ダブルブラインド

 蝶々は手足でにおいを感じる、と聞いたことがある。聞いたのはたった一度きりで、それもずいぶん前だというのに、最近しばしば思い出すことがある。男の汗ばんだ素肌に指を伸ばすときに思い出す。それならば蝶々は香り立つ沈黙を計ることが出来るだろうか。息苦しくなる。

 沈黙。

 男の肉体に溺れてゆく焦燥感。そんなとき、泣きたくなってしまう。

 泣き顔だと、言われたことがある。泣き顔の男はセックスにだらしがないと言われたことが。そうやって蔑まれるとき、虚無感のサナギから赤黒い蝶々が羽を広げる。その悦楽を覚えたのは最近のことだ。忘れてしまうことが出来るだろうか。

第一章

 また、キシンだ。部屋の天井のカドが、確かにキシム音をたてた。暖房を止めて消灯し、ベッドに入って目を閉じるちょうどその頃、それは起こる。空の放射冷却が箱のようなオレの部屋から温もりを奪い、天井や壁から温度が下がる。空に近いところから、温度が下がる。すると、冷たさに怖れをなした壁が縮み上がる。ピシッ。目を閉じ、眠りに落ちようとするころにそれは鳴る。ピシッ。天井と壁が接するあたりの角に、ミミズクが住み着いているのだと思った。ミミズクの鎖骨が、冷気に縮む壁の窮屈さに悲鳴をあげているのかと思った。その、へし折れるような音は、オレを驚かせる。けれどもう慣れていて、目を開けたりはしない。体がヒツギの中に閉じ込められてゆくような感覚に沈む。

 ミミズクだと思ったのは、暗がりの中で光る二つの目を持った鳥が、部屋の隅で翼を広げているような印象を持ったからだ。壁と一体化して潜む夜の鳥。きしむ音は、鳥が鋭利な爪を握り締める音かもしれない。そんな気がした。

 暗闇のきしみを、ひとりで聞いたことがある。

 暗闇のきしみを、誰かと聞いたことがある。誰だったのか、一人ずつは思い出せない。確かなのは、隣りで眠りに落ちてゆく正和と今、聞いたこと。夜、最後に聞く音、朝が来る頃には忘れてしまう音を、正和は意識しただろうか。彼は何も言わなかった。

 きしみが聞こえなくなってしまった。温度が下がるところまで下がり、建材の縮みが落ち着いたのか。何の音もなくなってしまった。

 ふと、そんな気がして目を開けると、天井から壁に沿ってミミズクが床に落下した。ベッドの端の、オレたちの足の方に落ちていった。掠れた音がした。影のような鳥が床にひれ伏したのか。怖くなった。反射的に上半身を起こしてそちらを見た。正和のナイトガウンが床に崩れていたのだった。正和のにおいを感じていたくて、借りたままになっている正和のナイトガウン。借りてから嬉しくて毎夜羽織っている。今夜は正和がオレの部屋に来ているので、それを知られたくなくて壁のフックに掛けていた。

 オレたちは互いの部屋を行き来していて、正和の部屋に泊まったとき、彼がナイトガウンを羽織った姿がなんだか艶かしかったので、それ、ちょっと貸してくれないかな、なんて言ったら、寒いのか、と問うた彼。そうじゃなくてさ、正和のものをオレの部屋に置きたいんだ。へんなヤツだな。そう言いながらも車で送ってくれた時に渡してくれた。

 そのガウンが壁のフックから落ちて上半身を起こしたオレに正和は気が付いた。

「どうした?」小声で尋ねる彼。まだ眠っていなかった。

「ううん、何でもない。ちょっと、トイレ」オレはそう言ってベッドから抜け出し、冷たい床に立ち尽くしてナイトガウンを見下ろした。今にも動き出しそうなのにうずくまったままでいる影が、少し怖かった。本当に動き出しそうで。怖かったけれど、床からナイトガウンを拾い上げた。彼のナイトガウンをさっと羽織る。影が宙に舞う。背中に重み、彼の、におい、ほんの少しだけ鼻先をくすぐる。オレはガウンを羽織ってトイレにいった。

