クラッシュ

 その日は朝から晴天だった。昨晩の大雪の名残りといえば、大地を覆う一面の白だけだった。遠い彼方の空から送り届けられた雪は、鏡のように輝いていた。見上げれば見上げるほど嘘のような空。真っ青で、高かった。昨夜の気象現象の贈り物は、あと二、三日はそのままでいそうだった。せっかくの日曜日だけれど、市街地までは出かけられそうにない。僕は町外れの本屋まで歩いて出かけ、ヒマつぶしに読むための雑誌を何冊か買った。それから来た道をたどって家へ戻ろうとした。徐行する車のタイヤが汚れ始めた雪を跳ねる。せっかくの贈り物なのに。少し傾いた垣根に、繭のような雪のかたまりが引っ掛かっている。嬉しくなる。
 何となく、いつもとはちがう道を歩きたくなった。たぶん、どこもかしこも白だったからだ。住み慣れた、様々な思い出や羞恥心が綴られた町が、白紙に戻ったような気がした。歩くうち、電車の踏み切りに差し掛かった。東を見渡すと、一面の白の中、裸の線路がまっすぐに続いていた。もう列車は何度が往復したのだろう、鈍い色合いの二本の金属が彼方まで続いていた。けれども、レールのほかはすべて白無垢、誰の足跡も見当たらなかった。僕は踏切を渡らずに線路沿いに歩き始めた。さえぎるものがないので、線路を渡る風は広く冷たかった。まだ誰も踏んでいない雪を踏みしめて歩くと、ザクッ、ザクッと硬質な音がした。ひとつひとつの結晶が、身を寄せ合ってはキシム音を立てた。いずれは融けて水に戻り、何にも縛られることなくどこかへ流れてしまう仮の姿。僕の足の裏なんて、ゆきずりのトモダチ。
 踏みしめる音に、淡い親しみを覚えながら歩いた。寒かったけれど、晴天の青い空から、太陽光線が降り注いでくるのがわかった。誰彼構わず降り注ぐ陽光。マフラーからこぼれた首筋を包む。孤独。ザクッ、ザクッと鳴るキシミ。爪先が凍えている。ザクッ、ザクッ。気が付くと、僕の立てる音に調和してきた、別の足音、雪の音。
ふり返えると、少し後ろに男の姿が見えた。それが谷口英雄だった。距離はあるのに、足音は鮮明に聞こえた。それだけ静かな午後だった。ハッとして息をのんだ僕は、佇んで男の姿を眺めた。うつむいて歩いていた男はふと顔を上げ、足を止めた。音が途絶える白と青と光の静寂。停止した男の肖像。力強さが伝わり僕はただ息を飲んでいた。白い息がさ迷っては消えてゆく。



 歩き始めたのは、谷口英雄だった。濃紺のダウンジャケットのジッパーを顎まで上げた彼は、大股な歩行を繰り出した。ザクザクという自信に満ちた音がこちらへ近付いてくる。ゆっくりだが的確な足取り。予感。なぜだか息が弾んできた。目の前で、大柄な男は立ち止まった。褐色の頬が、冷たい空気で赤く上気していた。スキー焼けか、日に焼けた顔が目の前までやって来た。そして急に、仏頂面がほころんだ。
「トオセンボか?」彼は笑った。輝く雪の中で眩しかった笑顔。真冬に血の色が広がる。
 目を逸らしたままで戸惑っていた僕。
「通してもらうぞ」笑いながら続けた彼は、僕の脇をすり抜けていった。冷たい空気の中、男の体温と匂いが跡を引いた。そのぬくもりの方へ、僕はふり返えった。男の背中が遠ざかってゆく。何だろう、この気持ちは。冷気の中、胸にあまやかな懐かしさが湧き上がる。
線路から小川へと逸れる細道で彼は足を止め、一度だけ振り返えって目で合図をした。
 そのあと繰り出した始めの一歩を、今でもよく覚えている。やはり、雪の音がした。ひとりぼっちの僕のトモダチだった結晶たちが、今度は風の中で予感の音色を奏でていた。あの午後、僕は知りもしない男の背中を追いかけていったのだった。人懐かしさに呼ばれて。



