イタチと男の子

イマはムカシというほど昔ではないのでしょうか。あるところに男の子が住んでいました。男の子はどうしてだかわかりませんが洗濯用粉末洗剤の箱が大好きでした。その頃の洗濯洗剤の箱はとても大きかったのです。お母さんが洗剤をひと箱使い終えるごとにその空き箱をもらって集めていました。けれども一軒の家で使い終える洗剤の箱なんてせいぜいふたつきにひとつかそこらです。男の子はお父さんとお母さんに連れられて誰か知人の家に行くと必ず、洗濯洗剤の空き箱をねだるようになりました。運がいいときは箱がもらえましたが、どの家にも洗濯洗剤の空き箱があるというわけではありません。もらえないこともしばしばありました。けれども両親の知人の中には、わざわざ箱を空けてくれる人や、次に訪れたときまで空き箱をとっておいてくれる人もいました。男の子は箱をもらうととてもとても幸せでした。男の子は五十歳になってもそのことを覚えているでしょうか。例えば夕暮れ時に両親が知人の家にお金を借りにいって、そこでも洗濯洗剤の箱をねだり、男の子が空き箱が好きだということを覚えてくれていた人が箱を、はい、と言いながら手渡してくれたときの、玄関口の照明のやわらかさや夜空の色合いを、男の子は大人になってからも覚えているのでしょうか。やがて、男の子の部屋は空き箱だらけになりました。男の子はとても幸せでした。


男の子はあちこちからもらってきた洗濯洗剤の箱をお父さんの書斎に運び込みました。お父さんは夜になると書斎で製図をしますが昼間は工場に行っています。その頃はまだ製図盤で製図し、図面のコピーは青焼きの紙でした。お父さんの書斎は洗濯石鹸の箱でいっぱいになりました。色とりどりの箱がありました。男の子はいつの間にかそれらを並べてみたり、重ね合わせてみたりするようになりました。色合わせを考えたり、どうやればうまい具合に積むことが出来るのか考えたのでしょうか。それとも偶然に安定性や色の調度を発見したのでしょうか。それとも、まったくそんなことには無意識で、最初から最後まで考えもせず、学びもしなかったのでしょうか。いつしか男の子は箱を組み立てることを軽々とやるようになり、お父さんの書斎には洗濯洗剤の箱で築かれたお城が出来ていました。男の子はそのお城の中に入ったり出たりして遊ぶようになりました。お父さんが仕事のときは、洗濯洗剤の箱は片付けなければなりませんでした。お父さんは、目を細めてそのお城を褒めてくれることもあれば、小馬鹿にして呆れることもありました。


男の子は洗濯洗剤の箱でこしらえたお城の中で様々な空想をめぐらせました。男の子はお城の中では王様でした。けれどもそれだけではすみません。お城での暮らしは色々と大変なことがありました。王様ひとりでは物事がなりたちませんから。男の子は王様も王子様も自分でやらなければなりませんでしたし、クイーンやプリンセス、家来や執事、時には助産婦もやらなければなりませんでした。七面倒くさい執務も自分でやらなければなりません。もめごとがないのがまだ救いでした。夕方、お父さんが帰宅すると、男の子はお父さんの書斎に組み立てていた色とりどりの洗濯洗剤の箱のお城をばらし、部屋の片隅に片づけました。夜になってベッドに横たわると、お父さんが隣の書斎で製図盤で図面を引く音が聞こえます。じょうぎがレールの上をすべる音。その滑らかな音を聞きながら、男の子は眠りにつくのでした。そのときの音を、男の子は大人になってからも思い出したでしょうか。甘美さすら感じたでしょうか。


実は男の子は大人になってからこれらの洗濯石鹸の箱の行方をおぼえていないのです。突然、夢のない話しをするようですが。記憶にないのです。もしもお母さんが男の子がお友達と遊ばずこんなことをしていては良くないと考えての無理矢理奪い取って捨てたのだったとしたら、きっと覚えているでしょう。だからそうではないのです。飼っていたニワトリがある日いなくなり、あとから屠殺場に連れていかれたのだと聞いたことは大人になってからでもよく覚えているのですから。きっと誰も男の子からあの大切な洗濯洗剤の箱を奪ったりはしなかったのでしょう。自分で捨てた覚えもないのです。まったく覚えていないのです。大人になった男の子はこう思っているかもしれません。でも、もういい。あなたに会えたから。あなたたちに会えたから。打ちひしがれたときに出会った人がいるから。だからもう、いいのです。勇気を得ると、過去のものなんてどうでもよくなってしまうものなのです。


