イラストレーター

 もう書くことなんて出来ないと、何度も思った。けれどもわたしはその思いすら書こうとしている。

 うたた寝をしているすきに、あなたは大まかな輪郭線を描き上げていた。肩を枕に眠っている僕の横顔。白い上質紙に黒い鉛筆で描かれたデッサンの眩しさ。浅い眠りから目を覚ますと、あなたは紙に顔を伏せて絵を描いていた。そんなことだろうと思ってのぞきこむと、思っていた通り、僕の似顔絵だった。床から起き上がってそばに行った。

「何?」

「ちょっとラク描きさ」

 あなたの手元から紙を奪い、少し離して眺めてみた。肩の辺りに頬を埋めて眠りこける僕の輪郭線。あなたの視線からは僕がこんなふうに映っていたのかと思うと、不思議な気持ちになる。

「こんなことしてないで、さっさと仕事を片付けなくちゃ」

 半分だけ開いた窓から五月の風が穏やかに吹き込む。高いところの電線もたわむ様子もなく、ひろがりのある風がゆっくりと移動している。にぶみはないが完全透過でもない微妙な色の空は高い。空が高いだけで、胸がキュンとする。

「仕事、仕事」

「ちょっと疲れちゃったよ」

 そう言ったあなたは僕の隣りにきて寝そべった。目を閉じた横顔を眺める。風がさっと部屋を抜ける。近寄って、あなたの頭を軽く抱く。部屋は陽の反射だけできらめいている。頬を寄せる。目を開くと、目の前に、貝殻のようなあなたの耳。健康的な褐色と形のよさに感嘆してしまう。そっと口をよせてあなたの耳を噛む。すると僕の耳のすぐそばでかすれた吐息が聞こえる。それはすうっと耳の空洞に滑り込む。頭蓋骨の内側に光が染み渡る。

 生きていると、ごくたまにそういう瞬間がある。よく憶えておいて、あとから紙に書き綴る。ほんの欠片のような言葉のこともあれば、拙くつながってゆくこともある。あなたは僕が書いた言葉たちに絵を付けてくれる。

 僕が書いた小説と、あなたが添える挿絵。別々の部屋で描かれた物語。並べられたペンネーム。それが今では、あなたが僕のそばで絵を描いているだなんて。ひとりぽっちで書いていた頃には思いもしなかった。

 耳に口付けたままずっと目を閉じていた。ふたりとも眠ったりはしなかった。抱き合った体を優しく撫でていた。それからセックスをした。窓の外の、剥き出しの大気から風がそよいでいた。彼の机の上の紙がひるがえって少し音を立てた。セックスが終わると日が暮れかかっていた。一日って本当に短い。会話をして、セックスをするだけで終わってしまう。ひとりでいると、なんて長いのに。

 長いあいだ小説を書いてきて、ある時、思い切って作風を変えてみた。物語の進行よりも言葉のリズムと文章のテンポにこだわった。たぶん、音楽に合わせて走るようになったからだ。走っている間は、自分のペースよりも音楽の速度を優先する。小説を書くときは、自分のリズムに耳を傾ける。いっそのこととペンネームを替えて別の雑誌社に送ってみたら、あっさりと採用された。平坦な物語に、ほんの少しだけ自分自身の素性を染み込ませた小説だった。掲載された雑誌が手元に届くときはいつも緊張する。ペラペラとめくると、襟足の凛々しい精悍な男の後ろ姿のデッサン画が目に飛び込んできた。それから僕の作品の題名。僕の名前に並べられた「挿絵・Y」。それがあなたの名前だった。

 その鉛筆デッサンのトーンに息を飲んだ。綿密で繊細な絵だった。セクシーで、それでいて清潔な空気感を持っていた。純白の下着のようだった。しばらくの間、その絵を眺めていた。描いた人はどんなだろうかと、不思議に思った。自分の小説をペラペラと読み返したあとは、しばらくその絵に目を奪われていた。

 ひと月ほどたった頃、編集部から電話があった。あの作品、好評でしたよ。ぜひ、次も書いてもらえませんか。僕は二つ返事で申し受けた。そちらから何かありますか。編集担当に質問されたとき、僕は思い切って言ってみた。また同じイラストレーターさんにお願いできませんか。ええ、いいですとも。あの方は仕事が丁寧だし何と言っても早いんですよ。それにいい男だしね。編集担当はそう含み置いて笑って電話を切った。

 それから数日間、僕は小説に没頭した。ワープロに向かってぽつぽつとキーを打ち、時に音楽に耳を傾け、疲れては床に寝転がった。物語を進め、登場人物たちと歌い、痛みを呟き、一緒に泣きながら物語を進めた。編集部宛てに一筆添え、封をして投函した。

