雨の牙

 ふたりの出会いは真夏の夜に訪れた。それは唐突な出来事だった。

 あの晩は熱帯夜で、うだるほど暑かった。勇一は、大学時代の友人を久しぶりに訪れようと仕事帰りに王子まで出向いたのだが、あいにく友人は不在で、仕方がなく帰途につくことにした。来た道を戻ればいいのだが、勇一にはそれが馬鹿らしく思えた。同じ道を帰るのかと考えると、なぜだか苛立った。にもかかわらず、たまにはのんびりと迂回して歩くのも悪くはないんじゃないかと思い付いた。そこで、本郷通り沿いに歩いて駒込駅まで出ることにした。それがいけなかった。それが勇一をある運命へと導く道となってしまったのだ。

 勇一は、緩やかなカーブをゆっくりと曲り、やがて傾斜の緩い坂道にさしかかった。彼は、その頃になってこの道を選んだことを後悔した。とにかく蒸し暑いのだ。気晴らしの散歩をするには気温も湿度もあまりにも高すぎた。彼はスーツの上着を脱いで袖をまくった。しかしそれで暑さから逃れられるわけではなかった。シャツの背中は汗で濡れて皮膚にぴったりと張り付いていた。脇の下や首筋も滝のような汗が流れてとても不愉快だった。それはまるで、ウエットスーツを着て温水プールを泳いでいるようだった。彼は坂道を下った。行き交う車の騒音が彼をさらに苛立たせた。どうしてこんなことをしてしまったのだろう。王子駅から電車に乗ればよかったのに。彼は自分の行為を後悔した。夜灯の光が湿った暗闇の中でにじんでいた。

 ちょうど坂を下り終えたころだった。勇一はヘルメットを脇に抱えた肉体労働者ふうの男と擦れ違った。それが竜二だった。

 竜二は勇一を見た。勇一も竜二を本能的に見たが、すぐに目を逸らした。だが竜二はしつこく舐めまわすように上から下まで勇一を見た。その視線を感じた勇一は不愉快に思い、侮蔑のまなざしを男に投げた。勇一は肉体労働者を軽蔑していた。奴らは無知な獣だ。

 勇一は少し足を速めた。その場を早く立ち去りたかった。

 いっぽう竜二は勇一の顔から視線を外すことなく、彼と擦れ違った後も振り返って後ろ姿を目で追った。勇一は舌打ちをした。自分が舌打ちをするのはいつ以来だろうかと、ぼんやりと考えた。

 勇一が注意力を失った瞬間だった。彼は歩道の段差につまずいた。上体がつんのめった。気が付くと彼は闇ににじんだ電灯を見上げていた。肘がジンジンと痛んだ。足首が焼けるように熱かった。どうやら自分は転んでしまったらしいと気が付くのにしばらく時間が掛かった。

「おい、だいじょうぶか」

 男の叫び声と駆け寄ってくる足音が聞こえた。そちらに目をやるとさっき擦れ違った肉体労働者だった。勇一は答えるしかなかった。

「お前、だいじょうぶか」竜二は声を掛けながらあお向けのままの勇一の体を揺さぶった。

「ええ、なんとか」そう答えながら、勇一はアスファルトに手を突いて起き上がる努力をした。男とかかわりあいを持ちたくなかったのだ。男は勇一の肩を掴んで助けようとした。勇一は不快に感じた。それと同時に、何故かドキリとした。

「うっ!」

 小さな叫び声と共に勇一はうずくまった。足首が痛かった。まるでそこに心臓があるかのように彼の足首は疼いていた。

「足をくじいているのか?」

竜二は野太い声で尋ねた。そして勇一を抱き起こした。竜二の体臭が勇一の鼻をついた。

「そうみたいです…」

 かすれ声で言いながら、勇一は遠慮がちに男の腕から逃げようとした。しかし竜二はしっかりと肩を掴んで放さなかった。

「だいじょうぶか?」

 竜二は穏やかに尋ねた。もしかするとその声が、既に勇一を魅惑していたのかもしれない。太く低いのに、滑らかで心地好く響く声だった。勇一は今までにそういう声を聞いたことがなかった。勇一は男を眺めた。泥染みの付いた白いTシャツの胸は盛り上がっており、脇からは日に焼けた太い腕が突き出していた。勇一は、はっとして男から目を逸らした。顔を背けた拍子に上体の軸がずれ、また足首が痛んだ。彼の額からおびただしく汗が流れた。

「ひとりで歩けるのか」

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