嘘つき

 その日は朝から晴天だった。昨晩の大雪の名残りといえば、大地を覆う一面の白だけだった。遠い彼方の空から送り届けられた雪は、鏡のように輝いていた。見上げれば見上げるほど嘘のような空。真っ青で、高かった。昨夜の気象現象の贈り物は、あと二、三日はそのままでいそうだった。せっかくの日曜日だけれど、市街地までは出かけられそうにない。僕は町外れの本屋まで歩いて出かけ、ヒマつぶしに読むための雑誌を何冊か買った。それから来た道をたどって家へ戻ろうとした。徐行する車のタイヤが汚れ始めた雪を跳ねる。せっかくの贈り物なのに。少し傾いた垣根に、繭のような雪のかたまりが引っ掛かっている。嬉しくなる。

   何となく、いつもとはちがう道を歩きたくなった。たぶん、どこもかしこも白だったからだ。住み慣れた、様々な思い出や羞恥心が綴られた町が、白紙に戻ったような気がした。歩くうち、電車の踏み切りに差し掛かった。東を見渡すと、一面の白の中、裸の線路がまっすぐに続いていた。もう列車は何度が往復したのだろう、鈍い色合いの二本の金属が彼方まで続いていた。けれども、レールのほかはすべて白無垢、誰の足跡も見当たらなかった。僕は踏切を渡らずに線路沿いに歩き始めた。さえぎるものがないので、線路を渡る風は広く冷たかった。まだ誰も踏んでいない雪を踏みしめて歩くと、ザクッ、ザクッと硬質な音がした。ひとつひとつの結晶が、身を寄せ合ってはキシム音を立てた。いずれは融けて水に戻り、何にも縛られることなくどこかへ流れてしまう仮の姿。僕の足の裏なんて、ゆきずりのトモダチ。

 踏みしめる音に、淡い親しみを覚えながら歩いた。寒かったけれど、晴天の青い空から、太陽光線が降り注いでくるのがわかった。誰彼構わず降り注ぐ陽光。マフラーからこぼれた首筋を包む。孤独。ザクッ、ザクッと鳴るキシミ。爪先が凍えている。ザクッ、ザクッ。気が付くと、僕の立てる音に調和してきた、別の足音、雪の音。

   ふり返えると、少し後ろに男の姿が見えた。それが谷口英雄だった。距離はあるのに、足音は鮮明に聞こえた。それだけ静かな午後だった。ハッとして息をのんだ僕は、佇んで男の姿を眺めた。うつむいて歩いていた男はふと顔を上げ、足を止めた。音が途絶える白と青と光の静寂。停止した男の肖像。力強さが伝わり僕はただ息を飲んでいた。白い息がさ迷っては消えてゆく。

   歩き始めたのは、谷口英雄だった。濃紺のダウンジャケットのジッパーを顎まで上げた彼は、大股な歩行を繰り出した。ザクザクという自信に満ちた音がこちらへ近付いてくる。ゆっくりだが的確な足取り。予感。なぜだか息が弾んできた。目の前で、大柄な男は立ち止まった。褐色の頬が、冷たい空気で赤く上気していた。スキー焼けか、日に焼けた顔が目の前までやって来た。そして急に、仏頂面がほころんだ。

「トオセンボか?」彼は笑った。輝く雪の中で眩しかった笑顔。真冬に血の色が広がる。

 目を逸らしたままで戸惑っていた僕。

「通してもらうぞ」笑いながら続けた彼は、僕の脇をすり抜けていった。冷たい空気の中、男の体温と匂いが跡を引いた。そのぬくもりの方へ、僕はふり返えった。男の背中が遠ざかってゆく。何だろう、この気持ちは。冷気の中、胸にあまやかな懐かしさが湧き上がる。