 トイレの灯りを点して扉を閉める。蛍光灯が眩しい。便器の真中をめがけて小便をする。水の溜まっている辺り。小便をしながら、何だか腑に落ちない気がする。長い小便が終わる。腰を揺すって滴を振り払う。爪先立ちになって、滴を振り払う。あれは見間違いだったのか。

 パジャマのズボンを引き上げ、ガウンの前をかき合わせながら部屋に戻る。彼の匂い、やわらかい生地に織り込まれた、彼の匂い。

 もっと、ガウンをかき合わせた。彼に抱かれているようで、もっと抱き寄せた。

 深呼吸。自然と目が閉じる。何かが、体に降りてきたような気がした。

 目を開けると、暗がりの中に崩れる正和の寝姿。

 たまらなくなって、彼に忍び寄った。後ろで、ミミズクが落下する音が聞こえたような気がした。

 それから後は、高ぶりを抑えるだけで精一杯だった。何をどうネダリたいのか自分でもわからず、正和の上に乗って戸惑った。彼は予測していたのか。何も言わず、穏やかな目でオレを見上げていた。暗がりでもわかる彼の眼差し。眼鏡を掛けていないときの、少し冷淡な印象すら与えるきれいな一重瞼。

 呼吸が弾み始める、この男に見据えられると。

 彼はオレの首に腕を回して引き寄せた。目と目、唇と唇、触れ合いそうになる。肺の下のあたりが熱くなる。堪えきれなくなって緩めた唇を押付けた。この弾力、濡れてしまう。彼の髪を指で擦りつけ、露わになったおでこに接吻を浴びせる。形のいいヒタイに頬を押付けると、もう何と何が触れ合っているのかすらわからなくなる。急にいとおしい気持ちがこみ上げてくる。あふれ返るように、正和の体に抱きついた。

 そのとき、正和の心の鎖骨のきしみが聞こえたような気がした。聞こえたような、気がした。

 いとおしいから抱き縋るのか、抱きつくからいとおしくなるのか。

「どうした、また泣きそうな顔をして」彼は両手でオレの頬を包み、優しさに満ちた声で尋ねた。

「別に。急にやりたくなった」

 淋しいんだ、正和のそばにいると、なんだか自分がデキソコナイな気がして。口には出来ず、彼にキスを求めた。彼は体を入れ替えてオレにそっと寄り添う。体の繊細な突起が触れ合い、感じてしまう。指の先から、体の先から濡れてゆく。

 突然、正和が激しく抱きしめた。こんなにきつく抱きしめたら、誰を抱いているかわからなくなるだろうに。抱きしめられたときの胸苦しさ。抱かれる資格を得た者へ与えられた、罰なのか。いとおしいのに、汚らわしくて。

 外の薄明かりがカーテンを照らしていた。フローリングの床が光を反射していた。夜遅く帰ってきたマンションの住人の靴音が、建物を包み込むように響いた。トイレの貯水槽に水がたまる音。オレは息を吐きながら体を弛緩させた。

 目を閉じたオレの上を転がる正和。今いちばん近いところにいる男。外からは見えない場所に忍び込む男。体がますますゆるみ、気持ちも解けて、けれども頭が妙に冴える。彼が唇の隙間に湿った舌を差し込んできた。そっと、滑らかに。冴えていた頭の中の意識が溶け出してゆくのが自分でもわかる。舌が、彼の方へと自然にのびてゆく。軽く、ほんの軽く舌の突起同士が触れ合う。

 それから、モデラートよりも緩やかな速度で転げ合ったふたつの舌。

 高鳴りが、速くなっていった。部屋の中に潜む影たちが暗い暗い模様を生き生きと描く。夜にも色がある。透明な色。今まで生きていてくれたんだ。出逢ったときの感想がありありと蘇る。最初にキスしたとき、そんなふうに思った。自分の知らないところで自分の知らない人が生まれ育ってそして今日やっとめぐり逢ったのだと。抱き合うたびにつくづくそう思った。

