文芸作品「破壊」

作・リュッツォ

 

 厳島へと渡るフェリーボートの客室に座っていた十六歳のわたし。瞼の裏側に今でもありありと思い描けるあの時の光景。フェリーボートの航跡はしだいに暮れなずむ闇に呑まれ、故郷の宵に波が散ってゆく。船の跡に残る木賊色の波が、宵闇の中で暗緑色の海に翻っては戻ってゆく。島は端然と佇み、夕暮れ時の森は全体的に影を帯びてより鬱蒼と見える。

   宮島口から厳島へと渡るフェリーボートの船着場は、大晦日の夕暮れになると観光客の人だかりで混雑する。あの周辺地域にはよそ者をよそ者だと呼ぶような地域性はなく、来るもの拒まずで迎え入れていた。そして旅人たちの方でも、ただ旅人であればよかった。きっと、厳島が持つ厳かさ、人を敬虔な気持ちにさせる厳かさのせいだ。人々に許されるのは、ただ口を噤んで旅を続け、時々旅の土産話しを交換することだけだ。

 厳島は海の上に凛々しく正座してして、誰をも迎え入れてくれる懐の深さを持っている。こちらから会いに踏み込んでゆく、というよりも、あちらの方で海の上に正座して待っていてくれるような開かれた安心感がある。

 もしも神が助け舟を出してくれるとしたら、やはり神は海から来るのだとわたしは思う。わたしにとって神とは瀬戸内の神々のことで、もしもわたしがみずぎわで泣きくれているとき救いにきてくれるとしたら、やはり神は海からおいでなのだろうと思う。

 厳島には多くの人が恋をする。歴史に名を馳せる人たちが恋してきた厳島。けれども結果残ったのはあの島だけで、みな片思いのまま散ってゆく。わたしも厳島に片思いのまま散ってゆくのだろう。厳島はずっと、あそこにおいでなのであろう。

 三十五年前、穏やかな海に航跡を残しながら宮島口から厳島へと向かうフェリーボートの客席で、十六歳だったわたしは、初詣の観光客にまぎれて座っていた。初めて金を稼ぎに行くというようなご大層な感慨はなかった。高校の同級生に誘われた厳島でのアルバイトにわたしも手を挙げ、冬休みに小遣い稼ぎをしに行くだけだと思っていた。わたしは厳島の対岸に生まれ育ち、地元で小遣いを得ようとしていたにすぎなかった。

 宮島のもみじ饅頭屋の工場で、自動ラインから流れてくるもみじ饅頭をピッキングして箱詰めする作業。高校生可。時給は七百円か八百円くらいのごくありきたりなアルバイトに思えたあのアルバイト。三十五年前の当時はバブルの活況の中にあり、また決定的に今のわたしとちがう十六歳のわたしは、美少年だった。

 今、瞼に浮かぶあの時の映像を見つめているだけで、映画になる。行く手には暮れなずむ厳島が横たわり、空には広大無辺の宵が降り立ち、そして客室のよそよそしい蛍光灯の灯りの中で、十六歳の美少年がコートの襟をかき合わせている。あの頃はセールでしか服なんて買えない身分だったから、おそらくコーディネートらしいコーディネートもできていない、垢抜けない田舎者に見えただろう。

 けれども結果、五十年生きてきて、わたしが世界中のどの都市の都会人にも美意識において負けたと思っていないのは、あの神々しい厳島を見ながら育ったという自負だ。

 服装はとても大切なアイテムではある。けれどもあの島に向かうフェリーボートの中の十六歳の美少年ならば、何を着ていても絵になったにちがいない。

 暮れなずむ大野瀬戸の冬の夕暮れの映像が動いてゆく。厳島へと向かうフェリーボートの客室に、観光客とともに、年末のアルバイトをしに行く高校生のわたしが座っている。背もたれにもたれた高校生はコートの襟をかき合わせた後、一度だけポケットの中に手を隠して拳を握りしめた。これから生まれて初めて金を稼ぐのだと、気を引き締めたのかもしれない。