   線路から小川へと逸れる細道で彼は足を止め、一度だけ振り返えって目で合図をした。

 そのあと繰り出した始めの一歩を、今でもよく覚えている。やはり、雪の音がした。ひとりぼっちの僕のトモダチだった結晶たちが、今度は風の中で予感の音色を奏でていた。あの午後、僕は知りもしない男の背中を追いかけていったのだった。人懐かしさに呼ばれて。

 雪が融けて水に戻り、屋根からしたたり落ちる音が窓の外で聞こえた。音楽もかけない静かな部屋で、谷口英雄はコーヒーをいれてくれた。湯を沸かしながら机の上に広げられた大きな紙を折りたたんで大切そうにしまい、それから彼は僕にカップを渡してくれた。

「何、あの紙は?」

「地図だ。自分で地図を描くのが趣味でな」それから彼は珈琲を一口すすり、机の上にカップを置いた。「飲まないのか?」

「紅茶の方が好き」彼の木製のデスクのふちに腰掛け、白いシンプルなカップを持ったまま僕は俯いた。

   褐色の液体の表面に波紋が揺れた。谷口英雄が歩く振動だった。

    彼は僕のすぐ側まで近付いてきた。まだ温まらない部屋の中、彼との距離が急速に縮まる。鼓動、耳の底で。

「紅茶も買っておいてやろうか、今度来るときのために」と、彼。

 目を逸らす僕。ただ付いて来ただけなのに、どう答えていいものやら困ってしまう。特に、こんなに静かだと。

「アップルティーがいいな、どうせなら」何とか笑い、そして僕は彼の方を向いた。「さっき、どこへ行っていたの? あの雪の中」

「散歩さ」彼がまた一歩近付いてくる。珈琲の表面、再び波紋。「そしたら君の足跡を見付けた」

 屋根から落ちるしずくが、耳元で響いた気がした。いやなら飲まなくてもいいぞ、と彼は言いながら、僕の手からカップを取ってデスクの上に置いた。物音のひとつひとつが冷たく息付いた。彼は急に僕の体をすっぽりと包み込んだ。胸がつまり、全身が硬直する。怖れながら、英雄のシャツの肩に頬を押付けてみた。おにいちゃん、ってこんな感覚なのかな。

 俯いたままでいると、男がそっと唇を寄せてきた。男の人って、こんなふうにするんだ。あたたかくて湿っていて、珈琲の味がした。

「また来てくれるよな?」

 キスのあと、コーヒー味の質問をした。この人は、今までに同じ質問をたくさんしたんだろうな。それから彼、何人にもしたように、僕の体をベッドに運んだ。着膨れした僕の服を一枚一枚ていねいに脱がし、寒さに凍える痩せた裸を毛布でくるんでくれた。

 始まった。様々な感触が駆け抜けた。毛布の毛やシャツのボタンや木綿の生地や弾力のある筋肉。擦れたり、くすぐったり。谷口英雄も素裸になった。重厚な体躯で僕を押しつぶす。泣きそうになる僕。初めてなのかと、彼は尋ねた。正直に告げても仕方がなかったけれど、嘘は吐かずに目を閉じていた。

 いちばん驚いたのは、刈り上げた男の襟足に鼻先が触れたときのチクリとする痛みと匂い。この感触が、これからの僕の人生につきまとうのかな、男の人の襟足が。

 彼は僕をファックした。涙を浮かべる僕を気遣うくせに、無遠慮で身勝手にファックした。されている間中、彼の二の腕を掴んでいた。どこが痛いんだかすらわからず、彼の肩を引っかいていた。頭に響く痛み。体が緊張で強張る。

 セックスの途中、目が合った。とても冷たい目にも見え、秘密を告白できるただ一人の人の目にも見えた、なぜだか理由はわからないけれど。だけど打ち明けるべき秘密も思い当たらず、何を告げればいいのか探して漠然とした不安を感じた。

 その日、家に帰ると、やけに遅かったのねと母が言った。道が悪くてさ、と言い訳した。さっき窓から虹が見えたわよ。気がつかなかった? おにいちゃん。

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