Precious Moments

イントロ

 深夜に帰宅した。あかりも物音もなくしてしまった田舎町。マフラーをほどく擦れさえも、冷たい暗がりの中で響く。鍵を開ける音で母さんが目を覚ましてなければいいんだけど。なんだか罪深いことをしている気すらする。髪を染めた姉さんが帰ってきたとき、娼婦みたいな格好をするなと父さんに叱られていたのを思い出す。あれも確か真冬だった。

 年に一度だけ、東京から実家に帰る。母さんは、まだオレのことを子供だと思っている。十八のときに離れたから。子供のままだと、思いたがっている。どこだか知れない場所で遊んで夜中に帰る子なんかじゃなくて。

 ブーツの紐をといて踵を掴んで思いっきり引っこ抜く。倒れたブーツを玄関の端にそろえて置く。頼みもしないのに親に揃えられるのがイヤだから、自分で。足の指先の開放感。腰掛けた床から尻に伝わる冷たさ。

 帰省している間はあいつのことは思い出さないように努力する。四日間だけは、父さんと母さんの前でいい子にしている。あいつと最後に会った日の別れ際、何だか気まずかった。

   寒い。夜中になると、田舎町には本当に温もりがなくなる。年老いた犬が部屋の奥から、トボトボとやってきてオレを迎えてくれた。帰る度に反応は鈍くなっているけれど、決してオレを忘れない。背中を撫でながら、一緒に茶の間へいく。それから抱え上げて頬擦りをしたり鼻を擦り付けたりして、犬のベッドの上に戻してやる。そうすると安心してまた眠りにつく。オレの部屋まで抱えていって一緒に寝ようかと思ったけれど、最近、犬が階段の上り下りが苦痛になったみたいなので、何かと面倒くさいと思ってあきらめる。この子は本当にオレのことが好きだ。たぶんオレに恋人がいるなんて知ったら、いちばん嫉妬するのはこの子なんだろうな。でも何でも話せちゃう気がしないでもない。しゃがみ込んで背中を撫で続けていると、やがて犬は眠りについた。

 立ち上がったとき、微かな物音が聞こえた。びっくりして振り返る。茶の間のコタツでうたた寝をしていた父が寝返りを打ったのだった。父がそこにいると気付かないでいたオレ。締り屋の父らしくコタツの電源は切り、火もないのに足の先だけ突っ込み、体に毛布を掛けていた。暗がりの中、しばらく立ち尽くして父の姿を見下ろしていた。老けてしまった父。この人、よく、「お前は若い頃の父さんにそっくりだ」と言うのだけれど、どこが似てるんだろう。すっかり痩せてしまって、もう死んでしまえばいいのにまだ生き長らえている。

   うたた寝していた父親をまたいで部屋に向った。オレはもうこの家にはいないというのに、母はいつまでも部屋をそのままにしている。まだ階段がのぼれる頃は、犬がオレのベッドでよく昼寝をしていたらしい。午後の陽射しがちょうど差し込む部屋。ゆっくりと部屋へ向う。階段のきしみ。扉のきしみ。耳に響く。アツシは東京で生まれて両親と暮らしている。あいつには、こういう音って聞こえないんだろうな。思春期の羞恥心が閉じ込められたオルゴールのフタを思わず開くような。部屋に入って電灯を点し、コートとマフラーをハンガーに掛けた。高校の頃使っていたラジカセが目に入る。何気なくスイッチを押すと、いきなり流れてきたあの頃の曲のイントロ。突然、涙があふれそうになり、そのままラジカセを消してしまった。

禁止

 オレの膝に頭を乗せていたあいつが、CDプレーヤーに手を伸ばした。オレは咄嗟に手首を掴んでさえぎった。

「何だよ?」あいつの声帯の震えが太腿に伝わる。

「別に」あいつの手首をゆっくりと離し、それからあいつの耳の穴に目を落とした。貝みたいな耳だ。「音楽なんて、なくたっていいじゃん」

 ベッドの端に腰掛けたオレの膝の上に頭を乗せているあいつ。細長い作りの部屋の、反対側のオーディオコンポに手を伸ばそうとしたのを、オレは止めたのだった。あいつは手を引っ込め、ネルシャツを着た両腕を体の中に丸め込んだ。それから目を閉じ、何度か頭を揺さぶってオレの膝に頬を擦り付けた。オレは短く刈ったあいつの頭を指で撫でた。短いのに、それでも流れを作る黒い髪。鼻を埋めてにおいを嗅ぎたくなる。

