あばずれ

 一九九六年のとある夏の夜、とある場末の小汚いバーのカウンターで、君と出逢った。七月だっただろうか。たぶん、そうだ。確かなのは、私たちにいちばん似つかわしくない季節だったということ。まだ耐え切れないほど暑い盛りではなかったはずだ。気怠るいほどの盛りでは。それとも、そう感じたのは夜だったせいだったろうか。

 終電がなくなり、人気がなくなり商売っ気をなくしてしまったあのバーの奥で、バーテンダーに紹介された。「ろくでもない者同士よ。仲良くおなりなさい」。君は魔女のような黒づくめの装いで、私は仕事帰りのいでたち、スーツにネクタイ、半袖のシャツはストライプだった。紺地に白い水玉模様のネクタイは、泣き虫Tと恋人のKが誕生日にプレゼントしてくれたもの。当時は気に入ってよく身に付けていたものだった。

 どういったいきさつで紹介されたのか、思い出せない。君は、私の飲み物がトマトジュースかと尋ねた。ウォッカを割っているのだと、私は答えた。

「あら、流血女王ね」君は言った。

 君はあの晩、ジンをロックで飲んでいた。ものすごい勢いで。

 正面の壁は鏡張りだが近眼の私には二人の姿の輪郭線しか見極めることが出来なかった。そこで横に並んで座っている君に目を向けじっくりと眺めた。なんて綺麗な娘だろうかと感嘆し、まだ若かったのにすっかり老け込んでしまったかのように感じてしまった私。こんな小娘は少しいびってやった方がいい。最初から私はこの娘が気に食わない。

「ここに来るのはひさしぶりなの。ちょっと事情があって来れなかったのよ」

 君は秘密めかした微笑を浮かべた。私はスーツの上着を脱いだ。ストライプのシャツと暑気に緩めたネクタイが露わになる。それから袖の下の腕が。私は、ご無沙汰していたわけを尋ねた。

「入院していたのよ。あんな所に閉じ込められていたら本当に頭がおかしくなってしまうわ」

 君はジンのロックにストローをさして吸っていた。私はブラディー・メアリーのグラスに指を浸し、赤い液体をすくってなめて見せた。

「女の悲鳴が目覚し時計なのよ。毎朝、決まって六時半」君は続けた。「それからあとは、することがなくなってしまうの。一日中、廊下の端から端を行ったり来たり。スリッパを履いてね」

 君は、一方的に喋ってゲラゲラと笑った。体をのけぞらせ、椅子から転げ落ちそうになった。私も一緒に笑ったが、まださほど酔っていたわけではなかった。頭の片隅で、下世話な役割をまっとうしなければならないと感じた。この娘は喋りたいのと同じくらいに尋ねられたい。私は、精神病院に入院していた理由を尋ねた。

「警察の手違いよ。あたしはまともよ」君は笑った。

 君は、傷だらけになってしまった手首について話した。死にたい、とかとはちがうのよ、血を見ると落ち着くの。真夏だというのに、長袖の黒装束で君は腕を隠していた。胸の方ははだけているというのに。その傷を見せてみろというほど、私は不躾にはなれなかった。それから後も、一度も要求したことがない。ひとつ打ち明けるなら、手首の傷なんて、ぜんぶ君がでっちあげた嘘っぱちだと疑ったことはある。

 冷房の効きが悪くて店内は蒸し暑い。もう真夜中だ。私は背中に痛みを覚え始め、姿勢を崩す。君も低い姿勢になっているが酒を飲むことはやめない。グラスが空になってしまうと、さきほど私にこの小娘を押付けたバーテンダーがやって来て、酒を作った。それから仕事を終えると素知らぬ顔であちらに去っていった。君は酔ってわけがわからなくなってしまい、取りとめもない話をし始める。たとえば入院中に親しくなったアッコちゃんについて。

「病院で唯一話の合う女の子だった。だけど本物よ、あれは。この間、アッコちゃんと二人でディスコに行ったの。アッコちゃん、学生の頃、器械体操をやっていたからやたらと動きが機敏なのよ。ほら、あたし昔そこでDJやってたからさ、あたしの顔で『フラッシュ・ダンス』を掛けてもらったの、アッコちゃんがどうしても、って言うから。そしたら顔なじみのDJが律儀にイントロから掛けてくれてさあ、あの、チャーチャララーってところから、そしたらアッコちゃん、大喜びでフロアに駆け込んでいって、いきなりトンボ返りしたのよ。それから最後に何をしたと思う?」