洗濯石鹸の箱のお城に住んでいた男の子は、ある日、他のお城の王子様から食事に招待されました。男の子は少しためらいましたが、やはり訪ねてみることにしました。男の子は洗濯石鹸の箱のお城を出て遠い国にいきました。招待を受けたお城にたどりついた男の子はどぎもを抜かれました。そのお城はヤカンを組立てて作られたものでした。出迎えてくれた王子様は、男の子にそのヤカンの城が崩れずに建っている物理的難度について解説しました。けれど男の子には興味がもてませんでした。男の子は、ふうん、と聞いていました。それから男の子は晩餐の席に案内されました。貴賓室には様々な国からやってきた王子様たちがいました。晩餐が始まると、各国の王子様たちはナメクジが人間に進化したのだという進化論を熱く語りはじめましたが、男の子はやはり興味をもてなかったのでした。耳を澄ますと、風の歌が聞こえるような気がしました。いるということ、いてくれるということ、時には、いやがるということの物音が、風に乗って聞こえました。


男の子はなぜだか月見草に魅了されていました。沼地の周りをぐるりと囲み、夜に君臨する月見草をお兄さんと一度だけ見たのでした。それからというもの、男の子は毎晩月見草を見たいと思いました。けれども夜は窓から眺めるだけで外へは出かけられませんでした。お兄さんが、時々、月見草の話をしてくれました。男の子はそれだけで満足してしまい、窓から宵の空を見あげては心の中で月見草の群れを思い描くだけで、眠りについてしまうのでした。待ちきれずに眠るのでした。


洗濯石鹸の箱のお城に住んでいた男の子は、どうしてお城を出てしまったのでしょうか。お城を出たら、いぢわるな砂埃や、おねだりばかりする雨粒が降ってくると知らなかったのでしょうか。もしかしたら、お城を出たはいいが、どこかにとらわれてしまうと知らなかったのでしょうか。知らなかったから、男の子はお城を出たのでした。新しい世界を見てみたいと思ったのでした。たとえ待ち構えるものが磁石で拾う鉄屑ばかりでも。いいえ、男の子は、そんなことすら怖れずにお城を出たのでした。男の子は怖れを知らなかったのでした。男の子は、一度お城を出るや、洗濯石鹸の箱を集めるのはやめてしまいました。


お父さんが製図盤に向って仕事をしているときも、男の子は洗濯石鹸の箱でお城をこさえていました。男の子はお城をたいそう自慢に思っていました。けれども男の子は、お父さんがひいている図面を見てふと思いました。この洗濯洗剤の箱はただの紙を組立てただけで、ばらかしてみると一枚の厚紙にしかならないのだと。この箱の中は空洞で、箱は些細な衝撃にも耐えられないのだと。こうも思いました。一枚の紙をうまく組立てれば、中は空洞でも箱が作れるのだと。お城はといえば、中が空洞の箱を重ねただけのものです。接着剤も使っていなければ、土台もありません。簡単に崩れてしまいます。ひとつの箱を押すだけで、全部が総崩れになってしまいます。けれどもこうも思いました。中が空洞の箱でも、バランスさえ良ければお城が作れるのだ、接着剤を使っていないから、いくらでも自由に組替えられるのだと。あとはいぢわるな風が問題でした。男の子は思いました。僕はお城に守られて暮らしたかった。けれどもお城はいぢわるな風に吹き飛ばされてしまう。いぢわるな風は、僕をも吹き飛ばしてしまうのかな。でもきっと、僕は小さいから、いぢわるな風は吹き抜けてしまうんじゃないか、おまたの間や腕の下をすり抜けてしまうんじゃないか。もしかしたら、僕はお城なんかいらないんじゃないか、石鹸の箱のお城よりも、僕の方が強いんじゃないか。


