Kiss

 わたしには忘れられないキスの思い出がある。あれは四月下旬の寒い晩のことだった。金曜日だったのも覚えている。連休前に急に寒くなったある夜。わたしは当時、東京の郊外に住んでいて、その晩はやけに夜が群青色だった。空には薄い雲がかかり、月は見えなかった。あのキスのことを思い出すと今でも心が痺れる。いちばんキスらしいキスで、あんなにキスらしいキスをあれから経験したかどうか自信がない。あらゆるキスの官能をすべて含んだとろけるようなくちづけだった。今でもそのキスの瞬間だけそっと切り取られ、記憶のやわらかくて黄色い場所に滲んでいる。

 黄色い印象が残っているのは、きっと、あの店の照明のせいだ。その晩、A子と新宿のバーにいた。A子は友達を呼んであるから一緒に飲もうと提案した。わたしたちは一足先にその店に入り、ショートカクテルを頼んだ。A子は酒が入るといつもとろんとした目になる。よく喋り、よく笑う。けれども羽目を外すというわけではない。わたしはあの晩、コム・デ・ギャルソンの春物のブルゾンを着ていた。わたしがいちばん服に金をかけていた頃で、また、似合ってもいた。まだずいぶん痩せていたし、髪も伸ばしても短くしても大抵きまっていた。首もひと回り細かったし眼鏡もかけていなかった。頬骨が張っていて生意気そうな顔、目は何ものをも見下しているような眼差しだった。靴も確か、コム・デ・ギャルソンだった。ソールが厚くて値も張ったやつだった。あの頃のわたしの目印だったスウェードのキャップも被っていたかもしれない。夜を限りなく愛していたんだ、あの頃。

 三上博史が本城裕二という名前で久保田利伸が書いた『夢 with you』をドラマで歌い、まずまずのヒットになった年だ。コピーライトは1993年。あれから十年が経った。

 やがて、Sが姿を現した。A子の友人で、今晩呼び出した男のことだ。Sを見たとき、わたしは欲しいと思った。欲望を感じた。何か、腹が空いて食べ物を食べたくなるような、どうしても欲しいお気に入りの服をウインドウ越しに眺めるような、そんな欲望だった。Sは紺色のスウェットシャツを着ていた。その上からでも筋肉のつき具合がわかった。水泳部だったという彼は全身が果実のように充実していた。割りと小柄で、セックスのときに扱いやすそうな身体つきだった。わたしは記憶を総動員し、目に見える彼の姿から、その体の弾力を想像してみた。彼の体は性的な魅力にあふれていた。わたしは欲しいと強く思った。やりたいと思った。

 あのときの、店の扉をくぐってこちらに近付いてくる彼の躍動を今でもよく記憶している。

 Sはわたしたちのテーブルにやってきた。A子はわたしたちを交互に紹介した。Sはカシス・ソーダを頼んだ。わたしは欲しそうな目でSの露出した部分を眺めた。例えば首、襟足。男の襟足を近くでじっくり舐めるように見るのがわたしは好きだ。Sはエロティックな肌をしていた。きめが細かく体毛がなく吸い付きそうな褐色の肌だった。汗ばんだ彼の肌に自分の肌を擦りつけると毛穴までが直接的に密着し吸着しそうだ。Sはエロティックだった。

 それからしばらくお喋りをした。夜九時の待ち合わせで、指を絡めたのが十一時過ぎだったから、二時間以上も喋ったはずだ。けれども何を話したかの印象はない。Sはたいした考えの持ち主ではなかった。趣味もありきたりだった。ようするにわたしにとってSは、やらせてくれればいい存在だった。それ以上の価値はなかった。Sに恋人がいると聞いたとき、わたしは落胆した。けれどもSのことも、ついでに恋人のことも軽く思っていた。Sとやりたい。Sも恋人もわたしの欲望の犠牲になっていい。そう思った。

 遅い時間になると店は混み合った。座りきれず、フロアに大勢の男たちが立って酒を飲んでいた。次第に店内は騒がしくなり、わたしたちは相手の口元に耳を近づけなければ会話できなくなってしまった。

