イラストレーター

Jさんに

 もう書くことなんて出来ないと、何度も思った。けれどもわたしはその思いすら書こうとしている。


 うたた寝をしているすきに、あなたは大まかな輪郭線を描き上げていた。肩を枕にベッドで眠っている僕の寝顔。浅い眠りから目を覚ますと、あなたは机の上の上質紙に顔を伏せて絵を描いていた。そんなことだろうと思ってベッドから起きてのぞきこむと、思っていた通り、僕の似顔絵だった。もう一歩、そばに行った。白い上質紙に黒い鉛筆で描かれたデッサンの眩しさ。
「何してるの?」
「ちょっとラク描きさ」
 あなたの手元から紙を奪い、少し離して眺めてみた。肩の辺りに頬を埋めて眠りこける僕の輪郭線。あなたの視点からは僕がこんなふうに映っていたのか。不思議な気持ちになる。
「こんなことしてないで、さっさと仕事を片付けなくちゃ」
 半分だけ開いた窓から五月の風が穏やかに吹き込む。部屋の中から見える高い位置の電線もたわむ様子もなく、ひろがりのある風がゆっくりと移動しているのがわかる。にぶみはないが完全透過でもない微妙な色の空は高い。空が高いだけで、胸がキュンとなる。
「仕事、仕事」
「ちょっと疲れちゃったよ」
 そう言ったあなたは、ベッドへ行って寝そべった。僕も隣に寝そべり、目を閉じたあなたの横顔を眺める。風がさっと部屋を抜ける。もっと近寄って、あなたの頭を軽く抱く。部屋は窓から差し込む陽射しの反射できらめいている。頬を寄せる。目を開くと、目の前には形のいいあなたの耳。健康的な褐色と耳たぶのほどよい膨らみに感嘆してしまう。そっと口をよせてあなたの耳たぶを噛む。すると僕の耳のすぐそばでかすれた吐息が聞こえる。それはすうっと耳の空洞に滑り込む。間近にいるあなたの吐息が僕の頭の中でかすれては遠ざかっていく。嬉しいような淋しいような、コツコツと頭蓋骨を叩かれるような感覚。
 生きていると、ごくたまにそういう瞬間がある。よく憶えておいて、あとから紙に書き綴る。ほんの欠片のような言葉のこともあれば、つたなくつながってゆくこともある。あなたは僕が書いた言葉たちに絵を付けてくれる。
 僕が書いた小説と、あなたが添える挿絵。別々の部屋で描かれた物語。並べられたペンネーム。それが今では、あなたが僕のそばで絵を描いているだなんて。ひとりぽっちで書いていた頃には思いもしなかった。
 耳に口付けたままずっと目を閉じていた。ふたりとも眠ったりはしなかった。抱き合った体を優しく撫でていた。それからセックスをした。窓の外の、剥き出しの大気から風がそよいでいた。彼の机の上の紙がひるがえって少し音を立てた。長い時間をかけてセックスをした。ふたりはどちらがどうというわけではなかった。お互いを撫でたり口でしたりして時間を費やした。セックスが終わると日が暮れかかっていた。一日って本当に短い。会話をして、セックスをするだけで終わってしまう。ひとりでいると、なんて長いのに。


 長いあいだ小説を書いてきて、ある時、思い切って作風を変えてみた。物語の進行よりも言葉のリズムと文章のテンポにこだわった。たぶん、音楽に合わせて走るようになったからだ。走っている間は、自分のペースよりも音楽の速度を優先する。小説を書くときは、自分のリズムに耳を傾ける。いっそのこととペンネームを替えて別の雑誌社に送ってみたら、あっさりと採用された。平坦な物語に、ほんの少しだけ自分自身の素性を染み込ませた小説だった。掲載された雑誌が手元に届くときはいつも緊張する。ペラペラとめくると、眉が凛々しく精悍な顔立ちの男の全体像のデッサン画が目に飛び込んできた。それから僕の作品の題名。僕の名前に並べられた「挿絵・YASU」。それがあなたの名前だった。