 しばらくの間、あいつはオレの膝の上で目を閉じてじっとしていた。腿に触れるあいつがあったかくて、頭の重さ、やがて痺れる腿。あいつが少し頭を動かすと、足の骨を包む太腿の肉がよじれる。笑っちゃいそうで、けれども目を閉じたあいつを見ていると無言になる。

   しばらくすると、呼吸のリズムが変わった。眠りに落ちようとしていたのかもしれない。冬の夕暮れは早く、既に外は暗かった。音楽のない部屋の蛍光灯。眠ってしまいそうなあいつ。足の痺れ。このままにしておいてやりたいけれど、頭を動かしてくれなきゃ困る。髪を撫でる指に感情がこもらなくなる。機械的に行き来を繰り返している。

 急に、あいつが身震いして目を開けた。それから、オレの存在に気付くよりも先に腕時計を見た。

「もう帰らなきゃ」

 例えば足を貸しているのがオレじゃなくても、同じことを言ったんだろうな。

「今日はバイトじゃないって言ってあるから」あいつは言い訳した。テレビの上のフォトスタンド。ふたりで笑ってフレームに閉じ込められている。

「駅まで送ろうか」

「いいよ。寒いし」

「あと、五分だけ」そう言ってオレは髪の毛を撫で続けた。耳の周りを円を描くようになぞった。五分なんて、あっと言う間だ。同じ分量のはずなのに、いつも同じじゃないのはなぜ?

「ウッシ」呻くように唸ったあいつは、オレの膝から頭を起こし、さっと立ち上がった。反射的にオレも立ち上がる。

   それから、抱き合った。

 あいつの息が、耳元で聞こえる。

「明日の授業、一緒だよな」

「サボらなきゃな」耳にくちづけるオレ。

「じゃあな。いくよ」

 そう言うと、道端でもなかろうに小さく手を上げ、そのまま部屋を出て行った。あいつがフローリングを踏みしめるときの音。あいつがいなくなったあとの音。急に、ひとりになった。あまりにも無音が辛くて音楽を掛けようとした。指を、止めた。音楽は禁止にしようと思い直し禁止した。

男の子の気持ち

 何となく、何でも願いをかなえてくれそうな表情をしていたので、家にお邪魔してみたいと彼に頼んでみた。ああ、いいよ、と谷口さんは笑った。少し酔いの回った、家庭持ちの顔で。肉付きのいい顔、耳の周りの髪の毛がやわらかそう。本当に疑いもなく、いいよ、と言った。

 そうじゃなくってさ。

 彼は三十八で、隣りの課の課長さんだ。あちらに英語を話せる人がいないので、ときどき僕を借りにやってくる。大した事するわけじゃないけれど、正直なところ、最初は鬱陶しかった。

 何度か借り出されているうちに、彼にお願いされるのが楽しみになった。

 別に御褒美なんて求めていなかった。けれど、彼の方から食事に連れて行ってやると申し出た。断ろうかとも思ったけれど、何となく受けた。どこがいいかと尋ねられたので、会社の経費でなければどこでも、と答えた。彼はサボテンがたくさん置いてあるレストランに連れて行ってくれた。そこで食事をして、果実酒を飲んだ。別に面白い話をするわけでもなく、笑顔を流していた。紺色のブレザーを脱いだ彼の黄色いシャツとレジメンタルのネクタイがするりと音を立てて耳をくすぐってくれそうな気がした。その、色の混じり合ったやわらかさに浮かんでいたい。別に恋とかじゃなくて(ちょっぴり強がって)、やわらかなものに触れていたかった。ボタンダウンのシャツの襟からのぞく喉仏。視線で触れられたなら。

