エスプレッソ

 エスプレッソマシーンからドリッピングされる褐色のシズク。カップを満たしてゆく、あいつの肌の色を思い起こさせる液体の表面にひろがる波紋。丸みを帯びたデミタスカップの輪郭線。晴天の窓辺でエスプレッソを沸かしながら、僕は村上が姿を消したことにようやく気が付いた。まだ確信にはいたらない、ぼんやりとした疑問。それが凝結して核を結ぼうとしている。村上は、行方をくらましたのだろうか。

 怪訝に思ったのは、あいつの電話が不通になったときだった。

「・・・現在、使われておりません・・・」

 乾いた交換手の声が、初めて僕を不安にしたのだった。その不安もまだ、像を結ばない漠然とした真綿のようで、不意に小首をカシゲルような、ピンと来ない感覚だった。

 何度電話しても村上が受話器を取らなかったときも、さほど気にとめたりはしなかった。野放図なあいつのことだから、どうせまた男にうつつを抜かしているのだろうと決め込んでいた。それは僕も同じだったし。冒険してみたり、誘われる振りをして誘ってみたりもしたし。ちょっとだけ恋人気分を味わってみたりもしたし。

 けれども、あいつの電話が不通になったとき、僕はあいつがこの世の中から消えてしまったのではないかと、本当に遅ればせながら気が付いたのだった。あいつと出掛けた旅行から帰って来てから、あいつとは一度も連絡がつかないでいる僕。何の音沙汰もないままでいる村上。今では何のつながりもなくなってしまった二人。旅行中は、やり場のない体を結び合い、何かに急かされるように抱き合っていたというのに。

 夏を待ちきれなくてあいつと出掛けた南の島。その旅行の直後、何一つ理由も告げずに蒸発してしまった村上。あいつが僕のノド元に残した激しい接吻の痕跡も、今では跡形もなく消えてしまっている。僕が苦情を申し立てたキスマーク、気付かぬうちに、消えてしまった。彼の唇の跡さえも。

 旅行のあいだ、村上にそんな素振りは全然なかった。突然、音信普通になってしまうだなんて。旅行中は、いつも通りのあいつだった。何キロも続く砂浜とエメラルド色の海。裸の太陽と、その下の水平線のきらめき。空と海が抱き合う、少しだけ歪曲した途方もない長さの水平線。丸い地球の表面張力。それらのゆきずりの景色と戯れる他は何もかも忘れ、すべてを放棄してしまった無敵の僕たち。夜の中でセックスをするとき以外、お互いの存在すら忘れ、エメラルドの原色に染まっていた身勝手な一週間。

 妙と言えば妙だ、今振り返ってみると。あいつの方から旅行を提案したりするだなんて。ただのセックスフレンドだと割り切っていたあいつ、僕の体との対話以外、僕に興味がなかったはずのあいつが、二人でどこかへ出かけようと誘うだなんて。そして妙と言えば、その提案を無防備に承諾した僕も妙だった。今更考えても仕方がないけれど。あいつはどうして僕を常夏の島に誘ったりしたのか。そして、どうして僕は疑問も持たずにそれを受けたのか。気分屋な二人らしいと言えば、そうかもしれない。有給休暇は余っていたし、お金の方はそうでもなかったけれど、どうせろくな使い道を思い付かない僕。旅行に出かけたのは、気まぐれだった。

 そして気まぐれな僕たちは、行きも帰りも飛行機は別便だったし、バンガローで寝るときをのぞけば身勝手に過ごしていた。一人旅と言ってもまちがいではなかったくらいに。 

 今となっては過去になってしまったあの楽園。夜になると、同じベッドで戯れ、戯れているうちに抑制が効かなくなり、急かされるように体を貪りあった夜、二人の夜、静けさに響く波の音。

 村上とは半年ほど肉体関係を続けていた。お互いに体だけだと割り切って束縛せず、好き放題していた僕たち。

 目を閉じると、あの楽園のシーンがよみがえる。あれは早朝だった。夜が明けるかどうか、とても微妙な時間帯だった。赤道直下の、俊敏な昼夜の入れ替わりの、ちょうどその最中だった。不意に目を覚ました僕は、隣りで眠りこけている村上を残し、白み始めた部屋を静かに渡り、足音を殺して静かに渡り、浴室の鏡の前に立ったのだった。あの時の、足音を殺しながら静寂をよぎる、目覚めの緊張感が今でも体に染み付いているような気がする。あれは旅行中の、何夜目だったろうか、もう思い出せない。 

 前の晩の激しい情事の痕跡を、ノドボトケの少し下の、やわらかい皮膚の上に見つけた。昨夜、村上に抱かれた僕の裸体の輪郭線が、朝の光の伴奏と共に、鏡の中で明確にカタチを作り始めた。昨日は村上の腕の中でだらしなく溶けていたダラシナイ体、今は鏡の中で。昨晩のセックスを思い出して自堕落になる僕、朝の光、頭を覚醒させ、すがすがしさの中、唐突に竦むような感覚。

「キスマーク、ついてるぞ」

 僕は声に出して言った。呟きのようだったけれど、まだベッドの上で眠っている彼の耳に届くだろうとなぜだか確信できた。浴室に響く声。朝の光。

「ん?」男の呻き声が夜明けに反響し、僕の体の下のほうで響いた気がした。唐突に竦む感覚が再び訪れる。それからまた静けさだけが残った。眩暈すらしそうなほどの静けさ、早朝の空気。 

 床の上を歩く素足の足音が響く。そしてそれから、突然、裸のままの村上の体躯が鏡の中に飛び込んできた。思わずはっとさせられた。予感していたのだけれど、はっとさせられた。

「キスマークなんて、ルール違反だぞ」

「東京に帰るまでには消えるさ」

「消えるかな」

「さあ」眠そうに言った彼はしばらく間をあけ、それから続けた。「消えないで欲しい気もするな」

 鏡越しに彼の顔を見つめる僕。まだ明けきらない夜の色に包まれ、陰影のせいで表情がはっきりせず、彼の真意はわからなかった。彼を見続ける僕。見られ続けていることを見透かす彼。村上は、突然、背後から僕を抱きすくめた。鏡の中の自分の裸体に別の裸体の腕が巻きつくそのムーヴメント。鏡の中で崩れる自分自身のスガタカタチにうっとりとすらしてしまう僕。その不可思議な像はビブラートを伴い、震えつづけた。軽い眩暈。 