 雪が融けて水に戻り、屋根からしたたり落ちる音が窓の外で聞こえた。音楽もかけない静かな部屋で、谷口英雄はコーヒーをいれてくれた。湯を沸かしながら机の上に広げられた大きな紙を折りたたんで大切そうにしまい、それから彼は僕にカップを渡してくれた。
「何、あの紙は?」
「地図だ。自分で地図を描くのが趣味でな」それから彼は珈琲を一口すすり、机の上にカップを置いた。「飲まないのか?」
「紅茶の方が好き」彼の木製のデスクのふちに腰掛け、白いシンプルなカップを持ったまま僕は俯いた。
褐色の液体の表面に波紋が揺れた。谷口英雄が歩く振動だった。
彼は僕のすぐ側まで近付いてきた。まだ温まらない部屋の中、彼との距離が急速に縮まる。鼓動、耳の底で。
「紅茶も買っておいてやろうか、今度来るときのために」と、彼。
 目を逸らす僕。ただ付いて来ただけなのに、どう答えていいものやら困ってしまう。特に、こんなに静かだと。
「アップルティーがいいな、どうせなら」何とか笑い、そして僕は彼の方を向いた。「さっき、どこへ行っていたの? あの雪の中」
「散歩さ」彼がまた一歩近付いてくる。珈琲の表面、再び波紋。「そしたら君の足跡を見付けた」
 屋根から落ちるしずくが、耳元で響いた気がした。いやなら飲まなくてもいいぞ、と彼は言いながら、僕の手からカップを取ってデスクの上に置いた。物音のひとつひとつが冷たく息付いた。彼は急に僕の体をすっぽりと包み込んだ。胸がつまり、全身が硬直する。怖れながら、英雄のシャツの肩に頬を押付けてみた。おにいちゃん、ってこんな感覚なのかな。
 俯いたままでいると、男がそっと唇を寄せてきた。男の人って、こんなふうにするんだ。あたたかくて湿っていて、珈琲の味がした。
「また来てくれるよな?」
 キスのあと、コーヒー味の質問をした。この人は、今までに同じ質問をたくさんしたんだろうな。それから彼、何人にもしたように、僕の体をベッドに運んだ。着膨れした僕の服を一枚一枚ていねいに脱がし、寒さに凍える痩せた裸を毛布でくるんでくれた。
 始まった。様々な感触が駆け抜けた。毛布の毛やシャツのボタンや木綿の生地や弾力のある筋肉。擦れたり、くすぐったり。谷口英雄も素裸になった。重厚な体躯で僕を押しつぶす。泣きそうになる僕。初めてなのかと、彼は尋ねた。正直に告げても仕方がなかったけれど、嘘は吐かずに目を閉じていた。
 いちばん驚いたのは、刈り上げた男の襟足に鼻先が触れたときのチクリとする痛みと匂い。この感触が、これからの僕の人生につきまとうのかな、男の人の襟足が。
 彼は僕をファックした。涙を浮かべる僕を気遣うくせに、無遠慮で身勝手にファックした。されている間中、彼の二の腕を掴んでいた。どこが痛いんだかすらわからず、彼の肩を引っかいていた。頭に響く痛み。体が緊張で強張る。
 セックスの途中、目が合った。とても冷たい目にも見え、秘密を告白できるただ一人の人の目にも見えた、なぜだか理由はわからないけれど。だけど打ち明けるべき秘密も思い当たらず、何を告げればいいのか探して漠然とした不安を感じた。
 その日、家に帰ると、やけに遅かったのねと母が言った。道が悪くてさ、と言い訳した。さっき窓から虹が見えたわよ。気がつかなかった? おにいちゃん。