 夕闇の中、穏やかな波のうねりが船窓の向こうを流れてゆく。

 夕暮れ時に厳島へ渡ったのは、アルバイトが夜勤のシフトから始まるからだった。

 わたしが十六歳だった一九八五年の、大晦日だった。

 世間はバブルに沸いていたあの明るい世情で、事業に失敗した父にお小遣いをもらえない少年は、自分の足で稼ぎに出かけたのだった。父親はアルコールで体を壊し、黒ずんだ死人のような顔で居間に座っている。美少年は外の世界へ出ようとしている。少年はファッションに飢えていた。当時はデザイナーズブランドの服が主流で、少年はブランド物の服が欲しかった。コム・デ・ギャルソンのジャケットが。

 そして少年は、服が自分に似合うのは当然で、金さえあれば服を買えると知っていた。そう、少年は顔が美しく、そして手足も長くすらっとしていた。今のわたしのように小太りではなくて。

 だから当たり前だったのだ。若くて綺麗な少年に服が似合う。ごく当たり前のことだ。少年は自惚れていたわけでもなんでもなくて、ごく当たり前のことを知っていたにすぎなかった、自分にはその服が似合うであろうと。

 あの、地方の高校生たちが憧れていたファション雑誌でモデルが着ていたコム・デ・ギャルソンの千鳥格子のジャケット。今でもどんな写真で、モデルがどんなポーズを取っていたかよく覚えている。別段気取ったポーズではなく、普段の自然なポーズを取ったモデルが着ていたモノトーン時代の洗練されたジャケット。あれが欲しかった。

 少年だったわたしはカセットテープのレコーダーも欲しかった。AKAIのレコーダーで、あれを買えば友人に洋楽のアルバムを借りた時に録音ができるようになる。どちらを買おうか迷っていた。まだまだこの手で取り返せる、父が事業に失敗しても、勉強して東京の大学に行けばまだやり直せる、そう信じていた。そして、そういった袋小路からの脱却は、若いうちは人の支えもあって確かに成功する。世の中は決して悪いところではない。捨てる神あらば拾う神あり、だ。このアルバイトにしてみても、まさに少年がそれを実感するきっかけだった。

 宮島口の桟橋を出たフェリーボートは十五分もあれば宮島に到着する。多くの中国人観光客が河だと勘違いする大野瀬戸を渡るのにそう時間はかからない。十五分のうち海を渡っているのはもっと少ない時間だろう。

 宮島口に立つと厳島は目の前に見える。本当に近くて厳島が巨大に見える。その短い距離を渡るフェリーボートは揺れることもなく穏やかに進み、波の優しい海をかきわけてかきわけて厳島に届く。厳島が目の前に見えるので、空の広大さはあまり感じられない。夜になると特にそうだ。厳島の森だけが迫ってくる。濃くなった森、しんとした森が迫ってくる。青ざめた客室の蛍光灯。フェリーの客席はいつも静かで、それがまた厳島らしい。あの、たった十五分間の映像が今でもよみがえる。わたしは一人の乗客にすぎなかった。

 フェリーボートを降りた後、少年はアルバイトをするもみじ饅頭屋に行って自分の名前を告げる。受け付けを済ませて作業着を借りる。それは作業着というよりも割烹着に見えたが、もみじ饅頭をピッキングする時に着る服を借りて、三泊四日住み込みで泊まる部屋をあてがわれる。雑魚寝部屋だが広い部屋だ。そしてそれから、店の女将なのか世話人なのか、年増の女性が言う。

 あんたあ、今夜、松明かつぎんさいね。はい。少年はよくわからないまま、それがあてがわれた仕事なのだと思って承諾する。女は店の名前が入ったはっぴや股引など一通りを少年に渡す。着る時にまた男の人らが世話してくれるけえね。ここらに来んさい。わたしが生まれ育った地域では、広島弁の語尾は「じゃ『けえ』」だった。多くの人が広島弁は「じゃけん」と言うと思っているし、多くの広島人は「じゃけん」と言うのだけれど、わたしが育った厳島の地域では、「じゃけえ」と語尾を優しく伸ばして言っていた。呉市出身の母は「じゃけん」と強く言うので、わたしが聞くと少し語調が荒く聞こえる。広島県でもより西はより優しい言葉になる。