「DJブースに向って指差すの、映画みたいに」。

 私たちは、体をのけぞらせて笑った。笑いながら君は私の体にしなだれかかり、私は女の髪の毛が鬱陶しくてたまらない。君はやたらと私に触れた。それから笑い飽きると、私たちは酒を飲んだ。もう、ずいぶんと酔い痴れていた。君は急に話題を戻した。

「アッコちゃんからこの前、電話があったのよ。やっと退院できたって。それで、電話で言うの。まんこに甘栗が生えてきたから、ハサミで切り取っちゃおうかなあ、って。甘えたような声で。もう少し成長してからの方がいいんじゃない、と言っておいたわ」

 君は何もかもを茶化してお笑い種にしてしまい、話を二転三転させるがキミ自身の本質についてはふれようとしない。それは私も御同様。

 時刻は一時を過ぎていた。ずいぶん長いあいだ喋っていたと感じたのだが。私は酔い過ぎてしまっていた。頭が痛い。そろそろ切り上げたいと思っていたが君が私を放そうとしなかった。君はいつだってそうだった。帰りたがっている私に目を伏せる。君は喋り続け、きっと、それが私を手放さない手っ取り早い手段だと知っているのだった。

 冷房が壊れているのがなおさらで、不機嫌になる私。蒸し暑い。それにしても故障した器具の修理も頼まないで店を開けるという神経に腹が立つ。店主は入院中。酩酊して自転車に乗っていて、公衆便所の前ですっ転んで唇を擦り剥き出血多量で集中治療室に運ばれたのだった。店を任されたバーテンダーは素知らぬ顔で店主の怠慢さを嘆いている。君は酒を飲み、私も酒を飲む。飲めば飲むほど体は熱くなるばかり。あれほど酒を憎んだのに、大人になると平気で飲んでいる。へらへらと笑いながら、私はグラスを持ち上げる。しかもトマトジュースで割ったりなどしている。だけど、今でも二級酒のにおいには敏感だな。殺しきれずに死なせてしまった父、あの土間のすえたにおいを思い出す。少年時代に陰を落としたあの薄暗さ。母の前では決して酒を飲まない私。酒気を帯びた私に父の影を見られたりしたらと思うだけでもおぞましい。

 君は私の横でだらしなく喋りつづける。

 そんなとき、私は急に畏怖の念すら覚えるのだった。神々しさにふれてみたいような、けれどもどうしてだかイヤで。

 私は笑い飛ばす。そうしていないと抑制がきかなくなりそうになる自分を本能的に知っていたのだろうか。私は笑い飛ばす。そんなことありえない、私は人並みではありえないのだと。

 君は喋り続ける。

「十七歳のとき、ニューハーフ二人とマハラジャにいったのよ。ええ、三人とも女性料金よ」

 私は酔ってくらくらしているが、君が酔って目の焦点を失っていることくらいは見抜いている。私は見抜いている。薬をやっている目だな。しばしば客にそう言われるのだと、君は後に言ったことがある。酒を飲み始めてから一定の時間が経つと君は必ず意志薄弱な目になる。私に畏怖の念を抱かせ、知らず知らずに男どもを誘惑する上目遣い。

「十七でしょう、お酒にもまだ慣れていなかったし、ニューハーフがものすごい勢いで飲むもんだから、つられちゃってさあ」

 君はやたらと自分の髪の毛をさわりはじめた。

「酔っ払ってトイレに入ったところまでは覚えてるんだけど、そのあとのことが記憶にないの。たぶん、おしっこするときにパンツを下ろして、そのあと上げるのを忘れちゃったのね」

 八年前、とある明け方、とある駅のそば、とある主婦が、妙な三人組の女がフェンスにもたれて眠りこけているのを発見した。両端の二人は女にしてはやけに体のつくりがごつく大柄だ。真中に挟まれている女は小柄で、化粧のはげかけた顔はよくよく見るとまだあどけない。そんなことよりも、その主婦の目を奪ったのは、少女が膝まで下着をおろしているという光景だった。ミニスカートの中がぜんぶ見えている。

