Cold

 パーティのあと、ひとりで深夜の街を歩いた。大勢で騒ぐ楽しさのあとにやって来るせつなさ。光がはじけた淡い泡のような。遠くに見える観覧車の灯は消えていて、円形の骨格が非現実的だ。街路をひとりきりでさまよううち、眠りにつこうとしている街並みの向こうに、ミッドナイト・カフェを見つけた。オレは斜字体でスペルアウトされたネオンサインの下で立ち止まり、ガラス張りのカフェの中の模様を見渡した。客といえば、髪を染めた女がカウンターで頬杖をついているだけだった。店員は壁に背をもたれて俯いている。人影はそれだけだった。
 オレはガラス扉を引いてカフェの中に入り、まっしぐらにカウンターに向っていった。革靴の踵が打ちっぱなしのコンクリートの床を叩く。
「ビール」
 注文をすると、店員が無言でグラスにビールを注ごうとした。オレは彼をさえぎった。
「ビンのままくれないか。テイクアウトするから」
 バーテンダーが無言で瓶ビールをカウンターに置いた。オレも無言でコインを置いた。店内にはFM放送が流れていた。深い男のDJが、明日の快晴を早口にまくしたてていた。オレは少しだけ首を傾けて店員に thanksの合図した。そのままふり返って、店を去ろうとした。ちょうどそのとき、男が店に入ってきた。思わず足を止めるオレ。
 ドキッとして目を見開いた。時間が止まる。とまどうまもないくらいの速度で。
 あいつもオレの顔を見て一瞬、はっとした表情を浮かべた。ふたりはしばらく息を詰め、互いの顔を眺め合った。最初の言葉が、見付からなかった。
「外で待ってろ。すぐに出るから」なんてことはない台詞で再会は幕を開けた。ユキヒロは、オレの側をよぎってカウンターへ向った。懐かしいにおいが、鼻先をくすぐった。
 深呼吸をし、オレは店を出た。ガラス張りの店から漏れる照明に浮かぶ歩道に立ちつくし、中の様子をもう振り返れなくなった。ビンをくわえ、すかした表情でビールを飲んだ。何でもないふうにすましているのに、なぜだかビンを持つ手が震えている。
 足音はなく、後ろから肩を叩かれた。
「その先に車が停めてあるんだ」ユキヒロは以前と同じ、ぶっきらぼうな口振りで言った。ちらりと顔を見上げると、穏やかな微笑を浮かべていた。かたまっていた心が緩んでほどける。
 夜風。並んで歩く。ふたりぶんの足音がもつれ合い、ふたりとも既に酒気を帯びていることを物語っていた。路地を折れると、狭い通りの端に街灯を浴びている車体が見えた。よく見るまでもなく、傷だらけの車だ。
「二年ぶりか、な」ボンネットに腰掛けたあいつは透明なビール瓶をくわえ、喉を鳴らして飲んだ。
「そうだっけな」オレも遠慮がちに車体に体をもたれてビールを飲んだ。
「食えよ」ユキヒロがオレの口元にピッツアを差し出した。
 ビルの隙間から、例の観覧車の影が見えた。あいつの顔に目を向けると、あいつは観覧車の方に視線を投げていた。パーティ帰りのせいだけなのか、こみあげてくる、楽しくて切ないこの感情は。
「あの観覧車にふたりで乗ったことがあったっけな」
「ああ」
「酔っ払って、高いところまでいったよな」
「お前はいつも空ばかり目指していた」不意に口走ったオレ。空なんて、しばらく忘れていた気がする。
「何言ってんだか」あいつは笑った。それから続けた。「ちょっと車で流さないか」
 オレが迷ったふりをして目を伏せている間に、ユキヒロはドアを開け、当たり前のようにオレの背中を押した。助手席に座ると、ほとんど間をあけずにあいつが車に乗り込んできた。キーを回す。乾いた空気、エンジンがキュルキュルと音を立てる。ユキヒロはビールを飲みながらアクセルをふかした。ふたりは前方に目を預け、互いの方は見なかった。あいつが突然、ひとりごとのように尋ねた。
「お前だったよな。夜が紺色だと言ったのは」
