Akiraさんに

 その映画に音楽を付けるとしたら、カモフラージュの ONE FINE DAY かトリフィッズのアルバムの中からふさわしい曲を選ぶだろうか。いや、風の声だけでじゅうぶんじゃないか。上空を移動する大気のファルセットの歌声と、その下を駆け抜ける滑走音だけじゃないか、その数十秒か数分のカットに色彩を与えられるのは。透明感と心地よい音、すくわれるような感覚だけに、耳をかたむけてみたい気がしないでもない。
 まっすぐな道が、どこまでも続いていそうなほど続いている。空は抜けるほど青い。抜けるようだけれど壁のような空の青。
 その下を、一台のオートバイが疾走している。速度は速いのに、まるで走ってなどいないかのように映画には映る。太陽光線が車体に乱反射している。画像が停止しているかのようだが、蜃気楼、揺らめいている。バイクを運転をしているのは男だ。二十二、三の青年だ。ヘルメットを被っているので顔はわからない。体つきから、まだ年食っていないとはわかる。
 日曜日。地平線に曜日を当てはめても無意味だろう。それでも日曜日。ちょうど太陽がくだりはじめた頃だ。コバルトの粒子と大地の砂の数が競い合い、たがいに削りあう大平原。
 大平原に続く直線の道をオートバイで走りながら、青年は見ていたのだろうか。行方が見えないくらい遠い道を見据えながら、今まで通ってきた道のりの直線やカーブについて考えただろうか。ゆきずりに見た光景を思い出しただろうか。
その朝、彼は八時半に目を覚まし、ダイニングまで降りた。不機嫌なふりをして家族に挨拶をした。家族は、ああ、いつものことだと気にも留めなかった。彼はテーブルの上から厚切りのブレッドを取り上げて口にくわえ、それから母親があらかじめ注いでいたグレープフルーツジュースのグラスを手に取った。そして無言のまま、再び階段を上って部屋に戻った。家族があまりにも彼をわかりきっている顔をしているのが気に食わなくて、自室にこもって一人で朝食を取った。単に胃を満たすためだけのつもりが案外、悪い朝食ではないと思った。
 今更のようにカーテンを開ける。空が青い。深呼吸。胃袋が満たされているのがわかる。窓を開ける。風が心地よい。目を細める。その感覚に浸っていたいと感じながら、急に気が変わってデスクに向う。PCの電源を入れ、ウォームアップの時間に苛立ちながら、チカチカとするスクリーンを見つめるわずかのあいだ、最近、目が悪くなったと思う。彼はコンピューターが立ち上がるまでの時間に様々な考えを持つ。どれをとってもありきたりで日常的な考えなのに、時に真新しい感情に包まれることがある。
 その朝はまだ頭がぼんやりとしていて、感情といえば、空白に似た波動だけだったかもしれない。その朝は、考えを持たなかったかもしれない。
 コンピューターが立ち上がる前に、彼は最近お気に入りのCDを再生した。ここ二、三日プレーヤーに入れっぱなしのやつだ。PCが立ち上がると、いつもの慣れた手さばきでマウスを操り始める彼。音楽のリズムに身をゆだね、いくつかの作業を同時進行で進める。自分の中にあるいくつかの心の扉をトントンと叩いて回るように。急に気が進まなくなったり、のめり込んでいったり。ためらったり、ため息を吐いたり。
 いつの間にか、時間が空に吸い寄せられてしまったのかもしれない。気付かぬうちに音楽が終わっていたのかもしれない。ハードディスクドライヴの持続的な駆動音。
 はっとする瞬間に頭脳の網目をさっとくぐり抜けた空白の光。彼は読みかけの手紙を折りたたむように、すべてのウインドウを閉じて、PCをシャットダウンした。駆動音が止まる。今更ながらに音楽が終わっていたことに気がつく。窓から吹き込む風。彼はすっくと立ち上がり、両手をジーンズのポケットに突っ込んで窓辺にいった。それからしばらく空を見上げた。青。真綿のような雲をじっと眺める。少しだけ雲が動いているような気がする。じっと眺める。大気の移動が雲を運んでいるのか、自分の体が知らぬ間に運ばれているのかわからなくなる。