 彼が口を強く押付けてきた。かすかな呻き声と乾いたベッドの悲鳴。ユリカゴに乗せられているような。それから生まれたままの姿になって、別々に生まれてきたふたりでセックスをする。時々、正和が相手だと忘れる。それでも、自分ではない男とセックスをしているのだと、意識している。別々の孤独なのだと、意識している。己の悦びのためならば、世界中の人間が死んでもいいと、思っている。

 正和は舐めるのが好きじゃない。そんな気がする。けれども丁寧に舐める。特に首筋を。まるでオレに印を付けたがっているのかのように、吸う。舌と同じ色の目印。そんなものは闇の中では導いてくれないのに。正和が舐めるのが好きじゃないと思ったのは、直感だ。尋ねたわけではない。もし尋ねたら、彼は認めるだろうか。認めて欲しくないから、問わないのだろうか、オレは。

 舐めるのをやめる言い訳のように、彼は裸の体を押付けてオレを抱きしめた。

 床に崩れたナイトガウンの上に、下着が落ちて崩れている。もつれあって崩れている。ほとばしったオレを受け止めた正和は、眠りを妨げられたことに苦情を申し立てるわけでもなく、その気になってやり始めたのだった。乾いた木綿と木綿が擦れ合い、落下、そして乾いた肌が湿り気をおびて汗ばんでしまったのだった。

 彼が舐めるのをやめると、なぜだか不安な気持ちになった。この人、もう舐めてくれないんだ。そう思うと、もっと欲しくなる。けれども口にして要求は出来ず、抱きしめてきた彼の背中に腕を回して強く引き寄せた。彼の髪のにおい。目が閉じる。肺胞のひとつひとつがミルフィオリの文様を描き、色彩が溶け出しては再び集まる。意識が魚の浮き袋のように空虚に膨らみ破裂寸前で止まってしまう。子供の頃、釣りをしたとき、針を飲み込んだ魚から無理矢理引っこ抜くと、内臓と一緒にふかふかの浮き袋を吐き出したものだった。

 男の素晴らしい腰の弾力が、足と足の間に割り込んできた。背中の下のシーツにゾクゾクとしてしまう。

 やっと、その時がやってきた。男の性器がオレのハラワタの中に入ってきた。自分の卑しい身分に心底嫌気が差してしまう。頼んだわけでもないのにこの肉体を与えられたことに、喜びを覚える。卑しいくせに、オレはよろこんでしまう。

 男がオレを性器で貫く。性器で貫いている。もう、それ以上のことは考えられなくなってしまう。ひとつひとつの感覚を追って分析できなくなってしまう。

 例えばそれはいきなり入ってきたときの痛みから始まる。そして自分でもわかる広がりと底のなさ、大きく膨らんでは擦れて収縮、ヒダ、張りの強さ、押し入ってくるリズム。いつの間にか呼吸を合わせ自分で締めたり緩めたり吐き出したり叫んでいる。コントロール不可能なのは、あふれだしてしまうときだ。せがんでせがんで、声がかれてしまう。オレを貫いている正和のアレの根元をぎゅっと掴んでしまいたい衝動に駆られる。手を伸ばして握り締め、オレの手相をこの男の紫色の粘膜に刻み付けてやりたいと思う。そしたら少しは彼を手にした気になれるだろうか。そしたら少しは、弾力が返ってくるだろうか。彼の性器がオレの手のひらの中でぐしゃりとつぶれる感触を想像する。眩暈。揺れている。手におえない速度。彼は腰を振っている。想像する。彼の性器を握りつぶす。黄色い睾丸が手のひらから転げ落ち、握り締めた男根の熱さ、尿道から真赤な血液がドクドクと溢れ出す。オレは頭が狂うほどその感触に焦がれている。