 その鉛筆デッサンのトーンに息を飲んだ。緻密で繊細な絵だった。セクシーで、それでいて清潔な空気感を持っていた。しばらくの間、その絵を眺めていた。描いた人はどんなだろうかと、不思議に思った。自分の小説をペラペラと読み返したあとは、しばらくその絵に目を奪われていた。
 前の雑誌で小説が掲載された時は挿絵家が有名な方だったので、その時とは別の感覚を持って眺めていた。僕の小説に絵をつけてくれたのはどんな人なんだろうと。
 ひと月ほどたった頃だったろうか、編集部から電話があった。あの作品、好評でしたよ。ぜひ、次も書いてもらえませんか。僕は二つ返事で申し受けた。そちらから何かありますか。編集担当に質問されたとき、僕は思い切って言ってみた。また同じイラストレーターさんにお願いできませんか。ええ、いいですとも。あの方は仕事が丁寧だし何と言っても速いんですよ。それにいい男だしね。編集担当はそう含み置いて笑って電話を切った。
 それから数日間、僕は小説に没頭した。パソコンに向かってぽつぽつとキーを打ち、時に音楽に耳を傾け、疲れては床に寝転がった。物語を進め、登場人物たちと歌い、痛みを呟き、一緒に泣きながら物語を進めた。編集部宛てに一筆添え、封をして投函した。
「来月号の掲載予定です」件の編集担当から電話が入った。
「それで、イラストは」僕が最初に尋ねたのは挿絵についてだった。
「リクエスト通りYASUさんです。ちょうど今頃、描いてくれているところですよ」
「そうですか。ありがとうございます」
「今回の作品もいいですね。編集部での評判も上々ですよ。また次も是非」
 小説を褒められると、自分の作品が少し遠くへいってしまう気がする。子供が少し成長して他人の目にとまってしまったように。
 そうは言われても、褒められたからといって、そうそう次が書けるものじゃない。ともあれ編集部に目を掛てもらえていのは嬉しかった。
 けれども頭をひねっても物語が浮かばないまま時がたち、やがて前作の掲載号が手元に届いた。ドキドキしながらページをめくった。自分が書いた小説はわかっている。それよりも、どんな絵が付いているのか気になった。またしても驚かされた。前とはちがう雰囲気だった。けれどもYASUさんの手によるものだとすぐにわかるタッチ。やはりセクシーだが清潔感のある風合いだった。きっと、物語にあわせてくれたのだと思った。
 そうか、読んでくれたんだ。彼は僕の小説を読んでくれて絵を描いてくれたんだ。ストーリーに似合った、影のやさしい絵を、長いあいだ見つめていた。
 この人の絵はいつも僕を驚かせる。どんな物語を書けば、今度はあちらが驚くかな。そう思うと急にストーリーが浮かんできた。この描写に、あの人はどんな絵をつけるだろう。この文章は、ひとりのイラストレーターに情景を浮かばせ得るだろうか。僕はまるで、対話するように文章を綴った。いつもと同じ手法で、まずは思いついた言葉を書きとめておいて、それからパソコンに向かってキーを打った。ジムへの行き来の電車の中で急に言葉が浮かぶと、スマホに保存しておいた。
 会社の昼休憩。窓からは、くつろいだ会社員の姿が見える。天気のいい日などにはシャツの袖をまくり、ネクタイを緩めて遊歩道をゆっくりと行き来している。肩に当たる陽光が一段と眩しくなってきた。
 ランチの後、そんな情景を眺めながら不意に文章が思い浮かぶことがあった。会社に戻るやいなやゴミ箱から伝票を拾い上げてそのセンテンスを裏に殴り書きし、通勤鞄に忍ばせて持って帰ることもあった。