 翌週もアップルティーは用意されていなかった。紅茶も。次の日曜日に訪ねたが、谷口英雄はまた珈琲をいれてくれた。僕がそんな要求などしなかったかのように紅茶については触れず、彼はコーヒーカップを手渡してくれた。その日、部屋はすでに暖かかった。その日、彼はどこかの島の緻密な地図を描いていた。大きな紙をていねいにたたみ、木製の棚の引き出しにしまっている彼の動きを見つめるでもなく、僕は何となく、デスクに散らかった消しゴムのかすを指先でよじっていた。
 あれからもう一度だけ雪が降ったが、今はもうどこにも見当たらない。乾いた寒さが続いていた。この部屋で耳を澄ますと、小川のせせらぎが聞こえる。
 彼はそして、性急に僕を抱き寄せ、服を脱がそうとした。まだ二度会っただけなのに、当然その資格を持っているかのように僕から衣服をはがしてゆく。痩せっぽちな僕の裸を眺めながら、彼は自分の頑強な体躯をみずからの手であらわにする。野性的なヨロイ。彼に仕事を尋ねたけれど、教えてはくれなかった。両親が死んだと聞いてこの町に舞い戻ったのに生家は廃屋同然で、住む家もなくこの部屋を借りたのだとだけ、話してくれた。昔飼っていた猫がまだ住み着いていたよ、と付け加えた彼。
 硬い裸になった彼は僕をベッドに押し倒した。初めてでなくなってしまうと、驚きのかわりに焦りさえ覚えてしまう。カーテンから光がさしていた。彼の丘陵のような肩口を照らし、翼のような鎖骨が近付いてくるのを映す。大人の男の体はどうしてこんなに・・・、頬をすり寄せたくなるのだろう。彼の無精髭が首筋をかきむしり、耳たぶを噛む歯の先の刺激に身が竦む。
 彼のデスクの上で、今日もふたつのカップが冷めてゆく。ベッドの上で、二人の体が溶け合う。彼の口から漏れる珈琲の匂いが鼻をくすぐる。英雄は汗をかいていた。凛々しいノドボトケから汗が滴り僕の肌に落ちる。けがらわしいような、トクンとするような感覚に溺れてゆく僕。揺れたり乱れたりする彼をじっと眺めた。そして腹の上でかたくなってゆく彼のペニス。怯えと衝動に震える指先が大きな性器に触れ、いちど触れると思わず握り締めてしまう。あふれそうになって背中に腕を回す。教わったわけでもないのに、次第に呼吸を合わせる。
 動き続ける彼を不意に手で止めた。一瞬の間。握り締めた彼の性器に、そっと唇を寄せた。両足を広げる英雄。もう彼の顔なんて見れない。自然と口を開き、それを含んだ。彼の低い呻き声だけに耳を澄ます。その振動だけに。彼の息が荒くなるのがわかった。彼は体の向きを変えて僕に同じことをした。今は微細な爆音だけが断続的に続く。
 光。目を閉じても空白な頭。
 それから英雄は、僕の中に入ってきた。とても時間をかけて。二度目なのになかなか出来なくて、それでもしようとした二人の目が不意に合い、何となく淋しい照れ笑い。心配するな。その後にやってきた痛みと吐息。胸に湧き上がる破片、何かが欠けているような。二度目だから感じたいとおしさ。二人は掴みあってセックスをした。二人は同時に射精した。
射精したあと、抱きしめられない心の距離を少しでも縮めようと胸を合わせる二人。あとは冷めてゆくだけだと、思っていたかもしれない。



「僕はこれからも、何人もの男の人とこうやってセックスをするのかな」
「さあな、俺だけだとは言えないけど」
 この地方の風景にとても似合う彼の筋肉の付き方。なだらかな山脈や平地を思わせる。いつの間にか、夕闇がやって来た。彼の体を手のひらで撫でながら、僕は言った。
「英雄さんと僕の体はずいぶんちがうね」
「ああ」彼は手を伸ばして煙草に火をつけた。「君の体は崩れていない」
「おヘソが好きだな、英雄さんの」彼のヘソに指先を押し当ててみた。彼は腹をよじって避けながら、たまに見せる照れ笑いをした。こんなお兄ちゃんが欲しかった。でも口にしなかった。お兄ちゃんとは、こんなことしないもの。ヘソの穴を爪でかいてみた。その度にくすぐったがる彼。自然に笑顔が浮かぶ。
「見分けられるかな、他の男の人と」
「はは」彼は笑った。「見分ける必要があるかな」
 黙り込む僕。次の言葉が見付からなかった。少し考えて、考えるのはよしておいた。淋しいたびに感想を持っていたら切りがない。
「僕にも煙草を吸わせて」彼の指先から煙草を取り、吸えやしないのに息を深く吸った。そして彼の唇に上から口付け、肺にためておいた息を吹き込んだ。涙があふれそうになった。笑う振りをして唇を放し、彼から顔を背けた。二人はムセながら笑った。
 それから、形を忘れないようによく見ておくよと冗談めかし、彼のヘソに鼻先を押し当てた。そしてそのまま顔を下におろし、しなびた彼の性器にくちづけた。また始まった。またやり始めた。やれるだけやった。時々、会話を交わしながらやった。セックスの合間の戯言なのに、心の隙間にすとんと落ちて響く言葉もあった。
 やれるだけやって夜遅くに帰宅すると、母親がどこで何をしていたのか、しつこく訊いた。まったく、就職もしないでぶらぶらして。弟は優等生だっていうのに。いつもの小言を聞きながら、何となく思い出した。地図を描くのは、地図は裏切らないからだと、英雄は言っていた。