 しばらく待って日が暮れると、宮島の鎮花祭が始まる。わたしは対岸の町に住んでいながら鎮花祭すら知らなかった。男衆が大きな松明を担ぎ、千本の松明を担いだ男衆が宮島を練り歩く祭りだ。宮島の玄関口から厳島神社にかけて、男たちが松明を担いで練り歩く。その鎮花祭で松明を担げと、先ほどの中年の女にわたしは言われたのだった。

 年上の男たちが言うままにわたしは股引を履いてはっぴに着替え、祭りに出る。今思えば、若い男、しかも十六くらいのいちばん見栄えがする頃の少年が松明を担いで歩いているのは、観光客からすれば好もしい光景だろう。わたしははっぴの着方すら知らなかったので、アルバイト先で働いていた中年の男たちに股引から何から着せつけてもらった。

 大きな松明を、大勢の男たちに混ざって担いで練り歩いたわたし。わたしはそんな自分はどこかいつもとは別人のようで、観光客がシャッターを切っても、素知らぬふりで歩いている。自分が写真に収められたことは他人事だと思っている。意志薄弱なようで不躾にも見える。あるいは傲慢に見える意志薄弱な少年。日が暮れた厳島の大晦日、千本の松明が右往左往し、男たちが練り歩く。それだけである種、荘厳な詩世界だ。厳島はとても穏やかで優しい、それでいて厳かな詩世界を築き上げている。あの穏やかさは、やはり瀬戸内海の中でも特に波の低い大野瀬戸が横たわっているせいだろう。

 どのくらい歩いたのか思い出せない。横着なわたしのことだから、途中でやめてしまったのかもしれない。もう思い出せない。けれども集合写真に十六歳のわたしも写っているから、松明を担ぐ行事を最後まで勤め上げたのだろう。男たちの間に入って陶然とした顔で集合写真に写っている、髪を短くしたばかりの少年のわたし。そろそろ男の顔になろうとしている。少年にしては体つきががっちりとしていて、わたしは顔も大人びていた。まだその頃は、少年特有の無垢さと大人っぽさとのアンバランスの最中にいた。目はいつだって澄んでいた。その写真はしばらく手元にあったが、いつの間にかなくなってしまった。わたしが男へと近づくモーメントを刻んだ一つの証拠写真だった。

 驚いたのは、たかだか三十分か一時間松明を担いで歩いただけなのに、ご祝儀を一万円もらえたことだった。はい、ご祝儀、あんたのぶん。そう言って渡された熨斗袋を受け取った時、わたしはまだご祝儀というのがどういったものかもよく知らないでいた。アルバイトで対岸の町から厳島に渡り、言ってしまえば、松明を担いだだけだ。それだけで一万円。バブル景気だからなのか、いつも賑わっている宮島ではそれが当たり前なのかわからない。わたしはご祝儀に一万円をもらった。

 ザクッ、ザクッ、ザクッ。

 これは何の音だろうと、最初思った。最初のシフトを終えて寮に戻り、布団に横たわって眠ろうとしても、その音のせいで眠れない。ザクッ、ザクッ、ザクッ。とにかくザクザクという音が聞こえる。

 横になり、しばらく目を閉じて音に耳を澄ましてみる。なんの音だろう。眠れない。眠れないままに二時間くらいをすごす。寮の他の働き手は皆、寝静まっている。雑魚寝部屋に布団を並べ、広い部屋なので密集はせず、てんでばらばら、散り散りに布団を敷いて働き手たちは眠っている。わたしは耳を澄ましてその音を聞く。ザクッ、ザクッ、ザクッ。何時間もザクザクという音が聞こえる。耳をすましていて、ようやくわかった。初詣に来た観光客の足音が寮の二階まで響いているのだ。

