薔薇色に滅び行く

 フローレンスのホテルで幻を見た。
 男の完璧な均整から繰り出されるフォルムを目の当たりにしたとき、あり得ない、と思った。それほど男は美丈夫だった。美しいだけじゃない。均整の取れた体格と優美さを持っていた。わたしは目を奪われた。目を奪われる、というのはこういうことを言うのだ。
 わたしはわずかばかりの休暇を取ってイタリアに来ていた。ローマでありきたりな観光をしてフィレンツェまで足をのばした。本当にありきたりな一人旅だった。ガイドブックに紹介されている名跡を訪ね、三つ星くらいのレストランで食事をすればそれで気が済む。だいいち、ヨーロッパではひとりで五つ星の場所で食事をするのは腰がひける。外出時の靴のようなパートナーがいればまだしも、ひとりだと気がひける。けれどもホテルだけはまあいいところに泊まった。どの部屋の窓からも花の都が見渡せるホテルだった。
 その日の午後、ミケランジェロの壁画をざっと観るとすぐに飽きてしまった。時差ボケと旅行三日目の疲れで体が重く、やたらと喉が渇いた。肉感的なルネッサンス美術にやられてしまったのか。やたらと喉が渇いた。少し休みたくて、ホテルに戻った。バーでグラスにワインを注いでもらって一口飲み、喉を湿らせた。それからグラスを持って大理石のロビーの長椅子に腰掛けた。煙草を一口だけ吸って灰皿でもみ消し、ソファでぼうっとしていた。
 静かなロビーに旅客が行き来する靴音が響く。何も考えずにその音を聞いていると、空っぽになる。雨に打たれる森の中にいる気持ちになる。眩い夏の光が少しまぶしくて、大理石の床に目を伏せていた。
 伏せた目の視界の中に、コツリと音を立てながら、よくみがかれた黒い革靴の足が入ってきた。重い瞼を上げてそちらを見やると、長身の日本人男性が立っていたのだった。男はタキシードを着こなしていた。まるで型紙のような輪郭線で、けれども肉感的だった。肩から二の腕にかけての筋肉が張っているのが、上着の上からでもよくわかった。油を塗った髪の毛を櫛で撫でつけた顔は無表情で皮肉っぽかった。男はわたしが座っていたソファの向かいのソファに腰をおろし足を組んだ。トラウザーズの裾が少し上がってのぞいた足首は引き締まっていた。
 男は胸のポケットから煙草を一本抜き出し、カチャリとライターを鳴らして火を付けた。すっと静かに息を吸って、ふっと長く煙を吐いた。それから煙草を持っている腕の肘を、組んだ足の上に置いてみたりする。その躍動的だが大げさではない抑制の効いた仕草を、ただ呆然とわたしは眺めていた。
 男の煙草の煙がこちらの鼻先まで届いた。
 その瞬間に、男の毒に染まってしまった。
 わたしは親指の爪を噛み、ただただ男に目を奪われていた。
「あなたも一本いかがですか」
 男に尋ねられたとき、わたしはたぶん、おそろしく馬鹿のような顔をしていたのだと思う。
「はい」
 そう答えたものの、わたしは立ち上がることが出来なかった。しばらくすると、男のほうから立ち上がってわたしの前に立ちはだかり、煙草ケースのふたを開けてシガレットを一本、目の前に差し出した。わたしは唇に当てていた指を放し、差し出された煙草を人差し指と中指で挟んだ。男がライターで火をつけようとする。わたしは男の腰周りをはしたない目で見つめる。
 何度やっても、火がつかなかった。
 すると突然、男は屈みこんでわたしの顔を覗き込んだ。自分が吸っていた煙草をくわえなおし、わたしの目の前に突き出した。
 震えながら、わたしは男の煙草の先にもらった煙草の先端を押し当てた。それから深く息を吸った。
 その瞬間、過呼吸を引き起こしたようにわたしは痺れてしまい、震えた唇の隙間から煙草が落ちてしまった。
 落ちた煙草の火は床に広がり、ロビーは一瞬にして火の海と化した。それは一刹那の出来事だった。火の海に溺れながら、わたしはこの男と滅んでもいいと思った。


 それはわたしの幻覚だった。ロビーは薔薇色の夕陽に染まっていたのだった。
 けれども男は実存だった。男はわたしの煙草にライターで火をつけてくれたのだった。
「一人旅ですか」男は尋ねた。
「ええ、まあ」
「僕もなんですよ」
「でも、その格好」
「今夜ちょっとパーティーに参加する予定でね」男はニヤリと笑った。「あなたも来ませんか?」
「いえ、僕はタキシードを持っていませんから」わたしは男に見とれながらもなんとか断った。
「そうですか。それは残念だ」男は言う。
「それならば」男は続けた。「ここでカクテルでも飲みませんか」
「そうですね、ええ、いいですとも」
 二人はラウンジバーに向かいロングアイランドアイスティーを頼んだ。男の一挙手一投足がわたしを震わせる。それくらい男の毒にやられていた。わたしはといえば、観光に出たままのラフな格好だった。わたしはロングアイランドアイスティーに酔いつつあり、けれどもその酔いは旅行の疲れでも酒のせいでもなくて男の罠にかかったのだと確信していた。
「カクテルもいいけれど」男が言った。来たなと思った。「部屋でワインのボトルを開けてはどうでしょう?」
 頷くことしか出来なかったわたし。
 それから二人は紅のカーペットが敷かれた廊下を緩慢な足取りで進んだ。男の膝の突っ張りに目を奪われる。わたしは酔っている。
 二人は男の部屋に入った。
 男はベッドに腰掛け、わたしに隣を空ける。わたしは操られるようにそこに座った。
「ワインより、あなたと口付けたい」男がゆっくり囁くのが聞こえた。どうしていいのかわからなくなる。もう、わたしは男のものになったも同然だった。あとは奪われてしまおうと痺れを切らせた。
「でもまずはワインを」わたしはそれでも抵抗したつもりだった。
「ええ、いいですとも」男は自信満々に答えた。
「けれども」
 男は黙ってわたしに流し目を送る。
「あとはあなたしだいだ」男の顔が近づいてくる。もう、抗えなかった。男はタイを外そうとする。
「パーティに行くんじゃ?」唇と唇の隙間に人差し指を挟んでなんとかその場をしのいだわたし。
「あなたとのパーティーですよ」男は笑い、口付けてきた。今度はもう奪われてしまった。「お忘れでしたか、ほら、ごらんなさい」
 いつの間にかわたしはタキシードに着替えていた。
「でも、素肌のあなたを見せていただきます」
 男はわたしのタイを外し、背中に指を回した。その指は、なめらかに滑り気付くと二人はつながっていた。部屋は燃える夕陽で薔薇色に染まっていた。これからもう滅んでしまうのだろうと、わたしは予感した。

(終)