男の子は、洗濯石鹸の箱のお城を試しに出てみました。がらんどうで空虚で骨も何の接着もないお城が信用できなくなったのではなくて、試しに、出てみたのでした。もしかしたら僕はお城なんてなくてもへっちゃらなんじゃないかと。外では、鳥たちが、囁いていました。男の子は何を囁いているのかさっぱりわからず不思議に思いました。カラスの目が光っていました。男の子は怖くなりました。そうこうしているうちに、空から矢が落ちてきました。矢は男の子の周りに突き刺さりました。落下するときの摩擦で矢は火になり、爆音を立ててあたりに落ちてきました。外の世界では、何もかもが速くて摩擦があって、そしてよそよそしかったのです、鳥の囁きや花の花弁が知らぬうちに開くのが。男の子はしょんぼりしてお城に帰ってしまいました。ここならば安心だ、と思い直していました。次の瞬間、強烈な突風が吹き付け洗濯石鹸の箱のお城を吹き飛ばしてしまいました。吹っ飛んだ洗濯石鹸は男の子の体にぶち当たりました。男の子は目を閉じてそのときの衝撃、体に当たる箱の硬さや強さや優しさの感触、それらの衝撃の中に溺れてうっとりとしてしまいました。目をあけると、洗濯石鹸の箱がくるくると渦を描きながら西の空に遠ざかってゆくところでした。スペードやハートやキングやクイーンが描かれたトランプのような箱たちが、螺旋状に消えてゆくところでした。西の空は燃えていました。男の子は衝撃を受けたときの感覚を抱きしめたまま、おそるおそる西に向って歩き始めました。ひとりでどこへ行けばいいんだろう。それでも男の子は歩き続けました。


唯一のヨリドコロだった洗濯石鹸の箱のお城が風に巻かれて吹き飛ばされてしまいました。男の子は途方に暮れました。なぜだか西へと向って歩き始めました。お日様が離れてゆくのが淋しかったのでしょうか。男の子は歩いて歩いて、歩き続けました。誰とも出会いませんでした。夕暮れの野原を歩いていても、人影は見当たりませんでした。お城という殻がなくなってしまうと、男の子は急に小学校のことを思い出しました。先日、先生が国語の時間に生徒に課題を与えました。一枚の紙に、物語を書くのでした。何か大切な宝物をしまっている箱の鍵を、一羽の鳥がくわえて逃げていきました。課題とはその続きの物語を一枚の紙に書くというものでした。先生は言いました。「紙が足りない人はいくらでもあげるので取りに来て下さい」。男の子は机に向って物語の続きを書きました。男の子は、大人になってからもその物語を覚えているでしょうか。残念ですが、きっと忘れてしまうでしょう。けれども男の子は一生懸命書きました。そして、次、また次と紙をもらいに先生のところへ行きました。男の子はいくらでも書けました。五枚目の紙をもらいにいったとき、先生は言いました。「ねえ、きみ、もうそろそろやめてくれないかな。みんな帰っちゃったよ」。


男の子は、西へと向って歩きながらそんなことを思い出しました。ぼくはまだまだ書けたのにな。男の子は、オネダリな気持ちだけを、大人になってからも忘れられないかもしれません。自分の無力さを誰かのせいにすることを、そのとき覚えたのかもしれません。もしかしたら、男の子の書きたい気持ちをさえぎった先生もよくなかったのかもしれません。男の子は、大人になってからも、時々考えさせられるのでした。あまり感情は持たず、考えるのでした。けれども、五枚目の紙に何を書いただろうかとは、あまり考えることはありませんでした。


野原を歩き続けると、足元でガサゴソと草をかき分ける音が聞こえました。見下ろすと、長いイタチがいました。イタチは言いました。
「さっき、きみの石鹸箱が飛んでいくのを見たよ」
「どっちへいったの?」
「ぼくが誰だか答えられたら教えてあげてもいいよ」
男の子はしばらく考えました。そして自信なく答えました。
「トカゲ?」
イタチは怒りました。
「わしのどこがトカゲに見えるんじゃ、ボケッ! お前なんかに教えてやるものか!」。そう怒鳴ったイタチは男の子の膝を引っかいて走って逃げました。
男の子は泣きべそをかきながら思いました。(だって、そっくりだったじゃないか…。)男の子はまた歩き出しました。すると、夕陽に染まった草原の遠くで、イタチがすっくと立ち上がりました。こっちへおいで。イタチは無愛想に言いました。そしてイタチは夕陽の方へと走り出しました。男の子は思いました。(結局、何て呼べばいいのかな?)。


