真夜中すぎの涙

 私には忘れられない夜がある。あの夜のことを思い出すと今でも甘く切ない気泡のような感情が湧き上がってくる。それは私が自分自身の意思で汲みあげることの出来る泉のようで、私は時に密かにその思い出に浸る。

 けれども君の顔の記憶が薄れてしまうのではないかという漠然とした思いが私の頭をよぎる時、それは時に私を怯えさせる。あの夜のことが今でも忘れられない。そして忘れたくない。私がこの物語を書こうと思ったのは、君のことを忘れたくないからに違いない。

 あれは確か1998年の初夏で、私の人生の中でも本当にとりわけ素晴らしい思い出だ。出会いと別れが十数時間のうちに凝縮されていた。その十数時間の間にひとつぶんの恋を経験したみたいだった。

 17年経った今でもありありと思い出せる。汗ばんだ若い肌のぬめりと君のあの一瞬の恥じらった笑顔。

 あれは確か五月だ。今となっては名前を思い出せない彼は確か半袖のTシャツを着ていた。濃い色で、濃紺だったと思う。黒だったかもしれない。服装はとても重要なアイテムだ。私自身はまだ長袖だったと思う。モダンアミューズメントかAIGLEの長袖シャツだ。

 雨が降りしきっていた。

 地下のバーでは雨のことなど忘れてしまい、私は悪友と長いこと居座って酒を飲んでいた。ロングアイランドアイスティーだ。

 彼らが先にきていたのか、私たちより後に来たのかもう覚えていない。私と悪友は二人でカウンターにいたので、後ろのボックス席にはさほど注意を払っていなかった。

 君は四、五人のグループでボックス席にいた。見つけたのは、私の方だった。  彼を一目見て気に入った。胸が高鳴った。欲しいと思った。池内博之似のはっきりした顔立ちで、日に焼けた坊主頭だった。私も髪の毛が薄くなり始めていたのがみっともなかったので坊主にしていた。私は彼を見て一目で気に入った。

 酔った勢いで声をかけるほどの度胸はなかったが、悪友を利用して声を掛けさせるだけの知恵はあった。私は悪友に声をかけるよう頼んだ。こういう時、この悪友は肝が座っているのだった。彼らの仲間内に溶け込み、簡単に声をかけてくれた。  坊主頭の彼は恥じらった様子だったが快諾してくれた。私のことを気に入ったのかどうかはわからない。聞かなかった。とにかく話しをしてもいいと言ってくれたのだった。

 けれども彼は台湾系アメリカ人で日本語が話せなかった。彼とは英語で話すかたちになった。中国語ができるのかどうかは、尋ねなかった。日本には旅行に来ているだけなのだと彼は言った。取り巻きは彼の女友達やなんかだった。

 私と悪友は、彼らが座っているボックス席に移動して彼らの輪に入った。私はおずおずと坊主頭の彼の隣に座った。二人とも恥じらっていて、私は当時まだこういったことに慣れていなかった。彼と隣り合うと、坊主頭を二つ並べるかたちになった。

 残念なのは、坊主頭の彼の記憶が今では断片的で、いつの日か完全に記憶から失われてしまうかもしれないということだ。

 それは私にとって恐怖だ。

 坊主頭の彼、つまり池内博之似の男はアメリカの大学で建築学を学んでいて、日本に日本の伝統的な建築物を見学に来たのだと行った。入学した時は人類学を勉強していたが、興味を失い建築学を始めからやり直したとのことだった。私は、私の父も建築家だったと言った。

 年は私より一つ下で、当時26か27だったと記憶している。ずいぶん遅くまで大学にいるんだなと思った。私はもう6年も働いて何度も転職しているというのに。私はあの頃輝かしい人生を歩んでいた。外資系の香料会社に勤め、充実した毎日を送っていた。ジム通いはまだしていなかった。