 呻き声。むせび泣き。たえ切れない。瞼の裏側の闇の色。震えてかち合う歯。直腸の妙なむず痒さ。小刻みにちぎれてしまいそう。すぐそこまで迫っている。呻き声。消えてしまえ。尿道から精液がほとばしる。

 西日、イカダ、オレンジ色の水平線。洞窟、影法師、秋のカマキリ。みんな、消えてしまえ。

 あとは、あっけないのだとわかっている。セックスのことはほとんど記憶に残らず、じんわりと心に滲む感覚だけがしばらく継続するのだと。頭が空になっている。あとはあっけなく、時が進んでゆく。射精の余韻が薄れるに連れて明確になってしまう二つの呼吸音のわずかなズレ。

 あとは、夜が死に絶えてしまうだけだ。セックスが終わった後、二人は並んで横たわっていた。何もかもが、死んでしまいそうなほど穏やかだった。夢を見ていたのか。急に、正和に何か尋ねたい衝動に駆られた。けれども体は動かず気持ちだけが焦った。もどかしさに拳を握ると、手のひらの中で、爪が少し伸びているのがわかった。

 ある寒い夜、バスタブに浸っていた。急に考え込んでしまった。一年前の自分はどんなだっただろう。頭上で換気口の音が響いた。少し離れた街道を突っ走るトラックの音が近くに聞こえた。静かだった。一年前の自分はどんなだったか。大して変わってない気もすれば、故郷の海鳴りと同じくらいに遠いような気もした。

 ヴァイオレットに染めた湯を手のひらにすくって顔を洗う。水面に浮かんだ軽石がバスタブに触れて、カタ、カタと音を立て揺れる。一年前の自分なんていなくたっていい。子供の頃、母にカカトをよく擦るように言われたのを思い出す。浮かんでいた軽石を手のひらで掴んで湯の底に沈め、踵を念入りに擦った。透明なバスタブが欲しいな。きっとこのヴァイオレットが綺麗だろうな。

 角質化した皮膚を軽石で削った後のカカトに指を触れる、滑らかで、それでいてキュッとする感覚に身が竦む。正和の大きな手を思い出す。自分の他は、体を許す相手にしかさわられることのない踵。少し勃起してしまう。少し膨張した性器が太腿に触れる窮屈感。頭に血が上る。

 音を立てて、オレは立ち上がった。水の重さを体に感じ、一瞬にして重さから逃れた体、嬉しくなってバスタブの中の湯を足で蹴っ飛ばした。

 湯から上がった。洗ったばかりのバスタオルを頬に当てる幸福感。白いバスローブを羽織る。生地が水分を吸収して体に密着する。透明なグラスに冷たい水を注いで一気に飲み干す。細胞たちが活発に働き始める。

 冷たい水。

 水が冷たい。

 冷たくなってゆく水がおいしいと感じたのは、正和とめぐり逢ってからだ。

 秋に知り合って、冬へ、冬へと、水が冷たくなった。冷たい水がノドをくだるときの勢い。水は思い出をめぐらせる。あの時の水。あの感覚が透き通る。

 あれは十月だっただろうか。もう自信がない。空気と水のことはこんなにはっきりと覚えているのに。

 陽射しはまだ色褪せていなかった。空は少しかすんでいた。会社の昼休み、ビルの谷間の公園の噴水のそばの水道で、水を飲んでいたオレ。蛇口を上に向けて勢いよく水を出し、唇を近づけて啜るように飲んでいた。口元ではねる飛沫。ふと顔を離してみると、目の前で、噴き上げる水が重力に引っ張られて落下しているのがよくわかった。弧を描く透明な液体の頂点に、太陽や、うつろう緑や昼休憩の人々が様々な色を織り成していた。

 そこに溶け込んでいた姿が、正和だった。

 空を鳥が一直線に過ぎったかもしれない。

 そちらに目を投げると、男と目が合った。ときめいた。後からそう思い込んだだけかもしれないけれど。無言のまま、二人はそこに立ち尽くしてしまった。水道の水が噴き上げたままになっていた。

