海亀の眼

 彼はうつらうつらと居眠りをしていた。沈殿しつつある意識のどこかで、眠り込んではならないと強く自分に言い聞かせていた。だが抵抗不可能だった。睡魔は電車が始発駅を出るやいなや訪れた。屋根のないプラットフォームで長時間強い陽射しに当たっていたせいだろうか。古い車両の立てる振動音が、彼をますます深みへといざなう。そこから抜け出そうと頭を何度か振ってみたが無駄だった。時々、目を開いては正面の車窓をにらむ。サングラスを通して見ると色彩のコントラストが鮮明だ。陰影の濃い風景が目に飛び込むと、根拠のない不安感に包まれる。彼は立体感に欠ける景色の全体像を一瞬のうちに捕らえ、そしてまた引き込まれるように眠りにおちる。押し殺された町並の残像が瞼に焼き付いている。

 彼は電車のシートに背をもたれている。

 肩のそばに止まったガに、彼は気が付かないでいるのだろう。

 女は彼の横で足を組んで座っている。まったく赤の他人のような顔をして雑誌をめくっている。だが二人を結び付けて考えない者はいはしないだろう。

 身なりからして二人とも、地元の人間には見ない。二人ともサングラスを掛けている。

 台風が通過したあとの半島。晴天続きだ。気温が再び上昇し、学校は衣替えの時期を繰り延べにした。空は抜けるほど青く、陽射しは容赦ない。

 その空の真下を、恐ろしくのろい速度で電車が走っている。半島の形状に従って弧を描く単線鉄道。絶え間ない振動音が辺りに響き渡り、白昼夢を呼び寄せる。乗客は数えるほどしかいない。喪服を身につけた上品な白髪頭の老夫婦。電車を待つとき、彼方に見えた喪装の一行のうちの二人だ。前髪を汗でぬらした男子高生は半袖のシャツを着ている。買い物帰りと見受けられる小太りの中年女と、その隣りに座っている、煙草のヤニで歯が黄ばんだ亭主。人々の顔はみな潮風に焼けている。眼鏡を掛けた車掌の顔も同様。この車掌ときたら若いくせにやけに動作が緩慢だ。苛立たしいくらいに。しかし、この辺りにはそれしきのことで苛立つ者はいない。

 例の男女は後ろの方に座っている。いま、わたしたちが注目している男女のことだ。男の足の間には大きな革のトランクと、木製のフォールダウン式のテーブルが挟まれている。彼は腕を組み、小脇にはシャンパンのボトルを抱えている。栓の抜かれたシャンパンはもうぬるくなって気が抜けている。

 変化のない町並みが流れていった。

 いくつかの無人駅を通過すると、緩やかな勾配に差し掛かる。電車はゆっくりとくだってゆく。民家が姿を消し、田園が広がる。振動音は、その田園をなめて広がってゆく。かすかなカーブ。台風の爪痕があちらこちらに垣間見える。田畑は荒れ、黒土が豪雨の後でかたくなっている。空は巨大な質感を持っておおいかぶさっている。夏の終わりの光と影。昼下がりは完全に停止している。気だるさが、静寂を打ち破る振動音に染み入っている。その情景は平凡でいて際立っている。

 リサ・ギリヴレイは、雑誌から目を上げて辺りを見回し、それから隣りで眠っている男をはじめて眺めた。彼の首筋には強烈な陽射しが燃えている。彼女は彼の足を蹴り飛ばした。

「起きなさい」彼女は小声でそう言った。

 後藤直樹は言葉にはならないうなり声をあげ、だるそうに深いため息をついた。彼は頭をもたげて進行方向に視線を投げる。彼は眠っていたのだろうか。

 廃墟じみた昼下がりの町が前方に迫っている。田園を抜けると次の集落が待ち構えていたのだった。その手前には白いアーチの無人駅。塗りたての白いペンキが燦々と降り注ぐ陽光を反射して輝いている。

