作・リュッツォ
(掲載時筆名・広岡智)
夕暮れのグランドはなぜかさびしく、駆け抜ける風は冷たくて、ぼくはブルゾンの胸をかき合わせた。ひざの上に開かれた本のページは、夕日に赤く染まり、風が吹くたびにぱらぱらと音を立てておどっている。フェンス越しに、練習を終えた選手達が小気味良い駆け足で引き上げていくのが見える。
その中に久保田がいた。
「おーい、広岡」
ぼくに気付いた彼は、ヘルメットを小脇に抱えて走ってきた。
「やあ」
ぼくは、軽く手を挙げて挨拶する。
「なんだ、お前、また見てたのかよ。よっぽどアメフトが好きなんだなあ。だったら入部すればいいのに」
「いまさら…」
ぼくはそう言って笑顔を作ったが、ぼくの気持ちに気が付かない彼を恨めしく思ってせつなくなった。ぼくが好きなのはアメフトなんかじゃなくて久保田なのだ。
「そうやって本ばっか読んでないでさあ、体を動かせよ」
久保田は、屈託のない笑顔を浮かべた。
「そうだね…」
彼の笑顔につられて、ぼくの顔はほころんだ。だが、胸の底に広がる酸味はますますぼくを落ち込ませる。
「なあ、もうちょっと待っててくれないか? 一緒に飯でも食おうぜ」
久保田は元気のいい声でぼくに呼びかけ、そしてサークル棟の方へ走って行った。
彼が姿を消してしまうと、ぼくはひざの上の本を閉じてベンチを立ち、あたりをぶらぶらと歩いて彼を待つ。何をやってもがさつで早い彼は、すぐに着替えをすませて出てきた。彼の盛り上がったジーンズの太股を見て、ぼくはいけないことをしているような気になって目をそむける。
「お待たせ。いつもの店に行こうぜ」
久保田は、ぼくの背中をぽんぽんと手のひらでたたいた。日に灼けた彼の笑顔は夕日に染まってますます赤らんでいる。彼はさっさとぼくの前を歩き始めた。ぼくはわざと遅れて歩き、彼の広い背中を見つめてまたせつなくなる。久保田の姿を見つめていられるのも、あと半年足らずだ。ぼくたちには卒業が迫っていた。
正門を出て駅へと向かう道をまっすぐに歩くと、クラスの連中でよく行く喫茶店がある。ぼくたちはそこに入った。今日は知った顔もいない。馴染みのウエイトレスがやって来たので、ぼくたちはそれぞれの注文を告げた。
「ねえ、彼女とはうまくいってるの?」
ぼくは久保田に何気なく聞いてみた。
「いまいちうまくいってねえなあ」
「そう…、たいへんだね」
ぼくは妙な期待さえ抱いてしまう。
「お前こそどうなんだ? 彼女は出来たか」
「ぼくにはいないよ」
「お前って、変な奴だよな。四年間、女の一人も作らないで本ばっか読んでてよ。興味ねえのか?」
「そういうわけでもないけど…」
彼の他意のない質問が、ぼくにはやはり恨めしくて仕方がない。
「ギラついたところがないもんな、お前。まあ、でもそこが俺にとって付き合いやすいところなんだけどよお。部の連中なんてむさ苦しくてやってられねえよ。みんな獣だぜ」
大柄な久保田は肩をすくめて言った。
「ぼくみたいにみんなに加わらずにいつもひとりぼっちの人間、軽蔑してない?」
ぼくは、久保田をまっすぐに見つめて言った。普通の人なら「ぼくみたいな男」と言うのだろうが、ぼくは自分のことを「男」とはどうしても呼べない。いつも「人間」とか「人」とか言っている。
「そんなことねえよ。お前は不思議で、いろんな意味で魅力があるぜ。なんか、よくわからないけど…」
久保田は、ぼくの視線に押されたのか、見返すことが出来ずに目をそらした。
二人でなんとなくもじもじしていると、料理が運ばれてきた。久保田はものすごい勢いでがつがつとかき込み、あっと言う間に平らげてしまう。彼はいつもおいしそうに食べた。