「キミはどんな人がタイプなの」Sがわたしに尋ねた。

「さあ、どんなだろうね」

「オレみたいなんじゃないんだろうな」

「なんで?」

「さっきから、オレと目を合わせてくれないから」Sが言った。

「オレと目を合わせてくれないんだな」Sはもう一度繰り返した。

 わたしはそのときまっすぐにSの目を見つめた。見透かされたようで動揺した。この男は、わたしが彼を欲しがっていることをわかっていて憎たらしいことを言っている。けれどもわたしは怖れなかった。わたしはSの目をじっと見つめた。

「そんな目で見つけられるとヤバイ気持ちになっちゃうな」Sは嘯いた。

 恋人がいると打ち明けた後でわたしにそんなふうな誘いをかけてくるS。彼は確信犯だったにちがいない。

 Sは再びわたしの目を褒めた。そんな目で見つめられると、そんな気になってしまう、と。あの頃はわたしの目を褒める男が大勢いた。今はもう衰えてしまったし、さらにわたしは目が目立たぬよう眼鏡を掛けているのだけれど、あの頃はよく目を褒められた。わたしを気に入る男たちは大抵わたしの目に惹かれたのだった。今ではわかる。わたしの目が男たちを引き寄せていたのは、わたしの目が欲しそうに見つめるからだ。今では眼鏡を掛けてその特徴を隠そうとしている。

「なあ、その目」Sはわたしの目を覗き込みながら、テーブルの下でわたしの指先に触れた。指先に触れられたとき、わたしの指先がぴくりと跳ねた。指が跳ねたのだった。下半身にかすかな痺れが広がってゆく。少しためらったあとで、Sの手を握り返した。会ったばかりの男の指と交わす魅惑。わたしは若かった。

 わたしはSの指を取ってテーブルの下からそっと持ち上げ、それから握った手を口元まで運んだ。彼の中指の指紋にくちづけた。じっとSの目を見つめ、中指を口に含んで吸った。

 向こうから、ある男がわたしたちのテーブルに近付いてきた。今まで何度もしつこくわたしを誘ってきた男だった。何度シカトしても何度でも声を掛けてくる。「前にあったことあったよね?」「名前は?」とありきたりな台詞を繰り返す男だ。わたしはしらけて目をそらす。そして今度はその男を上目遣いに見上げながら、Sの指を第二関節までフェラチオした。

「その舌使い、勃ってきちゃうな」Sはわたしを見ながら言った。A子は呆れ果てて顔をそらしている。わたしは側に立ち尽くしていた男の存在を完全に無視した。男は遠ざかってしまった。

 今度はテーブルの上で指を絡め合った。何人かの男たちがわたしとSを面白そうに見た。成り行きを見守っている。視線に晒されても意に介さないわたし。わたしはさらに深く指を交わした。黄色い照明の下で指が溶けあう。店内の喧騒が焦燥を募らせる。夜の片隅で、夜の中へと飛び込もうと決めたのだった。

 黄色い照明の店内から夜へとふたりで飛び込む瞬間の溶け出しそうな身の竦みを、今でも忘れない。時計の針は十二時を大きく回り、わたしは終電を逃してしまった。もういい時間だったので、店を出ることにした。Sはわたしを車で送ってくれると申し出た。もう少し遊んでからタクシーで帰ると言うA子を残し、Sと店を出た。A子はわたしにめくばせした。真夜中過ぎの喧騒に包まれた酒場を後にするとき、男たちの羨望の眼差しに晒された。扉をくぐり、スプレー缶のラクガキが所々にあるビルの階段を下った。Sと手をつないで、階段を下った。酔いのせいなのか、Sと手をつないで興奮していたのか、わたしは妙に楽しくて笑った。笑った後、せつなくなった。決して手に落ちないだろうS。けれどもわたしは夜に賭けた。夜に挑戦した。朝になればきっと夢のように消えてしまう時間を果敢に過ごそうと夜を駆けることにした。わたしは笑った。Sも笑っていた。

 人気のない暗い通りを手をつないだままよぎり、車を停めてあるところまで歩いていった。筋肉質なSの体、肩から少しこちらに向けられた背中のあたりを眺めながら、手を引っ張られるように彼について歩いた。彼の体が眩しかった。夜の中の太陽。やがて駐車場に着いた。Sはポケットからキーを取り出す。鍵を回す音、そして扉が開かれる。引き締まった肉体が運転席へと踊る。わたしも慌てて車に乗り込む。