 電車は減速した。

 男が先に立ち上がる。まだ完全には眠気が取り払われてはおらず、足がふらつく。足の付け根にたまっていたパンツのヒダがするするとのび、そのあとにシワを残す。駅に入った電車は、一度大きく揺れてから停止した。リサ・ギリヴレイは、完全に停止してから立ち上がり、彼を追い越して先に下車口へと向った。後藤直樹には大荷物を運び出すという使命がある。彼は両手にバカンス用品一式をさげてよろよろと歩き出した。

 扉が音を立てて開くと、外の世界から透明度の高い波動が押し寄せてきた。外は真夏がぶり返したような暑さだ。二人は粗末な紙の切符を車掌に渡し、強い太陽の下へと始めの一歩を踏み出した。

 二人は黙ったままだ。とめどもなくクリスタルな感情が、胸に湧き上がってくる。

 電車が出発し、二人の背後を抜けていった。後藤直樹が振り返ると、遠ざかる車両の後部からこちらをうかがっている車掌と目が合った。よくあることだ。そういう視線にさらされるのには慣れている。線路が蛇行し、一車両編成の電車は姿を消した。尾を引いて消えてゆく音にも終わらない夏が漂う。

 リサは、つばの大きな麦わら帽をかぶりながら、白いアーチを通してゆるやかな下り坂を眺めた。

「来たのね」

「ああ」

 彼は荷物をコンクリートの上におろしてひと息ついた。

「何もかも去年と同じ光景だ」

「そうかしら?」

「何か変わっているかい?」

 彼女はしばらく坂道を見渡したのだが投げやりに言った。

「わからないわ」

 彼女はそう言ったあとしばらく黙り、そして唐突に歩き出した。アーチをくぐり、階段をおりてゆく。荷物運びを手伝おうともしない。陽射しの下で漠然とした不安が訪れたのはその時だ。ポケットからシガレットケースを出して煙草を吸う。彼のことを振り返ろうともしない。

 煙草のにおいが風を渡って彼の鼻をくすぐった。直樹は胸のポケットを手で探ったが、大荷物を運ぶことを考えて、やはりあきらめた。

 海のほうから、焼けたアスファルトの上を潮風が吹いてくる。

 二人は熱風に向って歩いてゆく。

 道沿いに民家が三軒ほど並んでいる。いちばん手前の家の庭の木陰では、年老いたシェパードが舌をたらして地面に這いつくばっている。見知らぬ男女にも吠えようとしない。三軒の民家を通り過ぎるとあとはもう建物がない。のろまな単線鉄道から見えた田園風景がずっと広がっている。砂防林までの道は長く曲がりくねっている。リサ・ギリヴレイは、彼が重い荷物と悪戦苦闘しているなどとは考えもせず、先へ先へと舗装の傷んだ道を進んでゆく。二人の間隔が次第次第に大きくなる。直樹には追いつこうという意思がなくなってしまった。リサの線の細い背中はとうとう道のカーブの向こうに消えてしまった。

 一瞬だけ風が凪ぐと、彼女が残した煙草のにおいがそこら辺に漂っているのがわかった。

 太平洋から湿った空気が運ばれてくる。風は強くなり、遠い彼方の空は霞んでいるようだ。重い荷物のせいで自然と顔が俯き加減になる。歩いているだけで汗びっしょりだ。彼はあえぐ。サングラスが滑ってずり落ちる。アスファルトは焼けて熱い。やっと砂防林に差し掛かった。木陰にはいると少しは涼しいが、体が熱をはらんでいて汗がどっと噴き出す。熱いのは発散されない体のほてりのせいだった。枯れ掛けた夏草が台風になぎ倒された様子が生々しい。辺りは不気味なほど静まり返っている。この先には本当に海があるのだろうか。

