長編文芸小説「調香室の精霊たち」

作・リュッツォ

 この物語は、私が調香師としてスイスの香料会社の東京支部の研究室で働いていた日々の中でも、取り分け平坦だった日々に起こった物語だ。調香室の精霊たちの囁き声、それらは時に私を脅かしたが、あの清廉とした歌声が今でも私の耳から離れない。私のアシスタントを務めていた山口康史の白衣の背中。大好きだった山口君。今でも山口康史の兄のような存在で、あの場所にいられたならばと思うことは度々、日によっては一日に何度もある。

 蝶々は手足で匂いを嗅ぐと聞いたが、その証明がされたのか、私は詳しくは知らない。

 調香室で香りの創作をしていた私の日々、あの九十年代も終わりの、世の中の人々がミレニアムへと騒ぎ立てたあの色鮮やかな日々を、今でも鮮明に思い出せる。私は精神病棟の一室から、遠い都会の喧騒に想いを馳せる時、しばしば恍惚とする。あの村上可南子の凛とした背筋。私が屈折した愛情しか示せなかったあの女。

 鍵盤楽器にしがみついた真田夫人とその連れの船乗り、私を途方もない悦楽へと導いてくれたあの日々を逡巡するとき、私にはいつも調香室の精霊たちが立てる物音がありありと聞こえてくるのだ。

 私はおそらく生まれつき何かの破綻を抱え、綱渡りをするようにバランスを保って生きて来た。あの精霊たちのざわめきは、きっと私に声をかけてくれていたのだ。

 調香室にこもっていた。一人きり、孤独な作業に没頭していると、妙な幻覚に囚われることがある。研究室の棚に並べられた無数の遮光瓶が微かに振動をし始める。互いに軽く接し合い、カタカタと涼しげな音を立てる。いつしかこの音が耳を満たしてしまい、意識が遠くの深みに沈んでゆく。外の空、青い空。遮光瓶の液体の表面、何百もの香料の液面に波紋が生まれ、湖に雨が注ぐように、円周がざわめきながら広がっては消える。それらがさわさわと囁き始める。私にはありありとそれらの様子がわかる。私は、それを精霊の仕業だと信じている。その、硬質だがあたたかい霊的な響音を、二、三度だけ耳にしたことがある。それが訪れるのはいつも必ず、決まって一人のときだ。他に誰かいるとき、精霊はどこかに隠れていて悪さをしない。研究室から人が出払い、私だけが残され調合に没頭している時に限って、精霊は調香室の背後にやってくる。すべての条件が満たされた時間というのは、そうそうあるわけではない。他の者は遮光瓶のかち合う音や液体の囁きを聞いたことがあるだろうか。尋ねてみたことはない。また、あの人は神経質だから些細な物音でも気が散るのだと噂されかねない。

 精霊がやってくるときの予兆を、私は感じることが出来る。精神を香りに集中し、香りの組み合わせに埋没していると、目の焦点が知らず知らずのうち僅かにずれてしまう。そんなときだ、気圧が突然変化したかのように耳が塞がるのは。すると私は、ああ、あれがすぐそこまで迫っているのだ、と感じることができる。