「来月号の掲載予定です」件の編集担当から電話が入った。

「それで、イラストは」僕が最初に尋ねたのは挿絵についてだった。

「リクエスト通りYさんです。ちょうど今頃、描いてくれているところですよ」

「そうですか。ありがとう」

「今回の作品もいいですね。編集部での評判も上々ですよ。また次も是非」

 小説を褒められると、自分の作品が少し遠くへいってしまう気がする。子供が少し成長して他人の目にとまってしまったように。

 そうは言われても、褒められたからといって、そうそう次が書けるものじゃない。ともあれ編集部が目を掛けてくれているのは嬉しかった。頭をひねっても物語が浮かばないまま時がたち、やがて前作の掲載号が手元に届いた。ドキドキしながらページをめくった。自分が書いた小説はわかっている。それよりも、どんな絵が付いているのか気になった。またしても驚かされた。前とはちがう雰囲気だった。けれどもYさんの手によるものだとすぐにわかるタッチ。やはりセクシーだが清潔感のある風合いだった。きっと、物語にあわせてくれたのだと思った。そうか、読んでくれたんだ。彼は僕の小説を読んでくれたんだ。ストーリーに似合った、影のやさしい絵を、長いあいだ見つめていた。

 この人の絵はいつも僕を驚かせる。どんな物語を書けば、今度はあっちが驚くかな。そう思うと急にストーリーが浮かんできた。この描写に、あの人はどんな絵をつけるだろう。この文章は、ひとりのイラストレーターに情景を浮かばせ得るだろうか。僕はまるで、対話するように文章を綴った。いつもと同じ手法で、まずは思いついた言葉を書きとめておいて、それからワープロに向かってキーを打った。ジムへの行き来の電車の中で急に言葉が浮かぶと、携帯から自宅にメールを送っておいた。時には会社のPCからメールを送ることもあった。

 昼休憩、窓からは、くつろいだ会社員の姿が見える。天気のいい日などにはシャツの袖をまくり、ネクタイを緩めて遊歩道をゆっくりと行き来している。満ちた胃の消化活動と同じペースの歩行。肩に当たる陽光。

 ランチの後、そんな情景を眺めながら不意に文章が思い浮かぶことがあった。ゴミ箱から伝票を拾い上げてそのセンテンスを裏に殴り書きし、通勤鞄に忍ばせて持って帰ることもあった。

 書き始めると、早かった。書いているときの幸福感。創造した男たちの息遣いに耳を澄ましながら、一方でまだ見ぬひとを想像する幸せに満ちた時間。ときにはYさんのことは忘れて物語に埋没し、けれどもたまには思い出して文章を変えてみる。ちょっと変化をつけてみるだけでも楽しかった。ひとりの挿絵家が読むという前提で書くということは。

 書きながら聴いていた Blondie の歌詞が耳に引っ掛かって辞書をひいてみたりする。世の道理を延々と考えてみたりするような愚行とはかけ離れた場所で、ひとりきりの時間を噛み締める。夢中になっていると、些細なことは消えてなくなる。

 そんなふうになれるのはうたかたで、物語に終わりがきてしまうと、それ以上長引かせることも許されず、泡はしぼんでなくなってしまう。終わりが来たときに終わらせなければならないのは宿命だ。時には最後の一行を書きながら泣いていることもある。

 洗濯して窓辺に干した綿のパジャマ。印字している間に乾いたかどうか触ってみたりして。出力した原稿の右上を綴じて、封筒の封をして、最後の最後に宛名を書いて…。

 住所を書きかけてやめた。受話器を取って編集部に電話してみた。

「遅くにすいません。まだいらっしゃいましたか」

「はい。いつもこれくらいまでは」と編集担当者。

「あの、新しいのが出来たんです」

「ああ、そうですか。その気になってもらえましたか」

「それで、もしご迷惑でなかったら、持参したいんですけれど。うちからそう遠くはありませんし」

「迷惑だなんて」

 そういうわけで、原稿を持って編集部を訪ねた。雑多なデスクに座らされ、冷たいお茶を出してもらった。編集部を訪ねるなんて初めてだった。窓もブラインドも閉めっぱなしで、どこを見ていいのかわからないのでカレンダーを眺めていた。僕は緊張していた。

「すいません、お待たせして。いつもバタバタしてましてね」編集担当のKさんがそう言いながらキャスターの付いた椅子に腰掛けた。そのときの、ギシッという音にすらドキリとする。

「こちらこそお忙しいときに」

「いえいえ」

 出向いたのは土曜日の昼過ぎで、けれども編集部には数名の部員が行き来していた。

「原稿をお持ちしました」

 封筒を開けて、持参した原稿をKさんに渡した。渡す前に、デスクの片隅を借りて原稿の端をトントンと揃えた。

「タテイシさんはいつも綺麗に綴じてくれてますね。そうじゃない作家さんが多いんですよ」と笑うKさん。

「そうですか」初めて言われることだったので、どうしていいかわからず曖昧に笑った。

「タテイシさんは文章と本人が一致しているタイプですね。まったく正反対か、どちらかですよ。まずはどちらかです」