 空のかすみはますます濃くなったようだ。しかし海岸線は強烈な太陽にあぶられている。

 彼はひたすらに歩いた。物思いに耽っているのだろうか。それとも早く煙草が欲しいだけか。

 車の音が林の先を横切った。国道はすぐそこだ。砂防林を抜けると、水平線が突然目の前に広がった。彼は国道の前で立ち止まり、一旦荷物をおろして額の汗を手の甲で拭った。海のざわめきが聞こえる。サングラスを通すと霞んだ海も鮮明に見える。外洋の方から雲がやって来たようだ。後藤直樹は再び荷物を抱え、交通が途絶えた国道を、よたよたと渡った。そしてそのまま砂丘へと足を踏み入れ、海に向ってまっすぐに歩いた。

 背後で車の音がした。彼は砂丘をずっとくだっていった。波の音が次第次第に、よせては返すその重なりを増した。

 波打ち際。つばの大きな麦藁帽子をかぶった女が佇んでいる。雄大な海に対峙し、遠くの方を眺めているがかといってどこかに視点を置くというわけではない。視点を置くには海は大きすぎるのだろうか。ワンピースの背中が風に膨らんでいる。

 砂浜に波が打ち寄せては白い粉をふく。途方もなくそれを繰り返し、しばしば激しくおおい被さる。波が海へ返っているとは思えない。打ち寄せては砂浜で昇華してしまう、どこかへ。

 風が強くなった。雲がやって来た。

 後藤直樹は、砂に足を取られながらも女の背後までやって来た。トランクを引きずった跡が砂浜に線を描いている。

 海はまだ鮮やかさを失ってはいない。夏の終わりに色褪せてはいるけれど。

 リサ・ギリヴレイは微動だにせず立ち尽くしている。帽子が風に飛びそうだがかろうじて彼女の暗い髪から離れないでいる。

 海岸には他に人影はない。

 流れてやって来た雲は雨雲だ。

 彼女は振り返らない。彼は女の華奢な背中ごしに遠くの海を眺めた。女が眺めているのと同じ海を眺めた。視点を置くことはやはりできなかった。

 やがて、彼女は振り返って彼を見た。サングラスを少し下へずらし、砂丘の上に後藤直樹の体の線が描かれているのが不可解であるかのような表情をした。二人はしばらく見つめ合っていた。言葉はなかった。

 口を開いたのは女だった。

「来たのね」

 リサは、その言葉以外に選ぶ必要などないかのように、当然至極な顔をしてその言葉を口にした。

「ああ」男も同様な顔をした。

「あなたと二人でまたここに戻って来れるとは思ってなかったわ」

「どうしてそんなふうに考えるんだい。これからだって来れるだろう」

「さあ、どうしてかしら」彼女は口ごもり、目を伏せた。

「何だってそうだわ。続くことなんてありえないわ」

「続かずにいられることだってありはしないさ」

 男は一歩近付いて彼女の顔を覗き込んだ。彼女は顔を背けた。

「とにかく、あなたと一緒に来れたのね。再びこうしていられるのがとても嬉しいのよ」

 彼女の声はかすれ、潮風に流れて言わないも同じこととなった。

「ああ」彼は低く呟いた。

「ここには友達もいない。電話もないわ」

「誰にだって休息は必要だ」

「そうね。お祝いしましょう」

 二人は砂丘の中腹まで引き返し、平坦な場所を選んでバカンスの祝杯をあげることにした。後藤直樹はテーブルと椅子を砂の上に組み立て、道中彼を辟易とさせた革のトランクから、青と白のギンガムチェックのテーブルクロスを出して広げた。強風。彼はあわててシャンパンのボトルと一対のグラスを取り出し、それらを重しとしてクロスの上に並べた。テーブルクロスが風にはためく。ふたが開いたままのトランクに詰められた衣類も風になびいている。

 リサ・ギリヴレイは準備に手を貸そうともせず、遠くの空模様を不安そうに眺めている。

 彼は祝杯の支度をしながら、ときどき顎に手を当てて無精髭を撫でている。

 いまや太陽にも雲が掛かり、沖のほうから影が迫ってきた。海原をトンボでならすように。

 後藤直樹は椅子に腰掛け、リサには無断でシャンパンのボトルの栓を抜いた。その音に彼女は振り返り、無言で椅子に座った。彼は二つのグラスに琥珀色の酒をなみなみと注いだ。私は彼らを眺めている。二人はグラスをかかげる。