イタチのあとを追って、男の子は歩きました。ずうっと歩いてゆくと、海までたどりつきました。もう日は暮れかかっていました。波は荒く、風も強く吹いていました。イタチと男の子は浜辺で立ち止まり、沈んでゆく太陽の名残に目を預けていました。
「ねえ、ところでキミは一体何なんだい?」男の子は尋ねました。
「ネコじゃ」とイタチは自慢げにいいました。
「こんなネコがいるもんか」
「じゃかあしい、このボケぇ」イタチは男の子に飛び掛り、膝を引っかいたり脛に噛み付きました。「わしはネコじゃ、ネコと呼べ!」
あばれるだけあばれると、イタチは草むらの方へと飛び跳ねていきました。男の子はひとりぽっちで残されて途方に暮れました。暮れなずむ空を見上げると、コウモリのような黒い影が旋回しているのが見えました。その物体は急激に加速して男の子のすぐ側に落ちました。落ちて来たのは飛んでいった洗濯石鹸の箱で、模様はトランプの絵柄になっていました。男の子はびっくりしてへなへなと砂浜に腰を下ろしてしまいました。


途方に暮れた男の子は、トランプの絵柄になってしまった洗濯石鹸の箱に囲まれて砂浜にしばらく座り込んでいました。あたりは次第次第に暗くなっていきます。男の子は、のぼってきた月、光り始めた星、そして遠くの灯台の明かりをたよりに、トランプ模様の箱を並べてシチナラベをしました。しているうちに、トランプの数字が気になり始め、箱を順番に並べてみました。並べているうちに箱は規則性を取り戻し、男の子は、砂浜に箱でお城を作り始めました。手馴れたことだったので、お城は簡単に出来ました。男の子はお城の中に入ってじっとしていました。淋しかったけれど、そこが一番居心地のいい場所に思えました。
すると、箱の隙間からさっきのイタチが入ってきました。イタチは口の端から真赤な血をたらしていました。
「あ~あ、喰った喰った」イタチはごろりと横になり、お城の中を見回しました。「なんじゃ、これは」イタチはハートのエースの模様の箱をパシッと叩きました。「こんな数が役に立つとでも思うてか、ぼけ」
イタチが叩くと、ハートのエースは消えてしまい、元の洗濯石鹸の箱の模様になりました。
「それに第一、数が全部そろってないやんけ!」イタチは箱をバシバシと叩きました。その度ごとに箱は元の模様になりました。
「こんなもん!」イタチはキングの髭やクイーンの唇に猫パンチをかましました。「わしがぶち壊してやる!」
箱のお城はたちまち壊れてしまいました。
「やめてくれよ!」男の子は堪忍袋の緒が切れてイタチを突き飛ばしました。
「わしが何か答えてみい!」イタチはキーキーと悲鳴をあげながら男の子を引っかきました。男の子は大声を上げて泣き、イタチは飛び跳ねていました。やがて、男の子は泣き疲れて静かになり、イタチもくたびれて大人しくなりました。あたりは静かです。イタチは男の子の膝の上に乗っかって丸くなりました。
「本当は僕にもわからないのだ、自分が何か、わからないのだ」イタチは呟きました。


イタチは男の子の膝の上で眠ってしまいました。男の子は困りました。けれども男の子は、イタチの背中を軽く撫でました。すると、砂浜に転がっていた洗濯石鹸の箱が、さらさらと音を立てて滑って来ました。男の子がもう一度イタチの背中を撫でると、また箱が近付いてきます。楽器を演奏するようにイタチの背を撫でると、やがて洗濯石鹸の箱が自然に組立てられて城になり、男の子とイタチの周りをぐるりと囲みました。夜はますます深くなり、あたりは寒くなりました。お城の窓から寒々とした光を称える星たちが見えました。潮が満ち、ヒトデたちが海岸に集まってきたようです。ヒトデたちはお城を囲み、プチプチと泡がはじけるような声で歌い始めました。


「お前だけが幸せだと、昼間の犬が牙をむく。お前だけが不幸でも、月見草は憐れんでくれない。憐れなお前。お前だけ幸せだんてありえない。お前だけ不幸だなんてありえない。夜光虫は暗闇に追われている。」