 村上可南子が土方に連れられて研究室を訪れた午後、確かにすべての条件が揃っていた。三月上旬の木曜日の午後、私はある古典的なシプレ調の香水のトリックルダウンを試みていた。助手の山口は席を外し、他の者も打ち合わせなどで出払っていた。私の部屋は研究室の角を仕切った個室で、扉を閉めてしまうと完全に遮断されてしまう。それでも私は、周囲が静けさに包まれていると、意識のどこかに感じていた。蠱惑的な静けさ。機密保持の為に万策を尽くした研究棟全体に、空調音の低い響きが染み込んでいた。真空状態に迫りつつある濃密な静寂。その日は確か晴天で、まだ寒かった。壁のような青空。太陽が燦々と降り注いでいた。研究室には窓がない。その光景は、昼休みに山口と昼食に出掛けた時、目にしたものだった。雲一つないコバルトの印象が、私の脳裏に鮮烈に刻まれていたのだった。その蠱惑。コバルトのイメージの残像が、私の意識を研究室から引っ張り出そうとし始めた。私はそのまま壁をすり抜け空へと吸い込まれてしまいそうな感覚に溺れ、溺れながら溺れたままでいようと浸っていた。香料ビンに、二つに折ったにおい紙を浸し、それを注意深くビーカーから取り出し、鼻先に近付けようとした。拡散してゆくにおいに神経を凝らそうとした。けれども、におい紙の尖った先端の溝に目を奪われ、しばし呆然と、その鋭角的な角度から目が離せなくなり見つめ続けていた。あまりに目を凝らしていたので、ソフトコンタクトの周囲が剥離してしまいそうになり、私は軽い眩暈のような、視界の歪みを感じて目を瞬いた。その時、急に感覚器官が閉塞した。始まりは耳だったかもしれない。爪も皮膚も剥かれて組織が露出した赤い指先が私の両耳の穴に差し入れられた。むき出しの組織が耳の中で崩れる湿った音と生温い感触に背筋がぞっとした。耳に差し込まれた血まみれの指は私の頭を軽く揺さぶりだし、鼓膜を擦り、思考を痺れさせようとした。その赤い指が背後の研究室に並んだ香料棚にも手をのばし始めた。その現象が、五センチ大の遮光瓶の整列に指を近づけている。その有様が背中でわかった。耳の穴の暗い空洞にいつのまにやら泉が湧き出し、水が後から後からあふれ出し、頭の中を満たしてゆく。限りなく生まれ来る気泡が頭の中を上昇した。気泡は頭蓋骨の内側の天辺にぶつかって再び下の方へと追い返される。頭蓋骨の内部をいっぱいにする湖の底で巻き返しを起こし、あぶくの音が鮮明にひるがえる、息衝いている、呼吸を繰り返す。水の流れは空虚な頭を何度か循環し、気泡がひとつひとつと消滅してゆく。液体の漲りは静まり、私はとても穏やかな水底へと沈み始めた。私の両耳はざくろに変わり果て、一瞬にして腐敗し、ぼたりと床に落ちた。音はなかった。耳を満たす密度の高い液体が、音波をことごとく遮断していた。湖の底は次第に深度を深め、水底に生息する水棲生物のひれがひらりと翻った。それら水棲生物のひれは、水に似た深い青色で、水中に溶け込むように、ゆったりとうごめいていた。私はその中へ沈んだ。藍染めの布のようなひれが縺れ合い、私を包みながら、一緒に底へと降りていった。ゆっくりと、降りていった。空の青のイメージがよみがえり、私は液体とも気体とも判然としないイキモノのようなひるがえりにすくわれ、また、うずめられていた。

 足音が、私を幻覚から呼び覚ましたのだった。順序だてて日常へと戻ったのではなかった。急速に、本当に急速に私を調香室に連れ戻したのだった。けれども私は依然として水棲生物のひれに抱かれていたのかもしれない。精霊のような膜に。まだ、香料瓶がかすかに震えているような気がした。それとも、歩行の振動が伝わっていたのだろうか。足音は、棚の向こうから近付いてきた。清廉な響きが谺した。それは霊的な現象を私から遠ざけてしまったと言うよりは、その現象の中で、響き渡っていた。耳の空洞にはまだ泉が弱々しく湧いていた。規則的な歩行が反響した。歩行の一つ一つ、二人の男女の歩行のひと踏みひと踏みが、私の嗅覚や音波の察知を呼び覚ました。脳の中のタツノオトシゴが暴れるのをやめておとなしくなった。部屋には調合したばかりの香りが漂っていた。私は、少しずつ呼吸を意識しはじめた。視界の屈折が逆回転し、壁に掛けられたマチスのポスターに焦点を結んだ。私は、誕生したときに付けられた名前を首から下げた男に戻っていた。

 扉を叩く乾いた音。私はそのとき、調香師という肩書きを押し付けられてしまうのではないかという強迫観念に怯えていた。私はノックの音にも振り返らず、椅子に座ったまま、マチスの絵に描かれた一本の線に目をとめていた。

「失礼いたします」土方課長の声がした。

 厚みのある声。土方だとすぐにわかった。私は椅子を回して体ごとふり返った。扉がゆっくりと開いた。私は、私の部屋の空間が、外へと向かって開かれる様子をぼんやりと眺めていた。あれは幻覚だったのだ。幻覚のことなど誰も知らない。白い壁に囲まれた調香室。その向こうの研究室の壁。同じく白色。蛍光灯を反射する白い背景の前に、男女の姿が描かれていた。