 そのとき、急に目が合った。優しそうなパパのまなざし。

 この人、夢を見させてくれるかもしれない、そう思った。今度遊びに行ってもいいですか、と試しに言ってみた。

「ああ、いいよ」と笑った彼。

「言ってみただけですよ」僕も笑い、それから曖昧に口を濁した。

 酔った自分がミジメでバカみたい。泣きそうになりながら、ぼんやり空想に埋もれる。普段着の谷口さんと顔も知らない奥さん、子供たち。青い空が広がっている。遠くから流れて来たまんまるな雲。真っ白な。白い雲が渦を巻いてバースディケーキの上には八本のキャンドルが三日月形に燃えている。赤い文字。斜字体で書かれた名前。白い生地の上を走り抜ける子犬。扉が開かれた衣裳部屋のキツネの襟巻き、黒い洋帽子に差した黄色い折り鶴のカンザシ。余所行きの服の合間を突き抜けるサッカーボール。その後ろを、カンガルーの縫ぐるみがぴょこぴょこと跳ねて追い掛ける、追い掛ける。廊下を這うムカデ。ポラロイドカメラのシャッターが下りる。自動的に写真が飛び出す。一枚目は超合金がカンフーのポーズをとっている。二枚目は谷口さんと奥さんの若い頃? 三枚目は子供たちと、四枚目は八年間分の笑い声。

 そして五枚目は草原と青い空と遠くの蝶々雲。

 僕は草原に佇んでいる。

 草原に立つ一軒家に住む谷口家を遠くから見つめている。

 手のひらには錆びついた超合金のヒーローを握り締めている。

 錆びが超合金のボディーに広がり僕の手のひらを腐食し腕まで上がってくる。

 ひとりぼっちで幸せに浸っている草原で、急に淋しくなって手の錆びを振り払う。

 かなり酔っていた。気がつくと、谷口さんの手の上に手を重ねていた。そのぬくもりが残酷なほど痛くて心拍数が上がる。何とか、やり直そうと思った。

「言ってみただけですよ」さっきの続きからやり直せるのだと信じて口にした。

「きみって、何だか強がりなんだよな」谷口さんが不意に言った。触れた手を嫌がるわけでもなく。何、言ってんだろ、この人。「何となく、前からそう思ってたよ」

 ちゃかして笑いながら、僕は彼の手から手を離した。錆びが音を立てて皮膚組織に吸収される。酔った振りをして、テーブルに突っ伏した。男の子であることを上手に出来ないまま年だけ取ってしまった男の子の気持ち、わかりますか。心の中の呟きは明確でなかったかもしれない。おい、おい、ここで寝るなよ、と僕の髪をくしゃくしゃと撫でる谷口さんの手(このへんは本当に夢だったのかもしれない)。彼の手に縋りたい気もすれば、拒みたい気もした。

 青空に広がる白い雲が立てる音色に耳を澄ましていた。

スクイーズ

 外は晴天。細胞のような部屋の窓から、初夏の陽射しが差し込み部屋の中にはなぜだか淋しい光がさまよっている。オレはキッチンに立ち、ふたつに割ったグレープフルーツをスクイーズしていた。

 日に日に夏日に近付く気候。力強く照り付ける太陽。その反射光の届く白いソファ。淋しかったのは、作間さんが窓辺のソファでまどろんでいるからだ。さまよっているのは、いつかは消えてしまう彼の体が、衰えゆく恒星が放つ、激しくハカナイ太陽光線を反射していたから。部屋の窓辺では、オレのタマシイが行き場を失っている。オレはグレープフルーツを絞りつづけた。

「急に来ちゃって、なんだよ」オレは呟いた。きっと、それがそのとき持てた彼に対する最大限の感想だった。

「ん? いや、時間ができたから、さ」

「もう来ないと思ってた、作間さん」

「いつもそう言うんだな」

「最後の日まで言い続けてやる」

 彼はそれ以上オレに取り合わず、窓の外の緑を眺めて再びまどろみ始めたにちがいない。五つ上の彼。たった五つ上なだけなのに、なんだかとても大人に感じる。彼には奥さんがいて一歳になる子供、それから犬と猫が家にいて、外にはもうひとり恋男がいる、オレとはまた別に。

   いや、あのさ、悪いんだけど、恋人ってわけじゃないけど好きな男のコがいるんだ。知り合ったとき、作間さんはオレに言った。恋人ってわけじゃないけど好きな男ってさ、要するに相手があんたに気がないってことじゃない? 酔っていたオレは言ってやった。ひでえこと言うな、なんて笑った作間さん。それからオレは続けた。「オレのこと少しだけ好きになってくれれば、ましな関係になれると思うけど」