「あ、どうも」理由もなく会釈してしまったオレ。ぎこちない時間が流れる。ぎこちなさに、いつまで経っても慣れないオレ。

 同じように会釈を返した正和。昼休み、上着を脱いだ彼の白いワイシャツの眩さに目をそらした。水の音、耳の中で膨らむ。きっかけを作ってしまったのは自分なのに、どうすればこの場をやり過ごせるかわからなくなって曖昧な笑顔を浮かべた。

「二十三階の方ですよね」彼が口を開いた。思いがけない問いだった。

「え?」思いがけない問いに、オレは返事すら出来ない。

「エレベーターで何度か。俺、二十八階です。その間は通過するエレベーターで何度か一緒になった気がしますけど。記憶違いだったらすいません」

「いえ」

 そうか。同じビルに勤めていたんだ。言われてみればそうかもしれない。小首を傾げてしまうような不思議な感覚におちてしまった。

「じゃ」立去ろうとする男。

「あ、そうです。オレ、二十三階です」我に返って言った。

 立ち止まって踵を返す男。逆光に切り取られたモーション。一秒一秒が克明に聞こえる。

 男はちらりとこちらに眼差しを投げ、そして立去ってしまった。名前も残さず、影も残さず。やはり小首を傾げてしまうような感覚だけを残して。その感覚に浸っていた。浸り続けたいと願っていた。

 次に彼に会ったのはエレベーターの中だった。今度も昼休みだった。少し遅れて昼食に出て、下りのエレベーターに乗り込んだ。別段、取り付かれるほどの考えもなく、呆然と乗り込んだ。中途半端な時間だったのに、エレベーターは混んでいた。昼食を終えて外に出掛ける会社員たちの表情。

 やがて、エレベーターが地上に着いた。どやどやと降りる人に、流された。

 肩を叩かれて、振り向いた。岩城正和だった。

「やあ」二度目の彼はなぜだか親しげで、けれども馴れ馴れしくはなかった。「この前はどうも」

 胸がトクンと鳴る。緻密な繊維質の感情が胸を過ぎる。ビルの床をコツコツと打つ会社員たちの靴音が響く。ガラス越しに見える交差点。季節外れの日傘が交差点をゆっくりと過ぎっている。

「あ、いえ」この度もろくな返答が出来ず周囲の景色に吸い込まれていたオレ。二人はビルの外へと自然に出た。

「やっぱり二十三階だよな」

「あ、はい」それから焦って付け加えた。「ごめんなさい。気がつきませんでした」

 いや、別に、と少し照れ笑いを浮かべた彼。陽射しの高さと、首から肩にかけて流れる線。ありきたりだけれど、新鮮だった。そのフォルムを身にまとい、印象的な眉の下から眼差しを繰り出した彼。そのときはじめて思いついたかのように、彼はオレを昼食に誘った。よかったら一緒に飯でも食いに行かないか、と。思わず目をそらすオレ。はい、と答えながら彼の視線を避けた。二人は並んで歩き出した。

「背、高いんですね」目を伏せたままオレは呟いた。

「そうかな?」少し開いた二人の距離。歩行。ビルの上に抜ける空。彼の眼差しの角度。言葉が続かない。

 それから二人は、コーヒーの香りが立ち込める喫茶店に入ってランチを注文した。無言の隙間をぎこちない表情で縫い合わせ、差し向かいで昼食を平らげた。食後のコーヒーを啜る頃になってやっと、緊張が解けた。