「恥ずかしいたらありゃしない、まん毛、見られたなんて。あれ以来、パイパンにするようにしたわ」

 それから君は、出かけるときは下着も身に着けないのだと、ニヤリと笑った。

 八年前、電車が走り始めたばかりの駅の側でその光景を目撃した主婦は、警察に通報した。少女はだらしなく眠っているが愛らしい。もしかして私の住む町に何か物騒な事件でも起こったんじゃないかしら。それとも、小娘が癪にさわっただけか。駆けつけた警官はその姿態を直視できずにオロオロとした。とにかく、こんなに若い娘の痴態をさらして放置しておくわけにはいかない。とにかく、何かで人目から隠さなければ。

「死体を包むビニールシートよ、よりによって。失礼ったらありゃしないわ」

 少女は、下着を膝までおろしたままの格好で青いビニールシートにくるまれ、パトロールカーの後部座席に横たえられた。少女と川の字に寝ていたニューハーフも揺さぶり起こされ、警官から簡単な質問を受けたあと、パトカーに同乗して道案内をするよう求められた。片方のニューハーフはかろうじてバックシートに乗ることが出来た。

「ハイヒールを両手に持って、パトカーの後ろを走って付いて来たんだって」君は笑った。もう片方のニューハーフは車に乗れなかったらしい。

「警察がお母さんに、暴行を受けた形跡がないか確認して欲しい、って頼んだらしいの。お母さん、それだけはカンニンしてください、だって」

 私は訊きたがり屋のように、どうしてニューハーフとつるんでいたのか質問した。君は、高校に行かなかったから他に友達がいなかったのだと言った。

「走って付いてきた方のニューハーフとね、夜道を歩いていたのよ。別のときの話だけれど。そしたら前をOLが歩いててさ、ニューハーフが、お~い、って低い声で呼ぶのよ。OLが振り向いても女の姿しか見えないでしょう、首をかしげていたわ」

 私には、今の私たちにとって質問と解答だけが二人をつなぐものだと思え、どうして高校に行かなかったのかと質問をした。嫌な役回りを押付けられたとは、思わなかった。君は、中学校でイジメにあったのでもう学校は懲り懲りなのだと答えた。君は集団リンチにかけられたのだと言った。私は、私も集団リンチにかけられたことがあると嘘をついた。

 そろそろ限界だ。酔いのせいで頭がずきずきと痛み始める。もう切り上げたいと私は望んでいる。私は何度も時計を見る。幸か不幸か、あまり針は進んでいない。会社帰りに何となく立ち寄った酒場で、ろくでもない女につかまってしまったものだ。私は一体、こんなところで何をやっているのか。私は今日という一日の不運を恨めしく思う。自分で稼ぐようになってからもう何年も経つというのに、祖母はいまだに、悪い友達とつきあっちゃあだめだよ、と言う。どれが良くてどれが悪いんだか。そんなことがわかっていたらきっと、もっとうまい具合にやって来たはずの私。ただひとつわかっているのは、このろくでもない酔いどれ女ともつれあうように酒を飲んでいる姿をおばあちゃんが好ましくは思わないということ。私は祖母の言いつけに背きつづけてきた。後ろめたいと感じたことはないけれど、何となく引っ掛かることがあるのも否定は出来ない。今宵、この酔いどれ女につかまってしまった私は不幸だ。顔が綺麗なだけの頭のおかしい女。私にはきっと、他にやるべきことがあったはずだ。けれどそれは何?

