真夜中の雨

 僕が孝志と出逢ったのは新宿二丁目のとあるバーだった。いちばん賑わう土曜日の十時半頃だったはずだ。扉を開けると振り向く男たちの後ろを通り過ごして奥に座ると、それでちょうどカウンターが埋まってしまった。孝志は僕の右隣に座っていた。男たちの物色の視線が、残念ながら僕からそれてしまっても、孝志は僕の横顔を何度も盗み見た。僕は熱い視線を首筋に感じながら、ゆっくりと顔を孝志の方へめぐらして、孝志を真っ直ぐに見つめ返した。孝志は視線をそらす。都会的な知性が感じられる彫りの深い顔立ちで、神経の細やかそうなところが魅力的だった。僕はまた前に向きなおった。カウンターの中で洗い物をしていた敏彦が、ふと顔を上げて僕に気付き声をかけてきた。
「やだ、智、ひさしぶりじゃない。元気だった?」
「先週も来たのにあんたが休みだっただけでしょ」そこまで言って、しまったと思った。僕はすっかりオネエだったのだ。とりあえず気を取り直して少し低めの声で、「ジントニック」と短めに。この場合「ジントニックお願い」でも「ちょうだい」でもまずい気がしたのだ。
 僕と敏彦が二言、三言、言葉を交わしている間も横顔に孝志の視線を感じた。もう一度、孝志の瞳をしばらく見つめ、こんどは僕から視線をはずしてみた。それから敏彦の方を意味ありげに見た。鈍い奴だ。上目遣いに媚びるような視線を送ると、敏彦はしたり顔になって、
「今日はじめてのお客さんなの。えっと、そうそう、孝志さんでしたよね。コイツは智。よくウチのお店にくる子なの。カワイクないでしょ」
「大きなお世話よ」
 あっ、まずい、そう思ったが時すでに遅し。もう開き直って、
「これでもかわいいと思ってくださる方がいますから」
「もし世の中にそんな奇特な人がいたら顔が見てみたいわね」
「ご覧になれば?」と言って僕は思い切りひょうきんな顔を作って孝志の方にふっと視線を投げかけた。孝志は焦ったようすだ。敏彦は呆れ顔で肩をすくめ、向こうの方に行ってしまった。もう一度孝志を振り返ると、目を伏せて視線を逸らしながら、
「ずいぶん大胆なんだね。君って」と、平坦な口調で言った。
 それには答えず、ジントニックに口をつける。しばし沈黙があったが、
「仕事は何?」と淡々とした口調で孝志が尋ねた。
「お気楽なOLです」
「いつもそんな調子なの? しゃべり方」
「二丁目にいるときは。まさか普段からこんなんじゃありません。いやなの?」
「ううん、別に…」
 会話が弾み、酒が進んでも孝志は常にクールな表情を崩さなかった。孝志は二十七歳のコピーライターでスキューバダイビングが趣味。三日間連続で休みが取れると必ず国内の島々や、ときにはプーケットとかタヒチまで潜りにゆくそうだ。また海外に旅行にもよく出掛けるらしく、イタリアで警官の発砲した弾が危うく自分に当たりそうになったことや、ロンドンでたまたまIRAのテロに出くわしたことなどを淡々と語ってくれた。僕が彼に対して持っていたイメージはおおかた当たっていたみたいだ。
 話の途中にも、孝志は僕の唇や首筋、指先などをじっと見つめることがあった。見られていると感じると頭に血がカーッと昇り、だんだんと孝志のペースに巻き込まれていった。会話が途絶えると、孝志は袖をまくりチラリと時計を見た。十二時四十五分。僕の終電はもう終わっている。孝志は意味深に僕の瞳を見つめた。僕たちはどちらから言い出すともなく店を出て歩きはじめた。べつに誘うでもなく誘われるでもなくタクシーを拾う。孝志はときどき僕の目を見つめながらソツなくリードした。
 タクシーに乗り込むと、孝志は僕の手を握ってきた。そしてニヤッと笑ったが、なんのわるびれたところもなかった。動悸が激しくなり、喉が乾いた。僕はいま一番欲している肉体が隣りにあるのに自分のものにはならない焦燥感に、さらに欲情させられた。いくら冷静に取りつくろっていてもやっぱり二十七の男。孝志の鼻息は荒くなり欲情したようすが窺えた。ときどきタクシーの運転手の目を盗んでは僕の股間を握ってきた。僕の表情の変化を確かめる淫靡な視線がさらに僕は熱くした。僕のペニスは素直に反応し、突っ張って少し痛かった。僕は股間をまさぐる孝志の手を上から握り締めた。