 もう遅い時間だった。私たちは皆、酔いしれていた。  悪友は、坊主頭の彼以外の取り巻きと話をし、私と男が二人きりになれるよう取り計らってくれた。  胸の高鳴りが止まらず、彼が欲しかった。一方で、彼は単なる旅行者で、私たちに未来はないのだと気付いていた。それでも構わなかった。

 宴もたけなわとなり、もうとっくに真夜中は過ぎていた。

 頃合いを見計らったのか、どちらから言い出したのだろう、覚えていない、外へ出ないかと誘った。彼は笑顔で受けてくれた。彼は終始笑顔だった。私はどちらかといえば無愛想だ。

 私はあの頃まだ体が出来ていなくて痩せていびつな顔をしていたかもしれない。今では愛嬌のある中年の顔になったと自負している。

 あの頃の私はまだ若かった。アルファヌメリックやモダンアミューズメントの服を好んで着ていた。両方とも、今ではやっていないブランドだが。

 仕事も充実し、何もかもが楽しかった。飼っていたフェレットもまだまだ若くて元気だった。

 どんな話しをしただろうか。

 私たち二人は他の者たちを置き去りにして店を出た。二人きりで店を出て蛍光灯に照らされて廊下を渡り、地上に出てビルをあとにした。

 外はまだ雨が降りしきっていた。

 旅行者の彼は傘を持っていなかったので、私が持っていたビニール傘を二人で分かち合って相合傘をした。彼は私よりも5センチくらい背が高く、スタイルも良かった。私は少し彼を見上げながら歩いた。ビニール傘に大粒の雨粒が付着し前を見づらくした。私は男を見上げる方が好きだ、見下ろすよりも。

 どんな駆け引きがあったのか覚えていない。そもそも駆け引きなどなかったのかもしれない。ただ、二人とも恥じらいがあった。

 自然と、ラブホに入った。私はそれまで二丁目のラブホを利用したことがなかった。

 私が料金1万5千円を払うと、彼は半分払うとお金を差し出した。私はその手を押し戻した。この子は性格がいいんだなと思った。料金を負担しようとしたから言うのではない。地下のバーで話している時から感じていた。

 あの頃の私は東京を謳歌し、若さの中に浸りきっていた。いずれ年をとるなどと思ったことなど一度もなかった。彼もそうだったんだろうと思う。

 ラブホに入ってからもどうしていいのかさえわからず、最初は恥じらいおずおずとしていた。とりあえず置いてあったソファに二人で腰掛けたが距離は置いていた。次第次第に胸の高鳴りが高まり鼓動にかわり汗をかいた。

 少しずつだったが近付き、ソファで寄り添って話しをしていた。肩と肩が触れ合ったり、肩に頬を埋めたりしただろうか。

 彼は囁くように話しをしていた。私も囁くように話をしていた。真夜中すぎのホテルの一室で、囁くように身の上話しをしていた二人。

 手を繋ぎ、膝がくっついているというのに唇と唇の距離は遠く、とても縮まりそうになかった。

 けれども嬉しかったのは、たとえ一晩限りの相手とはいえ彼が私を気に入ってくれたこと。

 二人は恥じらっていた。私はすでに勃起していた。ずっと同じソファに隣り合って腰掛け、寄り添っていた。そのくせキスすら出来なかった。

 ぎこちない時間がしばらく流れた。酔っていたのに頭は冴えていた。

 ホテルの窓から、雨が降りしきっているのが見えたかもしれない。見えたとしたら、カーテンを閉めただろう。

 ちょっとずつ二つの坊主頭が近づき、お互いの体温を頬で確かめた。溢れたように腕を体に回した。

 そして長い長いキスをした。

 それからは速やかだった。二人で一緒にふざけあいながらシャワーを浴び、ベッドのシーツの上で肌を重ねた。彼の体はとても温かかった。体躯は無駄がなく、筋肉質だった。私はまだジムに通い始めていなかったので細身だったが、生まれつき肩幅が広く、少しなで肩でまだ体は引き締まっていた。

