みずぎわ

(出だし省略)

 物語は、水ぎわで始まった。

 金曜日の夜、馴染みの酒場で北村を待っていた。酒場はたいへん賑わっていたが、ゆったりとくつろいだ感じで、お客はすっかり週末の顔をしていた。店主がこちらにやってきて、挨拶をした。挨拶の後、軽い会話を交わした。

「この街に来て、何年になる?」店主が尋ねた。

「もう十年かな」

「長いね」

「うん、長い」

 それから店主は、一人の青年を指し、あそこに立っている男は貨物船の乗組員なのだと耳打ちした。素晴らしい美丈夫でしょう。美丈夫という言葉があの男に付きまとっているみたい。あれだけの色男だから、彼氏は嫉妬と詮索でもうたいへんなの。店主は、毎夜繰り広げられる色恋沙汰を目の当たりにしてきた目で青年を眺め、それから、僕の方に視線を戻した。見てるといい。店主はそう言い残して立ち去った。

 船員の側で彼をじっと見守っていた男が、通り掛かった給仕の腕を馴れ馴れしく掴んで呼び止めた。

「お酒をもっと持ってきて。今夜は飲むんだから」

 男が言うのがここまで聞こえた。おそらく彼は船員の彼氏なのだろう。既に酔っているようだ。誰彼構わず示す媚態を今度は本命の男に向け、船員の肩に頭を乗せた。

船員は、腕組みをし、鬱陶しそうに顔を背けた。彼は無言だった。この男はたぶん、航海の間中ずっと、同じ顔をして黙っているのだ。己に酔い知れる資格があることを自認していながら、けれど、己の魅力が一体どこにあるのかについては無意識でいるのだ。美しさが人の目には傲慢にうつる一例だ。

 男はきっと、己の魅力を持て余しているのだろう。飽きることなく男を食い続けるのがその証拠だ。彼氏のほうは、途方もない航海に一区切りが打たれるまで船員を待ち続け、船員が決して彼の手を離れないと確信している。そして、その確信にはきっと根拠があるにちがいない。

 ずいぶんと遅れて、北村がやってきた。十時十二分だ。北村は、急な仕事が入ってなかなか出られなかったのだと言い訳した。趣味のいいスーツとネクタイを合わせていた。北村と二人きりで会うのは初めてだ。開け放たれた扉から、往来の音が入ってきた。

「悪かったな、急に呼び出したりして」北村は謝った。

「秀が出張だなんて、めずらしいね」

「ああ」

「初めてだね」

「何が?」

「二人だけになるの」

「そうだっけ」

 北村はヴォッカを注文した。酒が運ばれてくるまで、二人は黙っていた。北村はネクタイを緩め、酒を半分ほど一気に飲み干した。深いと息をついた。

「また寒くなったね」僕は言った。

「ああ。冬物をしまったばかりだよ」

「すぐに暖かくなるさ」

「どうかな」

「ねえ」僕は大柄な北村を少し見上げた。

「あそこにいるいい男、貨物船の船員なんだって」

「へえ」

 北村は興味を示さず、酒場の方々を見渡した。客が増え、酒場は飽和状態になっていた。個々の宴が佳境に差し掛っている。この人と二人きりになるのは初めてだと、再び認識した。北村は酒をすぐに飲み干し、もう一杯同じものを追加注文した。酒場の喧騒の中でその様子を見守っていると、脈略もなく、過去の記憶の断片が蘇ってはすぐに逃げていった。何一つ、心を奪われる思い出はなかった。

「秀とは何年?」

「そろそろ二年だな」北村は僕を見てはいなかった。

「長いね」

「そうかな」

 それから、秀の話しはもうしなくなった。懐かしい曲が流れていた。ふと船員に目をやると、さっきと同じ顔で腕組みをしていた。彼氏の方は既に酔いつぶれていた。あのコと寝たでしょう。彼氏の言葉が微かに届いた。何とか聞き取れるくらいの声だった。船員は否定した。たぶんあの男は、追及されるのが好きなんだ。

 北村は、三杯目のヴォッカに口を付けた。顔には兆候が見られなかったが、おそらくもう酔っているはずだ。

「仕事の方はどう?」僕は北村に微笑み掛けた。二人だけだと、言葉が見つからなくて、沈黙の方が長くなってしまう。

「うん、まあな」

「人は働かなきゃね」煙草に火を付けた。北村が煙草を吸わないことは知っていた。「働かなきゃ、持て余してしまう」

「おもしろい事を言うんだな」

「そう?」

 それで会話は途切れてしまった。酒場の喧騒が二人を包んだ。そのまま喧騒の中に埋もれ、何も言わずに黙ってまま、お喋りを楽しんでいる周囲の人々の顔を見回した。店主は忙しく働き、時折、船員と彼氏の物語を盗み見ている。きっと、とりこになってしまったのだ。北村は酒を口に運び、喉を鳴らして飲んだ。その、やわらかい男性的なモーション、透明なグラスを掴んだ、めくるめく形を変える手の全体像、断片が結び付いて北村康史と呼ばれる一人の男の像を結ぶ瞬間を、僕は見据えていた。それから、二本目の煙草に火を付けようと取り出すと、その手を北村が掴んで制止した。僕は動きを止め、彼の顔を不躾に見つめた。彼も僕を見つめ、手を放そうとはしなかった。僕は彼の手を慎ましく押し返し、煙草に火を付けた。彼は目を逸した。唐突に、勇作はこの街が好きか、と彼は僕に尋ねた。港町は好き。だけど都会はあんまり。そう僕が答えると、彼は急に真剣なまなざしをして言った。俺のうちに来ないか。それから言い換えて命令した。俺のうちに来てくれ。はい、とだけ、僕は答えた…

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