 部屋に着くと、孝志は靴を脱ぐ間もなく僕の首筋に吸い付いてきた。さっきまでのクールな表情とは打って変わった狂おしい愛撫。僕は熱いためいきひとつ、孝志に体を預けてしまった。孝志は僕の唇をふさぎながら器用に服を脱がせ、ベッドに行き着く頃には、僕はほとんど裸同然にされていた。孝志は、今まで僕が知る中で一番のテクニシャンだった。長く綺麗な指先は僕の体の上を繊細に動き回り。熱い唇は感じやすく微妙な部分を優しく包み込む。生々しい舌はひとたび標的を定めると激しく、そして容赦なくそこを攻撃した。声を発することもなく植物のように僕に絡みつく孝志。僕は、さざ波のように途絶えることのない快感に酔いしれた。
 孝志はふと腰を引き、彼のペニスの先を僕のアヌスにあてがった。
「ダメ。僕バックはできないの。ごめんね、怒った?」
「いや、べつにかまわないよ」 
 孝志は冷淡に微笑み、また僕に覆いかぶさった。さざ波がやがて大きな波となり、そして僕は波の花のように果ててしまった。孝志は僕の体から離れてゴソゴソと音をたてながら煙草に火をつけた。
髪をかき上げながら煙草をくゆらせる孝志の横顔はあまりにクールすぎた。
 それから僕たちは毎週末会うようになった。「付き合おうか?」と、切り出したのは孝志のほうからだった。
「僕のことが好きなの?」と尋ねると、
「好きとか惚れたとかっていうんじゃなくって、気の合う者同士、人生の一部分を共有出来たらいいじゃないか」と答えた。
 孝志は収入も年齢のわりにはかなりのものらしく、デートの費用はすべて孝志持ちで、僕には払わせなかった。回を重ねるごとに孝志は主導権を握るようになり、いつも冷静で、決して無むり強いはしないものの有無を言わさぬ圧迫感があった。そのくせ僕がわがままを言っても逆らうことなく「お前がそう言うんなら」といいながらも、あくまでクールな態度は崩さなかった。
 それでも彼から学ぶことは多く、僕を弟のように可愛がってくれるので僕は孝志との関係に満足していた。孝志は何にでも造詣が深く、どこへ行ってもスマートでよくマナーを心得ていた。おまけにセックスはゴージャスそのものだった。ただし、孝志はオネエ言葉が嫌いらしく、それだけは僕は注意しなければならなかった。
 孝志は「お互いのプライバシーを尊重しあう関係」をいつも強調し、僕もそれが都会的な大人のゲイライフのお手本だと思っていたので、しばしば孝志が僕よりも仕事を優先させても不満を漏らすことはなかった。孝志は僕の未来の目標のような存在だった。彼は何でもけじめを付けたがり、僕のことも、ただ”なあなあな肉体関係”の継続ではなく、「付き合っっている」ということを彼の友達や店の人たちに吹聴した。僕に対する所有欲はたいへんなものだったようだ。






 僕たちが付き合い始めてから三ヶ月たったころ、ひさしぶりに会う友達がいるから一緒に来ないかと僕を誘った。僕たちは八時に伊勢丹の前で待ち合わせして食事を済ませ、九時に孝志がよく行く二丁目の店に着いた。孝志はコーナーの見えにくい位置にいる男を確認し、軽く右手を上げて、
「やあ、ひさしぶりだな」と、いつもの口調で言った。
「おう、元気にしてたか」
 男は明るい嬉しそうな表情で言った。大柄でいかつい感じの体、野性的で彫りの深い、知性とはかけ離れた顔は、孝志の友達とは思えない。でもけっして無教養とか無知というのではなく世の中に知識というものが存在する以前に生きていた人間のような、無垢で純粋さを持っているような男だった。孝志の陰にいた僕の存在に気が付くと、表情を変えて僕をじっと凝視した。僕は本能的に、何かコトが起こる前兆を予感した。 
「これは俺のパートナーの智。このまえ電話で話しただろ、三ヶ月くらい付き合ってるって。コイツは俺の昔からの友人の健次」
 孝志が僕のことを紹介している間も、健次は僕のことを露骨に見つめている。べつにいやらしい視線ではなかったが、野獣が獲物を物色するような目付きだった。孝志も、あまりにしつこい健次の視線に疑問を持ったのか、いぶかしげに僕たちを見比べ、
「お前ら、知り合いか?」と尋ねた。
「いや、お前の彼氏があんまり可愛いから、見とれてたんだよ」と冗談っぽく笑い、「それにしても可愛いな」