 照明は消さなかった。明るいベッドの上でお互いの体を眺め合った。彼は微笑を浮かべて私の裸を見た。お互いにずっと勃起していた。私は酔っていた。  体を撫であった。私はまだアナルセックスの喜びを知る前で、今考えるとおままごとのような愛撫を続けていた。

 それからお互いのペニスを口に含み、馬乗りになって口に突っ込み、そして体を入れ替えて相手にされたのと同じことをした。

 私たちは口数の多いセックスをした。やりながら結構喋った。私は酔いで回る頭をうまくコントロール出来なくなっていて、支離滅裂な会話をしていた。何を話したかはもう覚えていない。

 汗ばんだ若い肌が滑った。彼の背中に腕を回して強く抱きしめる。すると彼は私の上になり、私を抱きしめた。

 二人は揺れた。

 頭が揺さぶられるような感覚を覚えた。私は壊滅的に酔いが回っていた。しかしあの夜の二人は無敵だった。

 彼の顔は汗まみれで、ヒタイから頬をつたって顎まで来た汗がついに落ちて私の顔に垂れた。彼はそれを恥じたのか、少し顔を離して恥じらうように笑った。  その笑顔が、私の琴線に触れた。まるで真夜中の太陽のようだった。あの笑顔にやられてしまった。あの、あれから17年が経っても忘れられない瞬間が、雨の夜に君臨した。男は夜の太陽だった。

 その時、なぜだか私の片方の目から涙があふれた。あまりに甘美な太陽だったからだろうか。それは調香師に書いた。

 彼は気付いたのだろうか。私は彼のあの笑顔にやられてしまった。

 何かに駆られた。

 二人には未来がない、未来がないのだ。

 あとはもうお互いを貪るだけで精一杯になってしまった。乳首を舐め、ペニスを舐め、お互いにしごきあいながら射精した。酒に酔った壊滅的なセックスだった。  のちの私の経験からすると本当におままごとのようなセックスだった。

 けれども、彼は私の記憶に残ってしまった。私は彼のあの笑顔と、あふれ出した私の涙を忘れないだろう。忘れないように、書いておこう。彼の存在は私の記憶に君臨している。

 また一緒にシャワーを浴びて服を着た。もう明け方だ。

 一緒にホテルを出るとまだ雨が降っていた。彼が友達のうちに泊まると言うので、彼にビニール傘をあげて私はタクシーを拾って帰ることにした。

 また明日の夕刻、あの地下のバー、二人が巡り合った酒場で会おうと約束した。明日というか、もう今日だが日曜日だった。私は月曜から仕事だし、彼は東京を離れると言うので、もう会えるのは今日の夕刻だけだった。

 私は日がな寝て過ごし、夕刻、同じバーで彼と落ち合った。彼は女友達を連れてきていて、私は例の悪友を伴っていた。

 お互いボックス席に隣り合って座っていたが照れ臭くてろくに話しも出来なかった。

 彼は常に微笑を浮かべていて、私は淋しげな表情だったに違いない。

 私たちは寡黙だったがずっと手を繋いでいた。

 いい時間になったので、パソコンのメールアドレスを交換して帰ることになった。私は明日から労働の身分だ。

 最後にハグした。途方もなく心地の良いハグで、そして最後の抱擁だった。はたから見ても絵になっていたに違いない。彼は穏やかに抱いてくれた。

 そして、さよなら。

 もう二人は二度と会うことはないだろう。そう予感した。お互いの日常に戻ってゆくのだろう。

 出会いと別れが同じ場所で一度にやってきて私は混乱していたかもしれない。正直なところ、つらかった。

 彼とはもう会えなくなってしまったけれど、もう会えないことよりも、一度は会ってしまったことの方が今の私には大切に思えてならない。

 私は彼が今どこで何をやっているかなどと考えたことはない。なぜならあの数時間の二人は無敵で、私の記憶の中で君臨しているからだ。

 あの思い出があれば何か別に得ただろうものを失っても構わないとすら思うことがある。

(終)