 少しだけ、努力してみてよと頼んだオレ。彼の肩に頭をもたれたあの夜から、何となく続いている。忙しい彼は(そりゃ、忙しいだろう)、たまにしか部屋に来てくれない。いつだったか、犬の散歩の途中に寄ってくれて、彼がソファでうたた寝している間、オレは犬と戯れていたっけ。お前はもうひとりの「彼氏」なんかよりオレと仲良くしようね。いつか作間さんが彼氏にふられたら、キミとオレが組んで作間さんをいじめちゃおっか、なんて。喉を撫でてやると嬉しそうだった犬。

 太陽は日々夏に向う。無音の部屋に吹き込む風。グレープフルーツをしぼる。次はいつ来てくれる? 一度も聞けない。スクイーズする手に自然と力がこもる。

   悔しいのは、オレが死んでも泣いてくれるほどオレを愛してくれる人がいないこと。悔しいのは、オレが死んでも喜ぶほどオレを憎んでいる人もいないこと。オレだけが不幸だなんて。みんな、死んでしまえ。

   グレープフルーツを絞りながら、涙があふれそうになる。なんだか目にシミテきて。

「もう来ないかと思ってた」オレは繰り返した。

   まどろんでいた佐久間さんが、俺の声で目を覚ました。「あ、そうだ。再来週、あけてあるから、海に行こうな」

 覚えててくれたんだ、作間さん…。グレープフルーツを思いっきり握りしめると涙が込み上げる。オレは急に振り返り、グレープフルーツの絞りカスを作間さんの頭に投げ付けた。命中、お見事。しかめっ面で振り返った彼を見て、大笑いした。

Night Wind Whispers

 ベランダから吹き込む夜風が心の戸棚の砂時計を狂わせる。三日月にカーテンが揺れていた。汗ばんだ肌に初夏の夜の湿り気を感じて心の戸棚が揺れる。気持ちだけがシーツの上、頭の中身がそのままそっくり夜空に吸い込まれる。彼がオレの上にいることすら忘れそうになる。一緒にいるのにひとりのような安らぎ。かわいがられたくて、これまで一体何を犠牲にしただろう。

   しおりを挟んだままの文庫本。

   空想の中で育て、育てきれずに忘れてしまったシマウマ。

   そんなものが些細に思える夜風の囁き。お前と汗をかく。急にお前の顔が見たくなって組み伏せる。あまりに些細な precious moment。愛嬌のある団子鼻の穴に舌を差し込んでしまいたくなる。オレはお前の鼻にキスをして、唇で鼻の頭をすっぽりと包み込む。お前のぜんぶをくるんでしまいたい。

   それからまた顔を離してお前を凝視する。鼻から唾液の匂いが立ちのぼる。知り合った翌朝、k.d.ラングを一緒に聞いたのが、もう遠い過去のようだ。これは、本当にあの朝のお前なのか。砂時計が狂う。お前のために、オレは何を失った?

   ひとりで聞く時計の針の幸福な音。

   雨の日に何をしていいかわからなくなる贅沢。

   ためらうこともなく、それらを引き換えにお前をとった。父親が死んだ日に流れた涙のように、気持ちがほほから落ちる。男なのに男のお前が好きで鼻先をなめるとアソコから先走りが出ちゃうのが照れくさいけれど、それだってもう不思議じゃない。

   三日月が頂上に昇ろうとしている。夜風の囁きが二人の間をくすぐっては駆け抜ける。午前零時、風が凪いだ。

   お前が好きだ、とオレはいった。

   眠りに落ちる瞬間に浮かべるのと同じ顔を、お前は浮かべた。少し肌寒くなってきた。オレもお前と同じような顔をした。それからもいちどお前の体の上に体重をあずけた。余所事のように、ベッドがきしむ。

   こいつのために、一体どれだけのものを失っただろう。だけど、「代わりに得たかもしれないそれら」を試しにやってみたいとは、思わなかった。遠くにある素敵な場所に行きたいとは、思わなかった。ここにいないオレが今どこで何をしていようが、興味はなかった。