 その問いにはっとさせられ、あいつの横顔を見た。彫りの深い顔には影が差していて、真意はつかめなかった。くどいくらいにエンジンをふかすあいつ。沈黙したまま、あいつの横顔を凝視した。突然、あいつはアクセルを踏んで車を急発進させた。

 笑い声を立ててアクセルを踏むユキヒロを呆れることも忘れ、一緒になって笑った。急発進の衝撃でビンからこぼれたビールが膝の上で白い泡をたてていた。ユキヒロのレザー・ジャケットにも、酒が掛かっていた。なんだか、あの頃を思い出して楽しくなった。ふたりでいるだけで楽しくて、不安から目を逸らすためにやたらと笑っていたあの頃。
「今夜はやけにめかしこんでるな」
「パーティーだったんだ」
「退屈な連中の集まりか」
「集まるための集まりさ」
「あの人とはまだ続いているのか。あの年の離れた人」ユキヒロは以前と同じ、土足で踏み込むように切り込んできた。
「安田さんのことか? 離れてるってほどじゃなかったぞ」オレは言った。
 こちらに目を投げ、不敵な笑顔を浮かべるユキヒロ。
「あの遊園地の辺りまでいってみるか?」ユキヒロはオレを試したにちがいない。
「いや。よしとこう」オレは誘いに乗ったのかもしれない。
「それじゃあ、海まで飛ばすか? この車、あちこちへっこんでるけど足だけは速いぜ」
薄い微笑を浮かべ、今度は黙ってあいつを見つめてみた。
「時間が気になるか」
 笑っちまうほど律儀な誘い。オレは口を噤んだまま無断でウインドウをおろした。安田さんが買ってくれた腕時計をゆっくりと外し、メタルのベルトを指先でつまんだ。それから、窓の外にそっと手を差し出した。ユキヒロは横目にオレを見る。視線を合わせながら、オレはゆっくりと指を開いた。指から離れ、重力に引かれて遥か後方で落下する腕時計。ガラスが割れ、分針が飛び、他の車のタイヤに踏まれて砕けただろう。ふたりの時間が、始まった。
「あいかわらずだな」笑ったあいつはアクセルを踏んで速度をあげた。交通の少なくなった都会の静脈をフッ飛ばす。
 ウインドウを戻すと、密室に沈黙が膨張した。ユキヒロは一瞬だけ照れたような笑顔を浮かべた。そして顔を背けてしまった。さっさと街なんか抜けちまえよ。オレが言うと、あいつはいきなりカー・ラジオをつけた。電波のきしむ音を立てながらチャンネルを回し、騒々しい音楽を選んだ。それから、さっきの店の買い物袋からシャンパンを取り出した。
「さあ、パーティーだ」あいつは両足の間にボトルを挟み、栓を抜いた。破裂音と共に栓が跳ねた。泡が弾けて衣服やシートに飛び散った。
 ふたりは笑った。あいつとオレは笑った。光の泉の底、都会に抱かれて。シャンパンのボトルを奪い合って交互に飲み、以前のように酔い痴れた。音楽をかき消す笑い声、音楽にかき消される思い出。それでも浮かんでくる記憶の破片たち。
「今でもしてるんだな、そのリング」ボトルをつかむオレの親指にはめられたプラチナをいつの間に盗み見ていたのか、あいつは言った。
「髪、色を抜いたのか」オレは目を伏せる。
「ああ」
 しばらくの沈黙。滑走音、そして音楽だけが流れていた。沈黙。短くもなく、長くもない呼吸のような。そして曲がかわり、スティービー・ワンダーのマイ・シェリー・アモールが唐突に心に響く。
「このリングは、ずっと前からだ。誰とも関係ない」指輪の表面を撫でながら、オレは呟いた。
 思った。ふたりは互いに傷も痛みも残さずに終わった、何も与え合わなかった、お前しか見えないと互いに信じていたのに、いつの間にか薄れて消えてしまい、それから互いを忘れてついさっきまで別々の道を歩んでいたのだと。
 だから何だよ? ばっかみたい。こんなのオレらしくない。オレはカー・ラジオを勝手に消し、ウインドウを下ろした。冷たい風と、道路の騒音がなだれ込む。今ほしいのは速度だ、感傷なんかじゃなくて。オレは出帆を祝うようにシャンパンのボトルを窓枠に叩きつけて割った。突っ走れ!