 それから時は過ぎゆき、人々は雪のことなど忘れてしまった。春に咲き誇る花の噂ばかりを語っていた。アップルティーも、もうメニューに加える必要がなくなってしまった。僕はいつの間にか珈琲を口にするようになっていた。でも煙草はダメ。あれ以来、一度も口にしてはいない。谷口英雄との関係が続く一方で、僕はしばしば、街の暗がりで男をあさるようになった。英雄には内緒にしているけれど、何人かと、一度きりずつ。相変わらず母には小言を言われ、弟には見下されていた。ごくつぶし。そんな言葉、何年生のときに習うのかも僕は知らない。
 谷口英雄がどうやって生計を立てているのか、尋ねなかった。平日は彼の部屋を訪れるのも遠慮していた。田舎町とはいえ人はたくさんいる。彼も僕もきっと埋もれて誰の目からも注目されていない。そうは思ったけれど、彼の部屋を訪ねるときは人目を忍んでしまう。二人は部屋の外では会わなかった。お互いの名前を部屋から持ち出すこともしなかった。あの質素な部屋の中でだけ、互いの名前を囁き合い、それ以上のことは言わないのが暗黙の約束だった。けれども、それだけではすまなくなってしまう。守れない約束なんかじゃないのに。僕は愚か者です。
「弟がさ、訊くんだ、兄さんがみんなに何て呼ばれているか知ってるのか、って」自問のような僕の呟きが浴室に響いた。誰に問い掛けたのかわからない問いが。
彼は何も言わず、沈黙して僕を見つめた。天井から湯のしずくが落ち、水琴窟のような音。二人だけの小さくて暖かい湯船。彼は最後まで尋ねなかった。だから独り言の続きを言った。
「嘘つき」
後悔。そしてそのまま何もかも告白したい衝動が複雑に交差する。言うんじゃなかった、ううん、たぶんこれで少しは。
 中学二年のとき、成績が悪いのを理由に担任の教師に呼び出された。二人きりの指導室で説教をしながら、担任は僕の膝に手を伸ばした。あの時の恐怖がいまでも忘れられない。そのあと担任がしようとしたことも。怖くて怖くて、逃げ出した。逃げ出した僕の後追いをするかのように、担任はふれ回った。あいつは大人しそうな顔をしているけれど性悪な嘘つきだと。だからあいつが何を言っても耳を貸してはいけないと。
 思い返してみても、あの日から口数が少なくなった。話す相手がいなくなったから。何をやっても空回りしてうまくいかなくなった、あれから。先生だって怖かったんだ、なんていい子ぶる気にもなれないまま、ずっときた。
「誰だって嘘つきさ」動じるわけでもなく、穏やかな笑顔を浮かべた英雄。僕の隣りにいてくれるひと。
「そうだね」泣きそうな声で笑った。それから続けた。「英雄さんにもたくさん嘘をついた」
 それからザブンと湯に潜り、英雄のヘソに口を近づけた。何もかも打ち明けてしまいたかった。でも、話せばきれいに消えるのかな。何から打ち明ければいいのか思い当たらず、ブクブクと泡を立ててながらヘソにキスをした。
「今もまた、嘘をついた」水面に顔を出して笑う僕を、彼は抱きしめてくれた。天井から湯の滴が雨だれのように落ちてくる。その音を掻き消すほど抱き合った。このままずっと二人でいようね。生まれて初めて本心から嘘をついたあの晩。激しい嘘のシズクに打たれたかった、やわらかい照明の浴室。僕の素顔を映さないでいてくれる曇り鏡。