 たぶん、ここにいるオレが一番だ。夜風がそう囁いた。

   いつか、砂時計が味気ない時間を刻み始めるんだろうな。正確な時間をさらさらと。だけど、今この一瞬はお前の鼓動と添い寝する。

Disappearing faces

 ただ招かれて行ったパーティ。”Bring yourself only”と斜字体で印字された招待状を持って、何度か挨拶を交わしたことがあるだけの男の家を訪ねた。宵の口の窓から笑い声が飛び出し、電柱の合間をコウモリのように飛び交っている。玄関からあふれそうな靴。

 誰が支度したのかピンクシャンペーンが配られる。ちまちました料理の色合いのと暗めの照明。小気味良い音楽と、別の部屋で誰かが爪弾く気だるいギターの音色。寝室では、数人の男たちがベッドに腰掛けて、何かの本の引用を暗唱しては会話を進めている。流行なのか、しらけた表情で。音楽に合わせて体を揺さぶっている男もいる。

 男たちには同じピンクシャンペーンが配られていた。泡が弾ける。夜が色付く。足音が聞こえなくなる。無数の顔。壁際の顔、フォトフレームの中の顔。時計ばかり気にする顔。問い詰められたばかりのような顔。

 このうち何人の男と寝ただろうかと思い出す。

 このうち、寝ていないのは何人だろうかと数える。

 笑っちゃう。

 誰かがキャンディーをなめている。

 無駄なほど広くはない部屋に、無駄なほどの男たちがいる。部屋はどんな気持ちだろう。気色悪いと思っていても口に出来ない傘立てがいい気味だ。廊下を、まぎれこんできたネコが過ぎった。

 そのとき、お前と目が合った。名前すら知らないお前と一瞬だけ。それからまた互いのことなど気にならない振りをして酒を飲んだ。

 そして再び視線を合わせ、再び逸らした。

 一体、いままで幾度、こんな駆引きを繰り返したか。心の隙間の、生まれ続ける皮膚のようなやわらかい場所から気泡が湧いてきた。オレは泡が浮かぶ液体の中に沈みながら、うっとりとしていた。無数の顔が過ぎり遮る中、お前の顔をまっすぐに見つめた。お前はオレを見返した。

 光景のモーションがぶれ始める。喉を流れるシャンパンが電気的な刺激を血管に流す。この咽喉の感触を、どうやって吐き出せばいい?

 音が、ひとつひとつ、ノドを流れて消滅する。

 お前の顔を凝視する。お前の顔だけが、鮮明にうつる。一度、だけ。同じ瞬間はもう二度と訪れない。

  招待客がひとりずつ姿を消してゆく。たぶんみんな、何かいいこと見つけたんだ。

   ひとつひとつの顔が、顔を失って消えうせる。消えてゆく、消えうせる、消えてしまえ、みんな。

   そう願った瞬間、すべてのシャンパングラスの泡が弾けすべての招待客の細胞が弾け、音も色も紛れ込んだネコも弾けて融けて部屋の中で気化して無味無臭、重さも硬さも体毛も伴奏も失ってなくなってしまった。寝た顔も寝ていない顔も消えうせた。お前の顔だけに焦点を結ぶ。素早く近付いて見つめあい、そのあと、思い切り抱き寄せた。耳と耳を擦り合わせ、抱き寄せた。耳をくっつけて抱き合うと、お前の顔も見えなくなってしまった。

みじめ主義

 深夜の街を一人きりでさまよった。冬の土砂降りで、道路はきれいさっぱり埃が流れてしまっていた。夜を生きるイキモノたちはどこで雨から身を守っているのか。悲観的な気持ちに雨がビートを打つ。オレは水を跳ねながら歩き、とあるバーに入ってカウンターに座った。いまだに名前を覚えてくれない店員が、きつい酒を作ってくれた。もっと強く、とオレは要求した。

 空いた椅子に無造作に掛けたマウンテンパーカーから冷たい滴がしたたり落ちる。

 たぶん、漠然とした毎日があまりに非現実的で、曖昧な鎖がいつの間にか体にからみついていたのだろう。鬱陶しくなり、また悲観もしていたのだろう。そんな夜、あるんじゃないか。特別な出来事はないのに、叫びたかったにちがいない。

