羽ばたく

 送別会の時刻に遅れて姿を現したあなた。一瞬だけこちらに向けられた凛々しい眼差しはすぐに伏せられてしまった。何ら感情は示さず、あなたの目は、指定された席、左利きのあなたのために空けられた左端の椅子に、ごく自然に投げられたのだった。主賓の私からいちばん離れた、そう遠くはないのに遠く感じられる場所に。

 あの日のあなたの様子が今でもありありと瞼に浮かぶ。陽光のゆたかな地域で金褐色に焼けた肌、少し色を抜いた短い髪、私を打ちひしがれた気持ちにさせる、溌剌とした輝き。父が望んだ理想の息子像。父親の押し付けにとらわれたりは、もうしないけれど。

 「私」という響きが好きだ。ごく私的で、けれど甘えがなくて。「あなた」という響きも好きだ。とても身近に感じられ、しかしどうにも埋めようのない距離があって。絶対に私ではありえないという。

 私はもはや、その距離を嘆いたりはしないだろう。私は嘆かないだろう。

 ある事情で、私は転職することになった。新たな出帆にも思え、また漠然と、不本意につまはじきにされたように感じたのも事実だ。波風立てずに去ろうと決意した私。挨拶もごく控え目に。けれども、世の中には奇特な人々がいたものだ。東京の本社勤務だった私は、日々、工場の同僚とメールや電話を通して仕事をしていた。ただそれだけだった私、文字と声だけの存在だった私に、会いたがった人がいたのだった。工場を訪れるのはせいぜい棚卸の時だけだった私に。工場のある女性が言った。「みんな、あなたに会いたがっているのよ。あなたが来てくれたらきっと、よろこぶわよ皆。なぜならみんなあなたのことが大好きだから」。わたしは彼女の言葉に心を動かされたのだった。そして、「みんな」という響きに。

   私は、環太平洋の島国の稜線に沿い、とある東海地域の町に駆け付けたのだった。予定外の小旅行だった。予定外に、お別れの挨拶を考えなければならなかったのだった。

 遠隔地の同僚に会うためだけなら、休日でもよかった。もしくは就業後でも。立ち入り許可を申請してまであえて就労時間中に工場を訪ねたのは、汗水たらして働いているあなたの姿を見たかったからだ。作業服を身に付け、フォークリフトで貨物を運搬するあなたに。

 少しさかのぼって事情を説明するなら、私は入社当時、ある一定期間、工場で研修を受けた。約一ヶ月ほどだったか。だが私は仕事を覚えるので精一杯で、工場の社員と接するのもそこそこに、無感想なまま東京本社に戻ったのだった。

 駅からタクシーを拾って工場にたどり着き、懐かしい直線道を渡り、コンクリートの建物の入り口のガラス扉を開いたとき、ああ、このにおいだ、そう思った。すべてはここで始まった。わたしの労働の日々はここで幕を開けたのだ、あの猛暑の最中に。だから忘れないようによく見ておこう、ここの空気を深く吸っておこう。ひさしぶりに訪れた工場の施設内を一巡りするうち、涙が流れてもおかしくないくらい、私は感慨に浸っていた。

 工場内を一回り挨拶して歩いた。私といちばん仲の良かった例の女性社員が、終始付き添ってくれた。すっかり記憶から抜けていた施設もあれば、子供の頃から慣れ親しんでいるかのような錯覚すら覚える設備もあった。それは人々も然り。腹違いの兄よりも身近に感じる人もいれば、いけすかない人もいた。けれどもお別れの挨拶は平等に。

 一通り挨拶を終え、最後に、あなたが働いている作業現場へ足を運んだ。

 作業中のあなたは、私に目もくれなかった。ちらりとこちらを見ただけで、合図すらなかった。私が泣かないよう努力ししつつ、ぎこちない笑顔を示したというのに。

 私を遠隔地に駆り立てた女性が、申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。それから彼女はあなたを弁護した。

「あの人は照れ屋さんなのよ。送別会には顔を出すと言っていたから、後でまたゆっくりとね」

 けどね、実はわたしは満足していたんですよ。決して愛想を振りまくことのなかったあなたが、いつものように一生懸命、働いていてくれたから。そんなあなたが大好きだったから。無愛想で、不器用で、けれどもひたむきなあなた。

 終業後、私は同僚たちに連れられて、田舎町に似つかわしい洋食屋へ案内された。少し気取ってみせているくせに、どこか垢抜けない感じの店。

 嬉しかったこと、出席する予定ではなかった人が何名か、私の顔を見て時間を割いてくれたこと。いやあ、今日は別の約束があったんだけど、××さんの顔を見たら、行かんわけにはいきませんわなあ、とか何とか。そしてそのくせ、誰も私の送別会だとは口にしなかったこと、それが嬉しかったこと。

 同僚たちは主賓の私を差し置き、好き勝手に料理や酒を注文した。宴が始まるやいなや、とりまとめようのない話で盛り上がり、上司の悪口を言ったり、今後の会社の方針について、まるで私の未来がそこに組み込まれているかのように、語り合った。