「ぼく達の遅いバカンスに」

「そして誰もいない海に」

 風の中でグラスの重なる音がする。私の場所までは届かない。二人は酒を飲んだ。彼女は手をかざして風をよけながら煙草に火をつけ、彼もいまさら思い出したように同じ事をした。

「誰もいない海に、か・・・」彼は呟いた。

「その方がわたし達にはおあつらえむきだわ」

 彼はしばらく黙り、リサが煙草を吸うしぐさを見守った。渇望していたはずの煙草なのに、彼自身はほとんど吸おうとはしなかった。かといって捨ててしまうわけでもなかった。

「まだ誰の足跡もついていない海ではなくて、人々の歓声が通り過ぎたあとの海が、かい?」

「台風が何もかも消し去ってくれたわ」

 女は酒をごくごくと飲み、煙草を吸った。それから思いつめたように顔をうつむけた。

「誰かがいたりしたら、わたしはどうすればいいのかしら」

「君は何も心配することはないさ」

 彼はそう言い、女の薄く貧相な唇を、サングラスを通して凝視した。日陰が足を伸ばして二人のすがたかたちをおおう。雲は頭上までやってきている。風が涼しくなり、辺りは暗くなった。リサは、サングラスごしに彼の視線を察し、顔を横に向けた。彼はまだ見ている。彼女はそれがいやだった。お願いだからよしてちょうだい。心の中でそう祈った。しかし直樹は、いまや影が差してしまったその唇を、残忍なまでの注意力で見守っている。意図はなかった。自然に目がいってしまっただけだ。その視線は彼女の胸をえぐる。彼女はふと目を上げて遠くの波打ち際に視線を送った。

 そのときだった、リサ・ギリヴレイと私の目が合ったのは。彼女は逃れるように訴えた。

「海亀が死んでいるわ」

 直樹は彼女のかすれた声に注意をそらされ、彼女が見ている方向に目を投げた。

「台風の最中に死んでしまったんだろうか。それとも逆さまになって起きれなくなったんだろうか」

 リサ・ギリヴレイは目を見開いた。彼女には見えていた。嵐の海中で息絶えた海亀が、何トンもの海のうねりに押されて岸辺に漂着するまでのすべての過程が。彼女の青い瞳は、私が海底で見たものを外側から眺めていた。サングラスは何の意味をも持たなくなっている。

 私は海亀の眼だ。逆さまになって死んでしまった海亀の眼だ。

「まるで本物みたいに死んでいるな。しかも逆さまだ」彼は呟いた。視線はずっと私に釘付けになっている。

「目は開いているのかしら」

 私と視線がぶつかっていることを知っていながら、彼女は言った。私は二人の方をみつめている。二人は逆さまに私の目に映っている。空はよく見えないが、今にも雨が降りそうなことくらいはわかる。もう辺りは真っ暗だ。

「かわいそうに・・・。海に返してやろうか」

 後藤直樹は椅子から腰を浮かせた。

「よして。無駄よ」

 彼女は小さな声で言ったが、そのあと急に苛立たしそうにシャンパンのボトルの首を掴んでグラスの上に傾けた。グラスとボトルがぶつかってかちかちと鳴った。彼女は震えていた。

「やっぱり海に返した方がいい」

 彼は立ち上がりかけた。

「よしなさい」

 彼女は厳しい語調で言い放ち、酒を一気に呷った。それから息を吐き出しながら周囲を見回した。

「わたし、ここは嫌だわ」

 リサ・ギリヴレイは乱暴にグラスを置き、立ち上がって私とは反対の方角へ歩き出した。バランスを崩したグラスがテーブルの上に転倒してクルリと半円を描いた。彼はグラスを起こそうとはせず、その運動を見守っていた。

