飛び出ているトゲのこと。
 スイバリが立って雑菌に感染して熱を出して寝込んだことも思い出した。すべてはお寺でのことだ。
 女は、あの、毎朝雑巾がけをしていた廊下ももうなくなり、スロープ付きコンクリート回廊になっているのだと複雑な気持ちになった。
 もう、新聞をめくる日々には飽き飽きしていたが、新聞をめくる日々はまだ続きそうだった。それでも早く死にたいとは思わなかった。子供の頃は、大人になったら幸せになれると思った。子供を産んだら話し相手をしてくれると思った。けれども、実際に子供を産んでも、いずれは平坦な日々に行き着くしかないのだと、今ではわかっていた。

赦しの犬 – D.935 2番 変イ長調に

 その犬は、人に触らせることを許さなかった。人嫌いな犬だったが、もちろん主人だけは好きで、当然、主人には触らせていた。その犬は主人に触られるのが好きで、腹を見せて撫でさせたり、鼻の頭を主人の手に擦り付けて頭を撫でさせていた。撫でることを要求するために、声色を使い分けること、主人があぐらをかいてスマホをいじっている時が狙い目だ、などと学び、主人に撫でさせる。
 触られるのは好きだが、人見知りして他所の人には決して触らせなかった。
 その犬が十一歳になった時だった。主人との散歩中に子供が不意にやってきて、その犬の頭をさっと撫でた。犬は最初怖がったが、初めて他の人に触られることを許した。
 すると、そのうちに他の子供たちが頭を撫でるようになった。公園に行くと子供たちがその犬の頭を撫でるようになり、犬は次第に人に慣れていった。
 近所の人たちや我が家の来客にも撫でさせることを許し、撫でられていると時にオヤツがもらえることを学んだ。犬は他の人に触らせるようになり、腹を見せたり尻尾を振るようになった。
 ある日、主人がその犬の腹を撫でようと手を伸ばすと、犬はよそを向いて歩き去っていってしまった。

スイレンの池に捧ぐ祈りの小品 – D.935 3番 変ロ長調に

 私には祈ることだけだった。もう一度考えたが、祈ることしかできなかった。より慎重に考え、言葉を探してみたが、やはり祈ることしかできなかった。彼、あの人、あのいつもお世話になっていた男性は、暗い穴に落ちていた。真っ白な病院の壁の中、暗い暗い落とし穴に足を落として目を丸くし、彼は頭が空っぽになっていたはずだ。
 わからないことだったから、彼は笑おうとしたかもしれない。けれども心の底からは笑えないらしかった。
 余命半年。
 それが彼に与えられた福音だったのかもしれない。晴天の霹靂に、彼は言葉を失った。その福音を聞いた日から、彼の謎解きが始まった。言葉を失い、最後に何がやってくるのか、彼は想像した。けれども笑うしかなく、笑い飛ばせるほど強くもなれず、ただただ言葉を失った。
 当人ですら言葉を失っているというのに、私にはかける言葉が見当たらなかった。ただ、祈るしかなかった。ありきたりなことを祈っていいのか、呪詛のような言葉で祈っていいのかすら、私にはわからなかった。結局は、私のことではない。他人事で、死ぬのは当人だ。
 けれども私には祈ることしかできなかった。宗教、寺社仏閣、教会、信徒、聖書にコーラン。すべてが信徒を失って消え失せたとしても、最後に残るのは祈りに違いないと、私には確信できた。信じるものがなくなっても、人は最後に祈るはずだ。私はただ見守っていようと、少し引き下がり、祈ることにした。

首がもげたぬいぐるみ – D.935 4番 ヘ短調に

 その少女には、自身の幼年時代が色褪せたセピア色に映った。父親はアルコールにギャンブルに女遊び、母親は絶望して新興宗教に走り、大人たちから後ろ指さされる家族だと、幼い頃から体で感じていた。
 けれども少女は、既にやり過ごすことを覚えていた。こうした一連の好ましくない運命は、いつまでもは続かない。少女は心は折れないと知っていた。一度折れても、いつか通り抜けられる、更に言うなら、いつまでもは居させてもらえないトンネルだと知っていた。
 夜になると父親は女のところへ出かけ、母親はわめき散らしては黒魔術に祈祷に丑の刻参り、何かに取り憑かれたような興奮状態に陥る。
 母親が我を失うと、少女はそっと忍び足でアパートの扉を出、秘密の隠れ家に行った。月の光が差す中、少女がずっと歩いてたどり着いたのは、小さな洞窟だった。
 その洞窟に、少女は弟を隠していたのだった。弟といっても、ぬいぐるみだ。しかも首がないクマのぬいぐるみ。かつては少女のおもちゃだったが、父親が癇癪を起こした時にぬいぐるみの首をもいでしまった。少女は弟を、この洞窟に避難させたのだった。
 少女は弟を洞窟から連れ出し、月空にかかげる。月の下に、手足だけの胴体を持ち上げ、胴体の上にまるで首を乗せるように月を置いたら、ぬいぐるみの頭は月になり、月のお人形になった。少女はしばらく弟と内緒話をする。
 突然、ぬいぐるみの首が落ちた。
 少女が腕を上に挙げたので、首に見立てていた月が落ちたのだった。そして今度は月が浮いた。ぬいぐるみを下げたのだ。少女は夜空に向かって舞踊を捧げた。それから月に背を向け、瞳はキラリ、ぬいぐるみを抱きしめて崖の上で踊り続けた。

(終)

シューベルト:即興曲集作品90、142