「転勤でこちらに来たばかりなんだ、最近」正和は言った。それから彼は笑い、まだ名前も名乗ってなかったよな、と。彼は岩城正和と名乗った。

「そうですか、転勤ですか」それからオレも名前を告げた。名前を告げるときはいつもなぜだかぎこちない笑顔になる。

「河合さんは東京に長いの?」と彼が尋ねた。

「もう十年、かな」

「長いな」

「うん。長い。家族も一緒に越してきたんですか、岩城さん」

「いや。身軽だよ。車だけは連れてきた」

「車かあ、いいなあ」

「自分をどこかへ連れて行ってくれるやつを、連れてきた、なんて」

「海を見に行きたいな」とりとめもなく言ってしまった。「誰もいなくなってしまった海。まだ誰もいない海じゃなくて」

「なんだか淋しいこと言うんだな」

「淋しいかな」

「あ、一緒に行けば淋しくないか」付け加えた彼の言葉が店に響く。時計が十三時を打つ。昼休みが過ぎてしまう。

 ふたりは何となく目を伏せてしまった。そうだね、と呟いたオレ。それから慌てて言った。そろそろ行かなくちゃ、怒られちゃう。

「よかったら、今度ドライブでも行かないか」落ち着いていて、穏やかな彼の声。響く。その微かな振動が心の底を乱そうとしている。それが怖くて、慌てた振りをしたのかもしれない。え、いつ? 今週? 土曜日? 日曜日? ぶっきらぼうに質問した。視点をどこにも置けず、それから彼を見て、それからまたテーブルに目を伏せる。

「今週の土曜日にしようか」

 指定されると、視線が落ち着く。オレは小さく頷いた。もう子供じゃあるまいに、それでも何度か頷いた。

 客がまたひとり去った。扉が開き、また閉じて鐘の音がなる。気が付くと、店内には俺たちだけが残されていた。もう行かなくちゃ、怒られちゃう。わざと腕時計を見る。彼は無言だった。不安になってようやく彼を見る。彼と目が合う。それからまた俯く。

 少し遅れてオフィスに戻った。特に注意は受けなかった。席につこうとしたが何か落ち着かなくて、遅くなりました、と課長に謝った。

 仕事を終え、部屋に帰り着いて一番に腕時計を外す。翌朝また時計を腕にはめるまで、自分はいないも同然なのだと、漠然と思う。そんな日々。続く日々。カレンダーに青いペンで丸をつけた土曜日。漫然と流れてゆく日々に付けた青い印。

 車は誰もいなくなってしまった海に向っていた。カレンダーの数字を青いまるで囲んだ日の秋の高い空から燦々と降り注ぐ太陽光線が風をくぐり抜けて走る車の車体に反射していた。助手席から見える、バックミラーの中でうつろう色と影たち、車はまた別の車を一台追い抜いた。海へと近付いていた。

「いまどき海だなんて」

「きみが行きたいって言ったんじゃないか」岩城正和は笑った。

「一応、言っとかないとね」ちらりと彼を見、それからオレは膝を抱えて助手席の上、丸くなった。転がるように上を向く。だって、カレンダーに印を付けることなんてなかったもの。言いたいけれど言わないでおいた。

「岩城さんは、海は好き?」

 心地よい滑走音と光に埋もれる。振動。胸が高鳴る。約束の日が、やって来たのだった。

「好きだよ…、誰もいない海」

 はっとして彼を見る。真正面を向いたままの彼。筋の通った鼻と唇の線、薄く開いている唇も線を描いている。その向こうには流れる風景。ハンドルとギアを操る彼。休日の服装。車の影が次第に減ってなくなってしまう。アクセルを踏む充実した太腿が、車の振動の中で、不思議な緊張感を帯びて見える。張り詰めた筋肉の盛り上がり、その緊張がこちらまで伝わる。海へと向うまっすぐな道。膝を抱えたまま、オレは体を揺らしてみた。頬を車窓につけてみる。冷たい。

「でも、まだ誰もいない海のほうが好きかな。誰もいなくなってしまった海よりは」岩城正和はいまだ正面に目を凝らしたまま言った。彼の呟きが唐突に響きさえした。ミラーの反射光。溶け込んでしまいたい輝き。