 元日の厳島神社には、大勢の観光客が来る。

 その足音のせいでなかなか眠れなかった。が、明け方にはようやく寝付くことが出来て次の朝を迎えた。

 すると、女将がやってくる。はい皆さん、お年玉。また熨斗袋だ。熨斗袋を開けるとまた一万円。シフトを終えて一晩泊まっただけで一万円。こういうことなのか、金を稼ぐということは。わたしの労働はラインから流れてくるもみじ饅頭を手でピッキングして箱に詰めるだけで、他の種類の仕事はまったくなかった。ただひたすらに饅頭を箱に詰めた。

 夜勤手当、お祭りのご祝儀、お年玉。三泊四日、食事付きのもみじ饅頭のピッキングのアルバイトで、わたしは七万円を稼いだ。

 わたしは金を稼ぐということは途方もないことで、これからいくらだってやり直しがきくだろうと信じていた。あの時のわたし、十六歳。

 父は真っ黒なうつけ顔で居間に座っている。親子なのにわたしはあんなに色が黒くないから、やはり父は肝臓を患ったせいで顔色が黒かったのだろう。あんなに不健康に黒い男を、わたしは見たことがない。

 わたしが子供の頃から、父はひどい暴力を振るう男だった。わたしが幼いからといって容赦しなかった。わたしが三歳か四歳の時、寝室に使っていた、大きな鏡台が置いてある和室で母が殴られていた。わたしはとっさに割って入ったのだった。お母さんを殴らないでください、殴るなら僕を殴ってくださいと。そしたら父は本当にわたしを殴りつけ、足で蹴飛ばし、顔を踏みつけにして踏みにじった。容赦はなかった。手加減もなかった。難を逃れた母はホッとしてわたしから目を背けた。

 それ以降、暴力はわたしにも向けられるようになった。

 二階のベランダから逆さまに吊るされる、足の裏をライターで炙られる、馬乗りになって首を締め付けられる。そんなことがよくあった。今考えるとよく生きていたものだと思うこともある。わたしはそんな家庭に育った。

 けれども父は、わたしが十歳の時に詐欺にかかって全財産失ってしまい、おとなしくなってしまった。父は鉄工所を経営していたが、不渡りの手形をつかまされて工場は倒産してしまった。意気消沈してしまった父は一家心中を考えるほど落ち込んでしまった。正直、いい気味だと思った。お父ちゃんは、負け犬だ。

 わたしはひたすらに勉強をし、東京の国立大学を受験しようと思った。ここにいてはだめだ。地元の大学に行ったら父の失敗を引き継ぐ形になるだろう。あの失敗者の息子だと噂されるだろう。

 あの時代は、成績優秀な生徒は国立大学なら授業料は免除されていたし、実際にわたしも免除を受けて卒業した一人になったのだから、努力の矛先としては正しかったのだと思う。やり直しはきくと信じていたし、これまで五十年生きてきて、若いうちは救いの手が差し伸べられるものだと実感した。合格した大学の学生課に奨学金受給の申請に行く。家庭の経済事情について尋ねられる。わたしはありのままに答える。あなた、授業料免除の試験も受けてみなさい。学生課の方から勧めてくれ、助教授が推薦状を書いてくれる。世間はそう悪いところではないと、初めて金を稼いだ帰り道のフェリーボートで思っていたわたしは、大学に入っても同じことを知らされた。わたしは順調に世間への船出の準備をしていたのだった。

 あの少年、厳島へと向かうフェリーボートの中、ポケットの中でこっそりと拳を握りしめていたあの少年。彼は成長の過程にあった。とても大切な時期にあった。大人へと成長する時期にあった。だからベランダから逆さまに吊るされた幼い頃の自分をすっかり忘れてしまっていた。あの子の亡骸を葬ることをしていなかった。誰だってしないだろう。十六歳の少年が、幼い頃に親から受けた虐待の悲運を嘆いたりはしないだろう。その時期の少年なら、前だけを見つめているだろう。ここから逃れたいとだけ、望んでいるだろう。

 異母兄弟との思い出といえば、月見草くらいのものだった。近所にあった沼の近くの空き地に咲いていた月見草を、兄と見に行った覚えがある。

 あの子は夜中に父親にベランダから逆さまに吊るされた。足首を掴まれてベランダから逆さまに吊るされ、落としてやろうかと片方ずつ手を放して脅される。下を見ると真っ暗の夜だ。