 ドアを閉じる瞬間が好きだ。そのあとに包まれる密室感も。これから時が始まるのだとわかると胸が躍る。鼓動が膨れ上がる。今宵、都会の中でいくつの密室が膨れるのか。

 今振り返ると笑っちゃう。Sは、わたしについて、この男とならアトクサレなくやれるだろうと思ったにちがいない。今考えるととてつもない素材だったわたし。たくさんの男から欲しがられ、アトクサレなく体を捧げることに同意していたわたし。わたしはSとやりたかった。

 車は滑り出した。きらびやかな街の夜景が窓の外を流れる。太腿に車の振動が伝わる。胸が高鳴る。わたしは欲しくなる。けれども今はただフロントグラスの向こうをじっと凝視している。光の泡たちを眺めている。

 Sは運転しながらよく喋った。そんなにおしゃべりになる必要はないのにとたしなめたくなるくらい、Sはよく喋った。わたしも答え、よく喋った。車は都会を抜け、郊外にあるわたしの部屋へと向かった。わたしは車の運転をしない。まったくSにまかせっきりで、道に関してはまったくアイデアがなかった。どこへ向かっていてもよかった。まったくSにまかせてしまった。

 都心を過ぎ、込み合った住宅区を通り抜けると徐々に道がすいてきた。もう二時近かった。Sは妹の話をした。それから近所に住んでいる恋人の話を。恋人の近くに住みたくてSは引越しまでしたのだと言った。

 車の影が少なくなり、Sはアクセルを踏んだ。車は制限速度を越えて走った。夜は深くなる。深い深い夜へと駆ける。あの黄色い照明の店から遠ざかる。わたしはシートに身を深く埋め、眠気と興奮の混ざり合った妙な感覚に浸っていた。Sの、囁くような低い声に耳を澄ましていた。顔を横に向け、あいつの横顔を凝視した。夜の道の流れゆく景色を切り取る精悍な横顔の線と一重瞼。しばしば、彼の顔が擦れ違う車のヘッドライトに照らされ褐色に色付く。正面を見据える瞳がきらりと輝く。午前二時。わたしはそっと手を伸ばしてギアに置かれたお前の手を握った。Sは文句を言わなかった。指を絡めた。手を触れ合うことにどれだけ時間を費やしたか。恋の予感に、いままでどれだけ時間を費やしたことか。

 他に車の影がなくなってしまった。

 信号機は律儀に役割を果たしている。黄色から赤へと変わった。

「無視しろよ」わたしはSを試した。

 言うのと同時に、Sはブレーキを踏んだ。そして急にこちらに目を向けた。

 引き合うように、キスをした。空っぽの道路の真中に車を停めて、長い長いキスをした。

 唇から痺れが広がり頭が溶け出した。動けなかった。体が固まって動けなかった。魔法が解けたように動きを取り戻すと、わたしは急かされるようにSの首に腕を回した。キスは長いこと続いた。彼の息に混じるアルコールの匂い。妨げる空間をこじ開けた証しの体温。とろけるように、匂いたつように、温かかった。頭の中がぜんぶ溶け出してしまうのが不安で、確かめるように彼の肩の形をまさぐった。彼の肩の筋肉は硬かった。紺色の綿のトレーナーの柔らかい生地を手のひらでさすった。長い長いキスをした。ようやく唇を離し彼を見つめようとすると、Sは車を出した。信号が青になっていたのだった。