 さっと振り返り、彼は床に投げられたままのヘルメットを取り上げたのだった。それからヘルメットを脇に抱えて自室を出て、猫背のまま階段を降りた。足音が静かな家屋に響く。偶然リビングから出てきた母親の足音。彼はぷいと顔を背け、そのまま玄関へと進む。足音が交錯する、母と息子の。言葉のやり取りは最後までなかった。
 そのとき彼の胸に過ぎったのは先ほど窓から見た真綿のような雲に似たものだったかもしれない。
 扉を開けると、雲よりも面積の広い青い空の隙間から差す陽光が、彼の体の表面を音もなく跳ね返る。輪郭線が薄れたような気にさえなった彼。一歩、また一歩と繰り出す歩みと、無意識のうちに眺めている視界の揺らぎ。晴天。そのままガレージまで進む。ガレージのシャッターを開けると暗い半地下に光が射し込み、白と影、シャッターの音、まるで街中の雑踏のざわめきを聞くような。
 それから、コンクリートを叩くブーツの音。コツン、コツン。少し湿った、ひんやりとしたガレージの空間。少し色を抜いた髪が無風の半地下でも揺れている。彼は自分が立てる物音を聞きながら、ヘルメットを被った。もう音が聞こえなくなる。さっとバイクにまたがった。
 白紙に戻ったような瞬間。キーを差し込んでまわす。破裂音が響き渡る。振動が太腿と手のひらから腹の底まで伝わる。その震えの高揚感。さあ、走り出せ。 
 ガレージを飛び出すと、もう、何もついてこなかった。母親との距離も父親の影も電話のベルも。何も追いかけてこない。整然とした住宅街の日曜の静寂を蹴っ飛ばす。もう、何もついてこない。太陽だけが追いかけて来る。南中へと向かい黄道を上昇する太陽。
 しばらく住宅街を走ると市街地へと入る。交通量は多少増えたようだ。信号に引っ掛かる。彼は苛立っているのか、ムヤミにアクセルをふかしてみる。ふかせばふかすほど苛立つような、落ち着くような矛盾。何気に街路沿いのカフェに目を投げると、数人の学友が陽射しを浴びながら談笑している光景が目に入る。みんな笑っている。陽射しのように笑っている。急に気持ちが穏やかになる一方、何となく取り残された気がして淋しさを覚え、それでも壊さずにそうっとしておこうと、目が遠くなるような感覚、そのときシグナルが青にかわったのだった。さあ、走り出せ。
 足元からすくわれるような発進。気が先走っていたのか、自分でも乱暴だと呆れるくらいの急発進をしてしまい。風圧を避けようと首を低くした。
不思議なことに、街を抜けるまでもう信号には掛からなかった。邪魔する車輪も他になかった。乾いたアスファルトとタイヤが接するわずかな面と物理的な法則だけを頼りに走った中型バイクのバランス。市街地を抜けて、建物の並びを抜けて、影がどんどんなくなってゆく。スピードが増してゆく。風圧。内臓から浮かんでゆくような疾走感。
 緩い傾斜の丘に差し掛かり、彼は姿勢を少し高くし、馬に乗るように坂道を登る。車体が陽射しで熱くなってきた。あぶられたアスファルトの坂道をゆく。 
 丘を越えると、広々とした平原が開けていたのだった。何度か走ったことのある道だが走るごとに、もっと遠くまで行きたくなる。そう思いながら、今日はどの辺まで行くのか前もって頭の中で算段してしまう。そんな気持ちなど吹っ飛ばせ。心の中の一喝、スピードを上げる。何もかも忘れて突っ走れ。車体がうなる。ヘルメットの中から見る、切り抜かれた視界。もう建物は何も見えず、道だけが続くところまで来てしまった。ちょうど今、太陽が南中する頃で、彼はその年老いて衰弱してゆくだけの巨大な恒星を見ることが出来ない。それでも彼の頭の天辺を射る光たち、途方もない過去に遠い彼方から打ち放たれた光たち。 
 昨晩、彼は女友達に誘われて気のすすまないパーティーに付いていった。昨晩、彼は気がすすまなかった。家まで迎えに来てくれたナオミの車に乗ったときからタメイキを吐きたい気分だった。パーティーが嫌いなわけじゃない。夜に外出するのが嫌いなわけじゃない。同伴のナオミも気の許せる仲だ。けれども、なぜだか。フロントグラスを通して見える街のネオンサインを眺めても、街路を過ぎる人々の楽しげな顔に目を投げても、彼はただ連れてゆかれるだけの動画カメラの気分だった。嬉々として友達の色恋沙汰の噂をする彼女の鈴のような笑い声を聞くともなしに聞きながら、ただ相槌を打っていた彼。ああ、そうだな、とだけ。少し黙ってろよ、とまでは言えずにただ茫然と彼女の話に耳を貸していた。彼が素っ気なければ素っ気ないほどはしゃぐ彼女。ノロノロと車を進めながらろくに前も見ずに喋っている。