 そんな夜、彼が隣りに座ったのだった。

 何でもない会話を少しだけ交わした。酔った振りをして、目は伏せたまま、彼の手に触れてみた。

「イヤですか?」

「いやってわけじゃないけど」男は苦笑いを浮かべた。店員たちがオレをからかう。こいつらはオレを子供扱いしている。オレはしつこいくらい手を握りつづけ、けれど、それほど気のない様子をとりつくろう。

「少しずつ、イヤじゃなくなって来たでしょ」

 彼は笑う。そうだなあ、と曖昧に言う。煮え切らない男なんて。オレは目を上げて問う。

「オレのこと、好きになれそう?」上目遣いで生きている自分が忌々しい。

「わからないよ」

 握った手にもう少し力をこめると、彼は言った。「ごめん。オレ、彼氏がいるんだ」

「そんなの聞く必要なかった」

 彼は黙った。黙れば逃げられると思っている男なんて、いらない。だのに男の体にもたれてしまう自分も。場違いな照れ笑いを浮かべる彼。そう、これでいい。拒まないでいてくれれば、それでいい。外の土砂降りのことはもう忘れていた。彼の肩に頭を乗せた。彼は嫌がらず、オレがするままに任せていた。そう、これでいいんだ、拒まないでいてさえくれれば。キミョウなケモノのように頭を擦り付けるオレ。

   ごめんね、と彼は繰り返した。けれども、触れ合っていることは拒まなかった。彼もそんな気分だったのかもしれない。もしかしたら、心の中では鬱陶しく思っていたけれど、オレもまだ捨てたもんじゃないな、といい気になっていただけかもしれない。

「でも悪い気はしないでしょ、こうやって年下のコに言い寄られて」オレは体を離してケラケラと笑った。

「今日は満月だからねえ、もう一日二日したら元に戻るよ、ヨシオちゃん」店員が茶化した。

 それからまた止められるのもかまわず酒をあおり、彼の肩に頬をすり寄せる。月明かりの下でヘビのように脱皮してぬるりとすべり都会の夜を徘徊するのだろうか、オレは。息遣いがこぼれそうになる。そのとき、懐かしい、オレの好きな曲が有線放送から流れた。オレが言おうとすると、彼の方が先に言った。

「この曲、嫌いなんだ。あんまり悲しくて」

「そう」と彼の肩に頭を乗せたまま答え、急に泣きたい気分になった、吠えたい気分になった。こんな男いらない、なんて強がりも言えない。満月に向って吠えきれずにいるミジメなケモノ。みじめ主義から脱皮しきれずまた酒をあおる。

コウモリ

 風呂の湯船に、コウモリが浮かんでいるのを見つけた。間違って窓から浴室に飛び込み、壁に当たって、水を張った湯船に落ちたのだった。気がついたのは朝だった。一体、何時間前に落ちたのか、見当もつかなかった。死んでいると思って、手のひらで掬い上げたら、まだ呼吸をしているようだった。はっとしてこちらが息を飲んだ。顔から血の気が退くのがわかった。オレは慌てるわけでもなく、フェイスタオルにコウモリを包んでそっと体を拭いてやった。

 サルとブタのアイノコのような顔が動いた。精密機器のような爪がタオルの生地のほつれを握り締めていた。

 命を取り留めたので、林檎をかじらせてやった。小さなダンボールの箱の中に入れて定期的に林檎をやった。

 二、三日すると元気になり、オレの知らない間に箱を出て飛び立ってしまった。こうなるだろうと予感して、夜は窓を開けておいたのだった。

 淋しくなった反面、厄介者がいなくなってほっとした。礼も言わない恩知らずだとは、思わなかった。

 彼が入り込んでくる。ヘソのような穴をこじ開け、先っぽが充血して赤くなったあれを突っ込む。奥行きのないオレの空間に衝突する。

 感じているかと、彼が尋ねる。

 オレは目じりに涙を流しながら首を縦に振り、痛みに顔をゆがめる。途方もない声をあげ、わめきちらす。

 やがて、痛みがやわらぎ、彼がオレの上でうごめいているのがわかる。静かに停止したオレだけの空間にストンと落ち込み、オレは何も思い出せず、何も忘れられなくなる。その曖昧で薄暗い場所でオレは恍惚とし、何もかもあきらめた甘美さに溺れている。鏡の中に見える彼のムーヴメント。意識の中で生の影がひるがえる。言葉に出来ない。