 車はまっすぐに走った。それからまた信号に掛かった。もう他に車の影はなかった。再び求め合った。口付けをした。それからはもうためらいもなく体と体をまさぐりあった。彼はわたしの股間に手を伸ばし、もう反応して勃起しているのを知ってキスをしながら笑った。わたしも笑った。キスをしながら声に出して笑った。わたしはSの脚の間に手を差し込んだ。熱かった。勃起した性器の形をジーンズの上からなぞり、親指と人差し指でつまんで擦ってみた。それから今度はSの引き締まった胴体をがっしりと掴んだ。今考えるとおそろしいほど引き締まった若い体だった。Sは小柄で全体的に小ぶりだったがちょうど扱いやすく、どこに手を置いても触り心地がいいくらい、どこも引き締まっていた。たるんだところなどどこもなかった。わたしはそれらのすべて、くぼみもでっぱりもなだらかな丘陵にも鎖骨にも触れてみた。肩に手を掛けるとちょうど鎖骨が掌の下になってコツリとアクセントになった。Sの唇はなめらかで、わたしは悲しくなるほど感じていた。母親に置き去りにされたような不安の穴に落ち込み、わたしは感じていた。勃起した性器の先は先走りで濡れていた。下着の中であふれ返るのがわかった。耳から血が出るほど興奮していた。ドクドクと、耳の中で脈打っていた。行き場を失った膨張が、体内であふれ返っていた。深夜の道路にほかに車はなく、赤信号に掛かるたびにわたしたちはキスをした。車内の空気はわたしたちの唾液で湿ってしまった。信号に掛かるたびにキスをするうち、わたしの住む部屋の近くまで迫っていた。二人の体は熱く、夜は熱をはらんでけれども暗く暗く、辛いほどきらめいていた。

 車が速度に乗って走っている間は正面の景色を眺めていた。郊外の、田畑が広がる夜の景色。わたしの住む町の風景がこんなふうに映るとは知らなかった。熱い熱のような塊の中にもすっと透き通るような感覚が過ぎる。わたしは子供のようにその感覚を求めていた。時計なんかもう要らなかった。この感覚に浸っていられるならば。民家の庭先には松の木がいびつな形に枝を伸ばしている。その前を過ぎり、わたしはあと少しで家に着くとSに告げた。Sは速度を落とした。

 やがて車はわたしの住む家のすぐ手前で止まった。三人でシェアしていたぼろぼろの一軒家だった。車が止まるとわたしたち二人は再び求め合った。唇を交し合い、指を絡め、お互いの肩の線を確かめ合った。ジーンズの上から股間を握り合った。信号に掛かるたびに繰り返していた戯れをここでまた一からやり直した。家の近所だったので、人目が気になった。でももう止まらなかった。この男が欲しいと思った。わたしは部屋に来るようSに懇願した。情けないほど懇願した。プライドも何もなかった。わたしは懇願した。

「ここでやらろうぜ」Sは言った。

 一瞬、わたしは固まった。完全に捨て去っていたと思っていたプライドが蘇ったのだった。わたしは車の中で済ませられるのは嫌だった。わたしはもう一度、部屋に来て欲しいとSに懇願した。

「ここでやろう」Sは同じ台詞を繰り返し、わたしの唇をふさぎながら服を脱がそうとした。

 反射的に、わたしはSを押し返した。そして車のドアを開けて外へ飛び出した。Sは窓を開けて後ろからわたしに声をかけたが、追いかけて来ようとはしなかった。わたしはそのまま早足で家に入った。後ろ手に扉を閉め、玄関のドアを背にしばし呆然とした。頭の中は真っ白だった。一分もしないうちに後悔と男の残り香が押し寄せて来てわたしは動揺した。家に駆け上がり、冷たい水で顔を洗った。しつこいくらいに何度も何度も顔を洗った。冷たい水は心地よかった。男が肌の上に残した匂いをぜんぶ洗い流したかった。けれども消えず、ベッドに入ってからも、男の感触は体中に残っていた。例えば唇、舌、指先、指紋の擦れ、手のひらの掴む感覚、それらが体中を覆い、いつまでも体が熱くて眠れなかった。眠れないまま、外が白み朝がやって来た。

 この物語はこれでおしまいだ。オチも何もない。けれども、彼のことをすぐに忘れられたと言うと嘘になる。それから後、彼に連絡を取ろうと一度もしなかったというと嘘になる。わたしは何度も連絡をしようとし、電話の前で待つという日々を過ごしたのだった。あと少しのところで思いとどまったか、それとも何度電話しても留守電だったかだ。あのとき車の中でやっておけばよかったと思うことが正直、ある。あのままでよかったと思うことも。どうせ感触なんていつかは忘れてしまうのだ。いくら体の表面を撫でまわし、口に含んだとしても、それらはやがて確信の持てない幻影になってしまうのだ。けれどもあの男の印象はまだ残っている。今でも目を閉じるとあの真夜中の太陽がよみがえる。

(終)

文中にあった、久保田利伸が書いた「夢 with you」↓ Amazonに飛びます。まだCDがあってびっくりしました(笑)