「よせよ」逆らってみせる僕。

「ん?」答えようとはせず、首筋に唇を這わせながら、鏡を通して僕の反応をうかがう村上。この男はもうわかっている、僕がその気になっているのを。悔しいような気がしたけれど、その悔しさに恍惚としてしまう。

「好きだな、お前も」それでも逆らってみせる僕。

「いつでもやりてえよ」

「今は他の男を探せないからな」

「お前となら、あと三百回やっても飽きない」

「バカ・・・」

 鏡の中でもつれ合っている男のモーションを、まるで他人事のように僕は眺めていた。頭の中が回り始め、感覚だけが覚醒し、その核だけが自分なのだと確信した。鏡の中、うごめいている、二人の男の体。

 首筋に軽い痺れが走る。伸び始めた村上の無精髭が敏感な肌をこする。そのチリチリとした摩擦に崩れる僕。 

 突然、村上が僕の体を反転させた。男の体の実像が目の前で鮮やかに咲き誇る。その瞬間に、鏡の中のあいつは消えてなくなり、肉感に満ちた立体、匂い立つ弾力がこちらの体に飛び込んでくる。

 水平線の向こうから太陽が昇ったのだろうか、いつの間にか夜が明けていた。もう汗をかき始めた二人。僕は彼の頭を鷲掴みにし、こちらの胸板に引き寄せた。村上は不敵に笑った。

「これだから、お前とはやめられねえよ」そう言いながら、焦らす彼。焦らしながら言った。「続けるのか?」

「・・・・」答えられない僕。

「ん?」

 それから二人はもつれながらベッドに転がり込み、湿った感触の残るシーツの上でセックスをした。昇りゆく太陽を思いながら。村上は僕の体の線に舌を這わせ、いつものように、他の大勢の男達にしているのと同じことを、した。僕は僕で、他の男達にされているのと同じように、した。 

 その時は無意識だった。村上が僕の喉元に残る赤い接吻の跡をいとおしそうに撫でていたことに。セックスに夢中になっていたからだろうか、赤道直下の太陽があまりに俊敏だったからだろうか。

 窓から朝の陽光が射した。眩さに瞼を閉じ、僕は村上の体躯全体の動きをすべて、ありのままで受け止めた。腹に触れる短い髪、自分では見えない場所に埋もれる顔。そして更に深い部分へと入って来る男。極薄の人口皮膜を通してもわかる彼のくびれや張り、その温度、脈動。男の動きの唐突さや緩慢さがもたらす驚き。男は汗まみれになりながら、汗まみれの僕の体を揺さぶり、オールが海面をかくように、僕の体をかき乱した。その部分から、肌の表面から、ありとあらゆる感覚から波紋が広がり、全身に小波が滑ってゆく。彼の性器の激しさやいたらなさがすべて伝わる、人口皮膜を通しても。村上の方はどう感じているのか。僕自身ですら知らない僕の体の内部を。どのような感覚で、その窮屈さやだらしなさに呆れ、また感歎しているのか。彼は僕の肩を掴み、頑丈な体躯全身の筋繊維を緊張させながら滑ったり戸惑ったり止まったりする。息がしだいに荒くなり、こちらも呼応して呼吸が乱れる。

 男の運動がよりいっそう激しくなり、指先にこめられた力、こちらの肌に食い込む爪、男はもうだめだと叫び、言葉にはならない呻き声をあげ、そして波打つ全身の筋肉、前触れもなく停止する。

 停止はある種の運動だ。

 止まったままの彼の脈動。彼は全身を緊張させ、あの部分だけを脈打たせ、じっと僕の体にしがみ付いていた。それからしばらくして訪れる弛緩。彼は僕に覆い被さった。なにか呟きながら。彼の呟きを、僕は聞きもせず、自分だけの気だるさに浸っていたのだった。 

 早朝の情事が終わると、二人はしばらくの間、白いシーツの上で重なり合ってまどろんだ。それから、太陽が南中する頃、気ままなバカンスを過ごした。気が向けば一緒にシュノーケリングをしたり、お互いにサンオイルを塗り合ったり、写真を撮り合った。それからはまた別行動をし、夜になると、セックスをした。セックスをしない晩は、ほんの少しだけお互いの境遇に付いて語り合うこともあった。けれども、あまり深くは切り込まなかった。

 夏を待ちきれなくて出た旅から帰ってくると、村上が姿を消していたのだった。ついこの間、二人切りで夏に溶け込み、夏に溺れた村上が、姿を消してしまったのだった。仕事の都合で一足先に帰国する僕を空港まで見送り、じゃあな、と軽く手を上げるとさっと背中を向け、そしてそのあと一度も振り向かずに歩き去った頑丈な背中が、最後に見た村上の姿だった。

 あれ以来、連絡すら途絶えている。

 あいつが帰国する頃合を見計らって何度か電話をしてみたのだが、呼び出し音が鳴り続けるばかり、そしてやがて、電話回線までが不通になってしまったのだった。

 そこでようやく違和感を覚えた愚鈍な僕。何だか今までになかったことになってしまったと、やっと気が付いた。もしかすると、なんでもないことなのかもしれない、もしかすると、ただ事ではないのかもしれない。ただ、あいつが意図的に姿を消したことだけは、何となく気が付いていたのかもしれない。何があったのか知らない。いや、知らないだけで感じてはいたのかもしれない、あのとき既に、わからない。たぶん、何かがあったのだ。 

 愚鈍な僕だったけれど、少しは心配した。恋人でもない単なるセックスフレンドとはいえ、体の線を擦り合った仲だもの、体の裏側に触れることを許したあいつだもの。ただそれだけなのかな? そんなことを許した男なんて、数えれば切りがない。でも村上のことが心配になった、どうしてだか。

 ある日曜日の正午過ぎ、あいつがくれたエスプレッソマシーンでエスプレッソを沸かした。褐色の液体を眺めながら、南の島で褐色に焼けたあいつの肌を思い出した。あのときはまだ赤かった肌も、今頃はもう落ち着いているだろう。窓から射す陽射し。急に、疑問と不安の入り混じった感情が胸を過ぎり、僕はデミタスカップを放置して部屋を出た。村上のアパートを訪ねてみたのだった。

