Precious Moments

イントロ

 深夜に帰宅した。あかりも物音もなくしてしまった田舎町。マフラーをほどく擦れさえも、冷たい暗がりの中で響く。鍵を開ける音で母さんが目を覚ましてなければいいんだけど。なんだか罪深いことをしている気すらする。髪を染めた姉さんが帰ってきたとき、娼婦みたいな格好をするなと父さんに叱られていたのを思い出す。あれも確か真冬だった。

 年に一度だけ、東京から実家に帰る。母さんは、まだオレのことを子供だと思っている。十八のときに離れたから。子供のままだと、思いたがっている。どこだか知れない場所で遊んで夜中に帰る子なんかじゃなくて。

 ブーツの紐をといて踵を掴んで思いっきり引っこ抜く。倒れたブーツを玄関の端にそろえて置く。頼みもしないのに親に揃えられるのがイヤだから、自分で。足の指先の開放感。腰掛けた床から尻に伝わる冷たさ。

 帰省している間はあいつのことは思い出さないように努力する。四日間だけは、父さんと母さんの前でいい子にしている。あいつと最後に会った日の別れ際、何だか気まずかった。

   寒い。夜中になると、田舎町には本当に温もりがなくなる。年老いた犬が部屋の奥から、トボトボとやってきてオレを迎えてくれた。帰る度に反応は鈍くなっているけれど、決してオレを忘れない。背中を撫でながら、一緒に茶の間へいく。それから抱え上げて頬擦りをしたり鼻を擦り付けたりして、犬のベッドの上に戻してやる。そうすると安心してまた眠りにつく。オレの部屋まで抱えていって一緒に寝ようかと思ったけれど、最近、犬が階段の上り下りが苦痛になったみたいなので、何かと面倒くさいと思ってあきらめる。この子は本当にオレのことが好きだ。たぶんオレに恋人がいるなんて知ったら、いちばん嫉妬するのはこの子なんだろうな。でも何でも話せちゃう気がしないでもない。しゃがみ込んで背中を撫で続けていると、やがて犬は眠りについた。

 立ち上がったとき、微かな物音が聞こえた。びっくりして振り返る。茶の間のコタツでうたた寝をしていた父が寝返りを打ったのだった。父がそこにいると気付かないでいたオレ。締り屋の父らしくコタツの電源は切り、火もないのに足の先だけ突っ込み、体に毛布を掛けていた。暗がりの中、しばらく立ち尽くして父の姿を見下ろしていた。老けてしまった父。この人、よく、「お前は若い頃の父さんにそっくりだ」と言うのだけれど、どこが似てるんだろう。すっかり痩せてしまって、もう死んでしまえばいいのにまだ生き長らえている。

   うたた寝していた父親をまたいで部屋に向った。オレはもうこの家にはいないというのに、母はいつまでも部屋をそのままにしている。まだ階段がのぼれる頃は、犬がオレのベッドでよく昼寝をしていたらしい。午後の陽射しがちょうど差し込む部屋。ゆっくりと部屋へ向う。階段のきしみ。扉のきしみ。耳に響く。アツシは東京で生まれて両親と暮らしている。あいつには、こういう音って聞こえないんだろうな。思春期の羞恥心が閉じ込められたオルゴールのフタを思わず開くような。部屋に入って電灯を点し、コートとマフラーをハンガーに掛けた。高校の頃使っていたラジカセが目に入る。何気なくスイッチを押すと、いきなり流れてきたあの頃の曲のイントロ。突然、涙があふれそうになり、そのままラジカセを消してしまった。

禁止

 オレの膝に頭を乗せていたあいつが、CDプレーヤーに手を伸ばした。オレは咄嗟に手首を掴んでさえぎった。

「何だよ?」あいつの声帯の震えが太腿に伝わる。

「別に」あいつの手首をゆっくりと離し、それからあいつの耳の穴に目を落とした。貝みたいな耳だ。「音楽なんて、なくたっていいじゃん」

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