TOXIC

 薬品の動物実験に使われる犬種はビーグルと決まっている。こんな話を聞いたことがある。毎朝、同じ時間に注射を受けるビーグルが、看護婦のヒールの音が聞こえてくると、条件反射で檻から前足を差し出すようになったそうだ。いずれは使い捨てにされるのを承知で。

 まっすぐに続く白いタイルの廊下に、男の靴音が反響する。その規則的な音に逆らうわけではなく、かといって同調しきれない僕の足音。

 男のうしろを歩くのが好きだ。襟足から肩へかけての輪郭線に目を細め、こちらに漂ってくる匂いを呼吸しながら。研究所に転勤になってから、川本広行の白衣の後ろを歩いている。研究所の広大な建物の端から端までの長い距離、二人分の足音が共鳴する硬質な空間。そこをよぎり、毎朝同じ時間に、劇薬倉庫の鍵を開ける。セキュリティーシステムには川本広行の指紋しか登録されていない。入るときも出るときも、彼と一緒でなければならない足手まといな僕。

 劇薬倉庫に入り、二人きりになっても、川本は押し黙ったままだ。でもわかっている。あと少しで、その時間がやってくる。川本広行が毎朝の日課である劇薬の検量をしている間、僕はツカズハナレズの距離を保ち、手持ち無沙汰に立ち尽くしている。しゃがみ込んだ彼の白衣の裾が、白いタイル張りの床で崩れ、印象的な襞を波打たせている。彼は膝を開いた姿勢、男そのものの姿形を思わせる、鋭角的だが、清々しいまどろみを発散させるシェイプで動きを止め、真剣な眼差しをしている。その神聖さ。彼は棚のロックを開け、TOXIC(毒性)の表示ラベルが貼られた遮光ボトルを手に取った。

「これは末期ガン患者への注射剤の原料なんだ。強力な薬だから、副作用も壮絶だ。注射して数分も経たないうちに嘔吐する。何度か打っているうちに、患者は注射剤のバイアルを見ただけで嘔吐するようになるそうだ」彼は同じ姿勢で、独り言のように言った。

 僕は口を噤んだまま聞いていた。彼は独り言のように続けた。

「薬には知能がないから、ガン細胞だろうが正常な細胞だろうが、何でもかんでも叩きのめすんだ」

「どうしてそんなもの」思わず口を開く僕。

   川本広行は、そのとき初めて僕の存在に気付いたかのようにこちらを見上げた。しゃがみ込んだ姿勢のまま。それからボトルを棚に戻して静かに立ち上がり、しばらくこちらを見据えた。そして急にそばまでやって来た。ひるがえる白衣の裾、男のムーヴメント。

「末期の患者に選択の余地はない」

 白衣が僕の体を包み込む。男盛りの弾力が押してくる。身が竦み、溺れそうになる。呼吸が小刻みになり、自堕落な蝶へと脱皮しそうになる。けれどし切れず、サナギに閉じ込められてもがく。

 川本広行とこういう関係になってから、三ヶ月が経った。初めてこういう関係になったのも、この閉ざされた部屋、研究棟の一角の毒薬倉庫だった。

 勤めていた会社が吸収合併された。多くの同僚が退職を迫られ、ほとんどの者が会社を去っていった。僕は吸収された会社の東京本社の経理部から、買収した側の会社の北関東の研究所に転勤を命じられた。要するに、辞めろということだ。同僚達も同じような目に遭っていた。憤慨して辞表を叩き付ける者、お情け程度の条件を添えてもらい去ってゆく者を尻目に、僕は会社の命令を受けた。経理畑のお前が品質管理のアシスタントだなんて、そんな嫌がらせをよくまあ受けたもんだな。昼食を共にしていた同僚にそう言われた。恋人の康樹にも。言われたときも無感想で、着任した今も無感想なままだ。

 何も変わっていない、この三ヶ月間、僕は。薬学の知識はまるでないし、劇薬の取り扱い責任者である川本広行のアシスタントとして毎朝の検品に付き添わされても、いまだに立ち尽くしたままの木偶の坊だ。けれども川本は言う。お前はそれでいいんだ、付き添っていてくれるだけで。