 書き始めると、早かった。書いているときの幸福感。創造した男たちの息遣いに耳を澄ましながら、一方でまだ見ぬひとを想像する幸せに満ちた時間。ときにはYASUさんのことは忘れて物語に埋没し、けれどもたまには思い出して文章を変えてみる。ちょっと変化をつけてみるだけでも楽しかった、ひとりの挿絵家が読むという前提で書くということが。
 書きながら聴いていた Blondie の歌詞が耳に引っ掛かって辞書をひいてみたりする。世の不条理を延々と考えてみたりするような怒りの作業とはかけ離れた場所で、ひとりきりの時間を噛み締める。夢中になっていると、些細なことは消えてなくなる。
 そんなふうになれるのはうたかたで、物語に終わりがきてしまうと、それ以上長引かせることも許されず、泡はしぼんでなくなってしまう。終わりが来たときに終わらせなければならないのは宿命だ。時には最後の一行を書きながら泣いていることもある。
 洗濯して窓辺に干した綿のパジャマ。印字している間に乾いたかどうか触ってみたりして。出力した原稿の右上を綴じて、封筒の封をして、最後の最後に宛名を書いて…。
 住所を書きかけてやめた。受話器を取って雑誌社の編集部に電話してみた。
「遅くにすいません。まだいらっしゃいましたか」
「はい。いつもこれくらいまでは」と編集担当者。
「あの、新しいのが出来たんです」
「ああ、そうですか。その気になってもらえましたか」
「それで、もしご迷惑でなかったら、持参したいんですけれど。うちからそう遠くはありませんし」
「迷惑だなんて」
 そういうわけで、原稿を持って編集部を訪ねた。雑多なデスクに座らされ、冷たいお茶を出してもらった。編集部を訪ねるなんて初めてだった。窓もブラインドも閉めっぱなしで、どこを見ていいのかわからないのでカレンダーを眺めていた。僕は緊張していた。
「すいません、お待たせして。いつもバタバタしてましてね」編集担当のKさんがそう言いながらキャスターの付いた椅子に腰掛けた。そのときの、ギシッという音にすらドキリとする。
「こちらこそお忙しいときに」
「いえいえ」
 出向いたのは土曜日の昼過ぎで、けれども編集部には数名の部員が行き来していた。
「原稿をお持ちしました」
 封筒を開けて、持参した原稿をKさんに渡した。渡す前に、デスクの片隅を借りて原稿の端をトントンと揃えた。
「YTさんはいつも綺麗に綴じてくれてますね。そうじゃない作家さんが多いんですよ」と笑うKさん。
「そうですか」初めて言われることだったので、どうしていいかわからず曖昧に笑った。
「YTさんは文章と本人が一致しているタイプですね。まったく正反対か、どちらかですよ。まずはどちらかです」
 それからしばらく、Kさんと雑談をした。たまたまKさんの母親と僕の父親が同じ職業だったのでその話がしばらく続いた。そうそう、昔はね、青焼きでしたよね、図面は、なんて話し。ついでのように、ああ、そうだ、挿絵の件、ありがとうございました、わがままを聞いていただいて、と礼を言った。
「大抵はね、この小説家さんにはこのイラストレーターさん、というふうにコンビでやってもらってます。YTさんの文章にはYASUさんのモノトーンのデッサン画がよく似合います」
 僕はちょっと目を伏せて微笑んだ。それから頷いて、もういちど礼を言った。
 そのとき、編集部の扉をノックする音が聞こえた。ガラス戸のガラスがガタ、ガタッと揺れる音。
「いま接客中だから、ちょっとお願い」Kさんが後輩らしき編集部員に指示を出した。
「はい」髪を染めた部員が入り口のところまで行って来客の応対をしていた。これをお渡しください、お願いします、なんていう会話が聞こえたのでふとそちらに目を投げると、来客の男がちょうど立去る後ろ姿が目に入った。背は割りと高く、がっしりした背中で、日に焼けた首筋と襟足のすがすがしさが目に触れた。男は立去っていった。