「信号が赤だぞ」ぼそっと呟く彼。急ブレーキ。彼女の驚きの顔。くすくすと笑いながら意地悪を言う彼。「代わりに俺が前を見ていてやろうか」
 そして二人で大笑いをし、信号が青に変わる頃には少しは気分が高揚していた。そうだよな、あいつらまったくなあ。そんなふうに言い出した彼は、会場に着く頃には機嫌がよくなっていた。
 会場は繁華街の裏路地の静かな辺りのピッツェリアだった。何の集まりだかわからないが、なんでもナオミの女友人が開いたパーティーで、ざっと見渡す限り知らない顔ばかりだった。二十人くらいだろうか、こじんまりとしたピッツェリアで、立食形式になっていた。あとで聞くところによると、主催者の両親が経営する店だった。まだ若い主催者の女性とその恋人の男性は二人ともイタリア人だったが、特に女性の方はプラチナブロンドに染めているせいかイタリア系の面影が薄かった。
 ナオミが主催者のルイーズに彼を紹介し、軽い挨拶を交わしただけで、ナオミと彼はパーティーに打ち解けなければならなかった。片手にワイングラスを持ち、それでも手持ち無沙汰で体のやり場に困る彼。社交的なナオミは既に周囲の空気に馴染んでいる。彼は黙って立ち尽くしていた。なんだかしっくりこなかった。集まるための集まりに。
 さっきの上機嫌はどこかに消え、心ここにあらずと立ち尽くす彼。時計で測ったような正確なペースでワイングラスを口に運んだ。
 そこへ、側にいた男が彼に近付いて来て挨拶をした。恋人だろうか、連れの女性も彼に微笑みかける。きっと恋人なのだろう、定義はないけれど、なんとなく距離で。彼は愛想良くこたえることが出来た。男は少し年上のようで、主催者ルイーズの友人なのかイタリア系の面立ちがはっきりしている。満面の笑顔を称え、気さくに話し掛けては彼にワインをすすめる。無防備で邪心のない、ゆきずりの出会いにすら時間を削ることを惜しまない男の笑顔にほだされたのか、彼の表情も徐々に綻んでくる。もつれていた糸が自然と解けるように、彼の心もゆるやかになる。
「僕たちは犬を飼っているんだ」男が言った。
「やめて」物静かな女性が穏やかに口を挟んだ。「あのコのことを考えると沈んでしまうわ。私たちはあのコを部屋にひとりぽっちにしてしまった」
「帰ってからうんと甘えさせてやればいいさ」
「やめて。あのコのことを考えると、何て言えばいいのかしら」女は一瞬口を噤み、それから続けた。「いとおしいのよ」
 男は笑う。女は苦情を申し立てる。
「ほんとよ」女は彼に訴えた。「ある日ね、ベーカリーでハムを買って帰る途中、あのコと目が合ったの。それからあのコは私の家まで付いてきた。きっとあのコは私に恋をしてしまったんだわ。この人と知り合う前の話よ」
 男はけらけらと笑った。私は真面目よ。笑顔を浮かべながら言った女と男の目が合った。二人は急に沈黙して見詰め合い。それから互いにいとおしそうに髪を撫で合った。
 そのとき彼の顔に自然な笑顔が浮かんでいたのかもしれない。自分では知らずにいる自然な笑顔で、二人の男女を眺めていたのかもしれない。鏡なんていらない。
 唐突だった、笑顔の中、犬が駆けてゆく姿が彼の脳裏を過ぎった。昔飼っていた犬が走って遠ざかり、ふとふり返ってまたこちらに駆け戻ってくる躍動が。懐かしいような淋しいような甘美な後ろめたさが泡のように胸に浮かぶ。あいつは今、丸くなって眠っているだろうか。眠っていても家族の足音にぴくりと跳ねた耳。思い出す。夜が深まってゆく。宵のパーティーの喧騒。月、銀色に君臨する。 
 海底から浮かぶ気泡のような記憶をかき消すように、グラスが床に落ちて割れる音がした。パーティー客の男女が、痴話喧嘩を始めたのだった。一瞬、来客たちは突然の出来事に息を飲み、唖然として二人を見守った。女の方がやたらと美人で勤め先の男たちから粉をかけられていることに彼氏が嫉妬していたのだった。普段から遠まわしに嫌味を言っていたことが、酒が入ったせいで矢のように飛ぶ。肩まで出したドレスの女は見下したように男に言う。誰のおかげで食べていられると思ってるのよ。黙れ、このスベタ。男女のイサカイが続く。来客たちは次第に興味を失い、呆れ顔で背を向けて各々の酒を楽しむ。