 急に、彼が動きを速める。歓喜よりも速度と驚きを感じて短い悲鳴をあげるオレ。その、押し広げる速さがこらえられなくなり彼の肩を掴む。思いっきり掴む。

 頭の中で想像する。

 水面に漂っていたコウモリをすくいあげたとき、手のひらの中で思いっきり握りつぶしていたらどうなっていただろうか。骨が砕け内臓が破裂する感触に足まで竦んだろうか。

 オレは目を見開き足を痙攣させた。どうやって殺そうか。

 他に頼るものがなく彼の肩を握り締めた。

 こみ上げてくる感情を泣くことでしか表せず、オレは泣き始めた。彼にファックされながら泣き続けていた。まだ生きているのか。たったコップ一杯の水で草木が蘇るほど簡単じゃない。けれど、ゾロ目を待ちきれずに煙草をもみ消すほど投げやりでもない。手のひらの中、懸命に息を吹き返したいたいけなコウモリを血流に感じながら、オレはファックされ続けていた。

テレビジョン

 団欒の時刻。テレビのスピーカーからうるさいくらい楽しげな笑い声が聞こえる。お茶をいれるためにコンロに掛けたヤカンから湯気が立ち上っている。テレビ番組がCMに入る瞬間の、たった一刹那の空白に、ヤカンの音が膨張する。ただの宣伝広告になってもテレビを見やめようとしない彼。湯が沸いたことに気付かない彼。横顔をじっと見つめる。テレビの画面から発せられる様々な色調の光に彩られる彼の顔。CMが終わってまた番組が始まる。

 テレビの向こう側の会場にどっと笑い声が沸く。

 彼も一緒になって笑う。

 少しだけ笑い皺の出来る目じり。少し下がっている。眼鏡のレンズがテレビ画面を歪ませて映す。テレビから笑い声。彼、また笑う。目があって、鼻があって、唇があって、それらが組み合わさって彼以外の誰でもない彼の笑顔になる。

 お茶は忘れられてしまった。まだヤカンから湯気がふいている。

 長い間、電車に乗ってここまで来た。いつまでも続きはしないんだろうなと思いながら、彼の部屋を今週末も訪ねた。

 彼は土曜日も午前中だけ仕事だから、夕刻に駅に着くようにする。土曜日にだけ進む本。もう何週間掛かったっけ。思い出せない。

 いつ、彼と知り合ったんだっけ。

 どこで、彼と知り合ったんだっけ。

 何回、キスしたっけ。

 これから、あと何回?

 これから、あと何人? 愛情乞食にきりは無し。

 オレはひとりのものになんてなりたくない。たくさんの人とキスしたい。今まで何人とキスしただろう。どうしてみんな、キスしたがるのかな。オレもしたかったから、したんだけど。愛情乞食にきりは無し。

 彼はテレビに見入っている。

 急に、ヤカンがカタカタいい始めた。

 彼はやっと、気が付いた。オレの方なんてまるで見ないでキッチンへ行き、それから火を止めて戻ってきた。戻ってきながら、もうテレビを見ている。

 新幹線を使えば速いのだけれど、電車でも来れない距離じゃないから電車を使う。そのぶん本は進んでいるのだろうけど、オレは字を読むのがとてつもなくのろい。まだ、三分の二くらいだ。一週おきだと筋を忘れてしまうので、さかのぼって読み返すこともある。本に飽きると、電車の乗客を観察することもある。オレと同じ駅から乗ってきた人はもういない。コートを着たまま、デイバッグを膝の上において本を読む。

 テレビから、笑い声が聞こえる。彼も一緒になって笑う。その笑顔をじっと眺めるオレ。

 突然、彼がこちらに視線を投げた。

「なんだよ。さっきからジロジロ見ちゃってさ。何か、顔に付いてるか?」

 泣きそうになる。懲らしめてやりたいとすら思う。

「だって、テレビなんて見に来たわけじゃない」それ以外に、言えなかった。

Hyper Revenge

 紺色の夜が海風に乗って薄れてゆく。明け方の岸辺に立っていた。星が薄れ始め、けれども最後まで瞬きをやめようとせずに輝いている。その光が、波打ち際まで届く。水平線が呼吸を始めた。その吐息に、星達が一瞬、色めいた気がした。空が流れてゆく。