 編集部員がこちらにやって来た。Kさんに仕事の用件だろうと思って、話し掛けていたことを途中で打ち切った。Kさんはそちらを向いた。
「YASUさんが納品にいらっしゃいました」
「何?」Kさんは後輩部員から封筒を受け取ってさっと裏返した。「ああ、本当だ、YASUさんだ。あのYASUさんですよ、イラストレーターの」
「あ、そうですか」息を詰まらせる僕。あの後ろ姿は、YASUさんだったのか。
「まさか今日いらっしゃるとはな。追いかけさせましょう」Kさんはそう言ったあと後輩部員を呼び止めた。「ちょっと、ひとっ走りいって追っかけてくれないか」
「あ、いいんです、いいんです」僕は二人を制した。
「そうですか」
「ええ」僕は笑顔を示した。
「お会いするせっかくのチャンスだったのに」
「いいんです」
「まだそのへんにいるんじゃないかな」
「ですから」
 あの絵を描いた人が実在するんだ。そう思った。YASUさんが描いた男の凛々しい後ろ姿のイラストを思い出した。あの人に何となく、似ているかな。Kさんは書き手である僕と小説が一致すると言った。もしかしたらYASUさんも、彼の描くデッサン画と通じるものがある人なのかもしれない。そんなふうに思った。
「ああ、ほんとに、そうそうないチャンスだったんですがねえ」Kさんはもういちど言った。



 壁に掛かったデュフィの絵画たち。まさかあなたがこんなにそばにいたなんて。編集部を訪ねた初夏の日から数週間後、デュフィの展覧会に出向いてみた。前から何となく興味はあったのだけれど、原画にお目に掛かるのは初めてだ。割りと込み合った会場をぐるりとひとめぐりしているうち、『ニース、天使の入り江の夕暮れ』に目を奪われて立ち止まった。アナログ・レコードのジャケットくらいの大きさの、浜辺の夕闇を描いた透明感のある作品だった。絵のことがたいしてわかるわけでもないのに、なぜか心惹かれて長いあいだ見つめていた。歩き出そうとしたとき、隣りにいた男にどかっとぶつかった。
「すいません」
「いえ、こちらこそ」
 しばらく顔を見つめあった。しばらく目があった。互いに小首を傾げる。どこかで会ったっけ。思い当たらない。目を逸らして歩みを繰り出した。少し離れて振り返ると、男が逆の向きにむかって立去るところだった。男は展示会場の先にあるカフェに入っていった。僕は向きを変えて男の後を追った。偶然の振りをしてカフェに入った。男の隣りのテーブルに通されたのは、本当に偶然だ。
 カフェは中庭に面していて、真夏の陽射しがぎらぎらと降り注いでいた。通されたテーブルはオープンカフェのほろの下だった。日陰から、中庭の噴水がよく見えた。僕がテーブルに着くとき、先に通されていた男はちらりとこちらを見上げた。が、それっきり陽射しの強い辺り、噴水の水のきらめきの方に目をあずけてしまった。
 やがて、男の手元にグラスに注がれたビールが運ばれてきた。明るい光を透かして金色に光る液体に無数で微細な気泡が立ち上る。麦のかおりが、こちらの鼻先まで届きそうだった。それから間もなくして僕のテーブルに、制服の給士がソルティ・ドッグを持ってきた。グラスを口に運ぶと、塩分とアルコールと柑橘の匂いが口の中で溶け合う。男の方をちらりと見る。男はふと思い出したようにカバンを開き、中からノートを取り出してめくる。スケッチブックだった。何点かのデッサン画が目に入った。そのタッチに見覚えがあった。僕ははっとした。
「あの、もしかして」思わず口を開いた。男はこちらをちらっと見た。「YASUさんですか」
「え?」驚く男。
