上弦

 真昼の月はどこじゃ、真昼の月はどこじゃ?
 晩夏の午後、桜の園の内なる聖域で、月を探していた。
 水色の空の中、ふわりとしたはぐれ雲の向こうに、にじんだ半月が宿っていた。
 汗を流しながら、月をずっと眺めていた。あの月には、死んでしまったペットたちが住んでいるのだ。例えば犬、例えばフェレット。
 東の地方では、もう夕暮れ時のはず。月を眺めているうち、夜の闇が裾野を広げて西をも支配しようとしていた。わたしのシナリオを包み隠すかのように。
 おお、こんなことはしとられん。そういえば、今日は富山の本家の方から尋ね人があるという話しじゃった。家で待っとらんと。
 玄関の前には小さな子供。子供が?
「おじさん、ここの人?」
「ほうよ。あんたかね、富山から来んさる言いよったのは。内田の本家の。」
「はい。リュウタです。」
「まあ、上がりなさいね。」
 突然訪ねて来た子供にどう接していいやらわからず、お茶を出せば良いのか、お菓子でも買ってこなきゃいけないのか。とりあえず座敷へ。
「それで、また本家のおぼっちゃんが呉までなんで?」
「ひいひいばあちゃんの妹が呉に嫁いで、遠い親戚が今でもその古い家に住んでるって、聞いたもので。」
「ええ、それがわしじゃよ。ここで生まれたわけじゃないが、なんの因果かここで暮らすことになった。その、ひいひいばあちゃんの妹というのも、わしが看取った。」
「雪下ろしをしなくていい生活を、ちょっと見てみたくて。」とリュウタは突然。
「やっぱり内田の本家のお子じゃ、おかしなことを言いんさる。雪かきのない生活が見たいなら、なんで冬に来んのかね。」わたしは笑った。「よりによって夏の終わりに来たって、そんな生活は見れんよ。」
 リュウタはモジモジ。
「いや、これは失礼。わしは子供がおらんもんでの、子供とどう接してええんか、わからんで。」
「おじさんはここで一人で暮らしてるの? こんな大きなおうちに一人で。」
「一人で住むには大きいが、それほど大きな屋敷じゃないよ。内田の坊ちゃんはもっと大きな屋敷におると聞くが。」
 富山には焦がれて焦がれて焦がれていたのに、行く機会もなかった。わたしは続けた。
「一人で暮らしとるが、まあ、時々は訪ねてくる人もおるよ。」
「呉では雪は降らないの?」
「そうじゃねえ、年に一度、降るかどうかくらいかねえ。積もっても五センチくらいじゃろうか。」
「たったの五センチ? じゃあ、雪の思い出なんかないんでしょ、おじさんには?」
「滅多に降らないから、そりゃ、逆に雪の思い出はあるよ。
 雪といえば、クロネコヤマトさん。雪が五センチも積もりゃ、ここらは交通マヒじゃ。宅急便を、待っても、待っても、来ん。待って待って、ようやく届いたクロネコヤマトのお兄さんの頬が真っ赤になっとっての、やっと、宅急便が届いたから、前に飼っとった犬の散歩に行こう思うて、川向こうまで行ったら、クロネコヤマトの同じお兄さんが宅急便を配達しよってのお、雪で犬の足が滑るもんじゃけ、抱いて歩きよったの見られて、恥ずかしかった。」
 わたしは子供相手に饒舌になって。
「そんな思い出しかないの?」と子供は興ざめをしている。
「さすがは本家の内田の坊ちゃんじゃ、じいの話じゃ満足できんか。」と笑いながら睨んでみる。
「雪かきのない生活のことが聞きたいんだよう。」リュウタも笑う。
「雪かきなんかしたことないけん、そんなものは、ただ寒い冬の日が続くだけじゃ。知りたいなら冬に来んさい。」
「他に雪の思い出はないの?」
「そりゃ、あるさ。」
「どんなの。」
「そんな話しはええんじゃ。」
「話してよ。」子供は聞きたがる。
「さすがは本家の内田の坊ちゃんじゃ。別にロクを送ってくれるわけでもないのに、わしに指図しなさる。」
「ねえ、おじさん。」
「はいはい。そりゃね、もうわしも結構な年じゃし、その頃も結構な年じゃったがね、大切に思える人にめぐり逢うてのお。
 冬の終わりに逢うて、次の冬には一緒に肩を並べて六花の雪を見れるじゃろうか、と姫のような夢を見ていたものじゃ。雪の華という古い歌のようにのお。じゃけど、その冬は一緒に雪を見れんかった。
 次の年は見れるじゃろうか、一緒に見れるじゃろうかと待ち望んどったが、その年は雪が積もってしもうて、交通渋滞でその日は会えんかった。
 この地方では、それくらい雪に恋い焦がれるものじゃよ。
 それから何度、冬を過ごしたものか。なかなか見れずにおったがのお、ある年、ドライブをしよるとき、急に、風に乗って粉雪が舞い始めて、フロントグラスでくるっと旋回して、踊っていたよ。
 さらさらとした粉雪で、さあの、わしが飲みよる睡眠薬をくだいて撒き散らしたみたいに、気持ちが穏やかになった。やっと雪を一緒に見れた、思うての。
 その時、シューベルトのの、死と乙女が流れとって、それはそれは忘れられぬ瞬間じゃった。
 あの、降り始めたばかりの粉雪、さらさらとした、風に踊って後ろへ流れてゆく雪は、格別な思い出じゃ。
 相方さんなんじゃがの、お互い、もうすっかり爺になってしもうて。」
「お互い爺さんなの?」
「さようじゃ。若い頃、東京で働きよったがの、ニュージランド人の若い女が、あなたはいつまでも白馬の王子さまを待っているのね、と言うたけれども、五十年待っていたら、青い車のおじさんが迎えに来てくれたのじゃ。」
「へえ。」
「まあの、毎日が、初恋じゃけん。」
「なんだ、おじさんの雪かきのない生活は、ノロケ話か。あきれてものが言えないよ。」
 もうすっかり日も暮れて、空には上弦の月。

(終)