 春の陽射しが、彼の扉にも差していた。黄色い陽だまりを作っていた。その陽だまりの中に立ち入ると、体が透き通るような感覚、ノックをためらう。晴天。赤道直下のぎらつく太陽とコバルトの記憶が環太平洋の春のやわらかさと交錯し、不思議な感覚、急にためらいが生じてノックが出来なくなる僕。

 それでも、努力して、ぎこちなかったけれど、みっともないくらいぎこちなかったけれど、何とか二度ほどノックしてみた。

 返事はない。

 もう一度ノックしてみる。日曜日の静けさに、彼を呼ぶ音が浸透してゆく。やわらかな陽射し、その波動に差している。ぼんやりとする感覚。僕は頭を振り、それから立て続けに繰り返してノックをした。荒々しいくらい、何かを否定するかのように。

 すると、隣りの部屋の扉が薄く開いた。扉の隙間から、二十代後半の女が少しだけ顔をのぞかせ、化粧をしていない顔を長い髪で隠すように俯いたまま言った。

「お隣りさん、引っ越されましたよ」

 その言葉が予期していた台詞のようにも思え、僕はなぜだか無感想だった。しばらく化粧をしていない女の顔を不躾に見つめたあと、ふと我に返って質問した。

「いつですか?」

「一週間前くらいでしょうかね」

 一週間前といえば、あいつが帰国してからまもなくだ。

「どこへ移られたか、ご存知ですか?」

「さあ、詳しいことは知りません」そう言い残し、女は扉を閉じてしまった。

 扉が閉じられたあと、しばらくのあいだ僕は呆然と立ち尽くしていた。閉じられた扉の隣りの扉、村上昇の扉に目を向けた。それから、アパートの廊下から眺められる景色に目を預けた。さほど高さのない屋根の連なり、その上に広がる青い空。凪いでしまった風。やわらかい情景。颯爽と車道を過ぎる自転車の立てる音。颯爽と。そろそろ初夏だ。やはり、あいつはどこかへ姿をくらませてしまったのか。行方すら告げずに、消えてしまったのか。けれども、行く先を告げるほどの存在だったのか、僕は、あいつにとって。しかしあまりに水臭いではないか。こちらは部屋まで訪ねて来てやったというのに。 

 それにしても、村上は一体どこへ消えてしまったのだろう。借金でも抱えていたのか。執拗な借金取りの追求に耐えられなくなった末の雲隠れか。そんな話は一度も聞いていないし、第一、借金で首が回らないとしたら、南の島へのバカンスはあまりに豪勢だ。恋人でも出来て、中睦まじく暮らし始めたのかな。僕の存在が邪魔になったのかな。あいつにだけそんな話があったとしたら、少し都合がよすぎる、シャクに障る。

 そんなことを考えながら、やはり僕は辺りの風景を見るともなしに眺めていた。晴天だけが、見えていた。 

 あいつのアパートを立去った僕は、そのままスポーツクラブに足を運んだ。あいつと知り合った場所だ。施設内を一巡してみたが、村上の姿は見当たらなかった。横一列に並んだランニングマシンの上で走る人々、ハムスターが回し車を回しているみたいだ。その日常的だが不意に違和感を感じる光景。進まない場所を躍起になって走る人々の向こうの窓はやはり晴天。

 あの、村上と知り合った日と同じような、うららかな陽気の日。走りつづける人々の動き、ランニングマシンのうなる音に耳を傾けながら、あの日あの時の空気感にしばし僕は埋もれてみた。まるっきりあの日と同じであるかのようにも感じられ、また、何かがちがう気もした。ああ、そうだ、湿度だ。僕は思った。あいつと知り合ったのは秋の乾いた晴天の日。そうだった、透き通るような秋の日だった。そうだった、そうだったんだ。

 あれからの半年間、冬のダッフルコート、大雪の日の交通麻痺。半年間。無感想な日々。それらが今、この手から離れてしまおうとしている。考えすぎか? でもいつかはきっと、記憶のひとかけらになってしまうんだろうな。なあ、村上。  

 呆然と立ち尽くしていると、何人かの知り合いに声を掛けられた。急に我に返った僕は、村上を見掛けなかった尋ねてみた。知っている者は誰もいなかった。そういえば、この人たちの何人かはあきらかに村上と肉体関係を持っている。それは僕だってご同様。この人たちは、村上が姿をくらましたことを知っているのだろうか。様子からして、たぶん誰も知るまい。あいつは誰にも行方を告げずに消えてしまったのだ。ということは、たぶん彼は誰にも行方を知られたくなかったのだろう。結局は僕だって、ここにいる何人かの関係者と同じなのだ、あいつにとって。ゆきずりの景色に過ぎなかったのだ。だったとしたら、探さずに放っておいてやる方がいいのかもしれない。そうだ、きっとそうなんだ。

 僕はろくにトレーニングもせずスポーツクラブを後にした。

 チェックアウトをすませ、エレベータに乗った。僕一人きりだった。エレベータの扉が閉まる瞬間、一人の男が急いで駆け込んできた。駆け込んできた男はくるりと僕に背を向け、シャツの袖で額の汗を拭いた。その光景にはっとさせられる僕、デジャヴのような、まどろみのような空間に吸い込まれる僕、はっとした。

村上と知り合ったのも、このエレベーターだったのだ。あいつも閉まりかけたエレベーターに駆け込んできたのだった、あの晴天の日。それからシャツの袖で額の汗を拭いたのだった。