おそらく、女は人目が逸れてゆくのが悔しかったにちがいない。人目を引くということにおいては天性の手練手管を身に付けていたにちがいない。女は男の頬を張った。驚きの悲鳴と共に皆が再び注目する。女の会心の笑み。殴られた男が女の首に掴みかかり、二人はその場でもみ合い始める。
 そこへ、側にいた男が割って入った。もう一人別の男が割って入った。高級娼婦並の美女を恋人に持った彼氏を普段からやっかんでいた男たちだ。数人がもみくちゃになる。殴り合いが始まる。普段から気に食わないと思っていた同士が殴り合い、そもそもの痴話喧嘩などとうに忘れて殴り合う。食器が床に砕け、先の尖ったフォークが金属音を立てて跳ねる。水に石を打ったように三度跳ね、フォークの先端がちょうど彼の爪先辺りで止まる。元来は狩の道具だった金属器。
 すぐ側で繰広げられている争いをまるでよそ事のことのように感じながら、彼は茫然とフォークの先端を眺めた。外出用の革靴の先、銀色の金属が黄色い照明をやわらかく反射している。もう、彼には何の物音も聞こえなかったのかもしれない。突然、彼はフォークをまたいで歩き出し、扉を開けて会場から立去った。
「待ちなさいよ」ナオミが追いかけて来た。彼は振り向きもしない。
「あなたは、いつもそうやって目を背けるのね」
 彼女の言う意味が彼にはわからなかった。たぶん、彼女自身もわからずに口にした言葉なのだろう。しかし、なぜだか彼の心を打った彼女の言葉、爪を切る音のように。そう、切り口が鋭くなる爪の立てる音のように。彼は立ち止まったが背は向けたままだった。
「好きにすればいいわ」はすっぱな口調で捨て台詞を投げる彼女。
 そのとき、彼の脇を、昔飼っていた犬が駆け抜けて車道の方へと走っていった。楽しそうに嬉しそうに、何かを追いかけるように。はっとする彼。車道に突進してゆく犬。車に衝突しそうになる。その瞬間、犬の幻影は薄れて消えてしまった。しばし茫然とする彼。あちこちから聞こえる宵の口の宴の声。我に返った彼は、犬の幻影が走り去っていた方向へ走り出したのだった。ナオミが後ろから何か叫んだが、もう聞こえはしなかった。
 南中した太陽の下、スピードメーターの針はぴたりと止まっていた。どの数字を指していたのか、彼は注意を払わなかった。彼は知らなかった。昨晩、彼の背中に向ってナオミが叫んだ言葉を。答えてよ。彼女は去ってしまった彼に向って問いかけ、それが彼に対する問いなのか別の誰かに対する問いなのかわからずにいた。両目から冷たい涙が流れた。悔しいわけでもなく悲しいわけでもない生理現象に似た冷たい涙。頬を伝ううちに冷めてゆく涙の温度を感じながら、彼女の顔に複雑だが爽やかな表情が浮かんだ。答えてよ。胸の中でもいちど呟きながら、きっと答えを求めてはいないのだと彼女は思ったのだった。
 道は直線だ。どこまでも続いている老朽化したアスファルト、砂埃をかぶって白けた道路。その道を走りながら、彼は何を考えただろうか。置き去りにしてしまった可哀相な白い犬の幻影が側を走っただろうか。今は何も考えるな。ただただ走れ。もう岩の影さえもなくなり、山も丘もなくなってしまい、目の前に開けるのは大平原だけ。その向こうに横たわる地平線。縮まらない距離。追いかけても追いかけても、手を伸ばしても届かない地球の淵。いや、地球に淵なんてない。地球の手のひらだ。
バイクは走る。彼は風のように滑る。もう母親に言えなかった言葉も父親から授かった面影も追いかけてこない。大地の上で転がるタイヤ。地平線からこちらに差し伸べられた手のひらの上を回る二輪車と、転がりまわる回想。思い出や大切だった朝の目覚めの瞬間が転がってゆく。あいつは可哀相なんかじゃない。生まれた偶然と、出会った偶然を分かち合った白い犬。走りながら振り向いてくれたときのあの眼差し。
 太陽は少し下り始めたようだ。どんなに些細な突起にも降り注ぎ、影をこしらえる光の源泉。太陽が彼を追い抜き、ヘルメットの内側から見える切り抜かれた世界にしのびこんでくる。彼はそのとき、それまで知らなかったかのように、西へと向っていることに気がついた。空は青いまま動こうともしない。今は風すらも感じない。タイヤの下、連続して過ぎてゆく中央分離線の白。 