 それからも、僕は暗がりで男たちに体を与えることをやめなかった。英雄に会えないときはことさら欲しくなる。少し離れた町の公園の暗がりで、男を漁った。英雄に抱かれるのとは少しちがう。例の指導室で、担任の教師が忍び寄ってきたときに逃げ出さなかったら、こんな仕打ちを受けていたのかと他人事のように考えながら、男たちに体を許していた。なぜだか、いつも地に足がつかないような気がしていた。せっかく英雄と知り合ったのに、喜びを見出せないでいた僕。男とやれば確かめられるような気がして、誰彼構わず体をくれてやっていた。
 確かセックスの最中だったと思う。英雄が、僕が秘めた可能性は大きいと言った。何でもくわえこんでしまいそうで怖いと彼は言った。ものすごい速度で覚えてしまい、走り出して止まらなくなってしまいそうだと。楽器だって一つの音しか立てられなかったら飽きられる。たくさんの旋律を奏でようとして、僕は焦っていたのかもしれない。
 ある晩もそうだった。春雨が降りしきるにも関わらず、いや、シトシトと止まない雨のせいだったのかもしれない、傘も差さずに公園の木陰の幹に背をもたれ、見知らぬ男にされるがままにされていた。ちっぽけな肉片に慰めを求めていた。こんなものに慰められ、こんなものに振り回される。
 風が次第に強くなり、雨の角度が変わった。このまま雨に体を晒していたいと、茫然と思っていた。新聞も読まずテレビも見ない僕は知らなかった。嵐が近付いていた。矢のような雨が体を打つ。冷たい雨。噂になるようなことは止しなさい。母の小言や弟のあざけりが洗い流されてゆく。見知らぬ男に性器を吸われながら、そんな幻想に溺れてゆく僕。それを許さなかった光。雷鳴がとどろき閃光が辺りを照らした。何もかもが青褪めて発光した。ぎょっとした僕は思わず男を突き放した。再び暗闇に落ちた大地を、わけもわからず走り出した。我を忘れて放心したのかもしれない。自分の目の前に光が見えたのかもしれない。ウインドブレーカーで前を隠し、水溜りを踏みつけて走った。公園を駆け抜けると現実の灯火が待ち構えていた。衣服を整えてタクシーを拾った。もう正気に戻っていた。雨水が流れる車窓から田舎町の風景を眺めながら、谷口英雄と過ごしたいくつかの日曜日を思い返していた。会いたいのはあの人しかいない。抱かれたいのは。固く信じて疑わなかった。



 谷口英雄の部屋に着く頃、嵐はもう真上に来ていた。ずぶ濡れの僕を見ても驚きもせず、いつもと同じ表情で迎えてくれた彼。いつもとはちがう曜日と時間に来たというのに。嵐の夜、に。部屋に招き入れ、玄関口でふかふかのバスタオルを渡してくれた彼は、そのまま奥の部屋に戻って描き掛けの地図を折りたたんだ。かわらない彼の仕草に僕はあふれた。彼の背中にしがみつき、声にならない呻き声を上げた。そんなケモノのような僕ですら、彼はやさしく抱きとめてくれた。窓を叩く雨。部屋の上で嵐が暴れ狂っている。
「抱いてくれ」
 そう叫んだ僕を押さえつけ、乱暴にベッドに突き飛ばして彼は馬乗りになった。僕の両腕を手で拘束した。そのときに見たような気がした。部屋の蛍光灯が切れかけてチカッ、チカッとしていたのを。何もかもがスローモーションで回っているような幻覚を覚えた。英雄が、それだけで呼吸を乱れさせる硬い体躯をぶっつけ、僕を押さえつける。震えが止まらなくなった汚らわしい体を、何も言わずに抱いてくれた。回りくどい前戯なんてなく、彼は僕の中に入ってきた。熱さがこみあげ涙があふれる。この人にぶっつけられたい、この人に束縛されたままで止まってしまいたい。そんな僕に彼は耳元で囁いた。
「お前が離れていきそうな気がしてならない」
 やはり、蛍光灯は切れかけていた。彼のその言葉で不意に気持ちがさめてしまい、チカッ、チカッと点滅する明かりを、目を開けて眺めていた。
 お前の地図が描けないんだ。彼の胸の奥の溜息が聞こえた気がした。馬鹿な男。地図なんてもう神様が描いてしまっているのに。もう、ここを去らなくちゃならない。そう思った。夜明け前に姿を消さなければ。彼が僕を描けないなら、姿を消してしまわなければ。僕は地図にも出来ない裏切り者だ。嘘もつけない。