 今エレベーターに駆け込んできた男の姿とあの日の記憶が重なり僕は一瞬、やはり僕は一瞬、デジャヴに潜り込んでいた。

 シャツの袖で額を拭いていた男が腕を下ろし、ふとこちらを振り返った。呆然とする僕、驚く男。

「なんだ、古川くんじゃないか」

 無言になる僕。まだ夢を見ているようで。

「どうした、呆けた顔をして」それは以前、一時期だけ僕と関係を持っていたKさんだった。

「いえ、びっくりしちゃって」僕はシドロモドロに答えた。

「こっちこそびっくりしたよ、空ろな顔をしてて」

 そう指摘されたにも関わらず、僕は同じような顔で、言葉を見つけられずにいた。

「今日は一人?」Kさんが尋ねた。

「はい」

「彼氏は?」

「え?」

「村上くん」

 言葉を飲む僕。それから笑い出した。

「いやだなあ、あいつは彼氏なんかじゃないですよ。ただのトモダチ」

「そうだったの? なんだ、ずっと彼氏が出来たんだと思ってた。だから遠慮して誘わなかったんだよ、君のこと」

 そう言うKさんはもう僕の体には興味がなさそうだった。考えてみれば、村上と知り合ってから、Kさんとはご無沙汰だ。体の話だけれど。僕は急に尋ねたい衝動に駆られた。

「Kさん、村上とは寝てないの?」

「まさか。君達が恋人同士だと思っていたから」

「どうして?」

「彼の君を見る時の目。あの眼差しだけで、映画のワンシーンになりそうだよ」

 エレベーターが地上におり、Kさんは、それじゃあ、と言い残して立去った。僕はなんだか腑に落ちない思いを抱え、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 それから駅への道を歩き始めた。

 あの日、村上とエレベーターで出くわした日、二人はこの道をたどって駅まで行ったのだった。

 エレベーターで出くわす前から、村上とは度々、トレーニングの最中に目が合ったものだった。けれどもお互いに声を掛けたことは一度もなかった。ジャグジーで隣り合わせたときも、何となく意識はしていたけれども、会話はなかった。あの切っ掛け、エレベーターで出くわすまでは。エレベーターに駆け込んできた村上は、今日のKさんと同じように、額から噴出す汗をしきりにシャツの肩で拭っていたのだった。あんまり彼が汗をかいていたので、何となく自然に僕は笑った。何となく自然だったけれど、どこかふくよかで何か幻を見ているような笑顔だったと、自分でも思う。そしてその僕の笑顔を見て、あいつも顔を綻ばせたのだった。ガラス張りのエレベーターに差し込む陽射しの中に、微細なチリ、そしてあいつの汗のにおいが浮揚していたのだった。

 あの日の村上の笑顔、彼が着ていたチェックのシャツ、洗いざらしの。肩の辺りが汗で湿っていたっけな。それらの模様が今でもありありと瞼によみがえる。隣り合わせると彼が思ったよりも大柄だこと、思ったより大柄だけれども、威圧感のない自然さが滲み出ていたこと。  

 駅までの道を、煙草をふかしながら二人で並んで歩いた。人ごみをかき分けながら、それでも並んで歩いた。最初は遠慮がちで、言葉少なだった。駅が近付く。

 唐突に切り込んだのはどういうわけか。仕掛けてきたのは村上で、もしそうでなかったら、僕から仕掛けたかもしれない。

「なあ」

「ん?」

「どう?」

「うん」

「ちょうど今、そういう気分」村上が言った。

「今、そいういう気分じゃないわけじゃない」僕は遠回しに受け入れた。村上はけらけらと笑い、しかしその眼差しの中に恥じらいとためらいが見て取れた。確か、初めてのセックスが終わった後、あいつが言ったっけ、お前はアマノジャクだと。

 彼の部屋へと向う電車の中、二人は緊張し、やはり言葉少なだった。その緊張を強がりで隠したい一心だったのか、村上は、僕の耳元で、オレって結構すごいんだぜ、とうそぶいた。

 車窓から見える、初夏に向けて衣替えを済ませた住宅地、きらめいている、かすんでいる。遠くの景色はゆったりと流れ、線路沿いの風景は猛スピードで後方へと流れてゆく。ああいう強がりでしか、自分の高鳴りを抑えれなかったんだろうな、あいつは。今思い返しても笑える。  

 部屋に入り、無言のままで二人は裸になった。それ以外にすることがなかったからだ。言葉は見付からないし、何だか二人とも、身の置き場に困ってしまった。あいつの部屋だというのに、村上すら身の置き場に困っていた。だから二人はこれ以上はお互いをさらけ出すことが出来ないほど裸になり、そして、身の置き場を求めて肌を重ねたのだった、あいつの、二ヶ月くらい替えていないシーツの上で。

 村上、悪いけどお前はけっしてすごくなんてなかったよ。下手でもなかったけれど。僕が心を動かされたのは、あいつががむしゃらだったから。強がったり慣れた振りをして見栄を張っているくせに、一生懸命さが伝わってきたから。何かを僕にぶっつけようとしたあいつ。飛び込んできたあいつ。そのひたむきさが、肌を通して伝わった。彼の熱が細胞膜を通して浸透し、ほんの少し、ほんの一瞬だったけれど、僕の心まで届きそうだった。彼の肌。あの感触が僕のお気に召して、それから何度となく彼と会うようになった。もしかすると恋に発展するかな、なんて考えた時期もあった。けれど、お互いに男関係にだらしないと発覚し、二人で笑いながら、それじゃあミダラな者同士、これからも仲良くしようぜ、と割り切ったのだった。時にはろくすっぽ相手の顔も見ず、股間に顔を埋めているだけのこともあった。あいつに僕の中に入って来るのを許したのは自然な成り行きだったにちがいない。 

 痛みなどなかった。いとおしい人とするときの苦痛や忍耐、羞恥心。そんなものは始めからなかった。あいつが欲しがるから、あいつが欲しがっているものを僕は与え、あいつはあいつで、僕が欲しがっているから、僕が欲しいものを与えようと、お互い身勝手に思っていただけだったにちがいない。僕はただただ快楽に没頭し、彼の体躯に押しつぶされ、彼を埋めてしまうことに征服感すら覚えた。あいつもきっと、似たようでちがう征服感を味わい、嘆いたり、喜んでいたにちがいない。

 どんなものでも受け入れてしまう僕。たとえそこに愛情や憎しみや強制、その他の条件がなかったとしても。

 二人には何の条件もなかった、何の約束も束縛も強制もなかった。守り通さなければならないものもなく、守られたいと思うこともなかった。ただただ体を重ね、季節がうつろい花がうつろい、空や水やすべてが僕らの周りでうつろった。