 傷だらけの車が、けらけらと声を立てて笑うふたりを乗せて疾走した。テールランプについてくる光も風もなかった。忘れてはならないことも、何もなかった。二年前と同じように笑う二年ぶりのふたりを乗せた車。速度を上げて走り続けた。

「あれからどうだった」
 深夜二時十二分、とあるミッドナイト・ダイニングの片隅のテーブルに、ユキヒロとオレは向かい合って座っていた。少しだけ空腹を感じ、差し向かいに座りたい気分になったふたりは、都会から離れた街道沿いの店の駐車場に車を停めたのだった。店に入って窓辺のテーブルに座った。食べきれないほどジャンクフードを注文した。思ったよりも客はいた。
「どうかな」オレは答えにつまる。「お前はどうだった? 空ばかり見あげていたのか」
あの頃、ユキヒロは空のフォトグラファーになりたがっていた。ファインダーを通して空ばかりを見上げていた。オレのためにシャッターを切ったことなんてなかった。
しばらくして、ユキヒロは答えた。
「ああ、あれはやめたよ、つい最近。もう気持ちがこもらなくなったんだ」
「お前が空を仰いでいるあいだ、オレは砂を数えていた」
「何、言ってんだか」ユキヒロはそれ以上、深追いはしなかった。
「ふたりで一組の翼になって空を飛ぼうなんて、考えちゃったっけな、あの頃」
 そう言ったあと、ふたりは再び寡黙になった。互いの想いには口出しをしなかった。
沈黙が照れくさくて、オレはわざとおどけてジャンクフードを手で掴み、自分の口に放り込んだ。それからオレは急に笑い出した。子供だったよな、ぬくもりと距離をまちがってたよな、なんて言いながら。そんなオレをじっと見つめるユキヒロ。酔っていた目が急に、穏やかだが真剣な眼差しにかわった。何かをうったえようとしているわけではなく、自分の回想に浸るような眼差しで、オレを見つめた。想いに手を伸ばしたのは、あいつだった。
やつは穏やかなやり方でオレの手を取った。それから、オレの親指のプラチナのリングを撫でた。お前と出逢ったあの夏の太陽の下で、最初から俺はこの指輪に気がついていたのだと、彼は呟いた。あの頃は口にしなかったけれど、親指のプラチナが最初から目に付いていた。あの日、俺は目を細めたよ。いや、マサシにさ。いとおしそうにオレの指を撫で、それからしばらくして彼は言った。俺たち、どうしてだめになっちゃったのかな。
「だめ、だったのかな?」とオレ。
 テーブルを照らす青褪めた照明の下、ふたりの眼差しはもう逃げなかった。瞳を合わせたままでいた。お前まで尋ねるのか、とオレは呟いた。あれから何人かの男と付き合った。みんな、どうしてだめになったのかと、解のない問いを繰り返したよ。オレは気にしたこと、ないけどな。
 そんなふうに強がりながら、真夏の昼日中にセックスをしたあと、ユキヒロが狂おしい表情でオレの手を握っていたことを思い出した。汗ばむ感覚が頭に染み渡る。そう、別れたあとも、オレはこいつとのことを何度も思い出したっけな。
 窓の外の道を、車高の低いスポーツカーがすっとばして過ぎていった。ユキヒロは手を撫で続けた。フロアーの遠くで、ウエイトレスのヒールが響いた。オレは通過した車のテールランプを目で追っていた。ユキヒロの体温。煙草に火をつけ、深く吸った。それからオレはあいつの顔に目を戻した。
「かわったな。イイ男になったよ」オレは目を細めてじっとあいつを眺めた。
 あいつもオレを見つめていた。
「その瞬き、手を伸ばしちゃいたくなる」あいつは恥らうように茶化した。
 また一台、窓の外を車が走って過ぎていった。今度のはどんな車だか、視界に入らなかった。
「青空に夢中になりすぎて」ユキヒロは言った。「すぐ側の星に気付かなかったのかな」
「バカ」
 目をそらしてしまうオレ。いや、お前はちゃんと見ててくれたさ。涙が降る夜も。いまさら気付いて胸に響いた。けれども、ふざけることしかできなかった。