 土方の隣には、見知らぬ女性が姿勢を正して立ち尽くしていた。それが村上可南子だった。呆然と、きれいだ、と思った。彼女の凛とした立ち姿は、白い肌や、野性的だけれども悲しみを称えた目、その他の美点の集合によって形作られていたにもかかわらず、あまりに美しい姿勢が、その他の美点の印象を薄れさせていた。私は彼女の立ち姿にはっとし、息を飲んだ。彼女の姿があまりに非現実的だったので、土方の捩じれたネクタイ、アイロンの線が付いた青いシャツ、薄くなった頭、穏やかな笑みなどに、いかに安堵したことか。

 同じ目をしている、この女は。そう感じたのかもしれない。それともその感想は後から付け加えられたものなのか。

 手に持っていたにおい紙とビーカーを机に戻し、私はゆっくりと立ち上がった。そして襟をしごき、白衣の前を丁寧に合わせた。

「本日付けで輸入課に配属された、派遣社員の村上さんです。彼女には輸入サンプルを一括して任せますので、これからちょくちょく、こちらにお邪魔することになると思います」土方課長は、抑揚のない喋り方で彼女を紹介した。彼の言葉がだらだらと続くのを、私は半分、上の空で聞いていた。私の目は、芋虫のように動く土方の唇を見ていたのに、呼吸は村上可南子の姿勢に吸い寄せられてしまう。

「よろしくお願いいたします」

 村上可南子は、それだけ言って慎ましやかにお辞儀をし、そのあとは口を噤んで何一つ付け加えようとしなかった。

 私はようやく、彼女の動き、流麗な姿勢から繰り出す屈伸、黒い髪の揺れや長い睫の目のまばたきに、視線を乗せることが出来た。それらの連続的な動きが、水棲生物のひれのうごめきの余韻を、私に呼び覚ました。私は黙りこくり、頭を下げることすら忘れ、彼女を見つめていた。それから、ふと我に返った。

「こちらこそ」

 軽く頭を下げ、それから、再び彼女を見た。目が合った。しばらく目が合っていた。私は村上可南子を見つめていた。

「北岡さんは無愛想で有名な方ですが、めげないように」

 それきり何も言わない私と可南子の沈黙を持て余してしまったのだろうか、土方課長が、からかい半分に言った。彼は並みの悪い歯を見せて笑った。私は笑わなかった。村上可南子も笑わなかった。目が合ったままでいた。

「冗談ですよ」土方が言った。彼はやはり、その場に必要な人物だった。放っておけばいつまでも黙ったままでいそうな二人。その場をうまく取り繕う下衆な役回りを、彼はまっとうしてくれたのだった。

 私は笑った。完全にタイミングを逃してしまったとはいえ、笑うことが出来た。それから私は、次の段階を繰り出さなければならないのだと自分に強制し、努力して、本当に努力をして筋肉に命令を下した。私は左腕を上げ、扉の方を指し示したのだった。たったそれだけがどれだけとてつもないことだったか。

「研究室をご案内します」私は威風堂々と言い、一歩一歩を踏み出して、土方と村上の脇を通り抜けて調香室を出た。そこまでは完璧で、私はこの研究室の管理責任者である自覚を取り戻していた。

 村上可南子は、私のあとに従いくるりと振り返った。そのときの素晴らしい均整。外の空は青いだろうか。新入社員が挨拶回りに来ると決まってする説明を、思い出せなくなってしまった私。大切なプロジェクトは顧客が何社かの香料会社に競合させ、各香料会社が抱える複数の調香師が協力して課題に取り組み、各調香師の作品を社内のエバリュエーションボード(評価委員会)が審議し、その結果、選定された試作品が顧客に提出されること。他社も含めて合計すると何人もの調香師が携わるが、最終的に選ばれるのは一人であること。研究室には模造のシャワールームや洗面所が設置されており、最終製品に香料を入れて実際に使って試してみること。私は、そういったことをいつものように流暢に説明しようと試みたのだが、魚のように口をぱくぱくさせることすら出来なかった。つまり私は研究室の中央に立ち尽くし、周囲を見回しながら、まったくの木偶の坊になってしまったのだった。けれども不思議なことに、焦ってはいなかった。私は開き直っていた。私はなぜか満足していた。もう順序だった解説はきっと出来ないとあきらめ、ひとことだけ言えばお前は許されるのだと自分に言い聞かせた。根拠もなくそう思うことで、私の気持ちは非常に楽になった。私は言った。

