ストローク

「良ちゃん、また腕時計をしたまま眠ったんだね」

 耳元でそう囁くと、彼は眠たげなうなり声をあげ、こちらに覆い被さってきた。そのぬくもりの肌触り、そして胸に湧き上がる淋しさ。

 良が不思議でならない。穏やかな輪郭線の一重瞼、一回り年の離れた男の、時々ぴくりと跳ねる指先、そして、眠るときもはずさない自動巻きの腕時計。

 ある日曜日の晩、友達と映画を観た帰りの電車で、彼と出会った。友達と別れて一人で帰途についた宵の口の列車で、彼と出会った。部屋に着くまでの長い時間を思って沈んでいるときに。扉が閉まる寸前に、一人の男が車両に乗り込んできた。あわてる様子もなく、計算し尽されたかのような速やかさで、男は乗車した。その優雅な態度と背格好、身なりの良さに目を奪われた。この辺の人間ではないと、直感的にわかった。それからこちら側の男だと、直感的にわかった。

 男は僕と差し向かいの座席に腰を下ろし、革の鞄を膝の上に置いた。それからスーツの袖を捲って腕時計を見た。もう夜だ。何を気にしているのか。無造作に開かれた膝の形、まるで上着の型紙に合わせて仕立てたかのような上半身の均整。ネクタイをきつく締めた喉元の凛々しさ。僕は男を眺めた。

 すると不意に、男がこちらに視線を投げた。それから僕の顔をまじまじと見つめた。その眼差しの焦点の角度に足が竦む。男は穏やかだが、かといって決して優しくはないものが秘められた視線で僕を眺めた。ためらいがなかった。こちらは困惑した。けれど、わかってしまった。彼は僕がそうだと気がついているのだ。そして僕が彼の眼差しに戸惑い、吸い込まれていることを。見抜かれたら負けだ。けれども取り繕うにはもう遅く、僕は目を逸らしてしまった。負けたのは僕だった。

 電車はすぐに走り始め、しばらく加速してやがて一定の速度に乗った。

 曖昧な視点を組んだ手に置いてみたり、開かれた彼の膝まで少し目を上げてみた。けれども彼を見ることが出来ずに目を伏せていた。男がこちらを見つめているのがわかった。呼び寄せられるように、彼の目を見てしまった。目が合った。引き込まれてしまう。逃げようかと考えたが、見つめ返した。彼が見つめているのなら、こちらだって見つめていいはずだ。日曜の宵の口の列車の人影は少ない。

 見つめていると、今度は彼が目を逸らした。上手いやりかたではなかった。いままで僕を見つめていたことを認めるようなものだ。僕に付け入る隙を与えたようなものだ、見られたがっているようなものだ。彼が発散する精悍さの破片を、縫い合わせて欲しがっているようなものだ。

 再び男がこちらを見た。二人は見つめ合った。もうお互いにいけないことだとは思わなかったにちがいない。他人様の預かり知らぬところで不埒な視線を結び合っている共犯者同士。見られながら、見ていた。

 三十分くらいそれを続けていただろうか、時間の観念はなかった。

 ある時、彼が時計を気にした。それから車内のアナウンスに聞き耳を立てるのがわかった。男は電車を降りようとしている。この男は、二人きりになれる場所を用意できるだろうか。

 やがて列車は駅に着いた。予想通り、男は立ち上がった。僕は立ち上がった彼の膝の辺りを見るともなしに眺めていた。お別れかな。見上げると、背の高い彼は僕を見下ろしていた。迷い。僕は目を伏せる。扉が開き、彼の黒い革靴の踵が交互に視野から消えてゆく。迷い。