 それから僕たちは孝志を挟んで座り、孝志と健次が長い間話し込んでしまったので、僕はカウンターの中にいた店の子をつかまえて世間話とか軽い冗談とか当たりさわりのない話をして時間をつぶした。その間、何度も何度も健次は僕のことを見ていた。一時間くらいたって、孝志がトイレに立った。僕はできるだけ健次の方を見ないようにしていたが健次は僕に顔を近づけて、
「君は孝志のことが好きなの?」と耳元で囁いた。
「ええ、もちろん」
「じゃあ、孝志は君のこと好きだって言ったか?」
 僕はその質問には答えなかった。
「アイツは恋愛に醒めてるからな」と言いながら僕の膝の上に手を置き、「俺は好きだぜ、君のこと」と囁きながら、僕の耳たぶを軽く噛んだ。僕は冗談ぽく笑いながら、しかしきっぱりと突き返した。
 それでもしつこく肩に手を回しながら、
「俺は本気だぜ」ともう一度顔を寄せてきた。
 ガシャッという音を立ててトイレの扉が開くと健次はスッと身を退き、何事もなかったかのように話に戻った。
 それから二週間後の金曜日、孝志と僕は、僕の二十四歳の誕生日を祝う約束をしていた。もうバースデーケーキという年でもない。ワインとグラスを二つ用意して僕は孝志を待っていた。五月も下旬になると日がずいぶんと長く、七時になってもあたりは未だ明るかった。藤色に暮れなずむ空を見上げながら僕は唇を歪めた。約束の時間を十分過ぎていた。
 孝志の仕事がいつも忙しいのはわかっている。十分ぐらいいいサ。もう少し、いや一時間でも二時間でも待ってやろうじゃないか。頭ではわかっていてもひとり待つ時間はせつなく、時計の進み方がやけにおそく感じられた。すっかり日は暮れ、窓からはひんやりと湿った空気がしのび込んできた。頬を撫でる風が心地よかった。適当にそのへんに置いてあった読みさしの雑誌を手にとる。ぺらぺらとページをめくってみたがすぐにうっちゃってしまった。時計を見ると八時四十五分。孝志の身に何かあったんだろうか。窓を開けて駅へと続く道に人影を探してみる。電話が鳴った。こういう時にくる電話はまずろくな知らせではない。案の定、孝志からだった。
「ごめん。急な仕事がはいって行けなくなったんだ。こんど絶対に埋め合わせをするから、ほんとうに申し訳ない」
 しかたがないサ、僕たちは「お互いのプライバシーを尊重し合う関係」なのだから。孝志はたとえ僕が泣いて頼んでも仕事をずらしてくれるようなことはしないだろう。僕は孝志のものなのだ。せめて付き合っている間くらいはイイ子でいてやろう。
 でも、どうしても誕生日にひとりでいる気になれなかった。二丁目にでも出てみようか。敏彦を相手にオネエぶっこけば、少しはすっきりするだろう。それくらいは「お互いのプライバシーを尊重し合う関係」の条項に含まれていてもいいはずだ。
 僕は大急ぎで着替えて二丁目に繰り出した。敏彦の店のドアを開けた僕は凍りついてしまった。健次がいたのだった。そのまま踵を返して逃げようかとも思ったが、敏彦が、「いらっしゃい、智、なによあんた、最近全然顔出さなかないでェ」と奇声をあげたのであとに退けなくなった。それにだいたい、なんで僕が逃げることがあるものか。僕は勧められるままにカウンターに座った。健次は立ち上がり、僕のうしろに来て、何のためらいもなく僕の肩を両腕で抱きながら、
「君がこの店によく来るって聞いて週末はずっと待ってたんだぜ。何でも好きなものを頼めよ、今日は俺がおごるぜ」とわるびれるようすもなく言った。
「けっこうです」
「そんな、おこんなよ」
 囁くように言いながら、僕の肩に回した手をますます絡ませて首筋に口を寄せ、体をくねらせる僕を押さえ付けて何度も何度もキスした。なんて常識外れな男だろう。こんな人前で、しかも明らかにいやがっている僕にこんなにしつこくキスするなんて。僕はカウンターを両手で、バンッ!と叩いて立ち上がり、
「やめてください」と鋭く叫び、健次を突き飛ばして店を飛び出した。  






 なりふりかまわず全力で走り、エレベーターのボタンを押した。運よくエレベーターの扉はすぐに開いた。一回のボタンを押し、「閉」のボタンを何度も叩く。扉が閉まる寸前に、健次がものすごい勢いで駆け込んできた。
[しまった‼︎]
健次は僕に抱きつき馬鹿力で締め上げた。
「やめてよ!」

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真夜中の雨: 1995年1月薔薇族掲載ゲイ小説「掠奪」