男の子は不気味で泣き出しそうになりました。イタチはすやすやと眠っています。「ねえ、きみ」イタチの背を揺さぶりました。
「やかましい!」イタチは怒って男の子の手を噛みました。
「自分の名前も知らないくせに」男の子はそれでもイタチの背を撫で続けました。「ぼく、不幸なんかじゃないのに、なんでヒトデはあんな歌を歌うんだろう。大きなお世話だ。何か勘違いしてるのかな?」。
夜の浜辺は様々な音に満ちていました。男の子は、夜の海に広がる音に耳を澄ましながら、やがて眠ってしまいました。


そして太陽がさっとシーツをひるがえしてベッドから出てきました。朝がきたのです。あたりは静まり返っていて、もう夜はそこには欠片も残っていませんでした。本当に急に朝はやってきました。再び朝が、やってきました。洗濯石鹸の箱と箱の隙間から朝日が差し込み男の子は目を覚ましました。いたちを揺さぶりましたがなかなか起きようとしません。何度か揺さぶると、ようやくいたちは薄目を開けました。
「朝だよ、きみ、もう起きなよ」男の子は優しくいいました。
「うるっせえなあ、親でも女房でもねえのに起こすんじゃねえよ」いたちは不機嫌そうに言いました。
男の子は、いたちの口が悪いのは決して悪気があってのことではないのだと気を取り直しました。きっと、猫に生まれ損ねて腹を立てているんだ。男の子はそう思いました。
「ねえ、きみ、きみが一体何だか知らないけど、ところで僕たち、これからどこへ行けばいいのかなあ?」
「ん?」いたちは首を起こして城の中を見回しました。「やけに暗いではないか。カーテンくらい開けんかい!」
いたちはお城の壁を叩きました。するとお城は崩れてしまい男の子といたちは朝の輝かしくて透明で何の重さもない光、清廉で尖っていて鋭いのに痛くも痒くもない光に包まれました。太陽は空の高いところへと昇ってゆきます。男の子は光に輝く海の表面を呆然と眺めて途方に暮れました。
「ねえ、きみ、これからどこへ行こうか。ねえ、きみ、見てごらん、海の向こうがキラキラ光っている。あそこまで行ってみたいなあ」
「行けばええやんけ」といたちはぶっきらぼうに言いました。寝起きで機嫌が悪かったのです。
「どうやったらいけるんだろうねえ」男の子は水平線を見つめながらうっとりとしています。
「これでイカダを作れ」いたちは洗濯石鹸の箱をぼこぼこと叩きました。
「そうか、それは名案だね」
男の子はあたりに散らばっていた洗濯石鹸の箱を組み合わせてイカダを作りました。
「でも不安だなあ。こんなイカダであの向こうまでいけるのかなあ」
男の子は躊躇してしまいました。けれども男の子は他に行くべき場所を知りません。どうしてここまで来てしまったのかさえ、もう思い出せませんでした。男の子はイカダを波打ち際まで運び、いたちを振り返りました。
「君は来ないの?」と男の子は尋ねました。
「わしは泳げぬのじゃ! だから行かん!」いたちは叫び、あたりをぴょこぴょこと跳ね回りました。
「淋しくなるなあ」男の子は泣きそうな顔をしました。
「じゃかあしい、とっとと行け! このオタンコナス!」。
いたちがそんなふうだったので、男の子はひとりでイカダに乗って海へと出ました。
イカダが岸から離れようとした瞬間、いたちがものすごい勢いで飛び乗ってきました。
「どうしたんだい?」
「やっぱりわしも行くのだ!」
それからいたちは肩を落として男の子の足に擦り寄りました。「疲れた」いたちはそう言って男の子の膝の上に丸くなりました。


いかだは勢い良く海面を滑りました。岸を離れ、沖へ沖へと進みました。きらめく波光を追いかけるように。どこまで行っても海はきらめいていました。空は青く、雲もありませんでした。海はきらめいていました。どこまで行っても。

それから男の子は、きらめきに包まれ、長い長い旅に出かけました。何を探しているのかもわからないまま、何かを探して。何を探しているかなんて男の子にとって重要ではありませんでした。男の子は「何か」を探していました。そしてイタチといっしょに探そうと思いました。自分の身分すら知らぬイタチと。イタチは自分がなにものか知りたかったでしょうか。知りたかったでしょう。でももう良いのです。水平線がどこまで続くか追いかける旅が始まったのだから。


この物語は、これでおしまい。

(Webサイト調香室で公開していた童話です。)