 それはもう恐怖を超えて非現実として捉えられる。あの仕打ちを受けた時の幼子だったわたしは、きっとあまりに怖くて、それが現実だと理解することをしなかったのだろう。そしてフェリーボートに乗って金を稼ぎに行くような年頃になった時も、そんなことは過去の非現実で、自分には幼い頃に時限爆弾が取り付けられてしまったと、わからなかったのだろう。あの時のわたしは、昔のことよりも、これから買うであろうコム・デ・ギャルソンのジャケットのことばかり考えていた。

 結果、稼いだ七万円で買ったのはAKAIのカセットデッキだった。カセットデッキがあれば、友人がプリンスその他、八十年代のアーティストのCDを貸してくれた時に録音しておける。

 あの子の亡骸を埋葬して葬斂の儀式をしなかったからといって、わたしは少年時代のわたし、あの十六歳の、まだ取り返しがつくだろうと信じていたあの少年を責めたりはしない。

 あの時期の少年というのは、ただ前を向いて走ってゆくべきだ。反省や反芻、後ろを振り返るようなことは怠ってもよいのだ。あの時期だけに許される、何をもかえりみない鉄のハートで突き進んだ少年。あの時期に既に時限爆弾のことを知っていたら、勉強なんて手につかなかっただろうし、今だって最終的に何が起こるかはわたし自身にはわからないのだから、未来が見えずにひたすら走っていたあの頃を責めたりは出来ない。

 わたしは当時ですらもう築七十年を超えていたあばら家で勉強に励んだ。アルバイトは普段は入れずに長い休みの時だけで、いつもは学校から帰ると時間割通りに勉強し、日々予定通りに教科をこなしていった。猛勉強と言ってもいいくらい勉強に励んだが、それは決して熱を帯びることはなく、ただ淡々と執り行われたと表現して構わない。冷たい月のような眼差しでテキストを見つめ、ひたすらに解を求める。答えが「解なし」だった時にはなんて文学なのだろうと驚嘆する。夜な夜な少年は勉強した。

 この恥ずかしい親から離れて東京に出れば、やがて運命は開けるだろう。そう信じて疑わなかった鉄のハートのわたしの少年時代。

   あの子、あの幼かった時のわたし、あの子が持つある種の清浄性、それは例えば子供特有の無垢なありさま、親を責めない弱者の強さ、あるいは弱さと言い換えられる非暴力性が、ますます父親を暴力に駆り立てたのかもしれない。兄弟の中でも、あの子だけが特に手酷い仕打ちを受けていたから。けれどもそれも今となっては主観的な分析で、父親の年齢的な要素など、さまざまな検討が必要なのかもしれない。こういった児童虐待に切り込む上では、親子の肉体的な力の強弱グラフを重ね合わせて分析をすることが必要かもしれないし、もっと大雑把に切り分けた方がよいのかもしれない。例えばあの無垢でまったく抵抗しなかった子供が成長し、高校生の少年になった時には仕返しさえしていたのだから。父子の力関係が逆転した時、また別の結果へと導かれるかもしれない。父親も若く体力がある頃はあの子をベランダから逆さ吊りにできたが、自分が老いるとできなくなった。そして少年時代のわたしは、ライターで足の裏を炙られた腹いせに、父親に熱湯を浴びせるくらいの仕返しはするようになっていた。

 とにかく、少年にと成長したあの子は暴力の問題を忘れ、父親を人間失格の廃人と見捨て、自らは自分の船出へと向けて着々と勉強をし、成果を上げていた。ここから逃れられると信じていたし、実際にわたしは父から思わぬ形で逃げたのだった。わたしが大学に入ると、父は肝硬変で死んでしまった。父は六十歳で死んでしまった。わたしは父から逃れられた。父が死んだ時、心の底から解放されたと安堵した。

  それはごく日常の日差しの光の中で起こった現象だったの。光の中に塵が舞っているのを見るともなしに眺めている。あの微細な塵が光の筋の中で舞っているのを呆然と眺めてしまう。わたしを破綻へと向かわせた狂気と父の影。

