すきとおる。

 サングラスのレンズにうつる、見慣れたあなたの姿。夏の陽射しの中で初めて知った、あなたの名前。琥珀色のビールに湧き立つ、けなげな気泡たち。二年もの間、挨拶も交わさなかったのはなぜだろう。あの店では度々、顔を合わせていたというのに。機会がなかっただけなのか。夜の通りですれ違った時も、目を合わせるだけで、会釈もせず、かといって、嫌な顔をするというわけでもなかった。この光の中、あなたが話しかけてきたのはどういうわけなのか。きっかけなんて、そんなものなのかもしれない。今ふり返っても不思議な瞬間。いくつかの断片が、鮮明に瞼に浮かんでは消える。

 梅雨明け後の陽射し。街路をよぎる人々の濃い影。老婦人の白い日傘の浮遊。カフェの軒先は、ほろの影に切り抜かれていた。ぼくは昼間からビールを注文し、もてあました時間を読書に費やしながら、理由もなく、夕刻を待っていた。白いテーブルの上には、明雄から誕生日に贈られたサングラスが放置されていた。海に行く約束をしていたのに、夏を待てず、明雄とは会わなくなった。彼がプレゼントしてくれたアルマーニ。彼が唯一残した痕跡。

 ボウルズの小説に埋没していたぼくは、鬱蒼と繁る南米の原生林に進みに行ってしまい、暗闇の中で光る野生の動物の眼におそれを抱いていた。はっとして本から目を上げると、そのとき視界に入ったアルマーニのサングラスのレンズに、人影を見た。

 それが、あなただった。

 ちょうど、あなたは同じカフェに入ってこようとしているところだった。あなたの姿が、レンズに投影されていたのだった。

 あなたは一度カフェに入り、店内を見渡した。それから軒先に並べられている丸テーブルも。そのあいだ、ぼくはビールもう一口飲んだ。もうぬるくなった発泡酒が、喉をとろりと流れていた。なぜだか、胸騒ぎがした。

「ここ、いいですか」

 誰に尋ねているのか最初わからず、ぼくはじっとしていた。おそるおそる見上げると、あなたはぼくを見ていたのだった。

 ぼくは目を伏せ、いいわけするように、辺りを見回した。他のテーブルはすべて埋まっていた。

「どうぞ」たったそれだけ言うのに、ぼくがどれだけ緊張したことか。

「ありがとう」あなたは礼を言って椅子に座った。

 それからあなたは、ボーイを呼び止めてビールを注文した。ぼくたちは、偶然にとなり合わせた見知らぬ客のように、黙ってビールを飲んだ。片方のグラスはもうぬるくなっていたのだが。コンパートメントに二人でいるような、ぎくしゃくとした無関心がぼくたちを包んでいた。何度かグラスの底を上げ下げするうち、グラスをおろすタイミングが、偶然にも重なった。グラスの底が同時にテーブルにぶつかる音を立て、ぼくたちは何となく目を合わせた。あなたの目は一重瞼で、とっても穏やかだった。のちによくからかったものだが、睫毛が短かった。

 しばらくは、目が合っていた。自然にほほ笑みが浮かんだ。偶然がいくつか重ならなければ、ぼくたちは言葉を交わさなかったかもしれない。もしかしたら、あと二年ほど。もしかしたら、永遠に。

「いいサングラスだね」

「アルマーニ」どう答えればいいのかわからず、ぼくはそう言った。「誕生日プレゼントにもらったんだけど、全然ぼく向きじゃないよね。どうして似合わないもの、くれたんだろう」

 ぼくたちは、同じ店で頻繁に顔を合わせることについて、お互いに触れなかった。夜の街で、すれちがったことも。まるで初めて出会ったかのように接し、けれど前からの知り合いのようでもある、不思議な親しみを覚えた。

「全然、ぼく向きじゃないよね」そう言ったぼくは、急におかしくなってけらけらと笑った。「けれど、お礼は言ったよ」

 あなたも笑った。

「時々、自分の好みを押しつけるやつ、いるよな」

「うーん」僕はうなり、しばし考えた。少しちがうような気がしないでもなかった。

「あいつにも、似合わないかな」

「恋人?」

 ほんの僅かな時間、ぼくはあなたを見つめ、黙っていた。太陽がかたむき、ほろの下から、赤い光線が差した。ぼくは眩しさに目を細め、アルマーニのサングラスを掛けた。そして、おもむろにあなたを見て言った。

「だった、のかな」

 あなたは黙っていた。あなたの顔にも夕陽が当たり、きっと、日に焼けた肌をすばらしいバラ色に染めていたにちがいない。どうしてぼくはサングラスなんて掛けてしまったのか。あのときのあなたの肌の色合いを見れなかったことが、今でも悔やまれる。

「ずっと前から、きみのことは知っていたよ」

 あなたは、唐突にそのことに触れたのだった。それから、あなたの名前がトオルなのだと知った。

「オレのこと、どう思っていました?」

「憎からず、というところかな」トオルは笑った。

「オレはねえ」口ごもりながらもぼくは彼をまっすぐに見つめていた。黒いレンズに目元が隠されていたことが、ぼくに勇気を与た。ぼくは言った。「何とも思ってなかった。あなたに関して、感想はなかった」

「ひどいなあ」

 彼は笑った。ぼくも笑った。二人はビールのお替わりをした。そして、ぬるくなるまでそばに置き、色々なことについて語り合った。たとえば夏の計画。たとえばシネマ。八十年代。彼は、ぼくが読んでいる本を尋ねた。ボウルズだと答えると、知らないと言った。

 ぼくたちは夕刻から酒を飲んでいた。

年は尋ねなかったが、おそらくぼくよりも三つ四つ上だろう。三十四かな。ぼくは勝手に見積もった。

 サングラスを通して見える通行人たちの表面が輝きを失い、背景も反射光を失い、街路や人々の輪郭線が、緩慢に、やさしく薄れはじめた。

 まだ西日は消え残っていた。

 東の方からは、紺色の空気が次第に裾をのばして近づいているのだろう。

 風が吹き、暑気が地上から蒸散しはじめた。

 ぼくたちは、今となってはもう思い出せない些細なことを語り合った。辺りが黄昏たので、僕はサングラスを外した。そのとき目の中に溶け込んで来た、あの、忘れることの出来ない紺色の空気。心地よい湿度。汗ばんだ後の夕刻の肌。日に焼けたあなたの顔。すべてが紺色に染まりつつあった。