 着任した初日から無気力に佇んでいる僕に、最初はろくに声も掛けなかった彼が、ある日尋ねた。このまま続けるつもりなのか。僕は質問には答えず彼に言った、損な役回りを押し付けられたこと、ご同情申し上げます。彼はしばらく僕を眺め、それから、貸与されたばかりの箱のような白衣を着た僕の肩に触れた。言葉はなかったはずだ、確か停止だけだった。同情でも憐憫でもなかった。僕に注がれている戸惑いだった。停止はある種の運動だ。その無口な動作が浸透してきた。僕が反応しないでいると、彼はそっと僕を抱きしめた。心配するな。爪先と爪先が触れあい、肌と肌、白衣と白衣が擦れ合った。その摩擦音が無味乾燥な部屋に響いたのが、今でも耳に残っている。君は口が堅そうだな。川本広行は囁いた。僕は黙ったまま頷き、それですべてが成立した。その日から二人はこういう関係になり、夜になると、彼は家族や世間の目を盗んでは僕の部屋に来るようになった。広大な平野を車で走り抜け、僕の部屋にもぐりこんでくる男。

 都会の夜空がこれほど甘美に感じられるなんて、想像したことがなかった。星のない紺色の天蓋の下の光の泉が、表面張力をようやく保っている。このかすんだ空の色を康樹と眺めると、やはり二人で過ごした日々が心に響く。そして同時に、今は側にいない川本広行との時間、痛みや不確かさ、が。

 昨晩は、川本広行に抱かれた。彼が九時過ぎに部屋にやって来て、いつも通りのセックスをした。彼に同情されているうちは、僕はその好意とも残忍とも知れない彼の成分を注入されながら、抱かれ続けるのだろう。抱かれながら、言葉にならないサメザメとした月明かりを思い浮かべる。銀色のナイフのような。突然、思いがけずに傷ついてしまうのかもしれない、こちらから振りかざすのかもしれない。

   セックスの直後、電話が鳴ったのだった。受話器を取ると康樹だった。週末の約束をねだる彼に空返事をしている僕の背中で広行が帰り支度を始める気配が聞こえ、そして聞こえない振りをする僕の背後を通り、彼は扉から出て行った。

 そして翌日、約束通りの時間に康樹の部屋を訪れたのだった。迎え入れてくれた康樹の笑顔、ほんとか。どうしても直視できず、けれどもやましさを感じるわけでもなく、僕は呼び寄せられるように、窓辺へ行った。もう半分思い出に近付いているこの窓から見渡す夜景。康樹が隣にやってくる。とても馴染んでいるはずの彼なのに、なぜだか緊張した。

「どうだ、あっちの生活には慣れたか」康樹は聞いた。何度同じことを尋ねれば気がすむんだ、こいつは。

「まあ、な」それは僕も同じ。もう二人には、こんなありきたりなやり取りしか出来なくなってしまった。

 そして、必ず訪れる沈黙。

「研究所も悪くはないさ。新しいことがたくさんあって。うちの会社の抗ガン剤、酷い副作用なんだってさ。薬には知能がないから何でもかんでも・・・」

「よせよ、そんな話」

 再び沈黙。その静けさに怯えたのか、康樹は続けた。「薬の話を聞きたいわけじゃない」

   康樹は僕の肩を掴んだ。その指先の力に、張りつめたピアノ線のような緊迫、切れてしまいそうなぎりぎりの危うさを感じ取り、けれどもきっと僕はうまくやってのけるだろうと、同時に確信していた。

   時が止まる。二人は微動だに出来ず、ためらうことすらも出来ず、一瞬の肖像画に取り込まれてしまい、しかしやはり鮮烈な動きを取り戻す。静止した情景の中、急に、けれどもアンダンテの穏やかさで、康樹は僕を後ろから抱きしめた。それからぎこちなく愛撫を始め、首筋に冷たい接吻をした。きっと、康樹は気がついている、川本広行とのことを。なぜなら、前よりも欲しがるようになったから。欲しがり方が前とはちがうから。

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