「あ、いえ」こちらも戸惑ってしまう。
「ん、と」
 彼の反応で、たぶんそうだと思った。けれども、どう切り出していいかわからなかった。彼は目を伏せた。僕も同じように目を伏せた。思いきって切り出そうと口を開きかけた。ちょうどそのとき男も口を開きかけた。互いにびくついて言葉を飲んだ。
「あの、YTです」ついに言ってしまった。
「ん?」
「YASUさん、じゃなかったですか」
「え、そうですが…」
「YTです。小説の」
「あ」男はしばらくこちらを眺めて考えていた。「ああ、そうでしたか。編集の方かと思いました」
「以前にも、会ったことがありましたっけ」YASUさんは続けた。
「いえ、たぶん、ないと思うけど」僕はつい打ち解けた口をきいた。「でもYASUさんが納品にいらっしゃったとき、編集部でKさんと打ち合わせをしていたんですよ」
「ああ、じゃあその時、見かけたのかな」彼も少し慣れた口振りで言った。「よかったら、こっちのテーブルに来ませんか」
 YASUさんのテーブルに移った。すでに口をつけてしまったけれど、飲みかけのグラスで乾杯した。
「まさかこんなところで会うなんて」
「ほんとに」
「不思議だな…。なんだか、YASUさんが本の中の絵から抜け出してきたみたいだ」
 彼の絵ほどシャープじゃなかったけれど、一重瞼の凛々しい顔立ちだった。
 いや、そんな、と照れ笑いを浮かべながら、彼はスケッチブックをカバンにしまおうとした。
「絵、描こうとしてたんですか」
「ちょっと手直しようかと思ってね」
「絵が描けるって、尊敬しちゃうな」
「YTさんは絵は描かないの?」
「全然だめです」僕は笑った。鼓動が早いのが自分でもわかった。
「けど、文章が書けるからなあ」彼は嘆息してから笑顔を浮かべ、それから遠くの方に目を投げた。そしてグラスを口に運んでビールをぐっと飲んだ。
「いつもありがとうございます」
「ん?」
「小説に絵を付けてくださって」
「オレもYTさんの小説、楽しみに読ませてもらってるよ」
 俯いてしまった。それで会話は途切れてしまった。ふたりは無言で酒を口に運んだ。YASUさんは残りのビールを一気に飲み干した。僕もつられて酒を飲み干した。ふたりとも、同じ酒を追加注文した。会話がないのがぎこちないので、僕は呟いた。
「こっちはYASUさんの絵、本になるまで見れないからな。YASUさんは先に僕の小説を読むのに」
「絵のオリジナルなんて、編集の人しか見ないもんです」
「見たいな、YASUさんのオリジナル」
「ほんとに?」
「きっと、本で見るより繊細で素敵なんでしょうね。そのスケッチブック、見せてもらえませんか」
「これはただのラクガキだよ」
「見たいな、YASUさんのオリジナル」もいちど言った。
「なんだか嬉しいな、そんなふうに言ってくれる人なんていないから」
「読者の声ってなかなか伝わらないから。こんなことでもなければ言う機会なんてなかった」
「あ、そうだ。YTさんの新作の挿絵、いまちょうど描いているところだ」
「どんなふうな挿絵が付くのか楽しみにしながら書いたんです」
「へえ」YASUさんは笑った。「そんな作家さんがいるのか」
「いまからもう楽しみです」
「じゃあ、仕上がったら見てもらおうかな。意見も聞きたいし」
 黙ったまま、僕は頷いた。きっと、本当に楽しみな顔をしていたのだと思う。それじゃあ、いつ仕上がりますかと急かすように尋ねると、来週には、と彼は答えた。



 翌週の日曜日の午後、YASUさんの住む町の駅で待ち合わせた。彼も絵が本業ではなく会社勤めだったので、週末が都合がよかった。駅まで迎えに来てくれた彼は無精髭だった。