 そして、ある晴天の日に、村上が姿を消したことに気が付いた愚鈍な僕。

 スポーツクラブの帰り道に、現像の仕上がった写真を受け取りに写真館にいった。あいつと飛んだ南の島で撮った写真が仕上がる頃合だった。

 部屋へ帰り着いてからベッドに仰向けに寝そべり、仕上がった二十四枚の写真を一枚ずつ眺めた。写真を一枚一枚めくると、横長の長方形のフォトに、村上と僕の姿が交互に現れた。背景の、抜けるような青空や紺碧の海。しばしば風景だけを写した写真もあった。二十四枚の写真をトランプのように重ねてペラペラとめくると、原始的なモーションピクチャーのように二人の姿が交互に動き、そして、しばしば風景が人影を遮断した。神隠しにあったかのように忽然と消える人影、それは誰でもない僕たち、そして本当に消えてしまった村上昇。

 写真をめくりながらふと違和感を感じた。二人がおさまった写真が一枚もないのだ。あたりまえか。二人で交互にシャッターを切ったのだから。そう、僕たちは二人きりだったのだ、あの楽園で。無敵の二人だったのだ。それはそうと、常夏の地域にも季節があると聞く。

 その日現像が仕上がった幾枚かの写真。その四角い枠の中にとらえられた村上昇の目。ほとんどが、強烈な太陽光線に細めた、陰のある目元だった。若干、目の焦点がずれたものもあったが、全般的にカメラを見る視線だ。撮影者は僕なのだから、ある意味、これらの眼差しは僕に対して向けられたものだ。この眼差しが、映画のワンシーンになりそうな眼差しなのか。僕にとってはいつもの村上の目に見えた。誰にも悪びれない、不敵な笑顔。無邪気で悪戯な、おどけ顔。

 それとも、僕だけが気付かない瞬間があったのだろうか。写真にはおさまることのなかった瞬間が。

 僕の写真の方は、気取った目でカメラを見ていることもあれば、申し訳なさそうな表情を浮かべているものもあった。

 太陽光線の中、いつもとはちがった輪郭線を描く僕たちの半裸。二人を比べてみると、あまり似通ったところがなかった。村上は今、どこにいるのだろうか。 

 急に記憶がよみがえった。

 コバルトの空の下の白い砂浜の上で、村上が投げ掛けた問いが、脈絡もなく思い出された。陽炎がまどろむような瞬間に、不意を突き、その問いは投げ掛けられたのだった。

「なあ古沢」

「ん?」

「お前の好きな言葉は何だ?」

 その質問があまりに唐突だったので、僕は息をのんで黙った。どう答えればいいのかわからず、その唐突さの中に埋もれていた。ずっと埋もれていたいような懐かしい驚きだった。

 波の音がざわめく。

 風。

 鮮明な、自然色の度合いを越えた色彩。

 それらが僕を包み、気が遠くなりかけた。

「Nothing lasts…」

 なんとなく、僕はそう呟いた。自分でも意外な言葉だった。

「なんて意味だ、そりゃ」村上は笑った。

「何だって続かない、続くものなんて何もない」

 彼は複雑な表情を浮かべただろうか、もしかすると。今となってはもう思い出せないのだが。すべては遥か彼方のコバルト、光の粒子が大気を駆けめぐって削りだした青に、消えてしまったから。そのあと村上は、すぐにいつもの不敵な笑顔を浮かべた。いつもの笑顔だったけれど、「いつも」で括ることの出来ない笑顔だった気がしないでもない。

「それじゃあさ、続かないことはない、続かない状態だって続かない、そういう意味の英語は?」

「えっと・・・」僕は即答できずに口ごもった。不覚にも。村上にしてはやけに哲学的な切り返しだったように、今は思える。

「お前、英文科卒だろ?」それ以上は追求しようとはせず、村上は僕の頭を小突いたのだった。追求しなかったのはなぜか。それすらも今となっては不思議に思える。

「悪かったね。確かに一年留年しましたよ。でも落としたのは一般教養です。それに、オレはイエーツの詩に没頭してましたから」

「言い訳しやがって」

 そう言った彼は、水平線の方を眺めながら、しばし黙った。それから、僕の方を見つめてかすかに唇を震わせそうになった。そのときの彼の視線、原色の光線の中の。僕は彼が切り出す前に何か言わなければならないと感じたのかもしれない。

「じゃあ、村上の好きな言葉は何だよ。英語で言ってみな。まず無理だろうけどな」

「オレはねえ」あいつはまた水平線の方に視線を投げ、しばらく間を置いてから呟いた。呟きだったけれど、明確だった。「ユウキ」

「何だ、そりゃ。英語じゃないじゃんか。それにオレの名前だぞ」

「だってオレ、お前のこと好きだもん」

 しばらくの間、しばらくの。結び合う視線、しばらくの間。

「この体が、か?」僕は笑った。

 僕はけらけらと笑い、村上も一緒になって笑った。僕たちはふざけあい、ふざけすぎた。目の眩む乱反射の中で。僕たちはけらけらと笑った。そのときの眼差しは見過ごした。いや、わざと見過ごしたのかもしれない。わからない。きっとそうだ、見過ごしてしまったのだ。あまりにも一生懸命な原色が、自己主張をしすぎていたから。 

 その晩、夜になると、ホテルに戻ってセックスをした。フォルテッシモの原色のように、身勝手でがむしゃらに、好き放題にした。相手のことは構わず、やりたいこと、されたいことだけに没頭した。二人は健気だった。夜になると遠い場所へ押しやられる陽光のように身を寄せ合い、何も信じることが出来ずに体だけを求め合った。その健気さは、どの写真にもおさめられていない。やはり、写真にはおさめられなかった瞬間があったのかもしれない。そうなのかもしれない。証明はできないけれど。

 きっと、あったのだ。

 それから一週間が過ぎた。だがやはり、村上からは何の連絡もなかった。一週間、同じような天候が継続した。たった七日で季節はうつろったりはしない。いや、知らぬ間に進行しているのかもしれない、突然にやってくるのかもしれない。同じ電車で会社に通い、帰りにジムに行く普通の日々を送っていると、気候の変化に鈍感になる。特に都会では。