 私は私で、新幹線の中で考えておいたお別れの挨拶を打ち捨ててしまった。この人たちに、別れを告げるのはよしておこう、もしかしたらもう会えないかもしれないけれど、別れの言葉は口にしないまま、私のことを忘れてもらおう、そう決心したのだった。

 あなたが姿を現したのは、宴会が始まってから三十分程経ってからだった。普段着に着替えたあなたの体は、優秀な選手だった頃の面影を残し、分厚く盛り上がっていた。

   男を見るとき、どうしてもそういう目で見てしまう。二分の一の確率で生まれた奇蹟に、感嘆してしまう私。それは罪悪なのか。この話は、進めないでおこう。

 遅れて来たあなたは、主賓の私がいることを確認するかのようにこちらに目を投げたあと、一瞬だけ出合った視線を伏せ、すぐにあなたの為に予約されていた左端の席に腰を下ろした。それから駆けつけの酒を注文したきり、黙ってしまった。誰と口をきくというわけでもなく、俯き加減で酒を飲み始めた。美丈夫という表現が相応しい姿形をその場所にそっとひそめたまま。

 私はあなたの顔を見た。大好きなあなたの顔を見た。あなたはこちらを見返さなかった。だから私もあなたから目を逸らした。

 不思議なことに、三年半前の研修期間中、私はあなたの存在を気にとめなかった。本社での勤務が始まり、日々、電話で話すようになったときも、無愛想で言葉足らずな男だとしか思っていなかった。あなたの顔に初めて視線を注いだのは、あなたが何かの用向きで本社を訪れたときだった。言葉足らずでぼそぼそと喋るあなたが、あれほどの美丈夫だったと知ってときめいた。その晩、友人達に誰彼構わず電話し、あなたを賞賛したほどに。

 その日を境に、あなたから電話が来るのが楽しみになった。何と単純明快な。けれども、その単純明快さは抑制され、ねじ曲げられてしまう。本当は私も、皆と一緒に笑いたかった。けれどなんとなく、疎外感を感じてしまって。こういう話はやはり止しておこう。

 私がちょっとした冗談を言うと、あなたは照れたように笑ってくれたよね、仕様もない話題にも付き合ってくれたよね。私たちは徐々に打ち解け、年が同じであること、血液型はちがうこと、星座、他愛もないことを話すようになった。あなたのことが少しずつわかった。あなたが結婚していて、子供がいること。それ以外のこと、私はあなたの何を知っていただろう。

 実際、日々、仕事上の会話を交わすだけ、顔だって、二、三度合わせただけ。それでも確信を持って言えるのは、私たちの間には確かにあった、何かしらが。信頼、なんて軽々しいかな。それとも単に私が便利だったから?

 宴もたけなわ。うたげは佳境に達した。卓上にはグラスや食器が散乱し、罰当たりなことに、誰も手をつけずに放置された料理もあった。給仕が照明を低くした。暗すぎると小言を言うものがいた。これくらいの明るさがちょうどいいと言う者もいた。特に女性には、と付け加える者。皆、酔い知れていた。

 私はといえば、隣に座っていた例の女性と本社の社員の噂話をし、顔を見合わせては笑い袋のように笑っていた。まさか、あの二人がねえ。

 会話の合間に、ちらりとあなたの顔を見た。あなたは凛々しい眉とその下の瞳を持て余し、相変わらず黙ったまま、手酌でビールを飲んでいた。私の方を見はしなかった。

 でもね、気付いていましたよ。周囲の人々に愛想を振りまく私の顔を、あなたが時々、凝視していたことは。あの澄んだ二つの瞳が、汚れた私に向けられていたことは。

 私があなたを見ると、あなたは目を逸らし、再び俯いたよね。それからグラスを持ち上げ、それが俯いた正当な理由であるかのように、ビールを飲み干したよね。そしてまた、手酌でグラスを金色の液体で満たした。それくらいのこと、気付いていた。きっとあなたも、私が気付いていたことに、気付いていたと思う。確信は持てないけれど。

 ためらいを捨てようとしたが、どうしても出来なかった。時々あなたの美しさを、はしたない目で盗み見たりはしたが。目が合ったら、泣いてしまいそうで、どうしてだか、泣いてしまいそうで。それでも、私は努力した。あなたの輝きを忘れないようよく見ておこうと。写真にも撮られず議事録にも残されないこの瞬間を胸に刻み、後々に記憶の井戸からそれらを汲み上げ、一人きりのときに泣けるように。蜜のような金色の肌、少し愛嬌のある団子鼻、私を淫らな気持ちにすらさせる、におい立つような唇。そして何よりも、こちらを竦ませる二つの黒い瞳。

 私は自分の顔の表情を抑制し、薄い微笑を浮かべ、宴席の誰から見ても自然に映るよう努めた。あなたに視線を向けていたのは、ほんの僅か、おそらく数秒の間だけだ。年齢を重ねるに連れ、そういった手練手管は身につくものだ。

 何が切っ掛けだったのか。あなたと私の視線が唐突に重なった。お互いの視界の中で、お互いの瞳がかすめるように交差し、淡い焦点を結び合ったのだった。それからしばらく逸らせないでいたのだった。

「無口なんですね」私は言った。