ドーン・ブレイク・タンゴ

 今夜も夜が来た。必ずやってくる夜。まちぶせているわけでもなく、追いかけてくるわけでもない夜。いつもそこに忍んでいる、そして必ず上空をよぎり、いつの間にか消えしまう暗闇の現象。夜は永遠にめぐり、そして永遠には続かない。その中に真実めいたものを探し求めようとするやるせなさ。どうにも逃げようがない。

 時々、叫び声を上げたくなる。だが、どうしても出来ない。そのかわりに囁く、押し殺した想い。そのたびに、心が粉々になってゆく。理由なんてないし、いりもしない。

 午前零時を過ぎたのか。近頃、時間が意味を失ってしまい、何が正しくて何が間違っているのか、麻痺してしまった。けれども、その感覚麻痺を嘆いたりは、決してしない。何が正しくて、何が間違っているかなど、わかることなどありえないのだから。

 月齢十の月に雨雲が掛かったのかもしれない。夜中に雨が降り出したのかもしれない。地下の酒場にいても、湿度でそれとなく感じられる。いや、それは嘘だ。雨だとわかったのは、男の髪から滴が垂れていたからだった。上着の両肩が濡れていたからだった。男は扉を開いたまま入店しようとはせず、酒場の光景をしばらく立ち尽くして見渡していた。扉の隙間から、地下の廊下の蛍光灯の光が差し、床に大柄な男の影を落とした。数少ない訪問客が、男を品定めした。男はすわった目でカウンターの奥の男を見据え、それから、扉から手を放して入店した。

 扉が閉まると、男の影が消え失せ、暗がりの中に男の姿ものまれてしまった。足音がカウンターとテーブル席の間をよぎり、二十代後半だろうか、男性的な彫りの深い顔だがどこかなまめかしい雰囲気を漂わせた青年の側へと近付いた。

 男と青年は、しばし視線を合わせていた。二人には、三週間振りの再会をよろこび合ったりする余裕はなかった。目を離したのは、青年の方だった。彼は目を伏せ、煙草に火を付けた。男は彼のしぐさを見下ろしたまま、佇んでいた。その眼差は陰と憂いを帯び、酒を飲んでいるのがありありとわかった。

「座りなよ」青年が言った。

「ああ」男は低く呟くと椅子を引き、どかっと腰を下ろした。重厚な腰が形を変え、臀部の肉が盛り上がった。

 店主が注文を取りに来た。男がバーボンのロックを頼むと、店主は無言で酒を作った。酒を出したあとも店主は無言だった。

「もう酔ってるのか」

「悪いかよ」

「別に」青年は呟いたあと、かすかに微笑み、それから、懐かしそうな目で男を眺めた。いつまで経っても眺めるのを止めなさそうな視線で、眺めた。しかしその視線は、やがてまたカウンターの光沢の上に投げられた。地下室の、薄暗い照明の光が、二人の男を包んでいた。まるで、他の客など誰一人いはしないかのような存在感と、孤立。

 これから注目されるのは、この二人の男のすがたかたちだ。

 男は三十半ばだろうか、バーボンのロックを一気に飲み干し、空になったグラスをカウンターに戻した。店主がやってきて、お替わりを作った。青年は、小言を言わなかった。

「雨が降り始めたのか」

「ああ。突然」

「傘がないな」

「そのうち止むさ」男は短い髪を手のひらでくしゃくしゃと擦り、水滴を払った。

 青年はあきらめの眼差をしていたのだろうか。隣の男をつくづくと眺め、本来は輝かしいであろうその瞳には、無感情な光が浮かんでいた。長い睫が、物憂いテンポ、真夜中の雨がもたらす冷たさに滲む、すがすがしいがどことなく悲しい瞬きで、男に対する無感情な恨みに句読点を打つかのように、弾かれた。年の頃は二十七、八か。わからない。若いわりに、老成した目をしていた。彼はその目で、男の身なりを調べたのだった。

「寒くないのか、そんな格好で」

「売るものがなくなった」

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