 けれども、季節は必ずめぐる。地域によってはとてつもなく厳しく、また別のところでは非常に穏やかな季節の変化。誰も逃れられない。どれだけ高度な文明も、結局は自然の末裔なのだから。 

 ある晩、どこかで男を拾ってセックスをした。男は乱暴だった。愛撫というよりは、まるで研磨するかのように激しく僕の体をなめ回し、吸い尽くし、敏感な部分を歯でいたぶった。僕の体を、まるで物品を扱うかのように裏返し、後ろから乱暴に入ってきた。そしてこちらのことなどかまわず突きまくり、わめき散らし、飛沫をあげた。背中を手で掴み、ムシリ取るように掴み、馬乗りになって突きまくった。僕の頭を掴んで枕に押付け、野獣のような雄たけびをあげて殺し文句を吐きながら、僕を愚弄したり、しばしば尻を叩きながら揺さぶり、もうこれ以上は無理だというくらい揺さぶり、そして射精した。そういうセックスは嫌いではない。白状するなら好きなほうだ。いつもの僕だったら、己の体を宝石にすらたとえ、磨かれ、輝き、傷ついてゆく工程に酔い知れることができただろう。乱暴さに乱され、乱されて滅茶苦茶になる自分にうっとりすることが出来ただろう。うっとりしてみようとはしてみた。けど、だめだった。

 努力しても、鼓舞してもだめだった。自分では制御不可能な暗闇に落ち込んでしまい、その暗闇は時にやさしく広がって包んでくれたり、凝結して意識を飛ばしてしまうのだが、どうしようもなく制御不可能で、その時は、ただ単に僕に孤独を感じさせただけだった。孤独だが安心していられる暗闇もある。それとはまた別だった。かたく心の表面が閉ざされてしまい、ただただ僕は五感を持った生命体なのだと思い知らされてしまう。早く終わって欲しいと、頭の中で思考が整理されてしまう。こういう話はもう止しておこう。

 どうしようもなかったこと、それは、男が村上に少し似ていたことだった。村上に似たどうでもいい男にやられ、僕はタダでやられ、そして敗北感だけを与えられたのだった。 

 男とのセックスが終わり、部屋に帰ってシャワーを浴びた。体の繊細な部分がひりひりと痛んだ。皮膚の痛みは、二日間消えはしなかった。痛みが消えないうちに、次の休日が来たのだった。

 次の休日、僕はジムに出かける支度をし、デイバッグを背負って部屋を出た。休日の空模様を眺めながら駅へと向って歩いていた。それから電車に乗り、車窓からも同じようだが緩慢に変化する休日の空模様を眺めていると、列車がとある駅で停車した。急に、本当に急にだが、何か忘れ物をしたような気がしはじめ、その駅で電車を降りた。

 プラットフォームに爽やかな風が吹き抜ける。電車が音を立てて遠ざかってゆく。過ぎる人々、過ぎる雲。

 そこは、村上のアパートのある駅だった。

 僕はしばし呆然と立ち尽くし、何を考えるというわけでもなく、駅舎の屋根や電線、飛び立つ小鳥を眺め回し、それから、意志薄弱に歩き始めた。意志薄弱だったけれど、なぜか足取りはしっかりしていた。操られるようだったけれど、きっと、操っているのは何かの意思ではなく、もしかすると、たぶん、この青空の彼方にあるものだった。その下を、確かな足取りであいつの部屋まで歩いた僕。この二本の足のワークブーツ。 

 村上が住んでいたアパートに着くと、あいつの部屋へまっすぐには行かず、管理人室を訪ねた。初老の管理人に、今、部屋を探しているのだが空き部屋はないかと尋ねた。管理人は、案の定、村上が住んでいた部屋のカギを渡してくれた。もしかしたこの鍵は、あいつが使っていたのかもしれない。傷だらけだった。

 静かな休日の午後に、鍵が回る音が響く。僕は出来るだけ音を立てずに部屋へ入った。当然のことながら、部屋はもぬけのカラだった。何一つ、やつの生活の匂いが残されていなかった。 

 あいつの部屋に入るのに、これほどためらいを覚えたことがあっただろうか。後ろ手に扉を閉めた僕は、しばらくのあいだ玄関に立ち尽くし、がらんどうの部屋を呆然と眺めていた。決して広くはないワンルーム。カーテンすら残されていない、外部に対してむき出しになってしまった部屋。それでも絶対的な量感を持つ壁が閉ざした密室。ベランダの窓の下の床には、菱形の陽だまりが形作られていた。ワックスを塗り直したばかりのフローリングの床の木目にも、黄色い陽射しが織り込まれていた。

 ワークブーツを脱いで部屋に上がった僕。とてつもないためらいとドギマギする緊張を抑えながら。すると、ゆっくりではあったけれど、何とか足が動き出した。無意識に腕があがり、まだためらいの残る指先が、白い壁を弱々しく撫でた。壁を撫でているうちに自然と歩みが進み、指先で壁に触れながら、僕は部屋の中を一巡り回った。村上の部屋がどんなだったか、もう思い出せなかった。もうここはあいつのスミカじゃないんだ。あいつはここから消えてしまったのだ。

 ふと気が付くと、僕は部屋の中央に立ち尽くしていた。何度も訪れた部屋なのに、あいつのことが何も思い出せない。もっと見ておけばよかった。あいつの部屋がどんなだったか。 

 床に目を落とすと自然に視界に入る黄色い陽だまり。確か、この辺りにセミダブルのベッドが置いてあったはずだ。今はむきだしの床だ。シーツの上にも、この時刻になると黄色い陽だまりが出来ていたのかな。それとも、カーテンで陽射しをさえぎっていたのかな。真夏なんて大変だろうな、こう陽射しが強いと。

 ベッドが置いてあったはずの場所の壁に背をもたれ、その場所、彼との情事に夢中になっている時は気にもとめなかった板張りの床(なぜって、ベッドの下にあったんだもの)、その上に落ちた太陽の色を、つくづくと眺めた。 

 突然、その場所で村上に抱かれた瞬間の光景がフラッシュバックした。夜だったか、昼だったか、そのどちらでもなかったのかもしれない。ほんの一瞬の閃光に似た映像で、すぐに瞼から薄れて消えた。快楽にゆがんだ彼の顔。彼の体を受け止めていた僕の視界を埋め尽くしていた彼の顔。僕は壁に背をもたれたまま、床に崩れ落ちた。