 とうとう雨が降り出した。大粒の雨がポツポツと砂丘に落ちた。リサ・ギリヴレイの麦藁帽子は風にさらわれた。砂浜の上で円を描く帽子。後藤直樹は彼女が倒したグラスにしばらく呆然と目をあずけていたが、やがて意を決し、自分のグラスの中身をあけたあと、紳士らしく席を立った。白いパンツに両手を突っ込み、落ち着いた足取りで彼女のあとを追った。

 私の視界にはもう彼女の姿はない。ゆるやかな勾配の砂丘にぶら下がる、天地反対の男の歩行が映るだけだ。筋肉の張った背中が遠ざかってゆく。どことなく悲しげな背格好だ。男の後姿も、やがて砂丘の稜線の向こう側に埋もれて消えてしまった。

 強い風が吹く。テーブルクロスがひるがえってボトルとグラスをおおい隠す。私の中ではためいている。後から慎重に置かれたもう片方のグラスも倒れてしまった。口を開けたままのトランクに雨が降り注ぐ。雨が降り注ぐ。

 砂丘に打ち捨てられた麦藁帽子を、後藤直樹は拾い上げて無造作に胸に抱える。波打ち際には女がいる。サングラスのレンズに水滴が筋を引いている。彼女はサングラスを外す。海と空の色が彼女の瞳を灰色に変える。彼女は海と対面したのだった。

 海には様々な側面がある。それらをいちいち並び立てることを私はしない。

 灯台の方から激しい雨がやって来た。雨足は急激に強くなり、土砂降りになって海岸を黒く染めて渡った。海と空との境界線は瞬時に喪失した。

 彼はようやく彼女の真後ろまでたどり着いた。肩に手を掛けようとするが躊躇して腕が上がらない。彼は代わりに、声を絞った。

「リサ」

 彼女は聞いていない。彼女は震えている。

「リサ」

 狂おしいほどの感情が押し寄せ、彼は彼女の体を乱暴に反転させて抱いた。

「わたし、ここは嫌だわ」女は泣いているのか雨に濡れているのかわからない。

「さあ行こう」

「嫌なのよ」

「だから、行くんだ」彼はますます強く抱きしめた。

「どこへ?」

 女の震えは止まらない。もう二人ともずぶ濡れの犬になっている。

「ホテルへ。あのホテルだ。さあ、帽子を被るんだ」

 後藤直樹は彼女の頭に帽子をのせ、上から強く押さえ付ける。女はされるがままになっているが震えだけは止まらない。彼は彼女が錯乱しはしまいかと怯えてもう一度強く抱きしめる。他にするべきことが思い当たらなかった男。

「車を探そう。ぼくは引き返して荷物をまとめてくる。君は国道に向って歩くんだ」

 彼は砂防林の方を指差した。彼女は不安げに彼を見上げた。

「何も心配しなくていい。すべてぼくがやるから。さあ、歩くんだ」

 彼は彼女の両肩をうしろから掴み、国道の方へ体を向けさせた。女は行こうとはしない。

「歩くんだ。この向こうに国道がある。もう帽子をなくすんじゃないぞ、さあ」

 麦藁帽子のてっぺんを軽くたたき、そして彼は女の背中を押した。彼女はぎこちなく歩き出した。それを見届けてから彼は走り始めた。何度も女を振り返りながら走っていった。

 私の中に男が飛び込んでくる。逆さまのまま飛び込んでくる。豪雨に打たれる男が駆け足で砂と水にまみれて霞んでゆくのを私は見ている。頬にまつわりつく水滴を、男は鬱陶しそうに払いのける。サングラスを外してポケットにしまう。濡れたパンツが太ももに張り付き、うまく歩けない。どこか内部へと吸い込まれてしまいそうだ。男はもう私の一部であり、私の内部だ。男は私の中でもがいている。灰色に染まりきった空と砂にはもはや区別がなく、男は私という灰色の液体の中で宙ぶらりんに泳いでいる。おそらく彼は、ホテルまでの長い道のりに絶望しながらも、これから女のために成し遂げなければならないすべての処理事項を頭の中であらかじめ箇条書きにしているだろう。男というものは、ことに女の前では冷静沈着にして用意周到であるべきだと教えられている。

