やさしい夜

第一章 ライター

 遊園地の観覧車を長いあいだ眺めていた。ジェットコースターがすさまじい速度で観覧車の脇を過ぎり、縫うように旋回したあと視界から消えてしまう。人々の叫び声が窓越しに聞こえる。またしばらくすると、ジェットコースターが現れる。同じ間隔をあけて視界に飛び込んでやってきて、ループを描いてまた消えてゆく。その繰り返しを見るともなしに眺めているうちに、いつの間にか日が暮れてしまった。

 観覧車の輪郭を描くようにネオンが灯され、クリスマス前の遊園地は幻想的なイルミネーションに彩られた。目前の高層ビルの灯、それから向こうへと続く黄昏の都市の輪郭。夕闇が降りて来る。再びジェットコースターが過ぎってゆく。その光景を、リクライニングシートに寝そべって眺めていた。何にもすることがない一日。ラクーアの休憩室で、一日中寝そべっていた。都心の高層ビルの最上階の天然温泉ということで話題になった場所だ。午後のいい時間から露天風呂で体を温め、湯にのぼせると休憩室に入ってシートに横たわっていた。なんとも自堕落な一日だった。一日って本当に短い。景色を眺めているだけで終わってしまう。

 今日は、就職の面接を仮病でサボってここへ来たのだった。人間は堕落し始めると早い。あっと言う間に無気力になってしまう。自分がこんなだとは思ったことがなかった。

 夕闇はみるみるうちに濃くなった。夕闇はまずは大地から紺色に染めてゆく。最期まで明るいのは空だ。その空もやがて夜に吸い込まれてゆく。けれども都会の夜空は星も見えず、かすんだ大気が都市の明かりを映して仄かに発光していた。空腹を感じたのでそろそろ帰宅しようと思った。まるで動物だ。思ったけれどなかなか立ち上がれず、またしばらくそこにいた。やっとの思いで立ち上がり、もう一度浴室に戻って体を洗った。髪を乾かしてガウンを羽織り、退館前に屋外の喫煙所で煙草に火を付けた。木製の二人掛けのチェアに腰掛け、ジェットコースターの乗客の悲鳴を聞きながら煙草を吸った。

 ゆっくりと煙草をふかしていると、男がガラス戸をあけて喫煙所にやってきた。さっき風呂で見かけた顔だった。露天風呂で眠りこけていた髭面の短髪で、ちょっと気になっていた男だった。男は腰にバスタオルを捲いただけの格好で、ガウンは羽織っていなかった。風呂では水面下に隠れて体がわからなかったが、こうして見るといい体だった。少し重力に負けているようだったけれど。他にあいた椅子がなかったので、男は僕の隣りに座った。椅子に座ると、男の腹のたるみがやはりわかった。若い頃はたるんだ腹なんて絶対に許せなかったけれど、最近は甘い目で見ている。重力には逆らえない。重力があるからここにいられるのだし。

 男は煙草を口にくわえたとたんに急に挙動不審になって腰の辺りに手を伸ばそうとした。火がないのだ、と直感的にわかった。裸でもポケットを探ぐろうと手を伸ばすのが笑えた。火がないのだとわかったけれど、何も言わないでいた。

「すんません、ライター貸してもらえますか」男は少し首を竦めて言った。

「どうぞ」笑いながら僕はライターを手渡した。この挙動からしてまず間違いなくノンケ男だと思った。

 男は煙草に火をつけ、それからライターを反対向きにして僕に返した。受け取るときに、かすかに指が触れた。

 煙草を吸う間、無言で隣り合ったままだった。夕闇と、ジェットコースターの轟音が時々。それから交互に吐き出される煙草の煙。それだけだった。

 僕は一本目の煙草を吸い終え、二本目に火を付けた。男もつられて煙草を灰皿に捨ててしまい、それから煙草をもう一本取り出し黙っていた。

「どうぞ」今度は僕の方からライターを差し出した。

「度々すんません」男はくわえ煙草に火をつけながら苦笑いした。その表情が、なんともよかった。

「寒くないですか」

「いやー、長湯したんで」男は照れくさそうに言った。

 そのあと、ほんのわずか気まずい沈黙があった。

 最近、喋っていない。会社を退職してからというもの急激に喋る機会がなくなってしまった。話し方すら忘れそうになっている。

「よく来るんですか」男のほうから話し掛けてきた…

続きはApple Booksにて😊

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