「暑いなあ」道路の反射の眩しさに目を細める彼。こちらまで目を細めたくなる。
「わざわざありがとう。しかもこっちの都合で日曜にしてもらって。土曜日は人付き合いとか色々あるもんで」
 当然のことだけれど、この人には僕の知らない人との関係があって、この人のことを何も知らないのだと思うと何だか傷つく。新鮮に、傷つく。
「いえ。昨晩は遅くまで飲んでたんですか」
「ん、まあ」笑いながら頭を掻く彼。
「絵の方は仕上がってるんでしょうね」意地悪く言う僕。
「そりゃ、もう。仕上がらないと飲みになんていかないさ」
「おつかれさまでした」
「それよか掃除の方が大変だった」
「ん?」
「キミが来るからさ」
 冷たいものを用意していないということで、途中でペットボトルの飲料を買った。部屋へと向かって歩きながら、お互いの境遇、出身地や家族のことを少しだけ話した。夏の陽射しにあえいでへとへとになっている住宅地の模様。皺になったままカラカラに乾いた洗濯物。YASUさんは穏やかで、どちらかというと無口なほうだった。
 彼のマンションにたどり着く。日向と日陰のコントラスト。夏だなとつくづく思う。階段を上がると視界に星が飛ぶ。エアコンのよくきいた部屋に通された。
「そのへんに適当に座ってくれるかな」
 言われた通りにした。不躾に部屋をぐるりと見回してみる。彼はさっき買った冷たい飲み物をグラスに注いで出してくれた。それから一呼吸。YASUはまず、デスクの上に置いてあった二、三枚のデッサン画を見せてくれた。
「これがYTさん用の絵」
「へえ」目を細め、感嘆しながら眺めた。
 上質紙に描かれたデッサンの原画は、印刷されたものよりもずっと繊細で、筆跡がいきいきとしていた。
「どう?」
「うん、いい」
 他にも見せて欲しいと、僕は要求した。ちょっと待ってくれと言いながら、YASUはブックシェルフのあたりを探り始めた。大柄な男がこちらに背を向けて静かな部屋の中、ごそごそと働いている。僕は部屋をもいちど眺めまわした。YASUの部屋はほんとうにひとりの部屋だった。デスクだけがやけに立派に見える。それ以外に物は少なかった。
「そのへんのスケッチブックは?」デスクに積まれた数冊のノートを指して僕は尋ねた。
「ああ、練習用さ」
「見たいな」
「たいしたもんじゃないんだけど」
 勝手に取ってめくってみた。爪弾くように描かれた、男たちの肖像。この人、たったひとりで描き続けてきたんだ。彼の孤独を見たような気がした。
「なんだかな」彼は照れ笑いを浮かべて目をそらした。「絵を見てくれる人なんて普段いないから」
 あなたは誰にも言うことなく描いてきたんだね。たったひとりで、生き続けてきたんだね。それは僕も同じだ。書く姿を人に見せたことは一度もない。
「YASUさんの絵、好きだな」
 その言葉に、すべてを言い含めたつもりだった。
 彼の方を見ると、彼もこちらを見ていた。穏やかに眺め合った。この手で絵を描くんだね。彼の手を取った。僕にはとても貴重な手だ。手を握ると、彼はゆっくりと僕に近づいた。ふたりはためらうように体を近付けあった。自然に顔が間近になった。
 そのまま自然にキスをした。
 それから、あなたの体をそっと抱きしめた。まるで彼によって描かれた男達の肖像を抱きしめるように。背中のカタチを確かめた。ひと回り大きなあなたの背中を。ためらうように抱擁した。そしてその場所でセックスをした。ありきたりなやりかただったのに、緊張で体が震えた。この歳になってこんなに緊張するものなのかと笑いが出るほどこわばっていた。途中から、ベッドに上がって続きをした。