 なにもかもうまく流れる時代を過ごし、父から逃れた少年は青年になり、働いては金を稼ぎ年をとって中年になった。東京での日々。しかし続かなかった。

 スイスの香料会社の東京オフィスに勤めていた中年に近づきつつあったわたし。研究棟へ足を運ぶと調香師たちが取りかかっている香りが香ってくる。研究棟は光を遮断していて、蛍光灯の明るい光のなか廊下を渡り、時には調香師と打ち合わせをする。帰り道も同じ廊下を通ってオフィスに帰る。研究棟の扉を開けると、薄日が差してわたしに何かを語りかける。それは父の声だった。わたしには死んだ父が憑依し始めた。

 躓いた、の一言ではすまされないことになってしまったのかもしれない。

 それはただ一日にして起こったとも言える。

 ある日、ベッドから起きれなくて出社できなくなる。そんなところから始まった。どうしたの、あの人、この前まで元気そうだったのに。そんなことが囁かれたかもしれない。そして日常に流されてわたしの名前は忘れ去られてしまったかもしれない。

 たとえば些細な物音が頭の中で反響する。父と同じだ。父はあの音が嫌で酒を飲んでいたと言っていた。眠れない。長いこと何日も眠れない。昔の父と同じだ。父は眠れなくて酒を煽っていた。まだ正気の時の父は眠れない夜は製図板に向かって仕事をしていたけれど、鉄工所が倒産してしまってからはただ酒を飲んでいた。わたしは父と同じだ。あの暴力を振るう人でなしと、同じだ。

 積もりに積もった日常がある日木っ端微塵に砕け散った時、あなたはそれを他人事だと言えますか。

 わたしには他人事だった。

 まるで他人事で、自分だけが取り残されて、世の中はこのまま正常に巡ってゆくのだと受け止められた。

 いや、最初のうちは不眠治療を受けて睡眠導入剤と軽い安定剤を服用していればいつかはよくなると信じていたかもしれない。けれども、それも他人事だった。あの男の子供なら、遅かれ早かれそうなるだろうと、まるで見知らぬ人に起こった出来事をテレビのドキュメンタリーで見聞きするような気持ちだった。

 そして、破壊が始まった。あの子は我が身と我が心を破壊してしまった。風邪薬で。わたしの破壊は風邪薬だった。お酒ではなくて。父は苛立った時、気分が虚ける時は酒を煽って暴力を振るっていた。わたしは精神のタガが外れると風邪薬を次々に飲んだ。まるで溺れるように、飲んだ。錠剤ではゴクリと飲み込めて飲んだ気持ちになれないから、粉薬にかえて口の中に含み、苦い味を味わいながらのみくだす至福。いつ頃から風邪薬に依存していただろう。大学生の頃から、体調が悪い時は風邪だと決め込んで風邪薬を飲んでいた。しかしそれとは規模がちがう。わたしにとって風邪薬はタバコみたいな作用があった。自分を落ち着かせる作用があった。わたしは風邪薬で我が身を破壊してしまった。

 風邪薬の粉の一粒一粒が胃の中で消化され、血管を通って全身に送られるイメージ。動脈から毛細血管へと行き渡り、いつしか骨まで蝕むんじゃないだろうかと思えるほどに全身に行き渡る。そして熱っぽい頭や喉を乾いた感触の魚のヒレで撫でるように撫で、わたしの気分を沈めてゆく。薬を飲む時の、熱く乾いた喉にグラス二杯の水が通る時の冷たさが忘れられなくなってゆく。火照った喉を癒してくれる。

 わたしの中には、厳島へと向かうフェリーボートに乗っている少年のわたしのイメージが膨らむ。けれど少年時代の自分の肖像はすきとおって褪せてしまい、わたしの目に浮かぶのは厳島の青々とした森の像だけだった。いつも青々とした森の像だった。

 こんなことがわたしの身に起こるはずがないと思いながら、風邪薬に溺れ、精神薬に溺れる。わたしは順調だった日々をすべて放り投げて捨ててしまい、故郷の瀬戸内方面に逃れてしまった。