「イジメの記憶って、生々しいのよ」君は喋るのをやめない。「まるで昨日のことみたいに忘れられないの」

 私はその意見には同意する。あの、今日で世界が終わってしまうんじゃないかと怯えるような。私たちはそのことについてしばし語り合う。幼い頃は、何だって世界の終わりに思えてしまったものだった。深夜に家を抜け出したのを親に見つかったりとか、中学生のとき、担任の教師に指導室に呼ばれていたずらされたり、そんなことが。

ある晩、私は街角で中学校のときのある教科の教師と出くわした。先生ではなく教師と呼べるようになるまでにどれだけ時間を要したことか。私は逃げ出してしまおうとした。教師は私を呼び止め、あの時はすまないことをしたと謝った。それから二人でカフェのテラスに座り、世間話をした。彼は昔話をし始め、し始めるともう昔話以外は話せなくなってしまった。私は、もうあの頃の話はしないで欲しいと請うた。僕がした仕打ちのせいか? 彼は尋ねる。私は否定する。ううん、あの程度のこと、もっと酷いこと、たくさんされたから。私は笑った。口封じに、「あいつは性悪の嘘つきだから、あいつの言うことは信用するな」って学校中にふれて歩くなんてね、担任だった××先生。あの先生のこと覚えていますか? あなたよりももっと卑劣な手を使って僕に触ろうとしたんですよ。そして、生徒に性的な虐待をしようとして失敗したことを、卑劣な手段で塗りつぶしたんですよ、可哀相な人。生徒のことを嘘つきのおかまだってふれ回ってさ、自分のこと、ばれたくないもんだから。私は笑った。彼は、大体の察しはつく、キミがそんなふうな言われ方をしていたのを聞いていたから、と言った。私はこれ以上のことを公表しない。

 その晩出くわした教師は、再び昔話を蒸し返した。何度私がさえぎっても、何度でも蒸し返した。二人は過去のことしか話せないとわかったので、私は就職の内定をもらったばかりなのだ、今は新しい仕事のことしか考えられない、と告げて会話を打ち切った。教師はおめでとうと言ってくれた。

 君と出逢った晩も、私は転職したばかりだった。私は既に、希望を持っていなかった。絶望も見出せず、ただ無感想だった。きっと私は何をやっても長続きはしないのだろう、そう思っていた。何をやっても私はそこそこなのだろう。多少の浮き沈みを経験するだけで。たいしたものに、なれやしないんだ、私は。

 そんな晩、環太平洋をおおう猛暑の最中のある晩に、君とめぐり逢った。けれども、こんな話をこの女にしたってわかるまい。こいつにはわからないだろうな。だから私は何も言わず、女に喋らせておいた。

「高校にはいかなかったけれど、調理専門学校にいったのよ。そこにイカス男の子がいたの。休憩時間になると、黒板で作曲するの。それも、音符じゃなくて、ルルルルラ~とかカタカナで書くのよ」

 君は笑った。私も笑うが、もうそろそろ本当にだめだと感じている。うんざりしているわけではない。疲れがひどいのだ。

「あの子がノートに作曲したやつ、コピーとっておいたから今度見せてあげるわ」君はジンを飲み続けていた、ストローで。「ビデオも撮ったわよお、歌ってるところの。いじめられてたわねえ、あの子。いつもそんな調子だったから。かばったあたしまでいじめられたものよ」

 具合が悪くて仕方がなかったが、喋りたがり屋の私はがまんができなくなり、ずっと前に勤めていた会社の正面の席に座っていた分裂症の男について話した。突然、パンって手を打つんだ。だ~れが殺したクックロビン! 君を笑わせながらも、どうやってこの場から逃げ出そうかと私は画策していた。もう電車なんてとっくに終わっている。タクシーで帰るか、この頭のいかれた女に朝まで付き合わされるか、二つに一つだ。いや、選択肢はいくらでもあるんじゃないか。

 話はしばしば途切れそうになるが決して尽きたりはしなかった。君の語り口は私に漠然とした不安を感じさせた。君は私の体に触れる。私は不安になる。体が熱くなる。ストローでジンを飲む君を笑い飛ばすが不安をぬぐいきれずますます不安になる。私は横目に君をいやらしく見る。そして私の欲求がどこにあるのかをすぐにわかってしまう。この足が、すべてを心得ている。

 女がトイレに立った。今しかない。私はスーツの上着に袖を通し、バーテンダーに勘定を催促する。バーテンダーは私を引き止める。せっかく素敵なあばずれを紹介したのに、このまま帰るだなんて承知しねえわよ、と。意地を張る私。今すぐに帰らなければならない、のっぴきならない事情があるのだと主張し、彼女によろしく伝えて欲しいと立ち上がる。バーテンダーも引き下がらない。絶対に返さねえわよ、と譲らない。しばらくのあいだそこで押し問答が繰広げられた。そうこうするうちにお便所の扉が開き、君が足をもつらせながらこちらへ戻ってくる。