「連れションしようぜ」
 オレは酒の残りを飲み干した。それからユキヒロの手を握って立たせ、そのままトイレの方に引っ張っていった。トイレの扉を開くときにふり返ると、いぶかしげな顔をしたウエイトレスと目が合った。オレはニヤリと笑った。
 がらんとした、タイル張りの冷たいトイレに入り、隣り合わせの便器に並んでふたりで小便をした。陶器に跳ね返る小便の音が反響し、ふたりはまたけらけらと笑った。切なさなんて、後回しだ。ほとんど同時にジッパーを上げる、キュッという音。
「窓から抜けようぜ」オレが提案した。
「まだ食いかけだぞ」
「逃げるなら今だ」
「俺はチーズトーストに手をつけてないぞ」
「いいから、早く」
 高い位置にある窓によじのぼり、ロックを解いて押し上げた。ネクタイをゆるめた首に冷たい空気。駐車場まで少しある。窓から降りたオレは、ユキヒロの背中を押してまず最初に押し出そうとした。やつは愚痴愚痴と食べ物のことを悔やんでいた。オマエの目に見とれてたせいでよお、食いそびれちまったぞ、あれもこれも・・・。黙ってろ。ふたりで小突き合った。めちゃくちゃにはしゃぎたい気分だった。まだ事情を飲み込んでいないユキヒロが言われるまま窓によじのぼり、外に飛び降りた。着地してバランスを崩し、みっともない格好で転んだ。ざまあみろ、なんて言いながら、オレも続いて窓から頭を出した。風が、頬に吹き付ける。何か、風が何か運んで来た気がした。声のような何か。耳を澄ましたけれど何も聞こえず、一瞬遠くをぼんやりと眺めた。
 そのとき、後ろでトイレの扉が開いた。怪訝に思ったウエイトレスが、男の店員に言いつけて様子を見に来させたのだった。オレはあわてて窓から飛び降りた。
「走れ!」
 ふたりで車まで走った。不気味なくらい笑いながら。走って走って、車までたどりついた。心臓が破裂しそうだ。息を弾ませながら、震える手でドアにキーを差し込むユキヒロの仕草を、車の反対側からぜんぶ見守った。一秒も見逃すまいと。そのとき気がついた。そうだ、やっぱり夜は紺色だ。さっき聞こえたのは、紺色の声だ。
夜を見あげようとした。が、ドアが開いたので車になだれ込んだ。ユキヒロはアクセルを踏んで車を急発進させた。やはり追っ手は来なかった。車がスピードに乗ると、ふたりで腹を抱えてまた笑った。

「こんなに笑ったの、久しぶりだ」
 どちらからともなくそんなことを口走り、ああ、確かにそうかもしれないと同意した。深夜の静寂に包まれた街道を、車の滑走音が押し広げる。車は陸地を駆けて海へと近付いているようだ。午前三時二十五分。
 笑い終わったあとの、気だるいもの淋しさが訪れる。オレは、沈むような、浮かぶような、不思議な感覚に溺れた。シートに深く身を預け、目を閉じた。隣りでハンドルを切るユキヒロ。
「なんで空の写真をやめたんだ」オレは不意に尋ねてみた。
「なんでだろうな…。きりがない、と思ったのかもしれない。同じでい続けないものを枠にとらえることが」
 瞼に飛び込んできた思い出にはっとさせられた。遊園地の観覧車の中、キスをしたり抱き合ったりしたあの日のオレたち。
「なんだって同じでい続けたりしないさ」オレは何を言いたかったのか。気持ちがまとまらないまま続けた。
「オレだってかわったさ。少しは大人になっただろ?」
 ユキヒロの方を向くと、やつは正面を凝視したままだった。その横顔の冷淡さ。この男に、も一度ふれてみたいと思った。
 横顔を見つめながら手を伸ばし、ギアをつかむユキヒロの手の上に重ねた。
「これから、ふたりで飛んでみないか。昔なんて忘れて」
 彼の言葉に、トクンと鼓動が跳ねた。「今」を見たような気がした。未来ではなかった。けれど、過去にしか存在し得ないふたりではなかった。
