ダブルブラインド

 蝶々は手足でにおいを感じる、と聞いたことがある。聞いたのはたった一度きりで、それもずいぶん前だというのに、最近しばしば思い出すことがある。男の汗ばんだ素肌に指を伸ばすときに思い出す。それならば蝶々は香り立つ沈黙を計ることが出来るだろうか。息苦しくなる。

 沈黙。

 男の肉体に溺れてゆく焦燥感。そんなとき、泣きたくなってしまう。

 泣き顔だと、言われたことがある。泣き顔の男はセックスにだらしがないと言われたことが。そうやって蔑まれるとき、虚無感のサナギから赤黒い蝶々が羽を広げる。その悦楽を覚えたのは最近のことだ。忘れてしまうことが出来るだろうか。

第一章

 また、キシンだ。部屋の天井のカドが、確かにキシム音をたてた。暖房を止めて消灯し、ベッドに入って目を閉じるちょうどその頃、それは起こる。空の放射冷却が箱のようなオレの部屋から温もりを奪い、天井や壁から温度が下がる。空に近いところから、温度が下がる。すると、冷たさに怖れをなした壁が縮み上がる。ピシッ。目を閉じ、眠りに落ちようとするころにそれは鳴る。ピシッ。天井と壁が接するあたりの角に、ミミズクが住み着いているのだと思った。ミミズクの鎖骨が、冷気に縮む壁の窮屈さに悲鳴をあげているのかと思った。その、へし折れるような音は、オレを驚かせる。けれどもう慣れていて、目を開けたりはしない。体がヒツギの中に閉じ込められてゆくような感覚に沈む。

 ミミズクだと思ったのは、暗がりの中で光る二つの目を持った鳥が、部屋の隅で翼を広げているような印象を持ったからだ。壁と一体化して潜む夜の鳥。きしむ音は、鳥が鋭利な爪を握り締める音かもしれない。そんな気がした。

 暗闇のきしみを、ひとりで聞いたことがある。

 暗闇のきしみを、誰かと聞いたことがある。誰だったのか、一人ずつは思い出せない。確かなのは、隣りで眠りに落ちてゆく正和と今、聞いたこと。夜、最後に聞く音、朝が来る頃には忘れてしまう音を、正和は意識しただろうか。彼は何も言わなかった。

 きしみが聞こえなくなってしまった。温度が下がるところまで下がり、建材の縮みが落ち着いたのか。何の音もなくなってしまった。

 ふと、そんな気がして目を開けると、天井から壁に沿ってミミズクが床に落下した。ベッドの端の、オレたちの足の方に落ちていった。掠れた音がした。影のような鳥が床にひれ伏したのか。怖くなった。反射的に上半身を起こしてそちらを見た。正和のナイトガウンが床に崩れていたのだった。正和のにおいを感じていたくて、借りたままになっている正和のナイトガウン。借りてから嬉しくて毎夜羽織っている。今夜は正和がオレの部屋に来ているので、それを知られたくなくて壁のフックに掛けていた。

 オレたちは互いの部屋を行き来していて、正和の部屋に泊まったとき、彼がナイトガウンを羽織った姿がなんだか艶かしかったので、それ、ちょっと貸してくれないかな、なんて言ったら、寒いのか、と問うた彼。そうじゃなくてさ、正和のものをオレの部屋に置きたいんだ。へんなヤツだな。そう言いながらも車で送ってくれた時に渡してくれた。

 そのガウンが壁のフックから落ちて上半身を起こしたオレに正和は気が付いた。

「どうした?」小声で尋ねる彼。まだ眠っていなかった。

「ううん、何でもない。ちょっと、トイレ」オレはそう言ってベッドから抜け出し、冷たい床に立ち尽くしてナイトガウンを見下ろした。今にも動き出しそうなのにうずくまったままでいる影が、少し怖かった。本当に動き出しそうで。怖かったけれど、床からナイトガウンを拾い上げた。彼のナイトガウンをさっと羽織る。影が宙に舞う。背中に重み、彼の、におい、ほんの少しだけ鼻先をくすぐる。オレはガウンを羽織ってトイレにいった。

 トイレの灯りを点して扉を閉める。蛍光灯が眩しい。便器の真中をめがけて小便をする。水の溜まっている辺り。小便をしながら、何だか腑に落ちない気がする。長い小便が終わる。腰を揺すって滴を振り払う。爪先立ちになって、滴を振り払う。あれは見間違いだったのか。

 パジャマのズボンを引き上げ、ガウンの前をかき合わせながら部屋に戻る。彼の匂い、やわらかい生地に織り込まれた、彼の匂い。

 もっと、ガウンをかき合わせた。彼に抱かれているようで、もっと抱き寄せた。

 深呼吸。自然と目が閉じる。何かが、体に降りてきたような気がした。

 目を開けると、暗がりの中に崩れる正和の寝姿。

 たまらなくなって、彼に忍び寄った。後ろで、ミミズクが落下する音が聞こえたような気がした。

 それから後は、高ぶりを抑えるだけで精一杯だった。何をどうネダリたいのか自分でもわからず、正和の上に乗って戸惑った。彼は予測していたのか。何も言わず、穏やかな目でオレを見上げていた。暗がりでもわかる彼の眼差し。眼鏡を掛けていないときの、少し冷淡な印象すら与えるきれいな一重瞼。

 呼吸が弾み始める、この男に見据えられると。…

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