黒装束

 始まりは、窓辺にかかった白いシャツの幻影だったかもしれない。

 目をさますとすぐ、カズマが隣にいないと気付いた。けれども探そうとはせず、窓の外の薄日にぼんやりと目をあずけていた。小雨が降っていた。しばらくはそのまま浸っていと思った静かな雨の朝。

   昨晩、夜中にふと目をさましたとき、窓辺に白いシャツが掛けられていたはずだ。今はない。外の夜灯を浴び、亡霊のように浮かんでいた白いシャツの姿態が記憶の中で響いた気がした。

 空っぽの部屋に突然、キヌズレの音がかすれた。そちらを向くと、背を向けた男の白い輪郭線。カズマがちょうど絹のネクタイをしめているところだった。昨晩窓辺にかけられていたシャツに均整のとれた体躯を包んでいた。息をのんで見つめる。

 男は黒い喪服の上着をさっと羽織り、長い指のついた両手で襟をしごいた。サラサラとした黒い生地がつっぱり、肩甲骨の形が浮き彫りになる。背筋のいい首から臀部にかけて伸びるきれいなシルエット。声をかけるのをためらうほどの。

「起きたのか」気がついたのは、カズマの方だった。彼はふり向きもしなかった。

「たった今。どうしたんだ、その格好?」

「これから告別式にいってくる」

「誰か死んだのか」

「ああ。ちょっとした知り合いだ」

「カズマに友人がいたなんて、死に顔でもいいから拝んでみたいな」

   そういうと、男はふり返って無表情な目で俺を見おろした。軽いすくみ。いつもこちらを怯えさせる彼のまなざし。彼は言う。

「友達なんかじゃないさ」彼は続ける。「夕刻までには帰ってくる。待っていたければ待っていてもいいし、帰りたければ帰ってもいい」

 今日という一日を待ちぼうけて台無しにしてしまう予感に沈む。雨音。

「カズマのそんな姿が見れるとはな。きっとスーツ姿が似合うだろうと思っていた。だけど、はじめて目にする正装が喪服だなんてな」俺は言った。何とか。

 鉛筆デッサンのような姿を空虚な部屋にひそめたまましばらく黙っていたカズマ。彼は言う。「すぐに帰ってくる。確かめに行くだけだから」

   言いながらこちらに近付き、カズマは俺の頬に手をのせた。

「確かめるって、ほんとに死んだかどうかを、か?」

   声帯の震えが、彼の手のひらに伝わっただろうか。

「いや。あいつのために葬儀を出す物好きがいるかどうか、この目で確かめて来るんだ」

 見透かしたのか、焦らすように俺の頬を撫でる彼。その精密な器官を握り返す俺。

「ゴクロウサマ」

 おそらくそれが、精一杯の抵抗だった。けれども、もう負けてしまうのはわかっていた。朝の雨音が耳に染み込む。

   独立したイキモノのような五本の指が、喉仏のあたりまでおりた。肌が蜜色に溶け出してゆく。俺は整えたばかりの彼の髪に手を伸ばそうとした。彼は影のように身をひいた。

「もう行くよ」

「モノズキなのは、あんたじゃないのか」

 声の震えを隠そうとは、俺はもう思わなかった。彼は戸惑っただろうか。部屋の中央に立ち尽くす男。何もない部屋だな。いつだったかそう言うと、彼は抑揚のない声で呟いた。いちど捨ててしまわないと、自分のものになった気がしないんだ。

「俺がモノズキだと?」

 彼は緩慢な動作、くわだてられたかのようなゆるやかさでベッドに腰掛け、俺を見おろした。見おろすのをやめなかった。俺はただ沈黙し、彼の手を取って裸の肌にすりよせた。急に堪えきれなくなり、体を起こして彼にしがみついた。唇に吸い付いた。それからその浅ましさに言い訳するように、少しだけ唇を離して言った。この髪じゃあ、もう出掛けられないな。

「お前にはわからないだろうな」彼は冷たく言った。

 聞こえない振りをして正装した彼に抱きついた。両腕を首に回し、顎の下に鼻の頭をこすりつけた。

 男はその気になり始めたのかもしれない。始まりは、窓辺に掛かった白いシャツに包まれた男だったのかもしれない、幻影ではない男。