   わたしはただ砕け散ったままにしておけばよいと思った。きっとわたしの遺伝情報の中に時限爆弾が仕掛けられていて、阿弥陀籤を引くようにして、それがスタートを切ってわたしを破壊し始めたのだと。

 こんなことで人生が終わってよいのか。これがわたしの人生なのか。あのさらさらの光が差すなか舞う塵を眺めていると、その疑問に似た、まだ名付けられていないのかもしれない感情が降りてくるの。この人生が、わたしに与えられたすべてならば、わたしは苦しむためだけに生まれて来たのだろうかと。待ってくれ、それはないだろう、と不服申し立てをしたい衝動に駆られるの。とはいえわたしに起こっている現象はすべて事実で、結果わたしは父の廃人のような遺伝子を受け継いでいると知らしめられてしまう。それがわたしの遺伝子に刻まれた遺伝情報なのかもしれない。こうやって客観的に分析できているのも、遺伝子の螺旋を最後に終わらせる宿命を持った、一つの家系の最後の一人に与えられた遺伝情報のせいなのかもしれない。

   わたしはまだ会社勤めができていた頃に、副業で薔薇族だとかBadiといった男性同性愛者の雑誌で小説を書いていた。多い時は月に五万部も刷る雑誌だ。わたしはわたしの生い立ちを一連の小説作品の中ににじませた。わたしはそういった小説を息を詰めるように、ある種の閉塞感の中で書いた。今はもう雑誌が売れる時代でもないのでわたしは書いていないが、同じようなテーマで小説を書いている書き手もいるのかもしれない。歴史上、脈々と語り継がれてきたテーマなのかもしれない。わたしに出来るのは、わたしはわたしなりに物語りを描くことだ。それしかできないし、それをすべきだと気がついた。わたしがやらなくちゃいけないことは、少しずつ時計の針を進めることだ。先人たちが進めてきた時計の針を、わたしなりのやり方で進めなければならない。そう気が付いた時、同時にわたしはそれが才能なのだと知った。ジャン・ジュネは、才能とは素材に対する礼譲だと言っている。わたしが持っているのが才能だったと気が付いた時、わたしは書くことをやめてはならないと強く思った。思ったらもう覚悟が決まってしまって、書くことに戻ることに戸惑いはなかった。

 わたしはもちろん、こういう境涯に生まれてきた人は大抵そうするだろうけれど、なぜ自分がこのような落とし穴にはまってしまったかと悲嘆した。わたしは物質的にそこそこに恵まれて生きられれば、それはそれで一つの人生だろうと信じていた。精神障害者として暮らした十二年を悲嘆した。

 自分を責め、社会のせいにもし、遺伝子を呪いもした。

   けれども、ただわが身を憐れんでいるフェーズは本当に短くて、それはたったの数日だったの。自分が可哀想だ、この境涯に生まれたなら不幸になっても仕方がないと自分を憐れんでいたのはたったの数日だった。だって、わたしは可哀想だ、わたしは可哀想だ、なんて何日も憐れんでいられないわけよ。粛々と受験勉強を片付けていた時のわたしに戻った。

 母はといえば、いくらやめろといっても、ボンレスハムの紐を集めている。お中元やお歳暮で送られてきたハムを縛っている紐をほどき、後生大事に集めている。

 あの、親にめちゃくちゃにされたあの子、父親にベランダから吊るされ、教師からわいせつ行為を受け、それを隠蔽するために虚言癖があると嘘の噂を広められたあの子は、風邪薬で我が身と心を破壊してしまった。

 誰かを責めて原因を追求しなければならないという強迫観念で自分や世間を責め、心を粉々に壊してしまったわたし。けれどもまだ生きていかないといけないようだ。

 例えばわたしがお能を見にいった八ヶ岳。高く聳える神々しい山だが、厳島の厳かさとはまたちがう。標高の高い八ヶ岳は、冒したすべての罪を赦してくれるが如く、青く染まっていた。標高が高い山は空の青に染まり、空から降り注ぐ青い光の粒子を乱反射して、青ざめた神性をたたえていた。厳島の萌え立つような緑とはちがう端正さがそこにはあった。わたしは年老いてゆく自分自身が赦されて行くのだろうと、その端正な八つの頂上を眺めながら、穏やかな気持ちになっていた。