「こちらが研究室です」

 それきり私は黙ってしまった。あまりに長いあいだ私が何も言わないので、土方課長が怪訝な顔をした。彼は私の横顔をちらちらと見た。彼の視線に疑念がこもっていることに気が付き、私は初めて焦り始めた。一体、どうしたものか。台詞は完璧に暗記しているというのに、言葉は頭の中で数珠のように輪になり、どの珠が始まりなのかわからない。最初の切り出しさえ口にすることが出来たなら、あとはすらすらと滑り出すだろう。それこそ数珠のように。けれども、どの珠も口から出ることはなく、喉を転がっては舌や歯茎に引っ掛かってしまった。声帯を震わせたら、きっと吃って恥をかくだろう。急に自分が不様に感じられ、私は緊張した。

 糸口を探しあぐねている間、村上可南子は、利発そうな目で研究室の方々を見回していた。彼女は両手を前に組み、長い首をさらに伸ばし、空気中に漂う匂いを嗅いでいた。土方課長はあきらめてしまい、もう間が持たなくなってしまったのか、ポケットに両手を突っ込んで立ち尽くしてしまった。私は曖昧な顔でごまかし、きっと、もう何も言えないのだろうと考えた。そう考えると、開き直ることが出来た。この女の好きにさせておけばいい、そのうち、土方が彼女を連れて立ち去るだろうと思った。私は何も言わないことに決めた。

「いろんな匂いがしますね」村上可南子は、相変わらず周囲を見回し、誰にともなく呟いた。それが質問には聞こえなかったので、私はやはり黙ったままでいた。(質問に聞こえたとしても、黙っていただろう。)彼女は目を閉じ、鼻から大きく息を吸って匂いを嗅いでいた。私の鼻はこの研究室のにおいには麻痺している。彼女を真似てみても、私には何の新鮮味もない。

 不思議なことに、山口康史はまだ戻ってこなかった。他のスタッフたちも。一体、やつらはどこで何をしているのか。不様な現場を取りまとめてくれる助け船が来なくて困り果てた気持ちと、この日この時この場所に、私をそっとしておいてくれるかわいい部下たちに感謝する気持ちが、同時に私を包んだ。

 村上可南子は、研究室の各種機器や設備に興味を覚えた様子だったが、解説を求めたりはしなかった。彼女は、素人らしく少し首を伸ばしてのぞき込む仕種を見せたり、感心したように目を細めたり、軽く首をうなずいていた。その気になれば、私は器具を一つ一つ手に取って解説し、独壇場を築くことが出来ただろう。学術的なにおいの解釈を噛み砕いて説明し、二人に尊敬の念を植え付けることが出来ただろう。奢られ上手な女がぺらぺらと品書きを読み上げるように(そういう女にかぎって会計の段取りになるともたもたする。何度もバッグを開けたり閉めたりし、コートに袖を通すのに何分もかかるのだ)。だが、そのときの私の場合、したたか者だったわけではなく、本物の役立たずだった。作り笑顔さえ浮かべることが出来ず、呆然と村上可南子の動きや仕種を、目で追っていた。彼女の動作は非常に抑制されていた。軽快だが思慮深く、慎ましかった。動きに優雅さがあった。彼女の横顔のモーションはデジャヴのように私の目にうつった。たぶん、私は根詰めたために疲れているのだ。私の気持ちはだらしなく弛緩し切っていた。

「それでは、そろそろ失礼します。他にも回る所があるので」

 土方課長は、そう言って軽く会釈した。いつも以上に寡黙な私に、匙を投げてしまったようだった。私は土方のことが好きだ。好感を持っている。なんと、私のことをわかってくれているのだろう。私は救われたと思いほっとした。けれども反面、納得が行かないような気がしないでもなかった。

 村上可南子は、深々と、ていねいなお辞儀をした。私も、判然としない小さな声と共に、会釈を返すことには成功した。土方課長と可南子は研究室から退出した。私は、その場に立ち尽くして二人のうしろ姿を見送り、二人の姿が扉の向こうに消えたあとも、しばらく立ち尽くしたままでいた。可南子のヒールの音が研究棟に響きながら、次第に遠ざかっていく。私はその音に耳を澄ませていた。すると再びカタカタと音を立て始めた遮光瓶。私はしばらく立ち尽くしていた。しばらく、立ち尽くしていた。

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調香室の精霊たち