調香師

 褐色の遮光瓶が林立するラボラトリー。何百種類もの香りが融和した研究室のにおい。ガラス張りの壁の向こうでは、白衣を身に付けた調香師が、こちらに背を向けて調合作業を続けている。彼の名前は川村秀明。調香師とは、香りを創作する仕事だ。そして僕は三ヶ月程前にこの会社に雇われた派遣社員だ。調香師から依頼されたサンプルを取り寄せてはラボに届けるのが専らの仕事。要するに雑用係だ。僕は鉄の扉を静かに開き、彼の側へいって『われもの注意』のステッカーが貼られたダンボール箱を床に置いた。

「御依頼のサンプルが届きました」

「ああ」川村は下を向いたまま、二本の試験管を器用に操っていた。

 この男は何だかいけすかない。いつも無愛想で、人を見下したようなところがあって。まあ、僕はしがない雑用係。身分違いだから仕方がないが。そんなことを考えながら彼の側に立ち尽くしていると、川村は怪訝そうに顔を上げて僕を見た。それからしばらく僕の顔を見上げていた。急に表情を和らげ、照れくさそうに言った。

「いつも、ありがとう」

「あ、いえ、その、お邪魔しました」僕は動揺し、それだけ言い残すと、そそくさとその場を立ち去った。心を見透かされたようで。

「ちょっと、キミ」川村は試験管を持ったまま立ち上がり、後ろから僕を呼び止めた。

「はい」僕はギクリとして立ち止まった。

「このにおいを嗅いでくれないか。二十代後半の独身男性を対象にした製品の試作なんだ。キミの意見が聞きたい」

 彼は試験管を差し出し、僕は鼻を近付けた。さわやかな柑橘系の香りがした。僕は首を傾げてみせた。

「ボク、香水とか付けない方なんで…」

「実際に肌に付けてみるとまた違うんだ。ちょっと試してみてくれないか」

 彼は熱心なまなざしで僕に言うと、まるで医者のような、慣れた手付きで僕の腕を取り、手首の内側に微量の香料を擦り付けた。僕は緊張していた。動脈の浮き出した手首から拡散するほのかな香りを呼吸してみた。やはり僕は緊張していた。

「少し無難な感じがします。もっと冒険心があってもいいかな、なんて」

「冒険心?」

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