「あらあ、どうしたの?」

 私は、これから出掛ける用事があるのだと告げた。真夜中の二時半。

「そう」彼女は引き止めなかった。

 君はカバンの中をごそごそと探り、メモ用紙を取り出した。それからしばらく焦点の合わない目を空に投げていた。そうかと思うと、突然、私の方に秘密めかした視線を向け、まるで誰にでもするかのように、紙に電話番号を書いて私に渡した。要求されたわけでもないのに、私はその紙の端を破り、自分の電話番号を書き付ける。ナンバーを書いている間、祖母の言い付けが酔いで痛む頭の中を駆けめぐる。何なんだろうな、この罪の意識は。けど、そんなの慣れっこだ。私はもう大人なのだ。そう言い聞かせながら、君にメモを渡して背を向けた。一度背を向けると、もうふり返らなかった。扉を出るとすぐ、君のことを忘れてしまった。頭痛だけが離れずに付いて来た。私は夜の都会に飛び込んでゆく。この足が欲望のありかをいちばんよく心得ている。自然から最も遠く切り離されて孤立しているようだがその実自然の手のひらの上にある都会。私は夜、そう感じる。そう、特に夜に。

 私は何かと知りたがる性質ではない。私は知りたがり屋じゃない。これから何が起こり何に見舞われるか、瞬きするたびに向こうの方からやってくる、私は新しい世界を知ってしまう。私は周囲の人々を支配したりしなくていい。私が支配したいのは、どこかにきっと本当の自分がいるだろうなどと探してしまう架空の尋ね人なんて打ち捨ててしまい、絵空事でもいいから私だけの足跡しか残らないマウンテンの頂上。私は常に孤独な荒野に立ちすくみ、誰もいない空間で王子様気取りでいる。あの、洗濯石鹸の箱の城のような、風が吹けば壊れてしまうけれど風の吹かない壁の中。矛盾しているだろうか、それでも私は暗闇の中にいる自分を手探りで探そうとしている。そのような欲望を持ちつつ、閉ざされた空想世界のディテールのつじつま合わせに力を注いで胸の奥の水圧を抑制している。誰だってそうなんだと思う。君もそうなのか。本当はね、なんて言いわけはしたくない。私は痺れを切らしている。特に夜になると。私は乱すのが好きで乱されるのがキライ。乱されたいくせに、乱されることが上手でない。嘘を憎んでいながら嘘に魅了されている。

 私は君からの電話を怖れていた。そう、怖れていたのは私だった。私は君に乱されてしまう予感にたじろいでいた。無防備だったのは君のほう。一週間後、君のほうから電話を寄越してきた。

「オカメインコなんてかわいそうな名前よね。まるでクサレマンコじゃない」

 君は一円の得にもならないことを喋り散らしてはゲラゲラと笑う。一円の特にもならない戯言が私を笑わせ、深夜の笑い声の不気味さに恐れをなしたマンションの隣人が引越しを決意する。事実、隣人は一週間もしないうちに引っ越してしまった。次に隣りの部屋に入った人はがまんしていてくれる。私はそんな隣人に恩義すら感じている。私たちはろくでもないことを三時間も喋り散らした。

 君は、白人の集まる酒場にいってみたいと言う。心当たりがあるので今度連れて行ってやろうと私は提案した。あら、オッパイがでかくてケツがぱっつんぱっつんのお色気ねえちゃんがいいのよ、あたしは。ビニ本のカバーを飾ってるような女よ。君は、独特のだらしない口調で説明した。ストリップのおねえちゃんもいいわ。ああいう女を見ると、無性にやっちまいたくなるのよ。私は、君のお眼鏡にかなう女がいるかどうかは定かではないが、とりあえず白人の集まるバーなら知っていると言う。あまり期待し過ぎないほうがいいと忠告する。