 あの、不躾で誰にも靡かない十六歳の少年だったわたし、厳島へのフェリーボートの客室にすっくと座っていたわたしは、三十五年の間に肉付きのいい初老の男になっていた。一日の大半を睡眠薬の副作用で無駄にしてしまい、時には夕刻まで呆然として過ごすこともある。

 わたしは歴史上葬り去られた多くの魂と同じなのだと思っている。おそらくわたしだけではない。神か先祖に遺伝子情報に傷をつけられ、阿弥陀籤をひいたときに躓く者が、歴史上にどれだけいただろうか。

 ここから脱して新天地へ行きたいと願うのはある種の進化だ。ここに居続けたいという願望は繁栄をもたらす。わたしはわたしの悲運を破壊し、脱皮しようとしている過程にいるのかもしれない。先に何が見えるのか、わたし自身わからない。

 いつのまにやらエミリー・ブロンテより長生きしてしまった。宮沢賢治よりも。わたしはわたしなりの「鎖なき魂」を追求しなければならない。

   生まれたからには未踏の地を目指そうとするのが生命体だ。宇宙にすら踏み出した生命は、精神世界へも踏み込むことになった。今まで先人たちが進めてきた世を、わたしも少しだけ進めることができるかもしれない。散りゆく者の一人として。

   すべてが終わり、何もかもが尽き果てた時に、何が祈れるか。

 それは赦しよ。

+救出

わたしを救い出さなきゃ

あの子はまだあの家にいる

あの子は、忘れられたまま泣いている

足の裏をライターであぶられ

ベランダから逆さまに吊るされ

テレビがない手慰みに殴られ

あの子は本当は泣いているはずだ

涙を見せない子だったから

忘れられ、見捨てられている

わたしが救い出さなきゃ

あの家から、救い出さなきゃ

洗濯石鹸の箱で築いたお城

その中に膝を抱えて座っているあの子

あの子はわたしの子に違いない

すぐに走って行って

あの町に走っていって

あの、あの子が逆さ吊りにされたベランダをよじ登り

あの廃墟になった家の扉をこじ開け

あの子を連れ出そう

そして、とにかくあの子を抱きしめて

犬と友達にしよう

   わたしはあの子に会いに行こう。そう強く思った。ベランダから逆さまに吊るされたあの子に会いに行こう、と。父親に顔を踏みにじられたあの子を救いに行こう。何十年も呪縛から逃れられず、我が身と心を破壊してしまったあの子に、まずは会いに行こう。きっと、あの子はずっと待っているはずだ。わたしが会いに行かずに、誰が救えようか。

 ずっと待たせてごめんねと言って、あの子をあそこから助け出そう。それはわたしにしかできないことだ。そう思ったとき、わたしには光が差した。過酷な人生に翻弄され、過去に葬り去られた、わたしと同じような末路を辿った先人たち。彼ら、彼女らもきっと、最後には赦すことができたんじゃないかしら。すべてを赦すことができたんじゃないかしら。

 書くことが赦すことでなければ、わたしは再び書き物に戻らなかっただろう。書くことで許せた時、暗澹たる闇夜は光に昇華されて次のフェーズへと転生する。原始地球より世界はずっとビビッドで、原色の色彩に満ちた世界だったにちがいない。暗澹たるフェーズを抜けたわたしですら、世界が色褪せたと感じたことはない。わたしはわたしの殻を破壊して次に進もうと強く思った。

 今でもありありと見える厳島へと向かうフェリーボートの航跡。緑の森に向かう波しぶきが散りさり、まだまだ船旅は続いている。厳島に臨む十六歳だったわたし。あの時の少年は、いずれはたくましい初老になるだろう。赦しの碧をたたえた厳島に恋い焦がれる人々は、これからも旅を続けるのだろう。

(終)