 効き過ぎくらいのエアコン。開かれたままのスケッチブックの肖像画が、真夏の陽射しの明るさの中、消えそうになっていた。終わった後、ふたりで寄り添って横たわっていた。あなたとセックスをしたのは当然のなりゆきのように思えた。顔を近づけてじっと見た。あまりに近すぎて焦点が崩れた。目の前で、二つの黒い瞳がくるくると動いた。しばしば瞳はこちらに向けられた。
「不思議だな、こんなことになるなんて」僕は言った。
「そうだな」あなたの瞳がまた動く。「確かに不思議だ」
「うん。不思議だ」ふたりは笑った。
 笑った後の気だるい時の流れ。僕はあなたの瞼を親指の腹でそっとなぞった。今までこの目で何を見て来たんだい。
 この男が、あのイラストを描く挿絵家じゃなかったらどうだったろう。YASUという挿絵家が、この顔じゃなかったら、どうだろう。わからない。あの絵を描くあなたが好きなのだ、と僕は言った。
「また会えるかな」
 あなたは少し考えてから答えた。「ああ」


 
 あなたが描いてくれた絵を一枚もらい、僕の部屋の壁に飾った。手で顔を覆い、泣いている男の肖像画。書きものの合間に、しばしばその絵を眺めるのだった。忙しいときは、お互い何日も連絡を取り合わなかった。連絡を取り合わないとき、互いのことはすっかり忘れて自分のことに没頭した。
 小説が掲載されると、その月の号が送られてきた。僕の小説とあなたが描いた挿絵。並べられたペンネームが今でも不思議だった。二人で並んでページをめくることもあった。誰にも言わずに書いていた頃がどんなだったか、もう思い出せない。あなたの方はどうだろう。尋ねてはみなかった。ときどき彼の部屋を訪ねた。彼が僕の部屋に来ることはまるでなかった。ふたりで出掛けることもめったになかった。友人を紹介しあうことなど全然。会うときは大抵、彼の部屋で過ごした。
 昼ひなか、ベッドの縁にふたりで背をもたれ、投げ出した足を並べて床に座る。あなたは僕の肩に腕を回す。二の腕の柔らかいところに頭を埋める。白いTシャツの肩口の匂いを嗅ぐ。いつしかその匂いに慣れ親しんでいる。あなたは僕の首に腕を回し、頭をそっと引き寄せる。額を合わせ、目を閉じて、白い光を眺める。小さなあなたの呼吸音に耳を澄ます。
「ねえ」
「ん?」
 何を言いたいのか、わからなくなってしまう。
「なんだよ」
「なんでもない」
 唇を押し付け、セックスを始める。あとは、自分の快楽を貪ることで精一杯で、相手のことなど考える余裕もなかった二人。
 書きものがうまくいかないと、自分のぜんぶがだめに思えてしまう。不安がとまらなくなってしまう。そんなときは、あなたが忙しいにもかかわらず突然、予告もなく部屋を訪ねた。あなたはとがめるわけでもなく僕を部屋に上げ、かといって別に何か言葉を掛けてくれるわけでもなくデスクに戻った。黙々と絵を描くあなたの後ろ姿は、夜遅くまで製図盤に向かっていた父を思い出させた。僕は膝を抱えてぽつりと座り、デスクライトの光と少し猫背なあなたの背中を、息を殺して見守っていた。そのときの甘美な孤独感は、まるで世界に本当に誰もいなくなってしまったみたいだ。
 夜遅くに一枚の絵を丁寧に描き上げたあなたは、僕の隣りにやってきて腰を下ろした。
「どうした、詰まってるのか、小説」
「なんだかだめだめだ」
 慰めるわけでもなく、叱咤するわけでもなく、あなたはただ隣にいた。
「もう、やめようかな。潮時なのかな」
「小説を書くおまえが好きだな」
「書けなくなったら、興味をなくしてしまう?」
 あなたはしばらく黙った。
「困らせちゃったかな」
 いつも音楽を掛けない静かな部屋で、あなたは僕の手の上に手を重ねた。もう一方の手をあなたの手の上に重ねて軽く握る。僕の視界を支配してしまいそうな無骨な手。