「次の土曜日はどうかしら」君は日取りを決めはじめる。「ああ、でも生理が来たらどうかしらね」

 君は、極端に生理が重く不順なのだと告白する。ひと月に2回来ることもあれば、いくら待っても来ないことがある。指を突っ込んでほじくり出したいくらいに苛立ち、そういう場合がもっとも具合が悪いのだと。ひとたび来てしまえばまだ多少は楽になるが、来ないときは豪雨の前に湿った空気が遠くからやってくるときの重苦しい気持ちで憂鬱になり、死にたくなる。

「血を見ると、気分がすぅーと楽になるの」

 今まさにその快感の中に浸っているかのような声色で、君は言った。手首を切り始めたのがいつ頃なのか、私は尋ねなかった。ごく自然なことだったの。ここにカミソリをあてれば楽になれると、不意に思いついたの。白い腕に赤い血がつたってゆくのを恍惚とした表情で眺める君の姿が電話回線を通して私の瞼に映像を映し出した。君は語り続けた。絶望が訪れるのはその直後なの。あたし、あと何年生きられるのかしら? 不安で不安で仕方がなかった。そんなときだった、覚醒剤を手に入れたのは。

「あれがバッグの中にあるとわかっているだけで、気分が楽になれるのよ」

 仕事に出るためだったのだと、君は言い訳した。覚醒剤がなければ家から出ることも出来ない、母親と、伝染病にかかった十匹の猫を養うためには仕方がなかったのだと、君は言い訳した。私は過ぎた日をとがめはしなかった。けれども君が警察に逮捕されたのはよかったのだと言い切れる。いずれはそうなるのだ、まだ、手を染めたばかりなのがましだったのだと。生まれつきそう体の強くはない君は、ある晩、覚醒剤の副作用で心臓発作を起こして救急車で運ばれた。命は取り留めたものの、覚醒剤の服用が血液検査の結果でわかった。病院はすぐに警察に通報した。警察は、君の傷だらけの手首を見て精神病院に転送する判断を下した。

「刑務所に入れられた方がましだったわ、あんなろくでもない病院」

 君は笑った。私も笑った。君は言った。安定剤を毎日三度口に放り込まれ、飲み下しているか口をこじ開けられて舌の裏側まで調べられたのだと。あの薬のせいじゃないかしら、あれから何だか変な感じがするのよ。私は、もう覚醒剤をやる気はないのかと尋ねた。君は、ないと答えた。

 後日の取調べで、君は覚醒剤の売人や仲介人をすべて警察に白状した。君は仕返しが怖いと言った。私は、その心配ない、すべてを打ち明けて正解だったのだと言った。そうね、警察も言っていたわ。上野で外人から買ったなんて嘘をついたらあとでとんでもないことになるぞって。

 私たちは、白人の集まるバーにいく約束をして電話を切った。電話を切ると、私は独りになった。ひとりになると、また苛立ちが私を襲う。憎たらしい顔が目の前に並び、私はやつらをどうやってへこませてやろうかとトリツカレタように策略を練る。私はどうにも止まらなくなり汗すらかいてしまう。自分が抑えられず、今にも何かをしでかしてしまいそうになる。本当は、私は自分自身に腹を立てていたのだ。

 約束の晩、私は君と知り合ったあのバーで君を待っていた。約束の時間の10分前に店に入り、流血女王を注文してタバコをふかして待っていた。21:55。時間までにあと5分あったが私はなぜだか落ち着きがなく、例のバーテンダーに尋ねてみた。あの女は時間を守る女かと。

「ああ、あの女? さっき電話があって、今日は来れなくなったから伝えてくれって」バーテンダーは素っ気なくいった。「あんた、さっさと帰ったら」

 あの手の女はやはり信用できたもんじゃない、まあ、最初から信じていなかったけれど。そう考えながらも失望を拭えなかった。私は人を待つのがキライ。来ないとわかればもうキライなことをしなくてすむ。私は席を立とうとした。ちょうど22時きっかり、入り口の扉が開いて君が姿をあらわした。それから店内を見回していた。茫然と君を見守る私。目が合った。君はしばらく私を見つめ、それから急にげらげらと笑い出した。私の顔を思い出せなかったと言いながら、笑い続けた。私は先ほどのバーテンダーとのやり取りを君に話した。