 私にもおびただしい量の雨が降り注ぐ。彼は荷物をまとめて砂浜をあとにする。私から逃げきれるとでも思っているのか。

 私の中から消え果てしまった男は、重い荷物に肩を落として走っている。国道までたどりつくと、彼は左右を見回し女の姿を探す。雨のせいで開かない目を無理に開ける。リサ・ギリヴレイは、雨の中、国道の端に佇んでいた。直樹は胸を撫で下ろし、もう一走りして彼女のもとへ駆け寄った。彼はあいた手で彼女の肩を抱き寄せたが、何も言いはしなかった。言葉は無意味だとわかっていた。とにかくこの女をホテルまで連れて行かなければ。途方に暮れてはいたがまだあきらめていはいなかった。少し待って車が来ないようなら、電話でタクシーを呼べばいい。駅まで引き返して列車を待ってもいい。一時間に二本しかないとはいえ、とりあえず雨宿りをする屋根にありつける。

 後藤直樹は、国道の果てに目を凝らした。豪雨で視界は悪く、目にも水が流れ込んで痒いような痛いような。それでも遠くから二つのヘッドライトが近付いてくるのがわかった。車が来ている。車が来ているのだ。直樹は祈るような気持ちで片腕を上げ、車が来るまでそのままの姿勢を保った。車は徐行し、直樹の目の前で止まった。助手席のウインドウがおり、若い女が顔を少しだけ出した。

「どうしました?」

「タクシーだと思って」後藤直樹は言い訳した。

「どうぞ、早く」

 女はいい訳には答えず彼を急かした。今思えば、これがはじまりだった。この女は二人の男女のすべてを見透かしていたのかもしれない、すでにこのとき野心を抱いていたのかもしれない。

「助かります」

 豪雨が熱気を一掃した国道。後藤直樹は、連れの女の方を抱き、ずぶ濡れのまま車の後部座席に転がり込んだ。水を含んだトランクも一緒に。直樹は即座に運転手を見た。男だった。そのときは、その判別以上のものは見ないでいた。

「恐縮です。シートをぬらしてしまって」

「心配なさらないで。それにしてもすごい雨ね」

 思いがけない通り雨を共有しているという意識のもとに、夫人はすぐに打ち解けた口調になった。

「ほんとに助かりました。タクシーが来なくて」

「いつまで待っても来やしませんよ」

 若い女は振り返って微笑み、放心したリサ・ギリヴレイをちらりと見たがすぐに見なかった振りをした。

「どちらまで」

 運転手の男はルームミラーに目を投げ、事務的に質問した。

「ずっと先の白いホテルです。そこの灯台を越えた、もう一つ先の丘の」

「あちらにはホテルは一つしかないはずですから。お送りしますわ」

「すいません」

「どうせ同じ方角ですから、構いませんよ」

 夫は丁寧だが冷淡だ。

 激しい雨の中、車が滑り出す。水浸しの国道がタイヤにかき回されて濁音を立てる。シートの合間から、日に焼けた運転手の腕がギアを操るのが垣間見える。都会の男の肉感をもった腕だ。

「旅行中ですか。地元の方には見えませんね」

 そう言った妻も地元の人間には見えない。

「ええ、そんなところです」

 後藤直樹は必要最低限の返答にとどめ、リサの横顔をうかがった。彼女は何も見ていないかのように進行方向に目をあずけている。

「私たちは祖父の法事に帰える途中なんですよ。私の父方の祖父なんです。ついでに二人で休暇を取って、二、三日ゆっくりするつもりだったんですけど、来たそうそうこの雨で。でもすぐにやむでしょうね。あなたがたは東京からですか」

 助手席の女は少し振り返り、後藤直樹だけを話し相手にしているように振る舞ったが、もう一人の女のほうも盗み見ていた。感じがよく幼い顔立ちだが直樹と同じ年の頃だろう。

「ええ」

「それじゃあ一緒ですね」

「そうでしたか」

 車は丘をのぼり、最初の灯台を通過していった。