「今年で卒業だな」
「そうだね…」
ぼくは言葉に出来ない思いをかみしめた。
「お互い同じところに就職が決まったし、良かった、良かった」
「ああ…」
ぼくは言葉を濁した。
ぼくはこれからも久保田と一緒にいたいというだけで、興味もない商社の入社試験を受け、内定を貰っていた。だが、こんなのでいいのだろうかという疑問もあった。
「卒業旅行、どうするの?」
「俺? さあな…。お前は?」
「まだ決めてない。行くかどうかもわからないよ」
「どっちみち、クラスのみんなで一度くらい何かやるだろう。お前も顔くらい出せよな」
「たぶん…」
「お前はつきあいが悪いからなあ」
別に好んで人をさけているわけではなかった。酒の席の女の話に耐えられないだけなのだ。とくに久保田の彼女の話を聞くのはつらかった。
「それじゃあ、そろそろ帰るか?」
久保田とぼくは店を出て、駅への道を肩を並べて歩いた。並べたと言ったって彼の方が十センチくらい高いのだが…。日はとうに暮れてしまい、冬が近づいていることを示すもの悲しげな闇が商店街をおおっている。照明が乾いた空気ににじむ様がますますさびしい。
「気をつけて帰れよ」
「久保田も」
ぼくたちは駅で別れて別々のプラットホームに降りた。しばしのあいだ向かい合っていたが、駅に入った電車が久保田のあどけない微笑みを隠してしまう。ぼくは久保田が時々見せる子どものような笑顔が好きだ。それをもう一度見ようと向かいのホームに目を凝らしたが、彼の姿は見えなかった。
久保田はぼくより一回上だったが、アメフトに打ち込みすぎて二年生に進級できなかったため、ぼくが入学したとき彼は同じクラスだった。久保田には、留年生にありがちな卑屈で投げやりな態度はまったくなく、ぼくたち新入生とすぐに仲良くなった。
大柄な陽気者の彼は、いつもみんなを笑わせていたのでクラスの人気者だった。女の子の間でもずいぶんとモテていたが、あんがいに純情なところもあってなかなか女の子と口がきけないでいた。それと、せっかくできた仲間を差し置いて女にかまけるという事が出来ない性格らしい。クラスではいつもぼくたちの仲間とつるんでいて、授業が終わるとすぐにアメフト部へと走っていった。
ぼくは、彼の無垢で男らしいところが好きになった。彼の素振りから、彼がぼくを好きだということもすぐに判った。成績だけは良かったぼくを、彼はいつも尊敬のまなざしで見ていたのだ。そしてぼくも、自分にはない男らしさを持った彼にしだいしだいにひかれていった。久保田とぼくが仲間の中で特に気が合うというわけではなかったが、二人きりで話している時はなんとなくほのぼのとした雰囲気になって、彼といるだけで気分が晴れやかになったものだった。
だが、ぼくは二人の均衡を狂わせてしまった。彼に恋をしてしまったのだ。彼と時を過ごしているうちに、彼を単なる友達ではなく、特別な存在と見なしている自分に気が付いた。彼のことで頭がいっぱいなのだ。
ぼくたちは、よくみんなで食事をしたりドライブに行ったが、久保田だけが他の誰とも違って見えた。それまでに何度か男に恋をしたことがあったが、少年期に誰もが経験する一過性の同性への憧れだと思っていた。久保田に恋をして、それが単なる気まぐれでもなんでもないことを知り、ぼくは烙印を押されたような気分になって自分を責めたりした。
それでも久保田が好きで仕方がなかった。ぼくはいつも彼を見つめ、この想いが彼に伝わることを願っていた。しかし、ぼくの心の叫びはむなしく響き、彼の耳に届くことは決してなかった。
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