「ふざけないでよ」
 こつりと頭を叩くように、彼女の声が胸に響いた。いつ聞いたのだったかどこで聞いたのだったかもう思い出せない。本当に恋人が言ったのかすら自信がない。彼は女の声を振り払い、前方だけに集中する。何も考えずにただ走れ。いいえ、感じなさい、震えなさい。そう、あれはきっと彼女の悲鳴だったのだ。彼にぶっつけたい気持ちをそれ以外に言語化出来なかったかの女の。彼女が震えていたのを、彼は覚えている。彼女に何の相談もなく転校を決断したこと、今考えてみると些細なことで口争いをした二人。だがしかし、それだけではなかったのだ、あの絞り出した声の震えは。きっと彼女は、ヨロイを着て彼に体当たりしたかったのだ。羽ばたこうとしている彼に。どうしてあのとき、ぶつかってきた彼女の気持ちに彼はこたえられなかったのか。どうして沈黙したまま背を向けたのか。伝えたい気持ちはたくさん、あったのに。今でもわからない。後悔はしていないけれど。
胸を過ぎる思いを振り払うわけでもなく走りつづけていると、ふいに、つきものが落ちるように気持ちが消えた。すうっと色褪せるように。 
 そのとき彼には見えたのだった。正面に横たわる地平線がかすかな弧を描いているのが。追いかけても追いかけても届かない地平線、地球の手のひらがやさしい弧を描いているのが。ぶっ飛ばせば、あの線を越えてゆけそうで、彼は前輪が宙に浮くほど速度をあげた。飛び出せそうだ、越えてゆけそうだ。もしもこのシーンを映画に撮るなら、カメラのアングルを空ほど高く上げて、地球の手のひらの上を転がっている小さな彼を撮影したかもしれない。彼の視線まで落として地平線のかすかな弧を映したかもしれない。

 わたしは極東の海岸から太平洋を眺めている。彼が見ているであろう地平線のかすかな弧と同種の地球の円形を海に見ている。水平線のヒズミを凝視しながら、彼が見ているものを見ようとしている。これから彼に訪れる新しい一日を。わたしは海亀の眼になったことがあった。海亀の眼になって海底を無感情に眺めたことがあった。今は太平洋を渡ってその向こうの新大陸を見ようとしている。わたしの頭の上を越えて西へと向う太陽が、地球をぐるりと回ったのち、彼にもたらすであろう新しい一日を。太陽がわたしを越して西へと遠ざかり、彼の方へと向ってゆく。上空には偏西風が吹いている。わたしの気持ちは運ばれただろうか。電気信号を通して。
 彼はおそらく、十数時間の時差を経て、今わたしが浴びている太陽を浴びるだろう。わたしの一日が終わる頃、新しい朝を迎えるだろう。わたしたちは誰しも同じ弧の上に立っている、物理学的な力に支えられ、かろうじてバランスを保っている車輪なのかも知れない。彼が果てのない滑走を続けるのがわたしには見える。わたしの言葉は彼の耳に届くだろうか。十も離れたこの子がいったい何になりたいのだろうかと、わたしは考えたことがある。何を目指し、何を夢見てどこに向っているのかと。けれども、わからなかった。わたしは考えた。わたしが彼について知っているのは何だろう。もしもこの映画に音楽をつけるとしたらわたしはどの曲を選ぶだろうか。やはり風の音がいい。
 わたしたちはきっと、知っていたにちがいない。たとえ思い出や言葉が枯葉のように落ちては朽ちてしまっても、またいつか新緑の若葉が萌えてくるのだと。そんなに謝らないでください。彼の言葉がよみがえる。
 もしかしたら彼は、わたしが、わたしになだれ込んできた彼の印象を書き綴っていること自体、すっかり忘れているのかもしれない。事情を説明するなら、「彼」が自分に似た主人公が登場する物語を書いてくれないかと言ったとき、わたしには鮮烈な印象がなだれ込んできた。あとは、吐き出すだけだった。

 無限って何だろう。

 太陽が「ありがとう」をつれて西へと向う。わたしは寄せては返す波の音を聞きながら、彼に訪れる新しい日に思いを馳せる。走りなさい、震えなさい。似通っているようで同じではない日々。無限に続く弧。

(終)