 がらんどうの空間に崩れた姿で、昼間から、村上とのセックスを思った。数え切れないほど繰り返されたあのぬくもり。記憶の中の、村上が呟いた言葉が思い出された。

「不思議だと思わないか」

「何が」

「俺たちがこうしていること。前は遠いところから意識し合っていただけなのに、今ではこんなに近くにいること、顔を触れ合っていること、誰よりも近くにいること」

「ああ」セックスが終わった後の余韻に浸っていた僕は、ろくな返事をしなかった。

「不思議だよな」確か、村上はもいちど呟いた。  

あいつの体の弾力を思い浮かべながら、自分で自分の体を抱いた。けれども、何だかちがっていた。敏感な部分に指を触れると、先日の乱暴者にかじられた皮膚がちくっと痛んだ。村上といえば、痛みすら残さずに消えてしまったのだ。キスマークなんて甘ったるいものを数日間残しただけで。

 太陽が角度を変え、燦々と降り注ぐ春の陽射しが、僕の体を黄色に染めた、かつてはあいつのネグラだった空間の色に。その色彩の中で、村上の体を思って僕は自分自身の体を撫で回した。彼が唇を触れる時の指の感触、体全部を使って覆い被さってくる立体の重量。それらを懐かしみながら、体を撫で回した。何の慰めにもならなかった。

 さらさらとした陽射しの中、時々、瞼を閉じ、時々、瞼を開けてみた。微細なチリが舞っている、そのあまりに緩慢で、うっとりするほど優雅な揺れ。手のひらで体を撫でまわし、村上がどのような感触を僕の体から得ていたのか、想像しようとした。死にそうなほど淋しかった。陽光に包まれていたのが幸いで、また、残酷でもあった。致死量には満たない透明度。 

 消えてしまった村上。しかも無言のまま、何も告げずに忽然と消息を絶ったあいつ。どこかで生きているのだと思うと、どうしようもなく、欲しくなった。ついこの間まで、あれだけ顔を近づけ、もしかするとその瞬間に、少しだけ心に触れていたかもしれないあいつ。

 村上の部屋を出て、自分の部屋に帰った。夕暮れが近かった。日は長くなりつつある。体の表面には、まだ少しだけ痛みが残っていた。

 やがてそれも、消えてしまった。 

 ある日、一枚の絵葉書が届いていることに気が付いた。ろくすっぽ開けはしないポストに溜まった請求書やダイレクトメールの中に、一枚の絵葉書が混じっていたのだった。

 差出人は、村上昇だった。

 あのバカンス、過ぎ去った夏を追いかけてあいつと飛んだ南の島から届いたポストカードだった。旅行の何日目だったろうか、もう思い出せない。持て余した時間をつぶそうと、木陰のテーブルに二人で腰掛け、友人達数人に絵葉書をしたためていたときに、二人でほんのおふざけを思い付いたのだった。ふざけあい、お互いに宛てて手紙を書くことにしたのだ。その葉書は、帰国するまで内容を打ち明けず、お互いに見られないよう投函したのだった。  

 その絵葉書が、今頃になって届いていた。どこかで迷っていたのだろうか、それとも、ものぐさな僕がポストを毎日開けなかったから、今日まで気が付かなかっただけなのだろうか。どちらにしろ、今日気が付いたのだから、今日届いた手紙と同じことだ。

 夕焼けに赤く染まるビーチの写真の裏に僕の住所が記され、残された狭い余白に、村上がしたためたメッセージが殴り書きされていた。

古沢とももう半年だっけ? お前と知り合った日のことは今でもよくおぼえてるよ。お前はビルケンシュトックの靴を履いていたよな。最近、見ないけど、飽きっぽいお前のことだから、ゲタ箱の片隅にでも押し込んでるんだろうな。俺はこの旅行が終わる前に、お前に本当の気持ちを伝えるつもりだ。本気の恋に破れたら、実家に帰って漁師でも継ぐよ、東京には飽きたし。そしたら、まあ、俺がくれてやったエスプレッソマシーンをかわいがってくれよな。

by ムラカミ

 郵便受けの前に佇んでその絵葉書にしたためられたあいつのメッセージを読みながら、僕は小首をかしげていた。腑に落ちない、というか、なんだかぎくしゃくとした気分だった。本当の気持ち? 本気の恋? あいつ、何言ってるんだろう。何のことだかピンと来ない。絵葉書を何度も読み返すときの、ぎくしゃくとした、けれども心がはやるような気持ち。読み返しているうち、ぎくしゃくとしていた考えの中に、フラッシュのような光景がよみがえる。だってオレ、お前のこと好きだもん。砂浜の上であいつが呟いた言葉、あいつに呟かれた言葉。僕が笑い飛ばした、あいつの呟き。もしかして、あいつはあのことを言っているのか。本当の気持ちって、あのことなのか? あの言葉を僕が笑い飛ばしたから、あいつは敗れてしまったのか、本気の恋に。それで御苦労にもアパートを引き払って都落ちしてしまったのか、あいつは。

 わからなかった、僕には何も。まさかあの言葉が本当の気持ちだったなんて。それは今でも半信半疑だ。わからなかった、僕には何も。けれど、今頃になって気が付いた、二人の間には、あまりに日常的な日々に埋もれた何かがあったのではないかと。あいつと過ごした日々が頭を巡り、ひらめきに似た思いが胸を過ぎった。それはまだ、ぎくしゃくとしたままではあったけれども。もしかすると、あいつの口から出た言葉、あいつの指先のしぐさの端々、それらには日常の中に埋もれてはいるが日常ではない感情が、押し殺されていたのかもしれない、隠されていたのかもしれない。どうしてあいつは、それを隠したままでいたのだろう。隠したまま、姿を消してしまうだなんて。