 突然にやって来た嵐は急ぎ足で去ってしまった。二人の上で暴れるだけ暴れて立去ってしまった嵐。汗を搾り出す激しいセックスに二人が埋もれている間、全力で水を撒き散らしていた暴風雨。セックスが終わった後、英雄は眠りこけてしまった。僕は暗闇の中で目を開けたままでいた。何時間も。
 夜明けが近付いていた。今まさに、夜が明けようとしていた。僕の首に腕を絡めている英雄の眠りが深くなるのがわかった、呼吸のリズムで。
 夜の闇が、高い空の呼吸に吸い寄せられて薄れてゆく。部屋が紺色に染まり始めた。閉じていた目を開き、谷口英雄の顔をつくづく眺めた。陰影が青に染まり、閉じた瞼の膨らみがイトオシイ。
 張りのある果実のような英雄の二の腕を首から解き、少し体を離した。ベッドの上、少し離れて英雄の裸体を眺め尽くした。夜でもない朝でもない一瞬にうつろう顔。短い髪に鼻を埋めたくなってしまう。軽く握られた五本の指がやりきれない。爪はまだ血の色を透かせてはいなかった。青い爪で僕は英雄のヘソに触れ、サヨナラと小声で言った。生まれる前に、ここに血が送られていたんだね。さようなら、英雄さん。
 朝まであと少しある。行くなら今だ。彼の顔をまともに見れない。息を潜めて体を起こし、僕はベッドに腰掛けた。床に散乱した衣服を拾い上げ、そっと袖を通して静かにボタンをとめた。まだ濡れたままだ。立ち上がると、足の裏に体重がぜんぶ掛かった。心なんて軽いのに、自分を支えきれないようで怖くなった。さあ、踏み出さなくちゃ。別れの一歩。



 足音を潜め、扉を出た。昨晩の嵐の名残の風が吹き付けてきた。風力が、抱かれたあとの皮膚を刺激する。動き出そうとしていた時間が止まった。立ち竦んだ。歩き出せない僕を救ってくれたのは、白んでゆく空気だった。ようやく歩き出した。英雄と出会った日に来た道を、逆戻りしていった。今頃、英雄はあの白いシーツの上に凛々しい体躯を浮かばせているのだろう。ひとりで生まれてきたままの輪郭線。
 入り組んだ区画を歩いた。平屋ばかりが立ち並ぶ田舎町は、嵐の後でみずみずしく潤っている。明け方のひっそりとした町。東西を山脈で挟まれた平野の上の空は流れている。あの日、秀雄と出会った日に見上げた嘘みたいに高い空じゃなく、ゆったりとした空だった。現実味のある、空だった。そう、これが現実なのだ、これからひとりで歩いてゆくのが。居住区から小川にたどり着いた。ここからまっすぐな道が線路まで続いている。新聞配達の自転車の急ブレーキが遠くで聞こえた。電線がヒュンヒュンと鳴いている。
 朝が来た。時間が進み始める。日が射せば、時間が加速するだろう。線路。そしてその向こうに横たわる山脈。なんて美しい眺めなのだろう。目を細めて眺めた。
線路までたどり着いた。緩やかな斜面を登り、踏切のない細道から線路に入った。線路をまたいで敷石を踏むと、石ころが無機質な音を立てた。線路を靴先で蹴っ飛ばすと、金属音が響いた。この波動は長い長いレールを伝導してどこまでいくのか。遠近法で狭まる線路のゲタを踏んだ。カタカタと鳴った。何だか淋しくて、なぜだか嬉しかった。僕は石ころやレールや木のゲタを靴の裏で叩いて音を立てた。様々な素材がそれぞれの音色を立てる。冷たくて温かかった。あの雪の日の午後が頭を過ぎり、僕は音を立て続けた。踏みしめた雪の結晶の音。これから一人になるというのに、孤独だとは思わなかった。様々な音色。僕は生きている。その時、地面の揺らぎを足の裏に感じた。汽笛が耳をつんざいた。ふり返ると、貨物列車が目の前に迫っていた。



 危機一髪でわき道にそれた僕。列車がすぐ側を疾走し、突風の圧力が足元から体を持ち上げる。轟音と突風を受けて足を踏ん張りながら、もしもそのまま列車に跳ねられクラッシュしていたら、僕はどうなっていただろうかと想像した。鎖骨が砕け、内臓が破裂する音を僕は聞いただろうか。僕は生きている。僕は生きている。
 目を閉じると涙があふれた。鋼鉄のレールの上を無数の車輪が転がっていく音を聞いた。貨物列車は一瞬にして過ぎ去った。
 音だけが聞こえた。列車の音が遠ざかると共に朝の田舎町の音、小川が囁き始める。風の声。深呼吸。目を開けると、線路の反対側に佇む谷口英雄の姿が目に入った。彼はあの日と同じ穏やかな目で僕を見ていた。涙が止まらなくなった。もう何もいらない。あなたがいてくれれば。僕は走って英雄に飛び付いた。彼は僕の体を抱きとめてくれた。もう離れない。今はあなたから離れられない。


 春の音色が聞こえたある昼下がり。緑為す平野を走り抜ける列車の座席に、二人の男が並んで座っていた。片方の男は地図を破り捨てたばかりだった。もう片方の男は、嘘つきと呼ばれたままでいいと思っていた。

(終)