「なあ」オレが言いかけても、ユキヒロは正面を向いたままだった。道は住宅街から遠ざかり、平原を越えて少しカーブしはじめた。車は一定の速度で走ってゆく。緩い傾斜。山が横たわっている。音楽も声もなく、滑走音だけがふたりの息遣いを消していた。ユキヒロは何も言おうとしない。胸がざわめいた。オレは握った手に力をこめた。
 急に、車が加速した。
「トンネルを越えたらもう海だ」
 カーブを通過したところに長いトンネルがあった。他に車はない。車は加速した。前方に、淡いオレンジ色が膨らんでいた。車はその光の空間へと突っこんだ。ユキヒロはハンドルを放して酒の瓶を口に運んでいる。車が中央分離線を越えて右の方へと流れてゆく。ユキヒロはウインドウを下ろし、酒の瓶を窓から捨てた。
「しっかりつかまってろ」
 そういったあいつは乱暴にハンドルを切り、トンネルの壁ギリギリに車体を寄せた。それから速度を上げ、車体をじりじりと壁にこすりつけた。猛烈にきしむ音が長いトンネルのなかで炸裂し、火花をスパークさせた。オレは驚いて首を竦めた。
「本気かよ」
 それからユキヒロはまたハンドルをくるくると回し、今度は助手席側の扉をトンネルの壁に近づけ、擦り付けた。車体がガクガクと揺れる。オレは足を踏ん張り、手を付いて身をこわばらせる。それでもおそるおそる目を開けると、窓の外、すぐ側で火花が弾けている。目が放せなくなった。青褪めた光が飛び散っては流れ星のように流れてゆく。なんとなくウインドウに映るおぼろげな像で、ユキヒロがオレを眺めているとわかった。
 オレがふり返ると、ユキヒロと目が合った。髪が風に靡いていた。お前は秘密めいた微笑を浮かべた。
「トンネルを越えたら海だ。このまま車ごとダイヴしないか?」
 お前は試すような視線でオレを見つめた。火花と金属的なきしみを散らす助手席のドア。時間から隔離されたオレンジ色の空間。そのときオレは見た。お前の瞳が青い火花を映してきらめいているのを。もう、出逢った日のことも別れた日のことも思い浮かばなかった。目の前のお前だけしか見えなかった。
  オレは黙り込んでお前を見つめた。
 お前も何も言わずにオレの瞳をのぞき込んでいた。ふたりは互いに賭けていたのか。スピードは上がらない。トンネルの出口が近付いてくる。暗闇が口を開けて待っている。窓から冷たい風が吹き込んでくる。車はトンネルの壁から離れて滑走する。
  車はすべる。ふたりは流れゆく。
 そのとき、ヘッドライトが、トンネルの出口の向こうに白いガードレールを映し出した。胸に衝動がこみあげ抑えきれなくなった。オレは咄嗟に右足を上げ、ユキヒロの足の上から思いっきりアクセルを踏みつけた。
  轟音。そのとき目の当たりにした原色の感情。
 車は突っ走った。オレはユキヒロの体にしがみついた。前方に目が釘付けになった。何が訪れるのか、見届けたかった。白いガードレールの他はすべて紺色の闇。海なんて見えない。オレはユキヒロの肩に頭を押付けて目を閉じた。車はトンネルから飛び出した。

 間一髪、だったんだと思う。ユキヒロが踏んだ急ブレーキの音、タイヤの悲鳴。それからものすごい衝撃を体全体に感じた。車はガードレールにぶち当たったところで停止した。ヘッドライトが割れ、金属が衝突する音が鼓膜を震わせた。
 午前四時に広がる反響。そのあとは、音がなくなってしまった。ライトが消えた暗闇。静寂だけが広がった。動悸。オレはお前にしがみついたまま目を開けられない。お前の鼓動に耳を澄ますことも出来ずに震えていた。
 しばらくすると、聞こえてきた。断崖絶壁の下、オレたちの下から、海のざわめきが。
 ハンドルを握っていたお前の指が、オレの頬にふれた。冷たかった。涙があふれた。お前の冷たい指は、やがてオレの体温を透過して同じ温度になった。
 お前の唇がオレの唇に重なる。目を閉じたまま、求め合うようにふたりはキスをした。それからふたりは、紺色の夜が消えるまで求め合った。

(終)