 笑っちゃう。僕が笑い飛ばしたせいで消えてしまっただなんて。バカなヤツ。ほんとにバカなヤツ。ほんとに笑っちゃう。あの、男漁りしか能のない男が、漁師になろうだなんて。第一、この汚い文字は何だ。あいつがもしも僕の母の息子だったとしたら、きっと勘当ものだ。六年間も書道教室に通ってした僕の努力を、この男はたった一枚の絵葉書でお笑い種にしようというのか。考えてみると、あいつの文字を見るのは初めてかもしれないな。笑っちゃう。僕はあいつのことを何一つ知らなかった。あいつの気持ちなんて、気が付かなかった愚鈍な僕。ほんとに笑っちゃう・・・。

 ポストの前に佇み、絵葉書に心を奪われていた僕は、ふと我に返って絵葉書を郵便受けに戻した。それから何かに駆り立てられるように駆け出し、村上のアパートまで走った。管理人に、あの部屋を借りたいと申し出たけれど、もう借り手が決まったのだと答えが返ってきた。僕は彼のアパートからすごすごと退散した。帰りに村上の使っていたポストをのぞいてみたが、僕が村上宛に出した絵葉書は見当たらなかった。きっと、あいつが持っていったか、実家に転送されたのだ。あいつは後生大事に僕の手紙を持っているのかな。あの絵葉書に何と書いたか、僕には思い出せなかった。

漠然とした感情を胸に抱えたまま、僕はぎくしゃくと家まで帰った。まだ色褪せていない午後の陽射しの下を通って。部屋に帰ると、静けさが聞こえた。なんだかふんわりとした気分だった。僕は窓辺に座り、テーブルの上に置かれたエスプレッソマシーン(村上がパチンコの景品でもらって僕に押付けたやつだ)を操作してエスプレッソを沸かした。まるで誰かと昔話をするかのように、僕はエスプレッソマシーンと差し向かいに座り、ドリッピングされる液体を見守った。そんなこともあったけ、なんて語り合うように、エスプレッソマシーンと対話した。午後の反射光に満たされた部屋。

 ドリッピングされる褐色の液体を眺めているうちに、自然と、あたたかい涙があふれて頬をつたった。 

 空港で最後に見たあいつの赤みを帯びた肌は、今頃こんな褐色に落ち着いているのだろう。彼の体が、鋼鉄の機械から抽出されてデミタスカップを満たしてゆく。それを見ながら、僕は涙を流していた。

 笑っちゃう。バカなヤツ。バカな僕。本当にバカな二人。賢明だったためしなんてない。賢明なことなんて何一つないんだ、バカな二人。誰かが言ったっけな、映画か何かの台詞で。

 ”Nothing is wise…”

 そうなのだ、賢明なことなんてないのだ。村上に好きな言葉を尋ねられたとき、どうして僕はそう言わなかったのだろう。もし言ったなら、何かが変わったのかな。わからない。やっぱり僕は愚鈍でバカなんだ。でも賢明になんてなれないよ、ううん、なりたくない。あらかじめ何かを知ったりするなんて、まっぴらだ。

 けれど何はともあれ、僕は神に誓ってあいつを漁師になんてさせるわけにはいかない。あいつには男漁りの方が似合うから。それに第一、誰よりもバカな僕への恋に破れたくらいで都落ちするような弱虫に、漁師なんてつとまるわけないじゃないか。笑っちゃうよ、本当に。  

僕は、頬をつたう涙を拭おうともせず、デミタスカップに注がれた褐色の抽出液を飲み干した。ほろ苦かった。

 海岸線に沿って弧を描く線路を走る列車の断続的な音。眠気を誘うような、既にまどろみの中に溶け込んでいるような。やがて、気だるい終止符を打ち、列車は駅へと入った。人気のないプラットフォームに下り立つと、潮の香りがした。そのまま、何のためらいもなく駅を出た。

 出迎えてくれたクレマチス。駅から見渡せる屋根の連なりは、きらめく波。港に停泊した漁船。

 この辺りのどこかに、村上昇の家があるにちがいない。それだけはまちがいない。詳しい場所はわからなかったが、なぜか、突き止める自信が僕にはあった。風見鶏のある家だ。確か、いつだったか、本人がそう言っていた気がする。

 風が吹く。

 潮の香りが鼻先をくすぐる。あいつには今、この匂いが染み付いているのかな。きっと、僕もこの匂いに染まってしまうだろう、あいつを見つけ出す頃には。

 丘を滑って来る海風を受けながら、僕は彼の故郷をしばらく眺めつづけた。あいつはこの町で生まれたんだ。あいつは今、ここにいるんだ。

 きっと、見つけられる。きっと、どこかの家の物干し竿に、見慣れたあいつの衣服が干されているにちがいない。もしかしたら、知り合うきっかけになった日にあいつが着ていたチェックのシャツが干されているかもしれない。

 もしかしたら、あいつが窓から顔をのぞかせているかもしれない。僕の姿に気がついて、驚くかもしれない、もしかしたら・・・。

 もしあいつに会えたなら、僕は何を言えばいいのだろう、どう声を掛ければいいのだろう。どんな顔をすればいいのだろう。笑ったこと、許してくれるかな。たぶん、何も言わないでおこう。沈黙だけで語りかけよう。出来れば無愛想な顔で。もしもあいつが笑顔を浮かべたりしたら、きっと、泣いてしまうんだろうな。だから、仏頂面を示してくれよ。

 捜索の第一歩。ビルケンシュトックの靴。

 ちゃんと大切にしまってたよ、この靴。俺はこれでも物持ちのいい方ですからね。

 太平洋の上に広がる青い空。水平線の曖昧なかすみ。遠くで淋しそうにしている蝶々雲。想いよ、コバルトの空に届け。無言のファルセットで歌ってくれ、想いよ、この裏返りそうなほど青い空に。そう、無言の音であいつに想いを伝えよう。言葉や笑顔や涙ではなく、沈黙のファルセットブルーであいつを包み込んでしまおう。

 トン、トン、何の音・・・。

 坂をくだり始めると、どこからともなく、子供たちの遊ぶ声が聞こえてきた。あれは何ていう遊びだったっけ、子供の頃、近所の子供たちとよくやったっけな。僕は坂をくだり続けた。蝶々雲は、相変わらず遠くで、淋しそうにひとりぽっち。ほとんど体感できない、上空をゆっくりと移動する大気が、ファルセットヴォイスで歌っていた。

今日は晴天。これから君のうちを訪ねます。とても大切なことを、伝えなければならないのです。

(終)