 夜中の三時半、佐久間さんがオレの部屋に来たのだった。海へ行くと約束した日、午前中には車で迎えに行くといっていた彼は、朝が来るのが待ちきれなくなって、車を飛ばしたのだった。事情がわからず寝ぼけたままのオレを毛布でくるみ、車に押し込んで海へと向ったのだった。

 無性にオレに会いたくなったのだと、彼は言った。眠れなくて、真夜中のうちに窓から抜け出して来たのだと。

 車は海へと走った。オレは毛布に包まって助手席で丸くなり、ウトウトとしていた。けれども眠り込むことはなかった。ねえ。オレは質問した。子供って、抱き上げると壊れてしまいそうで怖くない? オレ、あんまり子供が好きじゃないんだ。オレがそう言うと、作間さんは曖昧にごまかして同意も反論も示さなかった。それから、オレは彼の家族について差しさわりのない程度に質問した。彼も差し障りのない範囲で答えた。

   彼の家族について尋ねるのは楽しい。何だか彼の家族といるみたいで。けれども、オレが彼の答えに真面目に耳を傾けていたかというとそうでもなくて、うとうととしながら、何となく聞いていた。

「作間さんは子供が好き?」オレは切り込んだ。

「どうだかな、だけど、かわいいもんさ」

「作間さんの子供になりたい」呟いたオレは毛布を頭から被り直して目を閉じた。ばーか、と言いながらオレの頭を小突いた作間さん。もう男の子に戻れない男の子の気持ち、教えてあげようか? ねえ、教えてよ。わたしだけが、不幸だなんて。だけど、もういい。今は寝よう。何だか、毛布があったかい。そしてオレはいつの間にか眠ってしまった。

 揺り起こされた。車は海岸についていた。車を降りると、まだ暗い海岸線をしばらくふたりで歩いた。あれほど憧れた海、二人で来るのを楽しみにしていた海。実感がわかず、毛布を肩に掛けたまま、オレは作間さんの横に並んで歩いた。

 水平線が新しい呼吸を始め、それまで輝いていた星たちが、急に隠れるように姿を消した。朝の風が冷たくてすがすがしかった。オレは体を震わせた。

「寒い」

 言いながら彼の方に目をやったオレの体を、突然抱きしめた彼。

 薄い薄い青の中ににじむ紺色の影。

「会いたくなったんだ。夜中に家を抜け出して車を飛ばした」彼は耳元でそう言った。

 何も言わずに目を閉じていたオレ。

 波の息吹が胸の中でざわめく。抱かれたままでいたい気もしたけれど、彼からいきなり離れて波打ち際まで行った。彼はしばらく動かなかった。

 佐久間さんが後ろから言った。

「悪いことだとはかわってるんだ。だけど、お前からも家族からも離れられない」

 水平線に目をあずけていると、太平洋の彼方から運ばれてきたいくつもの波がこちらへ向っているのがわかった。オレは毛布を前でかき合わせながら、少しだけ作間さんを振り返って、言った。今は…、きっとね、だけど、一秒後にはわからない。海風が、言葉を連れ去ってしまった。

「ん? なんだ?」

 朝の風が砂浜を掃く。東雲色が流れる水彩画のような空。

 オレの側までやってくる作間さん。ふたりで、風に吹かれて水平線に臨んだ。

   嬉しいのは、オレが死んでも泣くほどオレに執着している人がいないこと。

「あの向こうにオレの気持ちが見える」孤独が心地よくてオレは言った。

「ん?」と水平線に目を凝らす作間さん。

   朝日。オレは彼のケツを思いっきり蹴っ飛ばし、波打ち際に突き倒した。波飛沫にびしょびしょに濡れる彼を見てケラケラと笑った。ばーか。

「てめー!」立ち上がった作間さんはオレに飛び掛ってきた。

“Ask me.”

“I’ve already asked you.”

“I want you to ask me again.”

“What do you think about my…?”

“Yeah, I like it. I like it very much…”

“Stop it…  You don’t even pay attention.“

I love him.

I love him.

I love him.

I want to be loved as a boy,

Hit and beaten by a batch of affection,

Buried in secret arms,

Drowned in precious moments…

(終)