「来年まで待たなくちゃ」少しだけ頭を起こして彼の方を向く。

「待てませんかね」

 子供に問うように言った彼の表情。男が香り立つ喉元の印象に目を奪われる。あふれそうになったオレ。

「止めて」

 急ブレーキ。タイヤの摩擦音。トクン、と胸が鳴る。あくまで冷静な彼の横顔が、スローモーションでこちらに向く。彼は理由すら問わない。停止した景色、停止した時間。まっすぐに続く道の上に止まった車の流線型。いつまでもそこにとどまってはいられない、今にも走り出してしまいそうなフォルム。こちらに向いた彼の顔。くちびるが、色付いている。オレは彼の唇に、いきなり唇を重ねた。呼吸が止まる。鼓動。岩城正和は唇を押し返してきた。

 顔の前に酸っぱくて眩しい白い球体が現れ無限に広がりオレを包んでは痺れさせる。オレはすきとおっている。その不可思議な球体が放つ白い光が肺を満たし肺胞のひとつひとつが様々な音色を奏でる。ため息を漏らしてみたり囁き声をあげてみたりその白い幻惑に名前を付けてみようとかなどと呟き始める肺胞たち。

 体があたたかくて、喉が渇いていた。

 オレはそのまま、彼の肩に手を掛けた。自分の指先が震えていることに、いまさら気が付いた。彼の肩の微かな震えも。もう、あれが硬くなり始めていた。抑えきれなくなって脈打つあれに心臓が血を送る。内腿の付け根あたりの震え。

 ふと薄く目をあけて彼の顔を見た。琥珀色の薄日を背景にした彼の頬骨の輪郭線。瞼の陰。揺れた髪の毛の輝き。彼が欲しくて、体中が脈打っていた。頭の芯まで、血流が昇っていた。

 再び目を閉じて、彼の影に埋もれた。体の温もりが伝わってくる深みに飛び込んだ。彼はさらにこちらにやって来た。狭苦しい車内で、二人は抱き合った。それから急かされるように服を脱いだ。呼吸が乱れ、その呼吸に何もかもが追い抜かれてしまいそうで怖くなり、二人は焦って服を脱いだ。まっすぐに続く道に止めた車の中、すっかり裸になってしまった二人は互いの裸体を眺め合った。そして、神に与えられた組織や器官が織り成す裸体の起伏、出っ張り、くぼみ、先端、それらを撫で尽くし、口にくわえ、味わい尽くした。降り注ぐ陽光が体の表面を削り、二人の裸体は擦れてしまう。皮膚の上に薄っすらと浮かぶ汗と匂い。舐め、嗅いだ。二人はそのままセックスをした。光の中、なんでこれがこんなことに役立つのかと呆れるくらい、体のあらゆる場所を使ってセックスをした。

 セックスをした後、海までたどり着くと午後のいい時間だった。

 今でもあの午後のことはよく覚えている。車を降りて歩いた浜辺の空の高さ。思いのほか静かだった潮騒。近くの道路を徐行する車のタイヤが砂利を踏みしめるきしみ。海へと向う陸風。人目を忍んでそっと触れた指先。

「誰もいなくなってしまった海か…」正和は呟いた。

「うん。だけど海は同じ」オレは水平線の彼方に目を投げ、誰にともなく言った。

 そのときオレは知らなかった。何となく耳にした、例の、タイヤが砂利を踏みしめる音が、あとでオレの人生に関わってくるなどとは。記憶はあやふやなのに、あの音の印象だけは今でも耳に残っている。

 それからというもの何もかもが透明で、うつろう気持ちすらもが透明だった。オレは透き通るものたちに囲まれて暮らすようになった、いつだって囲まれていたかった。調度品も小物入れもフォトフレームも、透明なものをえらんだ。例えば洗濯物を干すハンガー、例えばサプリメントのタブレットを入れるケース。揺すると、カラカラと硬質な音が響く。このまま自分の体もすきとおってしまえばいいのに。そう思っていた。あなたと口づけたあの晴天の午後から…

続きはApple Booksで😊

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