「YASUさんはどうして絵を描いているの」
「さあな」
「これからも、描き続けるの」
「たぶん、な」
 こんなに近くにいるあなたに浸っていても、どうしようもない自分が忘れられない。温もりが怖くて、自分の素性が募ってしまう。
「時々、望まれて生まれてきたわけじゃない気がするんだ」
 あなたはただ黙り、空いたほうの手の人差し指の先で僕の鼻のあたまに触れ、そして唇からあごへの中心線をそっとなぞった。
「いいじゃないか」あなたは言った。「自分で望んでここにいるなら」
 わかってもらえない孤独と、そばにいる幸福感がいちどきに押し寄せてくる。すきとおって消えてゆく素性。
「いつか、オレの絵を描いてくれないかな」
「ああ」
 なんて提案をしたものか。自分から姿を紙に刻まれようだなんて。でもきっと、あなたを信じたい気持ちだったんだ。
 あなたは折を見ては僕の絵を描くようになった。ぼくをベッドに座らせ、こちらを見ていてくれと指図することもあれば、ここを見ていてくれと机の端に消しゴムを置くこともあった。あなたはいつも真剣に描いた。絵が始まると、ふたりはその場所を動かずしばらくじっとしていた。身動きできなくなった僕はあなたが走らせる鉛筆の音に耳を澄ましていた。あのデュフィの絵の前で出会わなかったら、狭い部屋でじっと座らされることもなかったのかもしれない。時々、言葉を掛けることもあったが断片的で、長い会話になることはなかった。それでも時々、深い感想や忘れられない記憶が短い言葉に置き換えられることもあった。
 季節はめぐった。小説が幾つか掲載された。長い間があくこともあった。あなたは僕に隠れて他の男と何度か寝たようだ。気にならなかったというと嘘になるけれど、どうでもいいことのように思えたのも事実だ。あなたはいつだったか話してくれたよね。絵を描き続けてきたのは、そうしないといられないことがあるからだと。あなたはまだ渇望しているのかな。答えはわかるような気がする。僕らはとてもよく似ているのかもしれないし、まったくちがっているのかもしれない。ひとつになれないことだけは、確かだ。



 そして五月がやって来た。傷なしでは存在し得ないエメラルドの月。僕がうたた寝している隙に、あなたはおおまかな輪郭を描いたのだった。あなたはやけにその寝顔に固執した。それから何度も手を加え、僕の顔を計りなおしたりもした。その絵に取り掛かると、あなたはいつになく苛立った。いつだったか、あなたはついに苛立ちを爆発させてしまった。
「お前の絵がうまく描けない」
 あなたは突然、はちきれた。手にもっていた鉛筆の先を机にぎゅっと押し付けて折ってしまった。音楽のない部屋で、その音は何か大切な記憶の背骨を折るように響いた。けれども僕は動揺しなかった。悲しくもなければ、怖くもなかった。
 ベッドから立ち上がり、あなたが座っていた机のそばの窓辺までいって窓を開けた。それから体を乗り出して空を見上げた。よく晴れ渡った空で、風は強くないのに雲が流れていた。


 誰にでも降り注ぐ太陽光線

 空に向かって

 あなただけを祈りたくなる


 どこにも視点を置けない空を見上げたままでいた。十年書きものをしてきて、それでもまだ空を描き尽くせない。
「何度でも描けば。ずっとそばにいるから」
 風の音は、哀しみに満ちた、けれども喜びの歌。あなたは泣いているらしかった。そのときあなたは僕にとって絵描きではなくなっていた。こうやって、あなたは生きてきたんだね。並べられた名前が今では並べられた運命になっている。そう思うと涙が出てきた。鉛筆を折ったあなたの手を握り、ふたりは泣いていた。

(終)

(フィクションです、念のため(^◇^;)