「あら、あたし電話なんてしてないわよ」

「だけど、そう言っていた」

 バーテンダーは店の奥、何食わぬ顔で洗い物をしていた。

「嫉妬だろうか」

「ばっかみたい」君は、彼を横目に見ながら笑いをかみ殺していた。

 私はもう一度、彼は嫉妬しているにちがいないと言った。

 君は笑う。

 君はジンのロックを注文し、持参のストローをバッグから取り出してグラスに挿した。私はこの店をひどく居心地が悪いと感じ、一刻も早くここを出たいと望んでいた。私は一気に酒を飲み干した。それなのに君はアルミのバッグからチュッパチャップスを取り出してなめはじめた。アルミのケースに描かれたペコちゃんは君の手で描き変えられていた。髭をはやし、白く塗りつぶされた目からは血が流れていた。今宵、君は胸の谷間に血まみれのキューピー人形を挟んでいた。頭と尻に釘をさし、目にマチバリを刺された、いい気味のキューピー。

「あたしの幼なじみの女の子がさあ、誰の胸を見ても、あれは豊胸手術をしてるっていうのよ。どう見たってしてないようなぺちゃぱいを見てもさあ、絶対、豊胸手術してるって言い張るの。下手に逆らうと反論がすごいのよね。人って、それぞれへんなこだわりがあるものよねえ。疲れちゃう」

「イズミちゃんは便秘になるとケツの穴に指をつっこんでほじくり出してるって言うし。3時間よ、3時間。あったまおかしいわよ」

 君はひとりで喋っては笑っている。私も笑うがさほど取り合わず、そろそろ場所を変えたほうがいいのではないかと提案する。けれどもここにいるのが居心地が悪いのだとは言わなかった。君ももう逆らいはせず、グラスに酒を残したまま立ち上がる。最後まで素知らぬ顔をしているバーテンダーに一方的な挨拶をして店を出る。

私たちは酔っているわけでもないのによたつき、道中、げらげらと笑いながら白人の集まるバーへと向う。錆びた階段をのぼる。壁には知性に欠けるだけの落書き。まるでお便所みたい。

 大きな花壺にやりすぎなくらい華美な花を生けたテーブルのある店。ここで、いくつもの新しい夜にめぐりあったものだった。

 店に入るやいなや、君は不平を言う。あら、いいスケがひとりもいないじゃないのよ。私は、いく人かの美しい白人を示し、ああいうのはどうかと尋ねる。君の耳元に囁く私の姿は指名仲介人にしては妖しすぎる。君はコールドビューティーは好まないのだと言った。あたしが好きなのはビニ本のねえちゃんよ、でかぱいの。

 私は心の中で腹を立て、この頭の弱い女には私とリサ・ギリヴレイの物語などわかりっこないのだと断定する。あの狂おしい一年半。打ちひしがれた少年の瞳のような、甘美で切ないクリスタルな日々。とめどもない嫉妬と渇望。私はまだ、そのことについては誰にも語ったことがない。このバーは、リサ・ギリヴレイとの物語が始まった場所なのだ。この過飾な花も、黄色い照明も。私は35歳になったら彼女との物語を書くだろう。私がそれを誓ったのはいつだったか。

 あの頃に比べると、この店の様相はかわった。何だか味気ないような。それとも、そう感じるのは単に私の日々が過ぎ去ってしまっただけなのか。確かに過ぎ去ってしまった、あの日々。私が打ちひしがれた気持ちになった唯一の。今は、満員電車のように店が混みあっているというのに、私にとってはもぬけのカラだ。リサがいなくなってしまった今となっては。恋を踊るフラメンコダンサー達もいない。恋ばかりを追うハレンチな輩もいない。くるおしさもはかなさも、どこにもない。でも、もういい。私の影はここにはもういない。彼女の影も。

 君はいつの間にかイタリア人の男をつかまえ踊っている。君は目で男をそそらせながら、笑いをかみ殺した顔で私の方を向く。

「ちょっとこの顔、おかしいったらありゃしない。鼻毛が素敵だわ」

 ロバづらのイタリア男は鼻毛ののびた顔をくしゃくしゃにして踊っている。君は手首に結び付けていたおもちゃのクシで鼻毛をとかしてやる。